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ここは、コラムやエッセイなど、短文のページです。
(随時更新) |
| ■デビュー10周年の展開──2009.11.23 |
| お陰様で、最新刊の『新陰流 サムライ仕事術』(マガジンハウス)は、読者の方から好評をいただいている。身近なテーマの会話部分から入り、史料の引用、解説が加わることで、「分かりやすい」というご感想が最も多い。やや意外であるのは、「面白い」という反応がかなりある点だ。もちろん、大変嬉しい。柳生流の伝書そのものを扱うことから、生真面目に書いた面もあったが、会話部分を発想した当初は、「笑いをとりたい」というくらいの意気込みであったのを思い出す。江戸から来たキャラクターの柳之介などが、真剣かつ熱心に語れば語るほど、引いてみるとどこか可笑(おか)しい、ということなのかもしれない。 私が柳生ファンになってから二十年余りを経た。この本は、その歳月とあらゆる流れを含む、ひとつの結晶といえるだろう。初めは娯楽として十兵衛に惚れ、剣術の実技に出会い、それをいくらか掘り下げる中で伝書の意味も考えるようになった。これと並行し、自分が現代人として仕事や生活をする中で、様々なことに悩み、柳生をはじめとする武術の教えに目を開かれた経験があった。すべてを踏まえ、フィクションとノンフィクション、江戸の世界と現代社会など、別々にあったものが融合できたと思う。拙い点も多いが、本書によって、自分に巡ってきた良き縁や知恵の数々を、いったん世へ還すことができれば幸いである。 さて、作家デビューして今年で10年。年に一冊というスローペースながら、本を書き続けられたのは、私に関わるすべての人々のお陰である。特に、顔は見えなくとも、ずっと支えてくださっている読者の皆様には、厚くお礼を申し上げたい。 この節目の年に、上記のようなジャンルレスの本を発表できたのは、「発展」という意味で、とても光栄に思う。本当にこの10年、予想外なほど多種多様な仕事を手がけられ、学ぶことが多かった。 ただ、作家として、足元を見詰めなおすことも、今、必要だと感じている。自分の特徴を認識し、希望を新たにしたいと思う。デビュー当時、私は「読者の期待を裏切りたい」と言っていた。それをある程度、実践できたとは思うが、次第に私という書き手についてのイメージができつつあるのも確かだ。 これまでに得た経験や技術、感覚は活かしつつ、何も知らない気持ちで、青くフレッシュに、再出発できればと考えている。実際、私は無知である。無知は無力に通じる。だが、それが創造性を助けていた部分もあった気がしている。収穫前の畑から森が生まれることはないし、鬱蒼とした森が花畑になることもない。何もない土壌こそが、新しい種を受け入れる。そんな心で、筆を執っていけたらと思う。 今後とも、ご指導やご愛読をよろしくお願い申し上げます。 |
| ■『自分を生かす古武術の心得』(集英社新書)刊行にあたって─ ──2008.2.16 |
| 新聞や雑誌の取材で初対面の方に会うと、なぜかいつも「小柄な方なんですね」と、意外そうに言われる。著者写真などを見る限り、大きな人という印象になるらしい。 私の身長は150センチ。背の順では、幼稚園から高校まで一番と二番にしかなかったことがない。中学くらいまではもっと小さかったので、そのことを過剰に気にしていた。バスケットボールが好きだったが、わざわざ不利なスポーツはしたくなかったし、運動部につきもののハードなトレーニングが大嫌いで、迷わず文化系の美術部に入った。 そんな私が、武術に関する本を書くとは──。 とにかく、大きさとか、腕力とか、流した汗の量とか、競争心とか、忍耐力とか、年齢とか、そうしたものと違った次元で、武術という芸が稽古できるのだということを示したかった。 新書の出版は初めてである。小説以外の本を単独で書くのも一冊目で、何かと新しい経験をさせていただいた。 特に、図版を描くのは面白くもあり、難しくもあった。比較的単純な図形的絵なのだが、身体感覚がうまく読者に伝わるようにと、編集者や清書担当のデザイナーに何度も何度も細かい直しを頼んだ。大まかな原稿(文書)は、昨年の前半くらいにできていたが、こうした様々な作業のために完成が今になった。 小説でも、細かい推敲を繰り返すタイプではある。ただ、フィクションの場合は、言葉とイメージの世界で修正し、自分の内面的判断で定着させていくことが可能だ。それがノンフィクションとなると、常に現実とリンクさせねばならない。また、今まさに実在する人についても述べるため、慎重さが必要だった。皮肉にも、この本の原稿にのめり込み、やればやるほど、自分が虚構を本業とする作家であるということの必然性を感じさせられる部分もあった。 それでも現代人として、今、目の前にある問題について、また自らの身体について、文章化しながら掘り下げておきたかったのは確かだ。空想と創造だけでは足りない何かを、思い切って積み上げてみた。 新書といえば私自身、研究者やお堅い知識人などが書くという印象をもっていたが、今回の本は、文献等で調べた専門的知識を提供するという趣きではない。「口伝えの教え」や「身体感覚」がメインであり、中には私の「天然の発言」もあると思う。手裏剣術の師匠、辻本光男氏との素朴な出会いから、気づけば稽古に夢中だったという私の姿、または心の内を、振り返りつつ書いている。通常は活字になりにくいと思われる、師匠の経験と知恵も詳しく書き込んだ。ある意味、「知識」と「知恵」の違いを実感してもらえる一冊かもしれない。 そして、日常の中で私がここ十年、「武術バカ」として感じてきたことも正直に表した。肩こりや腰痛などの切実な健康問題を改善する手がかりも、いくらか提供したつもりだ。実に、稽古の日々がなければ、全く感じることがなく、気づきもしなかったことが多々ある。そうした観点や意識のもちようは、私の成長にとって不可欠だった。 武術の稽古でお世話になった方は、非常にたくさんいる。そうした人々の知恵と工夫について、私の理解できる範囲で何とかまとめた。この本が、感謝の表現のひとつとして、何らかの意義をもてば嬉しい。 |
| ■人間往来・柳生十兵衛──2 (2006.9.10 近鉄ニュース) 「生涯ネタの宝庫」 |
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◇エリートだった少年期◇ |
| ■人間往来・柳生十兵衛──1 (2006.9.1 近鉄ニュース) 「今、なぜ柳生なのか」 |
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◇千葉真一氏、現わる◇ |
| ■「本当はこわい武士道」(2006.10.19 朝日新聞) |
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最近、武家の思想が人気のようである。侍は、刀という神秘的な武器を身に帯び、寡黙で、強く、潔い。忠義心に厚く、礼を重んじ、主君のためには己を滅する──という。
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| ■新刊『柳生平定記』(集英社)ができました──2006.8.25 |
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この作品は、前作の『柳生双剣士』の第一原稿を書き終えた直後、また柳生物が書きたいという衝動にかられて一気に創った話だ。そのきっかけのひとつは、五味康祐『柳生武芸帳』である。 |
| ■古武術的逆転の発想 第四回「年を重ねると、冴える」 (雑誌「examiner」(イグザミナ)2004年11月号より) |
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最近、何事も長く続けない人が多いという。 |
| ■古武術的逆転の発想 第三回「和風家屋で個人主義」 (雑誌「examiner」(イグザミナ)2004年10月号より) |
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現代人は、独立性の高い建物や個室を好み、自由で私的な時間を楽しむ術を心得ているようだ。古い日本家屋では、障子や襖(ふすま)のみが仕切りで、自分と他者との物理的な境が曖昧であったから、独立した個人意識も希薄だった、といわれる。しかしそれは、本当だろうか。 |
| ■新作『柳生双剣士』刊行に向けて── 娯楽プラス濃厚さ=新しい娯楽!? |
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今回は、二人の十兵衛という、時代劇によくあるパターンを使いながら、これまでに私自身は一度も見たことがないストーリーの構造を創ってみた。どちらの十兵衛が勝つのかは、お読みいただいても、その場面に至るまで本当に分からないかもしれない。 |
| ■古武術的逆転の発想 第二回「短い足にもいいことが……」 (雑誌「examiner」(イグザミナ)2004年9月号より) |
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日本人は、なぜ足が短かったのだろうか。 |
| ■古武術的逆転の発想 第一回「体力も知識もないけれど……」 (雑誌「examiner」(イグザミナ)2004年8月号より) |
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知識人と体力勝負の人──両者の論理や発想は、まるで違うように見える。前者は、好奇心旺盛な勉強家で、どこかへ出かけては見聞を広めている。一方、後者は、ひたすら身体を鍛えて、その体力的な強さによって、様々な問題に打ち克とうとする。 |
| ■ 最新刊『月下妙剣』について── 「柳生新陰流はすごい」(トーハン「新刊ニュース」2005年3月号) |
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デビュー作『双眼』から五年、久しぶりに柳生十兵衛モノに取り組んだ。『双眼』では、武術の理を小説の中で表現したことが新しい、という評価をいただいた。当時、私を動かしていたのは、知り始めたばかりの古武術の実体と、その驚くべき発想だった。現代の運動理論を覆し、「小よく大を制す」「筋力より、精妙な感覚や術理によってこそ、圧倒的な業(わざ)が生まれる」とする考え方だ。この理は、流派を超えると同時に、剣術、体術、手裏剣術などの分野も超えている。だから『双眼』では、十兵衛の剣技が、主に普遍的な「理」と「感覚」によって説明されていた。 |
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「古武術的オリンピック観戦法」 (2004.8.21 朝日新聞) |
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スポーツと古武術は、発想のかけ離れた世界だ。しかし、身体を用いた運動であるという点は共通している。まず、古武術の特徴を幾つかご紹介しよう。小よく大を制す。骨格の動きが主、筋肉は従と考える。パワー増強より省エネ重視。地を蹴らず、踏ん張らない。非日常の動きで相手の予測を外す、等々……。 |
| ■ 久しぶりの短篇作品『すぎすぎ小僧』──2004.5.19 |
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これまで、短篇小説には漠然とした苦手意識があった。というのも、もともと長編ばかりを書き、
短篇の書き方をよく知らないままま、作家となってしまったからである。これまで雑誌で発表させて
いただいた短篇は、いずれもかなり力を入れた作品だったが、緊張感があり過ぎた気もする。 |
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日本人は「古武術走法」で速く走れる (『歴史街道』(PHP研究所)2004年1月号より) |
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私たちは、いつ「走り方」を覚えたのだろうか。よちよち歩きの子どもが、慌てた時に思わず、跳ねるように前進するという姿はよく見かける。が、その動きは、まだとてもぎこちないものだ。 |
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「柳生新陰流を学んで」 (『歴史街道』(PHP研究所)2003年4月号・柳生石舟斎特集より) |
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柳生新陰流は、「平和の剣」、「相手を斬らずに勝つ兵法」、「他流仕合を禁じた将軍家御家流」などと謳(うた)われてきた。実際に学んで痛感したことは、これらが単なる道徳的な意味に留まらないということである。技術的に、そのように完成された兵法であり、非常に緻密で、強(したた)かな剣なのだ。 |
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『甘水岩(あまみいわ)』刊行に当たって──2003.11.11 |
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現代人に贈る、新しい忍者小説が発売を迎える。 |
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「向き合う──奥ゆきが生む神業(かみわざ)」 |
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人との距離をうまくとるのは難しい。遠過ぎると見えず、近過ぎると傷つけ合う。 |
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「美としての四季」 (2001年『ふれあい』(納税協会連合会)夏号より) |
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現代人の私にとって、四季とは一体何であろうか。 |
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「ものまねこざる」 (2000年『週刊小説』(実業之日本社)5月12日号より) |
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私の趣味はカラオケである。 |
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「チャンバラブームに一役」 (2003.1.15読売新聞「関西おもしろ文化考」より) |
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今年はチャンバラブームになりそうだ。映画、テレビなどに、そのムードを感じる。チャンバラつまり剣劇は、時代物で山場をつくるアクションだ。最近は、スポーツの世界でも古武術が再評価され始めている。プロ野球で、巨人軍の桑田投手が復活をとげたと話題だが、彼が新しいフォームを生んだきっかけは武術との出会いだった。投球術のみならず、桑田選手が折れたバットをかわした妙技なども、剣戟(けんげき)さながらの見せ場となって、注目を集めた。 |
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「記憶に眠る時代」 (2000年『歴史読本』(新人物往来社)5月号「ずいひつ・史楽百景」より) |
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西暦二〇〇〇年の日本人女性──その人物像は、どのように記録されるのだろうか。私のような考えの、姿形の人間がいたことが、何百年も先の時代まで正確に伝えられていくとは思い難い。 |
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「読者と作者の往復書簡──あの本のことをもっと知りたくて。」 (2001年『クロワッサン』(マガジンハウス)10月25日号より) |
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「作家心理と手裏剣術──自覚と認識が鍵となる共通性」 (2002.6.15産経新聞より) |
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小説が売れるか否かは、私たち作家にとって、大きな問題だ。売れない中にも良い作品はあるなどと言うが、売れていない以上、自己満足に終わっているという疑いが残る。同時に、売れたものが無条件に傑作と呼ばれるわけではない。 |
| ■ 前書後書『やみとり屋』──
暗さと笑いと武術の理 (2001年『新刊展望』(日本出版販売株式会社)2月号より) |
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「おしゃべり」をテーマとした時代小説ができた。 |
| ■ 「国際摩擦〜感性摩擦へ」 (2000.7.14読売新聞「潮音風声」より) |
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近頃周りに、外国と親しんでいる人が多い。イタリア、イギリス、タイなど、特定の国での長期滞在や永住を望むケースも珍しくない。 |
| ■ 「愛車『吹雪』と十七年」 (2000.7.13読売新聞「潮音風声」より) |
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小学六年の時、大人用の自転車を買ってもらった。薄い青の車体に白いグリップ、カゴ、サドルも白。小ぶりなママチャリだ。私が育ったのは、「坂のない町、尼崎」で、どこへでも自転車で行ける。 |
| ■ 「矛盾── 一貫性の呪縛」 (2000.7.12読売新聞「潮音風声」より) |
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「矛盾」という言葉の起こりは有名である。「この矛は、どんな盾も突き通す。この盾は、いかなる矛をも防ぐ」と、双方の武具を商った者の、つじつまの合わぬ様を言った。 |
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「心の薬は九種類」 (2000.7.11読売新聞「潮音風声」より) |
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幸せそうだね──と言われて、嬉しい人がいる。皆も頑張っているから、君も負けないでくれ──そういう励ましに奮起する人がいる。 |
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「土から生まれる小説!?」 (2000.7.7読売新聞「潮音風声」より) |
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筆の遅速は作家によって異なるが、私は、長編を年一冊というペースが理想の、今時では遅い書き手だ。 |
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「スターとは?」 (2000.7.6読売新聞「潮音風声」より) |
| 私は天才が好きだ。等身大の人物より、圧倒的なヒーローに惹かれる。 天賦のものは、強さ、繊細さ、面白さ、美しさなど、何でもよい。 私の生まれる二年前に没した、市川雷蔵という映画スターがいる。 「眠狂四郎シリー ズ」では妖艶な剣士、「好色一代男」や「ぼんち」 では女好きの商人、その他、コミカルな渡世人から冷徹な殺し屋まで、 実に多様なヒーローを演じた。 彼の魅力は美しい顔立ちのみではない。映像を意識したメイクや 化け方のうまさ、原作の熟知と企画力、役柄との内面的縁の深さなど ……。それらを引き出した他の名 優、監督、カメラマン、スタッフが 存在した運の強さも見逃せない。 そして今年、映像の世界に、一人の俳優が生まれた。彼は、すでに天才 として名高いが、今までは笑いの世界の人だった。松本人志──ドラマ 「伝説の教師」は、彼自らの原案だ。脚本家は複数いる。松本氏の発想 と、それを冷静に分かりやすく仕上げた シナリオ、共演者との絶妙な やり取り、意外性溢れる展開、笑いの松本とドラマの主 人公が、 着かず離れず共鳴する不思議な空気……。そこに私は、雷蔵と同じ何か を感じる。 二人がともに、時代を導く企画者であるからか。また、歌舞伎から 映画へ、バラエティーからドラマへと、いずれも大きな決断を持って 舞台を転じた表現者であったからか。 ユニークなヒーローは、演者の個性と無縁には成り立たない。主演者 そのものが、ヒーローであって欲しいと、私は思う。スターとは才能と 必然性を持った王者。時代の要求によって、予想外の方向から、突如、 現れ出るものかもしれない。 |
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「チープでリッチな娯楽」 (2000.7.5 読売新聞「潮音風声」より) |
| 不況が続くと洒落が流行る。そんな気がする。 とにかく元手をかけずに笑いたい。 少し前、友人と「故事ことわざギャグ」という遊びにはまった。 馬の耳を見物(馬の耳に念仏)/羊、百まで眠り誘わず (雀、百まで踊り忘れず)/瓜の蔓にも成せばなる(瓜の蔓には茄子はならぬ) また、「勘違い」というのも、笑いには有効だ。小さい頃、「子、曰く」 を、「師、曰く」と信じていた私。最近まで、本の「四六判」を「主力版」 と思っていた私……。ただし、これらは天然素材で、仕入れに時間がかかる のが難点だ。 近頃は、「団体づくり」遊びに凝っている。関西大口機構、ガラスの心 保存会、身近な宇宙人探索評議会、等々……。団体が増え過ぎて、「名刺 に肩書きが書ききれない」と豪語。どの会の会長で、何団体の理事だった かと、思い出すのも一苦労──と いうことになっている。 いずれの遊びも、「正しさ」から外れることで成立する。関西でいう 「ボケ」の精神だ。対するは「ツッコミ」である。 私のツッコミの対象は、家族や友人、時に自分自身だが、もう一つ、 重要なものにテレビがある。とにかく黙ってテレビを観ない。OL時代、 研修所で生活をともにしていた同期が、談話室のテレビの前でうるさい 私の言い様を「多田節」と呼んだ。無論、独りで観るときは静かである。 思いあまればメモにとり、後で小説やエッセイのネタにする。ここまで くると、安い娯楽であるどころか、仕事にすらなる真剣な営みだ。 笑いは健康のもと。いつでもどこでも、安価で豊かな言葉の遊びは 手放せない。 |
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「私は抽象バカ!?」 (2000.6.30 読売新聞「潮音風声」より) |
| 私は人と話していて、しばしば自信を失う。 例えば、「何々というA国料理のお店は、××というサービスが有名で、 何月何日からB駅前へ移転し、Cビル内の……」などと、具体的な 事柄ばかりが並ぶと、その名詞や用語を覚えなければと焦り、 頭がパンクしそうになる。 一方、抽象的な内容は得意だ。殊に、人の感情や、物事の因果関係に ついて話すの は大好きである。「今日はブルーだ」とか「あの人は、 なぜすぐに怒るのか」など。そういうテーマになると、私は水を得た 魚のようにしゃべりだし、次々と話を展開さ せたくなる。 抽象的な事柄は、普遍性と応用性に富み、分野や職業を問わずに 話せる場合が多 い。時代も越えると、私は思う。だから、 私にも時代小説が書けるのだろう。現代で 実際に見聞きし感じたことを、 まずは抽象ワールドにストックする。そして、江戸時代という舞台へ翻訳、 応用するのだ。 私は、小説の中にも抽象的な描写を取り入れている。時代物の場合、 昔独特の具体 表現のみでは、歴史に親しんだ読者にしか伝わらない 可能性がある。といって、現代の事物を例に出して説明することも、 時代色を保つ上では難しいのだ。抽象論は分かりにくい ──そういう一般認識を変えてみてはと、時々思う。 具体的で実際的な物事は、確かに目で見たり触れたりでき、説得力を持つ。 が、一度に多く のものを捉えることは困難だ。また、その実物を 見たことも聞いたこともなければ、 話が前へ進まない。 「専門バカ」とは、特定の分野のみに、知識や思考の集中した人間の ことだと聞いた。すると私は「抽象バカ」ということになるのだろうか。 |
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「声と字──読み書きの二様」 (2000.7.3 読売新聞「潮音風声」より) |
| 文字や言葉の捉え方は人様々だ。 速読が得意で、「だいたい四行づつ読む感じ」と言う友人がいる。 それに比べ、私は一行といえどもまとめては読めない。 黙読は目で読むというが、私にとっては文字通り、声を出さずに 読むだけのことで、頭の中では音になっている。つまり、いくら急いで 読んでも、早口で読む以上の速さにはならないのだ。 人間には、視覚派と聴覚派があるそうだ。視覚派は、ビジュアル的、 瞬間的であり、映像のように情報を取り込む。言葉は文字の形で 記憶することが多い。そして「新聞の上の方に、太い字で書いてあった語」 といった風に思い出す。 一方、聴覚派は、筋道を立てた、流れのあるものを認識しやすく、 たいてい、人の話をそのまま声として頭に入れる。 例えば映画の台詞などを、演者の語った声色やリズムのまま記憶する。 私は、こちらのタイプだ。 読み方の差は、こうした認識方法の違いによるものではないか。 そして何と、「文章を書く」作業の中でも、この二種類の人間は 異なった過程を踏むらしいことが分かった。 ものを書く際、私は、書きたい場面をぼんやりとは思い浮かべるが、 言語化のきっかけは、どこからか「声」が聞こえてくるような感覚である。 その声を、せっせとワープロに打ち込み、修正の時も、口には出さないが、 音として読み返しながら検討 する。 しかし、まず頭に「文字」が浮かぶという人もいる。 そして、それを音声化することなく、視覚的に書き進めることが できるらしい。極論すると、読み方の分からない漢字でも、 用い得ることになる。 この二つのタイプ、一般には、どちらの人が多いのだろうか。 |
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「写真と自己認識」 (2000.7.4 読売新聞「潮音風声」より) |
| 幼い頃から、遠足や卒業記念の写真が気に入らなかった。 それを見て「実物通り」 などと言われると、たまらない。 しかし昨年、デビュー作「双眼」のポートレート撮影に望んでから、 私の感覚が変わり始めた。カメラ目線の笑顔は不要で、瞬きを恐れる 必要もない。撮り手は親しい友人の写真家、奥村やよい氏である。 撮影では、私の表情のわずかな隙を捉えるために、視線の配りや 雰囲気づくり等、色々と工夫してくれたようだ。 焼き上がりを見てびっくり──幼めの顔。すっきりとした顔。 アンニュイな顔……これが、私なのか。 いわゆる「にっこり写真」とは違った趣を発見した。 ふと、他人の目にどう映るか など、問題ではないと思えた。 私の顔には、間違いなくこんな瞬間があったのだ。その証拠写真を、 私は何度も何度も観た。 まぎれもなく自分の顔であるものが、気に入った感じに 表現されている写真を見るのは楽しいものである。「これが私」と、 思い込んでいれば、それでいい。最近は、自分の外見について、 意識し過ぎて落ち込むことも減り、自らの表情を、堂々と 見せられるようになってきた。 すると、「いい写真」と言われれば、「ありがとう」と言える。 「これは写りがよ過ぎる」と言われても、それはあなたの目が、 撮影者の目と違っているだけだ、と思える。 実際、写真は撮り手によって随分と異なる。また、見る人によって、 気に入る写真も様々だ。ただ、ポートレートの場合、被写体当人の 好みを満たすかどうかは、大きな分かれ目ではないだろうか。 カメラを恐れていた私の自己認識は、ほぐれつつある。 今は写真を撮ってもらうの が面白い。 |