「沖縄から遠く離れて」
多田 治
私事で恐縮だが、私はこの春、六年勤めた琉球大学を去り、東京の一橋大学に移籍した。自分も予想せぬ急展開だ。
沖縄と私の関係は、これで終わりはしない。私は沖縄に生活拠点と家族を残し、単身赴任と二重生活の決断をした。周りは否定的な反応が多かったし、実際色々大変だ。でも、利便性や合理性の判断では割り切れないこの島の何か≠ェ、私に根を求めさせる。
それが「日本人/知識人だから」だとしても、どうでもいい。東京と沖縄を行き来する移動性に身をゆだねることで、そこから見えてくる<沖縄>も多分あるだろう。
琉大教員の立場に少しずつ慣れ、安住していた自分の姿。そんな形で沖縄の日常に漬かった生活経験を、責めるまでもないのだが、今回の境遇の変化を、沖縄と自分が適度な緊張と距離感を保って関われる、新たな契機にしたい。
桜満開の四月の東京は、沖縄から行くと驚くほど寒かった。過去に十年東京に住んだ自分が、こんなに適応できないとは。私の皮膚はすっかり、「沖縄仕様」になっていた。
上京一週間、私は早くも沖縄に帰った。友人の結婚式のために。前日、島袋
基地報道はこの日も、地元紙と全国紙で大きく違った。読売は「地元はよく合意した、沖縄は責任を果たすべし」と異様に高圧的だし、朝日は地元合意を前提に政府を批判するが、何か視点が遠巻きな感じだ。当然だが地元二紙は、基地反対か振興か、憤りか黙認かで二分する、県内の複雑な空気を密に伝えている。トップ面の公式報道に自ら違和を唱えるごとく、民意不在の「合意」への虚無感と憤りが、紙面全体に充満していた。
つまりこの日の旅の中で、私は沖縄に着いてやっと、この違和の空気を感じとれた。裏返せば、それほど東京からは沖縄が遠い。多くの沖縄情報は遮断され、生の感情も届いてこない。交通や情報環境が発達し、移動や伝達のスピードが増そうと、沖縄と東京の間は依然「遠い」。情報の量と濃度の差が、心理的な距離を産み出し続けるのだろうか。
沖縄/日本/アメリカ
私は東京に戻り、新しい職場で初授業を迎えた。全く異なるこの地で、学生たちに何を伝えよう。東京でこそ沖縄の現状を伝え、改革世論を喚起したい気持ちは強くある。
ただ、こと沖縄に関しては、これまで沖縄の学生には暗黙にあった知識や関心の前提が、根本的にない。話を始めれば、一から説明せねばならない。
米軍基地の押し付けも、こうした無知・無関心の構図があればこそだろう。しかもそれは、個々人を倫理的に責めて済む話でもない。「無関心な個人」自体が、教育や政治、メディアを通して生産された、制度的な産物そのものなのだ。
「沖縄の負担軽減のため、三兆円の国税投入はやむをえない」なる防衛長官の言葉。無策な対米追従を沖縄問題にすりかえる論法には、怒りで卒倒、憤死しそうだ。だが実際、「沖縄のために高いカネを払わされるのか」と言い放つ人もいるだろう。東京で聞けば、私は冷静でいられない。
ボードリヤールは言った、「ディズニーランドは、アメリカ全体がディズニーランドであることを隠すためにある」。沖縄も同様に言える。「沖縄がいまだアメリカと日本の植民地であるのは、日本そのものがアメリカの植民地であることを隠すためにある」。
想像力への期待
今回の転機に、私は再び自問したい。社会学者/教育者として、今できることは何か。
私は社会学部で「社会学理論」を教えている。全国出身の百八十名の受講生は、実に真剣だ。「社会学の学部」という建て前も大きい。この漠たる学問が一体何なのか、「理論」を聞けばわかるという、淡い期待。それは、社会学部生の自分さがしとも直結する。
彼らに私は、ハイテンションにユーモア織り交ぜ、九十分切々と語る。淡い期待に応えたいからだ。社会学理論は宗教でもカウンセリングでもないが、明快な視点で世界がスパッと見えたとき、癒しと生きる力を与えてくれる。
だが私も、彼らに一抹の淡い期待を抱く。だから私は、具体例に沖縄の話題を盛り込む。理論と沖縄を結びつけるとき、教室に充満するエネルギーが、遥か南の島々への想像力を喚起する、その期待だ。しかもそれは、三月に悲痛の別れを告げた沖縄の学生と面した頃と、連続してさえいる。
次代を担うのは、確実に彼らなのだ。若者バッシングで不満解消する場合ではない。
社会学にも理論にも、まだやるべき仕事とやれる可能性はあると、最近思えてきた。私は今、シンポジウム「沖縄イメージと風景・身体・記憶」(仮)を企画中である。実現の際には、多数の方にお集まりいただければ幸いである。
(多田治プロフィール)
ただ・おさむ 1970年大阪府生まれ。琉球大学助教授を経て、2006年4月から一橋大学大学院社会学研究科助教授。専攻は社会学・文化研究。著書に『沖縄イメージの誕生』『沖縄に立ちすくむ』。