「ローカル化の暴力」
多田 治
二三日の
その後、友人と入った居酒屋で、たまたま隣のカウンターにいたのは、島袋陣営の応援に来た五十代ほどの人たち。私たちがよそ者であるのは一目瞭然、「マスコミの取材の人?」と見られつつ、何気なくお話した。
「何で島袋さんが支持されるかわかるか?」と聞かれ、浅はかな僕は反射的に答えた。「『振興』ですよね?」「ちがう!地域のために、一生懸命取り組んできたからだよ。」そう語る彼の眼には、鬼気迫るものがあった。彼もまた、地元を愛し、長年尽力してきたキーパーソンなのだ。
何よりそこには、人びとの「生活」という生々しい現実、端的な事実性がある。ふだん本島の中部から、メディアの報道を通して「北部」「辺野古」を遠目に見ては、訳知り顔に語る自分の皮相さを思い知る。そしてこの日も、恒例の説教をいただいた。「マスコミや大学の先生は、批判や理想論ばっかりで、我々の『生活』を考えてない」と。僕はこう来られるといつも、肩をすぼめて「はい、はい…」と萎縮するよりなくなる。
とはいえ、それでも言いたい。何かおかしくはないか。「生活」「地域」「振興」が大切なのは誰しもわかる。私が問題にしたいのは、米軍基地というナショナルかつグローバルな規模のマクロな問題が、わずか有権者数四万三千人の小さな市の選挙の争点に組み込まれ、その局面では「生活」「振興」の問題へとローカル化・ミクロ化されていく作用なのだ。そこには、巧妙な論点のすりかえがある。このすりかえは九六年のSACO合意以降、市民の思考に深く刻まれている。
今回の選挙では、三候補者とも辺野古沿岸案に反対していたが、微妙な立場の違いから、やはり基地問題は実質的な争点となっていた。島袋氏は、「沿岸案には反対」と言うだけで、海上に戻す案には応じる意思を示している。実はそれの方が、地元の経済が潤う、つまり振興策につながるとの計算があるからだが、その点はもちろん、選挙では直接明示しない。基地については「三候補者とも反対」の建前のまま極力話題にせず、あとは徹底して「振興」「地域のため」というポジティブな語りを通そうとしている印象がうかがえた。
だが、ネガティブな「基地」と、ポジティブな「振興」はまさに、コインの裏表の関係だ。そして、「振興」の名のもとに基地問題がローカル化されていくとき、そこには明らかに、外から強固な圧力が働いている。すなわち、日米同盟・安全保障というナショナル/グローバルな問題を、「振興」というローカルな枠組みへと転化し局所化し、地域に押しつけることで、真の問題を隠蔽し先送りするような、自明性のもとに作用する暴力であり、権力である。
基地問題は、単に名護や辺野古、そして「沖縄の問題」では片づけられない。日本全体で、日米関係(安保・地位協定など)を問い直す作業が必要なのだ。しかし、それを「沖縄のローカルな問題」へと囲い込む、県内外の様々な力が作動する。政治家・官僚・マスコミ・知識人をはじめあらゆるアクターが、自覚せずともこの流れに加担していく。昨年十二月のフジテレビ系「とくダネ!」の辺野古リポートは典型的で、「迷惑施設のある地域の人にはちゃんと補償しないと」などと結論づける。問題を切り離すことで、自分の安全な位置を担保する思考回路だ。
なおこれは、野村浩也『無意識の植民地主義』(御茶ノ水書房)のような、「日本人/沖縄人」の話ではない。この本は両者を区別し、前者を非難するが、彼の植民地主義の議論は単純すぎる。「社会学的な手法」と言うが、すべてを意識/無意識という個人の心理・倫理で説明する点で、社会学には程遠い。社会学者として、責任をもって付記したい。
さて、事態は逆だ。基地をめぐる暴力はより複雑で巧妙であり、決して「ウチナー/ヤマト」の固定的な属性や意識には還元できない。この区別を疑わないとき、暴力は有効に作用する。
何もしないこと、沈黙すること、気づかないことにも、暴力性は含まれる。県内外の誰もが、気づかぬうちに共犯関係に加担してしまうような、網の目状の暴力・権力の構造を、どれだけ自覚的に把握していけるか。脱出口はそこにある。
昨年十一月から、私は有志の人たちと「合意してないプロジェクト」を展開してきた。まずは肩の力を抜き、「やっぱりおかしい」と、当たり前の気持ちを口にすることから始めてみたい。
(多田治プロフィール)
ただ・おさむ 1970年大阪府生まれ。琉球大学法文学部助教授。専攻は社会学・文化研究。著書に『沖縄イメージの誕生』『沖縄に立ちすくむ』。