平和通りのあった町から平和通りのあるシマへ

大胡太郎(琉球新報2006.8.31

 一九五九年に東京に生まれ、生後数ヶ月で東京都下・府中市の完成したばかりの団地にすむようになった私にも、米軍基地や米軍車両、米兵の記憶がある。私が小学生にあがる頃まで、私の住む団地の南側を、その基地へ物資を輸送するための単線の鉄道が本線である中央線から分岐しており、「引き込み線」と呼ばれていた。幼い頃のかすかな記憶に、蒸気機関車に牽引されて、軍需物資を積んだ貨物車両が私の住む団地のすぐ外側を通過していく風景がある。その機関室や貨車に乗り込んでいる、軍服姿の米兵の顔も。

 戦前・戦中は陸軍燃料廠であったそこは、戦後、米軍の第5空軍司令部となり、七三年自衛隊基地へと「返還」されたが、一部、現在まだ横田基地に統合されないままの米軍施設がある。私の記憶を確かめるためネットで検索しているうちに、同じ府中市に育ち、私より六歳ほど年上の世代の水島朝穂氏のHPhttp://www.asaho.com/jpn)で、今年五月八日付けの「体験的『米軍再編』私論(その2)」(http://www.asaho.com/jpn/bkno/2006/0508.htmlに、もうなくなってしまった府中市の、米兵の闊歩する「平和通り」の記憶がほんの少し語られているのに出会った。私は、ひとつの平和通りのあった町から、もうひとつの、今も平和通りのあるシマへと来たのだった。平和への記憶を、私は持ち来たっただろうか。

 現在、ひめゆり平和祈念資料館の証言員として勤める仲田晃子氏が、一昨年、琉球大学に提出した修士論文の中に、論文審査員の一人をつとめた私は、ひとつの興味深い新聞記事を見いだした。戦後五十年代中頃、現在のひめゆり資料館のある伊原第三外科壕あたりで、青年たちが夜な夜な酒盛りをしているのがけしからん、戦争の記憶の風化が危ぶまれる、という読者の投稿であった。

 五十年代に、徐々に「生活」をとりもどしてゆく沖縄の中で、そしてそれはシマのそれぞれの場所が戦争の「爪痕=痕跡」を消し、新たな生活空間へと作りかえてゆく、そのような「開発」は生きてゆくうえで不可欠なプロセスであっただろう。近代・戦後的な「なめらかな空間」へとシマが変貌してゆく中で、ひめゆりの記憶は、壕のあった場所に集約されてゆき、風化するのではなく、むしろ沖縄戦の記憶の集約的な象徴として「聖化」されていったのではないか。「聖地」での夜ごとの酒盛りに対する反発や怒りは、自らのシマの傷跡の記憶を「開発」によって消し去ることを余儀なくされつつ、ひめゆりを聖化し、そこに集約される戦争の記憶の「保持者」としての自らを、いわば「管理人さん」のような立場に置くゆえなのではなかっただろうか。

 しかし、シマの戦争の爪痕は消去され尽くすはずもなく、いたるところにその痕跡どころか忘れ物を残している。不発弾、薬莢、眼鏡、骨……。そのようなシマの「公的空間」における「公的記憶」からこぼれ落とされつつあった、いくつもの小さな、しかし凄惨な「記憶」に、公的空間の隙間を縫って向き合い携わっていたのは、子供たちとユタの人たちであっただろう。そしてこのような「場所と記憶」をめぐる葛藤という現在を、小説のなかにつなぎとめるように、目取真俊の小説『風音』は書かれているように思える。

 民俗学は、かつて奄美や沖縄では、若い死者にその友人たちが夜ごとその墓の前で歌舞や飲食する伽(トゥギ)は一般的であったと教える。青年たちはひめゆりの若い死者にトゥギをしていたのだろうか。それとも記憶がひとつに集約されてしまうことへの、いくつもの記憶が束ねられてしまうことへの「抵抗」だったのだろうか。

 

プロフィール

おおご・たろう 1959年東京生まれ。93年より琉球大学勤務。日本古典文学専攻。琉球、沖縄の文学・文化にも興味を持ち、幾つかの論文を書いている。「『島の根』という物語−スピリチュアリティー・身体・共同体」など。