沖縄イメージの系譜と現在・中
「自分の立ち位置」探る
花城郁子(沖縄タイムス2006.8.30)
私が創作する時、問題の一つに「沖縄のイメージ」がある。先人達は常にこれを意識したかも知れない。既にあり、美術界では語り尽くされた問題かも知れない。今それを問題に感じるのは、私自身が沖縄で創作する意義を考え始めた、という意味になるのだろうか。
復帰の翌年、私は大阪の中学校へ進学した。沖縄を離れたく思い、親類のいない関西を受験先に選んだ。銀行の提携も不充分な頃、授業料の支払い方でも親を悩ましたに違いない県外への進学だった。入学式に制服が間に合わず、私服スカートで式典に参加した。学校には誰も私を知る人はいない、それはある種の快感だった。担任が沖縄からわざわざ来ている子がいるので仲良くしてと挨拶をした後、隣の子が英語で話しかけてきた。
沖縄から離れたつもりだったが大阪には沖縄人社会があり、週に一度の同和教育では在日韓国・朝鮮人やアイヌ、被差別部落問題と共に「沖縄」に触れることになった。授業が終わると、申し訳なさそうな顔をする友人の顔が思い出される。
私の思惑、誰にも知られていない自由、は少し違った。周囲は何らかのイメージをもって沖縄を描き、それを私に当てはめていた。友人よりは、むしろ大人である先生方が「沖縄(子)ってこうなんやろ?」と枠決めをしてきた。
窮屈さを感じたが、その枠を取り払う具体的な言葉が見つからず、勝手なイメージに翻弄された。時には都合が良ければ、その枠組みに甘んじた。
沖縄って日本で一番小さいんやろ?と言っては私の反応を面白がる友人が、ある朝「沖縄ってトロピカルやんなぁ?」と声をかけてきた。「トロピカルって、フィジーとかタヒチのことちゃうん?」「いや沖縄はトロピカルや!」と押し切られる。またある日は「沖縄ってニライカナイっていう、神様いてはるんやねぇ」。私はその時初めて「ニライカナイ」という言葉を聞いた。「聞いたことあらへんし」と答えると、ファッション誌を出し、沖縄の紹介記事を見せてくれた。その年の夏、沖縄海洋博が開催された。
私が関西から帰郷したのは1980年代初頭。CMでは外国人が「ぬちぐすいやさ」「やっさいびぃーんどぅ」と言い、塩害に強い電化製品が「うちなーびけーん」で売り出されていた。
故大嶺政寛氏は、赤瓦屋根の家屋や与那国馬、壷屋風景を描くので有名な画家である。画廊でのパーティで氏の「うちなーびけーん」と乾杯音頭をとる姿は、その画風と共に説得力があった。また「僕はサインにもある様に、Seikwanです」と言い、絵を描くのを生業とした理由に「僕は生徒を沖縄戦で多く亡くしたので、申し訳なくて教壇に立てない」ともお話し下さった。既に70代の大嶺氏は、美学校を卒業したての私にも気さくに声をかけ、時に厳しく画面について触れた。「君の絵は染色だ」と言われたことがあった。当時の私の作品は、絵具を水で多めに溶かし透明色を塗り重ね、また意識的に塗り重ねない箇所を創ることで、視覚や認識の反転を考えていた。私は「ヨーロッパで考え出された遠近法で赤瓦を描いても、それは沖縄絵画とは言えないでしょう?」と返した。とても素直に、反発的に。今は技法からこぼれ落ちる表現が氏の画面にあると思うのだが、当時はそれに気づかなかった。氏は腕組みをして、「う〜ん、それもそうだな」と一言。そしてこの言葉は放った私本人に返り、創作する上で重要な課題となった。
沖縄絵画はあるのだろうか。沖縄イメージって何なのか。
県外や海外で作品発表する時、沖縄らしさを表現してとリクエストされる場合がある。無自覚に沖縄を背負う、戦略的にそのイメージを作品化することもある。沖縄イメージを作家や作品に見いだしたり、見いだされたことで自分の立ち位置を知らされる。
その志向は、ある境界を柔軟に越えて反転していくものなのか。沖縄イメージを映し出そうとする時、その行為、思考は何なのかを、ここ沖縄で深く考えようとする自分がいる。
1961年 沖縄生まれ。美術家、NPO法人琉・動・体理事。2005年、CHAMPURU展、センターA、バンクーバーに参加。