沖縄イメージの系譜と現在・下
ツーリスト的目線の逆用
多田 治(沖縄タイムス2006.8.31)
沖縄を研究するフィールドワーカーも、観光に来るツーリストも、外から沖縄を見る点では同じであり、地元の人からすれば、ともにうさん臭く見えるものだ。
でも、だからこそ私は沖縄に魅かれる。沖縄を対象化する主体の側の問題、「自分は一体何者なのか」を、常に意識させられるからだ。
私はこの四月、沖縄から東京に職場が移った。だが、私は沖縄を離れてかえって、研究者として沖縄に向き合い続けるモチベーションを取り戻した。東京〜沖縄間を移動する立場から、あえてツーリスト的な外からの目線を逆用してみよう。そこから少しでも、沖縄をめぐる知と情況を揺さぶり活性化できればよい。つまり私が試みるのは、「方法としてのツーリスト」である。
九月十四〜十六日、イタリアのヴェネチアで沖縄研究国際シンポジウム「想像の沖縄」が開かれる。私も観光セッションで、「沖縄イメージ:その発生と展開」を報告する。沖縄観光を時系列的に扱う、この進行中の研究は、海洋博を一点集中的に検討した拙著『沖縄イメージの誕生』と対をなす。
琉球処分以後、近代沖縄の歴史は、内地≠ゥらのツーリストとの関係の歴史でもあり、外からまなざす沖縄イメージと対峙する歴史でもあった。沖縄イメージとは、沖縄をとらえる知識・解釈の枠組みのことでもあり、その変容をとらえることは重要だと思うのだ。
明治期、笹森儀助が決死の旅で『南嶋探験』を著したのは、国境拡張へのナショナルな意志からだった。その影響下で柳田國男は、大正期の旅で衝撃を受け、沖縄に日本の原郷を見出す。
昭和十年代、沖縄航路を独占していた大阪商船は、阪神〜那覇間に大型客船を就航させた。二十数回実施された沖縄視察団は、沖縄ツーリズムの先がけとなる。
この時期、柳宗悦率いる日本民藝協会の一行もいた。有名な方言論争は、観光の視点からも問い直せる。素のままの沖縄文化を、美の観点からとらえ絶賛した柳らは、後の沖縄の観光やイメージに大きく影響を与えた。だが芸術と生活のギャップは、ウチナンチュの違和感や憤りを呼び起こした。
しかしまた、沖縄戦を経て後、民藝協会の沖縄評価は新たに受け入れられていく。戦前の記録映画は、戦争で多くの風景が焼かれた中、切実に求められた。
戦後の沖縄イメージは、映画『ひめゆりの塔』の「戦争の犠牲になった悲劇の島」だ。外国化した沖縄への数少ない訪問者は、作品の影響下で見聞を伝えた。
渡航制限の緩和で六十年代、復帰前の沖縄観光ブームが来る。戦争の傷跡と基地、アメリカの存在自体が、大衆観光にさらされた。
同時並行で脚光を浴びる八重山は、異質なイメージを織りなす。戦争や基地をより免れ、昔ながらの風景や文化を残す石垣・竹富・西表・与那国が、南の果てとしてロマンの対象となる。
復帰後、観光客の爆発的増加で、この流れは強まる。本島と八重山の差異は、基地と観光の二重性を形にした。竹富の星の砂は、一様に憧れの的となる。
海洋博ショックは確かに、大きな後遺症を残した。だが〈海〉のイメージ世界は、離島の新婚旅行ブームとつながった。七七〜七九年、観光客は激増、「日本の南の亜熱帯」の位置が定着する。
八十年代、イメージはより自律する。競合する海外のリゾートの〈海〉が、沖縄の海に照らされる(イメージのグローバル化)。リゾートホテルとマリンスポーツが浸透し、外部の現実と切り離された〈海〉のイメージ世界は徹底されていく。
高度消費社会の中で、沖縄らしさ≠煖L号化され、作り替えが可能になる。
だがそこに、沖縄側も自分に合うイメージを表現するチャンスが増す。新城和博らの『キーワードコラムブック』や、高嶺剛『ウンタマギルー』など、八十年代末からの一連の流れだ。
ここからは、九月二日のシンポで直接話を聞こう。復帰後の沖縄イメージに、いかに違和感を抱きつつ、自らの表現を立ち上げてきたか。かつてない面白い議論が期待できる。多くの方々と会場でお会いしたい。
(プロフィール)
ただ・おさむ 1970年大阪府生まれ。琉球大学助教授を経て、2006年4月から一橋大学大学院社会学研究科助教授。専攻は社会学・文化研究。著書に『沖縄イメージの誕生』『沖縄に立ちすくむ』。
(シンポジウム告知)
シンポジウム「沖縄イメージと風景・身体・記憶〜海洋博から現在まで〜」が、九月二日(土)午後一時から琉球大学五十周年記念館(琉大西原口〔病院側〕を入って左すぐ)で行われる。参加費は無料。パネリスト: 具志堅邦子・田仲康博・大胡太郎・新城和博・中村晋子・末永航。実行委員: 多田治・花城郁子・久万田晋。問い合わせ電話番号は、090-9362-6309(多田、期間限定)。ホームページは、http://homepage2.nifty.com/tada8/sympo06.htm