江戸幕府老中・大老一覧

歴代老中・大老一覧
老中は、江戸幕府の職制で、将軍に直属して国政に当たる官僚最高位である。
老中という名称は3代将軍家光の頃からだが、もともとは、徳川家康に仕えた軍団指揮官である老名「年寄衆」である。しかし徳川家の全国政権が確立していくと、政務執行者として将軍の側近へあがってきた出頭衆が加わり、以降、老中は年寄系統の家と出頭衆系統の家の両方(譜代25000石〜10万石)から代々輩出した。また例外的に老中格としてこれ以外の家から出ることもあった。
老中は定員4〜5人で、そのうち家格の高い者や先任者が老中首座となった。通常の職務は月番制で1人が担当したが、重大時には老中が揃って検討し、連署して執行した。幕末には月番制をなくし、国内・外国・会計・陸軍・海軍の五局専任制となった。
この他に、通常は設置されない定員1名の大老が老中の上に置かれることがあった。3代将軍家光以降任命された。大老は日常業務が無く、老中他の官職に就く者より高い位を持ち、江戸城内の儀礼でも特別扱いを受けたが、当初は重大時に備えてのことではなく、敬して遠ざける意味合いがあったと言われる。幕末の政治総裁職(松平慶永就任)は大老格である。
以下には、徳川政権初期の年寄衆などの重臣もあげてあります。
老中・大老 官名・通称 在職期間 備考
大久保忠隣 相模守 1593〜1614 家康初期からの重臣で軍事・政治に当たる。秀忠軍の指揮も勤めたが、1614年、京都出張中に突如所領を没収され失脚した。理由ははっきりしない。
本多忠勝 中務大輔 1593〜1609  
本多正信 佐渡守 1599〜1615  
内藤清成 修理亮 1599〜1606  
青山忠成 播磨守 1599〜1606  
榊原康政 式部大輔 1600〜1606  
大久保長安 石見守 1600〜1613 元武田家臣で徳川家に仕える。甲斐・武蔵の開発に当たり、後には家康の指示により全国の検地・鉱山開発・町の建設を担当して莫大な利益を得たという。死後、一族は断罪に処されたが理由ははっきりしない。
成瀬正成 隼人正 1600〜1616  
安藤直次 帯刀 1600〜1616 紀州藩主徳川頼宣の付家老。田辺を領した。
村越直吉 茂助 1600〜1614  
本多正純 上野介 1600〜1622  
青山成重 図書助 1608〜1613  
酒井忠利 備後守 1609〜1627  
土井利勝 大炊頭 1610〜1638 家康に信頼され、秀忠・家光の時代に重臣として活動。後大老となる。
酒井忠世 雅楽頭 1610〜1634  
安藤重信 対馬守 1611〜1621 2代将軍秀忠に仕える。福島正則改易の時、広島城の受取役となった。
内藤清次 若狭守 1616〜1617  
青山忠俊 伯耆守 1616〜1623 酒井忠世、土井利勝とともに寛永の三輔と呼ばれる。3代将軍家光に諫言して蟄居となった。
井上正就 主計頭 1617〜1628  
水野忠元 監物 ????〜1620  
永井尚政 信濃守 1622〜1633  
内藤忠重 伊賀守 1623〜1653  
稲葉正勝 丹後守 1623〜1634 加藤忠広の改易で熊本城受取役を務める。
阿部正次 備中守 1623〜1626  
酒井忠勝 讃岐守 1624〜1638  
森川重俊 出羽守 1628〜1632  
青山幸成 大蔵少輔 1628〜1643  
堀田正盛 加賀守 1633〜1651 春日局の縁者として家光の元で出世した。家光の側近として活躍し、家光が没すると殉死した。
阿部忠秋 豊後守 1633〜1666 家光期の幕閣六人衆の一人。
松平信綱 伊豆守 1633〜1662  
酒井忠行 阿波守 1635〜1636  
酒井忠世 雅楽頭 1636 大老。
土井利勝 大炊頭 1638〜1644 大老。
酒井忠勝 讃岐守 1638〜1656 大老。
阿部重次 対馬守 1638〜1651  
松平乗寿 和泉守 1642〜1654  
酒井忠清 雅楽頭 1653〜1666  
稲葉正則 美濃守 1657〜1681  
久世広之 大和守 1663〜1679  
酒井忠清 雅楽頭 1666〜1680  
井伊直澄 掃部頭 1668〜1676  
板倉重矩 内膳正 1670〜1673  
阿部正能 播磨守 1673〜1676  
大久保忠朝 加賀守 1677〜1698  
土井利房 能登守 1679〜1681  
堀田正俊 備中守 1679〜1681 徳川綱吉の信任を受けて経済対策に当たる。政策は評価されたが、やがて綱吉と性格的に合わず軋轢を生んだという。父の従兄弟で若年寄の稲葉正休に江戸城中で襲われ、絶命。稲葉も討たれたため原因は不明のままとなる。
板倉重通 石見守 1680〜1681  
堀田正俊 筑前守 1681〜1684  
阿部正武 豊後守 1681〜1704  
戸田忠昌 越前守 1681〜1699  
松平信之 日向守 1685〜1686  
土屋政直 相模守 1687〜1718  
井伊直該 掃部頭 1697〜1700  
小笠原長重 佐渡守 1697〜1705  
秋元喬知 但馬守 1699〜1707 川越城主。5代将軍綱吉の前で論語を講じた。
稲葉正通 丹後守 1701〜1707  
本多正永 伯耆守 1704  
大久保忠増 隠岐守 1705〜1713  
井上正岑 大和守 1705〜1722  
柳沢吉保 美濃守 1706〜1709  
本多正永 伯耆守 1709〜1711  
小笠原長重 佐渡守 1709〜1710  
井伊直該 掃部頭 1711〜1714  
阿部正喬 豊後守 1711〜1717  
久世重之 大和守 1713〜1720  
松平信庸 紀伊守 1714〜1716  
戸田忠真 山城守 1714〜1729  
水野忠之 和泉守 1717〜1730 享保の改革前半を担当。開発と年貢増徴を行ったが、米価が低落して問題となり、辞任した。
安藤重行 対馬守 1722〜1732  
松平乗邑 左近将監 1723〜1745 享保の改革後半を担当。経済政策を実行し、開発と年貢増徴を推し進めたが、急な改革によって問題が噴出し罷免された。
松平忠周 伊賀守 1724〜1728  
大久保常春 佐渡守 1728  
酒井忠音 讃岐守 1728〜1735  
松平信祝 伊豆守 1730〜1744  
松平輝貞 右京大夫 1730〜1745 老中格。
本多忠良 中務大輔 1734〜1735  
本多忠良 中務大輔 1735〜1746  
土岐頼稔 丹後守 1742〜1744  
酒井忠恭 雅楽頭 1744〜1749  
松平乗賢 能登守 1745〜1746  
堀田正亮 相模守 1745〜1761  
西尾忠尚 隠岐守 1746〜1747  
本多正珍 伯耆守 1746〜1758  
松平武元 右近将監 1747〜1779 館林藩主。長期にわたって老中の座にあり、幕政にあたる。後半は田沼意次と協力関係にあった。
酒井忠寄 左衛門尉 1749〜1764  
西尾忠尚 隠岐守 1751〜1760 横須賀藩主。若年寄などを歴任。西尾氏は織田家臣から徳川家に仕えた。
松平輝高 右京大夫 1761〜1781  
井上正経 河内守 1760〜1763  
秋元凉朝 但馬守 1760〜1764  
松平輝高 右京大夫 1761〜1781  
松平康福 周防守 1763〜1788  
阿部正右 伊予守 1765〜1769  
田沼意次 主殿頭 1769〜1772 老中格。父は紀州藩の足軽だったが、吉宗将軍就任に伴い江戸に出て旗本になった。意次は家重の代に側用人として大名に列せられる。
板倉勝清 佐渡守 1769〜1780  
田沼意次 主殿頭 1772〜1786 経済改革などを推し進めた。在任中に若年寄だった子の意知が江戸城中で佐野政言に襲われ負傷し没した。将軍家治の死に伴い失脚した。
阿部正允 豊後守 1780  
久世広明 大和守 1781〜1785  
水野忠友 出羽守 1781〜1785 老中格。
井伊直幸 掃部頭 1784〜1787  
鳥居忠意 丹波守 1786〜1793  
阿部正倫 伊勢守 1787〜1788  
松平定信 越中守 1787〜1793 田安宗武の子。子供の頃から英才を謳われた。白河藩主の時藩政改革を実行した。田沼意次失脚後、老中として政務に取り組む。綱紀粛正、緊縮財政、海防政策などを実行するが、批判が相次ぎ失脚した。白河藩に戻ってからは民政に勤め、家督を譲った後は著述や和歌などを親しんだ。
松平信明 伊豆守 1788〜1803 松平定信と寛政の改革を実行し、定信失脚後も引き続き改革に当たった。
松平乗完 和泉守 1789〜1793  
本多忠籌 弾正少弼 1790〜1798  
戸田氏教 采女正 1790〜1806  
太田資愛 備中守 1793〜1801  
安藤信成 対馬守 1793〜1802  
牧野忠精 備前守 1801〜1816  
土井利厚 大炊頭 1802〜1822  
青山忠裕 下野守 1804〜1835  
松平信明 伊豆守 1806〜1817  
酒井忠進 若狭守 1815〜1818  
水野忠成 出羽守 1817〜1818 老中格。
阿部正精 備中守 1817〜1823  
大久保忠真 加賀守 1818〜1837  
水野忠成 出羽守 1818〜1834  
松平乗寛 和泉守 1822〜1839  
松平輝延 右京大夫 1823〜1825  
植村家長 駿河守 1825〜1826 老中格。
松平康任 周防守 1826〜1835  
水野忠邦 越前守 1834〜1843 出世するために家臣の反対を退けて唐津藩から浜松へ転封した。老中になってからは天保の改革を行う。
井伊直亮 掃部頭 1835〜1841  
本荘宗発 伯耆守 1835〜1836  
太田資始 備後守 1837〜1841  
松平信順 伊豆守 1837  
脇坂安董 中務大輔 1837〜1841  
土井利位 大炊頭 1839〜1844 老中筆頭。雪の結晶を調べた学者として知られる。
堀田正篤 備中守 1841〜1843 のちの堀田正睦。一旦辞任。佐倉藩主に戻った。藩の兵制を洋式に改革して蘭癖と呼ばれる。
真田幸貫 信濃守 1841〜1844  
阿部正弘 伊勢守 1843〜1857 日米和親条約の締結を実現した。開国し貿易によって富国強兵を行うことを唱え、身分の低い幕臣でも人材として登用、洋学の導入も推進した。
牧野忠雅 備前守 1843〜1857  
堀 真■ 大和守 1843〜1845 老中格。
水野忠邦 越前守 1844〜1845 老中に返り咲くも天保の改革が問題となり、老中辞職出羽転封の処分を受けた。
青山忠良 下野守 1844〜1848  
戸田忠温 山城守 1845〜1851  
松平乗全 和泉守 1848〜1855  
松平忠優 伊賀守 1848〜1855  
久世広周 大和守 1851〜1855  
内藤信親 紀伊守 1853〜1862  
堀田正睦。 備中守 1855〜1858 諸外国との関係悪化を避けるため、開国を推し進めた。条約勅許を得るために上京するがかなわず。井伊直弼に罷免された。
脇坂安宅 中務大輔 1857〜1860  
松平忠固 伊賀守 1857〜1858  
井伊直弼 掃部頭 1858〜1860 彦根藩主。将軍後継問題では紀州徳川慶福を推し、条約締結では調印もやむを得ないという立場に立った。そのため反対派を安政の大獄で断罪したが、猛烈な反感を買い、水戸藩士らに桜田門外で暗殺された。
太田資始 備後守 1858〜1859  
間部詮勝 下総守 1858〜1859  
松平乗全 和泉守 1858〜1860  
安藤信正 対馬守 1860〜1862 井伊直弼死後、政権を担当。公武合体、貿易推進、軍制改革などを進めたが、坂下門外で襲撃されて負傷し引退した。
久世広周 大和守 1860〜1862  
本多忠民 美濃守 1860〜1862  
松平信義 豊前守 1860〜1863  
水野忠精 和泉守 1862〜1866  
板倉勝静 伊賀守 1862〜1864  
脇坂安宅 中務大輔 1862  
井上正直 河内守 1862〜1864  
小笠原長行 図書頭 1862〜1863 老中格。尊王攘夷派一掃のため軍を率いて上京するが、朝廷の命で入京できず、老中格を罷免された。
太田資始 備中守 1863  
酒井忠績 雅楽頭 1863〜1864  
有馬道純 遠江守 1863〜1864  
牧野忠恭 備前守 1863〜1865  
稲葉正邦 美濃守 1864〜1865  
阿部正外 豊後守 1864〜1865  
諏訪忠誠 因幡守 1864 老中格。
諏訪忠誠 因幡守 1864〜1865  
本荘宗秀 伯耆守 1864〜1866  
本多忠民 美濃守 1864〜1865  
松前崇広 伊豆守 1864 老中格。
松前崇広 伊豆守 1864〜1865  
酒井忠績 雅楽頭 1865  
松前康直 周防守 1865  
小笠原長行 壱岐守 1865 老中格。
小笠原長行 壱岐守 1865〜1866  
板倉勝静 伊賀守 1865〜1868 松平定信の孫。安政の大獄では吟味役を務めたが、厳罰に反対して罷免される。大政奉還の時政局運営を担当したが、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを受け、江戸に戻った。後、奥羽越列藩同盟、五稜郭政府に従い、維新政府に降伏した。晩年は東照宮祠官。
松平康直 周防守 1865〜1868  
井上正直 河内守 1865〜1867  
稲葉正邦 美濃守 1866〜1868  
大給乗謨 縫殿頭 1866〜1868 老中格。
水野忠誠 出羽守 1866  
小笠原長行 壱岐守 1866〜1868 第二次幕長戦争で小倉城から九州諸藩軍を指揮したが敗北し小倉城を失陥した。一旦罷免されるも、すぐに再任され外国事務総裁として兵庫開港などを実施する。戊辰戦争では五稜郭まで戦った。
稲葉正巳 兵部大輔 1866〜1868 老中格。
久松定昭 伊予守 1867  
大河内正質 豊前守 1867〜1868 老中格。
酒井忠惇 雅楽頭 1867〜1868  
立花種恭 出雲守 1868 老中格。
       
       
       

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