田仲康博 (琉球新報2006.8.29 オリジナル原稿)
『夢幻琉球-つるヘンリー』(高嶺剛監督、一九九八年)の製作にかかわって、翻訳の仕事をしたことがある。「白雲節」の英訳にはとくに神経を使った。映画のなかで像の檻を背景に大城美佐子が歌うこの曲は、映画全体のトーンを決める重要な役割を担っている。
日本語の対訳が準備されていたので、とりあえず日本語から英語へ訳してみた。しかし、できあがった訳文はどうもしっくりこない。英文の歌詞からは曲の情感がまるで伝わってこない。あれこれ表現を変えてはみたが、翻訳文をさらに翻訳することで欠け落ちる何かをうまく掬い取れずにいた。
結局、日本語訳を参照しながら、ウチナー口から英語へ直接翻訳する方法に落ち着いた。それでなんとか形にはなった。しかし、三つの言語の間を行き来しながら言葉を選ぶ作業は、私をひどく不安にさせた。沖縄語、日本語、英語のいずれも、それなりに使えるつもりだった。しかし、どの言語も、どこか身体にしっくりこない感覚を残した。
少なくとも日本語に関しては、久しぶりに抱いた違和感だった。言葉が剥がれ落ちていくような感覚とともに、そのとき私はある言葉の響きを思い出していた。復帰前、標準語励行運動のさなかに聞いた「かまきり」という音の響き。「これが正しい発音」だと言われても、それは棒読みに近かった私たちの発音とあまりにも異なっていた。教師が発音するたびに皆で笑い転げたものだ。しかし、そのうち私たちは「正しい」言葉を習得し、もとの音を忘れてしまった。
音が変われば、身体も変わる。子供たちは、復帰運動を底辺で支える「小国民」の役割を担わされていたのだ、と今にして思う。私たちは、フェンスやスクリーンの向こうの「アメリカ」に憧れる一方で、写真やテレビを通して見た「本土」の風景にも胸をときめかせた。遠い土地への憧れは、自分が住む土地への過剰な嫌悪感に容易に反転される。「因習に閉ざされた島」と、どこかで聞きかじった言葉をノートに書きつけたこともある。
「方言」と「標準語」の間に距離が生じたように、生まれ育った島の風景と本土の風景との差異が強調され、いつのまにか後者の方に郷愁を抱いてしまう…。国語教育の成果は意外なところに現れた。沖縄ブームの今、視線は内側へと折り返され、風景は異なった顔を見せる。しかし、それは表層の風景が反転しただけであって、今も昔も底の方では同じ国家や資本の力が働いている。
さまざまな<枠組み>の流動化が個人の自由をもたらすことはなかった。むしろ私たちは、それぞれの私的空間に囲い込まれただけだ。資本は、パーソナル化の一途を辿るメディアを経由して個々の身体に直接働きかけ、市場へ放り込む。
沖縄イメージ誕生のプロセスにかかわる政治や資本の力を考えると、イメージはむしろ<発明>されたと言うべきだろう。島人の変革への要求が、生産の場や公共空間に集う身体から、消費者としての身体へと水路づけられるとき、オルターナティヴな社会を構想する力も弱くなる。イメージの拘束力は、一般に考えられているほど弱くはない。
こう言えるかも知れない。翻訳にともなって私が抱いた違和感は、沖縄・日本・アメリカが置かれた地政学的な構図と矛盾を身体的なレベルで引き受けたことに由来するのだと。
新たな言葉によって経験が編成し直され、一方的な情報操作によって記憶や未来への想像力までもが動員される。一見、私たちの周りには多様なモノや情報が溢れているように見える。しかし、私たちは、もはやそこにポストモダン的な越境の可能性を夢見ることはできない。
『夢幻琉球-つるヘンリー』の登場人物の一人は、沖縄を評して「サイドブレーキを引きながら走ってきた」のだと喝破してみせた。つまり沖縄は、本質主義的に語れる<場所>などではなく、ある種の<運動>として捉えることができるということだ。そこにおいては文化もまた、文化的抵抗運動、<文化=運動>として発明され直す必要がある。
◇田仲康博(国際基督教大学教員) 1954年、旧