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南の国の憶い出





「南の国の憶い出」の記を英霊に捧げ、せめもの鎮魂のことばとしたい。

平成十五年十一月二十七日

九十才の誕生を迎えて
田所寅男





   目    次

一、中支応召 (一発の銃声)

昭和十二年七月、中国櫨溝橋(ろこうきょう)で起こった一発の銃声によっていわゆる「支那事変」日中戦争の火蓋がきられた。世にこれを「櫨溝橋事件」と呼んだ。

それ以後、風雲急を告げ、日本の軍隊が支那大陸に続々と送り込まれた。

「石谷部隊」もその一つで、中支陽子江沿岸警備と治安維持の任務を帯びて派遣され、「銅陵(どうりょう)」に駐屯していた。

久居三十三連隊入隊 昭和17年

私は、昭和十三年七月、その久居連隊の石谷部隊の要員として臨時召集されたのである。やがて、戦地に赴き、中支の山野を転戦して、与えられた軍務に励んだ。

やがて時がきて、召集解除となり、郷里へ復員(ふくいん)することとなった。

久居連隊のあった場所は、現在、三重県久居市の陸上自衛隊久居駐屯地となっているところである。

二、召集 (部隊編成)

昭和十五年二月、中支(ちゅうし)戦線から無事三重県飯南(いいなん)郡漕代(こいしろ)村大字目田(めだ)の実家に帰り、農業に従事して食糧増産に励んでいた昭和一八年十一月の或る日、突然二度目の召集令状が届いた。

当時、私は三十一歳、一家の大黒柱であった。

亥三(いぞう)は六十二歳、母ちよ五十七歳、妻ふさへが二十七歳、長女昌子(まさこ)五歳、長男英雄(ひでお)二歳の六人家族であった。その頃は、すでに戦況もあまり良い方ではなく、二回目の召集を覚悟していた。

いよいよ出征ということで、家族一同皆と、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈って水盃(みずさかずき)を交わし、その翌日、歓呼の声に送られて郷里を出た。

そして、召集地の滋賀県八日市(ようかいち)の航空連隊に着いた。
約一ヶ月ばかりして、我が部隊が編成された。

その部隊名は、第七飛行師団濠北派遣(ごうほくはけん)襲(しゅう)第一五三四三部隊(第三十六飛行場中隊)と呼んだ。

三、出発(船上の正月

それから間もない日、広島県にある軍港の宇品(うじな)から船で出発した。

船は、大正二年に建造された貨物船を改造した八千トンの輸送船であった。

年の暮れが近づいたと思う頃、関門海峡にさしかかっていた。その頃には、潜水艦や駆逐艦、掃海艇などに守られ、船団の数は合わせて十六隻であった。

その十六隻の船が白波を蹴立てて進む姿は、到底筆舌に尽すことが出来ないほど壮観で、勇壮、威風堂々としており、その勇姿に我々は万歳を叫んだものであった。

関門海峡とも別れ、船が進むうちに次第に暑さを感じるようになってきた。その頃、『今日、ここは沖縄の那覇(なは)の北方80海里である』ということや、『もうすぐ正月である』ということを知らされた。

そして、いよいよ昭和十九年の正月を洋上で迎えた。

早速、船内には正月を祝うお屠蘇や酒が出された。そして、互いに武運長久を祈ると共に、故郷(ふるさと)の山河のことや幼い頃の思い出話に花が咲いて、いつまでも夜の更けるのを忘れた。

そのうち、正月気分も次第に薄れ、船はさらに暑くなってきた。そして、初めての港に着いた。

そこは、台湾の「基隆(キールン)」(現在では、チーロン・キールンと呼ぶ)であった。

基隆(キールン)は、立派な軍港で日本海軍の軍事基地となっていた。着いてからしばらくすると、今から降りてシャワーをするようにとの命令が出た。早速シャワーを済ませ、海水であったが久し振りに生き返ったような気がして喜んだ。

四、台湾(軍人勅諭)

そしてこの日は、我々軍人に賜った「軍人勅諭」下賜の記念日に当たる二月四日であった。

その軍人勅諭の主な五ケ條とは、次のとおりである。

一、 軍人は、忠節を尽くすを本文とすべし。

一、 軍人は、礼儀を正しくすべし。

一、 軍人は、武勇を尚(とおと)ぶべし。

一、 軍人は、信義を重んずべし。

一、 軍人は、質素を旨とすべし。   以上

台湾では、その後、「高雄(たかお)」(現在では、カオションと呼ぶ)にも寄り、更に水や糧秣(りょうまつ)その他の物資の補給を受けた。そして、下船することも出来たので街を見てから、バナナでは一番うまいと定評のある台湾バナナやみずみずしいおいしいサトウキビなどを買い求めて、再び船に戻った。

そんな思いを残して高雄(たかお)の港を離れた。それまで左舷に見えていた台湾の高峰「新高(にいたかやま)」の雪も次第にうすれ、船は只エンジンの音だけを響かせて時速八ノットで大海原を走っていた。

五、東シナ海(イルカ発見)

そんなとき、甲板の方が急に騒がしくなった。誰かが『イルカだ』と大きな声で叫んでいる。急いで甲板に駆け登った。確かにイルカだった。大きなイルカだ。数十頭ものイルカがものすごい速さで、船べりを泳ぎ回っている。船から出る残飯や汚物をあさりに来るということである。甲板は、イルカを見ようとたちまち大賑わいになった。

すると今度は、はるか遠くの方でトビウオの大きな群れが飛んでいるのが見えた。船員は、『このあたりにはイルカの他に、サメやフカなど多くいる』と話してくれた。

イルカやトビウオの群れもいつの間にか消えてしまい、船は次第に揺れて来た。船の難所ともいわれる「バシー海峡」にさしかかったのであろうか。そのうち、殆どの者が船酔いに悩まされた。

乗物酔いしやすい私は、甲板上で船にしがみついて身動きもできず、ただ青い空だけを見上げていた。

六、フィリッピン(マニラ界隈)

そしてまもなく、激戦地「コレヒドール」の要塞を過ぎた頃には、波もやや治まって間もなく「マニラ」の港に着いた。

下船命令が出たので、船を降りて、港からマニラ公園へと向かう途中に、日本海軍の軍司令部があった。軍司令部の屋上には日本海軍旗が高々と掲げられ、海風にへんぽんとひるがえっている。その海軍旗を仰ぎ見て思わず日本は未だ健在であると、この時ほど日本の力強さというか頼もしさというか、かくしきれないうれしさというものを感じたことはなかった。

その司令部の前を通り、やがて、南国の匂いが漂う「マニラ公園」に着いた。公園は、南国情緒あふれる大きな樹木が多く、憩いの場所でありオアシスといった感じがした。

また、木陰には所々に人が集まっており、シャツ一枚で車座になってバクチをしている様子であった。一寸日本では見受けられないような風景に驚いて立ち止まっていると、そのうち、何処からともなくあちこちから乞食と思われるような子供がやって来た。

見ると食べ物を持っている。そのうち少し言葉が解ってきた。子供は『品物を買ってくれ』とか、『こちらの品物とそちらの物と換えて欲しい』物々交換をせがむのであった。早速、持っていたタバコと新しい靴下を出すと、喜んで何か菓子をくれた。また他の子供には、お金(軍票)でクリームや食べる物を買ってやった。喜んで帰っていく子供のそのうしろ姿を見て、ふと内地のことを思い出した。

やはり此処にも戦争の荒波がおそいかかっているのかと、哀れな子供達をみて不憫な気がしてならなかったのであった。

七、ミンダナオ島ダバオ(邦人と椰子の水)

その後、マニラからまた船に乗り、ミンダナオ島の「ダバオ」に着いた。ダバオは、昔からマニラ麻の産地として有名な所で、沢山の日本人が麻の栽培に従事していたところである。

そこで思いもよらぬ命令が出た。『豚を買うように』との命令である。

そして、私のほか数名の者が船から降ろされた。早速、歩いて豚の買い付けに尋ね回ったが、豚を見付けることが出来ずガックリして船に戻る途中、一人の日本人に出会った。邦人に出会った懐かしさの余り話し掛けると、最近空襲がひどく近く引き揚げるという。住民も遠くへ逃げて豚などいない筈だという。そして『兵隊さんこちらは暑い国だから本当にご苦労サンですね。こうして今は何もないがせめてここにある椰子の実でもどうぞ。その椰子の実を割って存分に飲んでください。』と言って心のこもったご馳走にあずかることができた。

ヤシの水なんて生まれて初めてで、とても珍しい味がした。厚くお礼を述べ船に戻ったが、そのヤシの水の味は未だに忘れることが出来ない異国での思い出の一つとなった。

八、ハルマヘラ(土人との遭遇)

ダバオの港を後にして、更に南の島のオランダ領「ハルマヘラ」という島に向かった。

ハルマヘラ島へ着いて、はじめて見たその島の住民は、色は黒く、殆んど裸のいわゆる土人(どじん)であった。女は半裸で腰にサロンを巻き、男は腰に藩刀(ばんとう)を下げ、男女ともハダシで歩いていた。初めてその土人の姿を見た時は異様な気がしたが、それも日毎に薄らいで気にならなくなった。

また、海岸には椰子の木が沢山あって実も多く付いていた。その椰子の木陰からは、さわやかなとても涼しい海風が吹いてくるし、景色も大変いい、まるでおとぎ話に出てくる龍宮(りゅうぐう)へ行ったような気がする島であった。

このハルマヘラでは、我々も長かった船団の旅から開放されて、しばらくくつろぐことができた。

そのうちに、また船に乗った。そして船は更に南へ南へと進んで行った。そして、いつの間にか赤道をはるかに越えていたのであった。

九、西部ニューギニア(任地到着)

着いた所は、オランダ領西部ニューギニア島の「マノクワリー」という港であった。そこでは、夜空に明るく南十字星が輝いていた。

ところで、此処まで来た我が第三十六飛行場中隊は、二つに分かれた。

その一つは、本隊の主力を中山中隊長が率いて、「ヌンホル島」の飛行場の勤務という任務を与えられたのであった。

ニューギニア島全体図

そして、別の小隊を辻井小隊ということにして、「マノクワリー」の飛行場を守るという任務を与えられた。

そして、我々二十余名は、辻井小隊に所属せよとのことで、其処で、それぞれ互いに新しい飛行場の任務についた。

はるばると、此処へ着いたのは昭和十九年の二月という声を聞いたばかりの頃であったが、真夏を思わせる太陽がギラギラと照り付けて、その暑さには閉口した。それもそうだ、流石(さすが)にここは赤道の下の島なのだと改めて思った。

殆どの日にスコールがきた。生活の知恵として、そのスコールの雨水を溜めていろいろと使った。第一には飲み水である。そして炊事の水、洗面、洗濯及び入浴の水とした。スコールの無い日があっても水に困らないようにとドラム缶に蓄えて、貴重な命の水として利用した。スコールの過ぎた後はとても涼しかった。

十、基地「マノクワリー」(隊長の訓示)

こうして元気に軍務に服していたが、十日ほど経った或る日、わざわざヌンホル島から中山中隊長殿が来られた。一同整列してお迎えをした。その時の訓示は『今、ニューギニアの戦況は日一日と悪化している。そしてニューギニアはマラリアとか他の悪い病気の多い所であるから、諸氏は充分に健康に留意し少しでも身体をこわさないように頑張って欲しい。また、戦が長びいて敵がいつ攻めてくるかもしれない。そのときこそ良く踏み止まって一人でも多くの敵を倒さねばならない。たとえ草の根を噛み、石にかじり付いても命(いのち)長らえ、国のために尽して欲しい』という言葉であった。部下を思い、兵をねぎらうその懇々とした訓示には、流石に心打たれる思いがした。

この言葉を聞いたのは昭和十九年二月十一日の紀元節(現在の建国記念日)のことであった。しかし、それが中山中隊長殿と別れた最後の日になろうとは神ならぬ身の知る由もない。

十一、ヌンホル島(本隊の玉砕)

そのうちわずか五ヶ月も経たない頃、ヌンホル島の玉砕(ぎょくさい)を知らされた。

その夜は、我がマノクワリーの陣地からボーッと海上はるか東の海に、戦火のあかりが浮かび上がった。その時、悲痛な顔の辻井小隊長は『あの明かりはヌンホル島である。悲しいかな最早、遂に本隊はやられた』と首をうなだれた。悲しくも知らされたヌンホル島の玉砕。

そのほのかな東の方角の明かりに思わず手を合わせた。さぞかし隊長をはじめ戦友が無念の涙をのんで、いさぎよく撒(ち)って行ったことであろう。

忘れもしないその日は、昭和十九年七月二日のことであった。その夜はどうしても眠る事が出来なかった。

本隊のヌンホル島が敵の手に落ちてからは、日毎に空襲が激しくなるばかりであった。

十二、転進命令(イドレへ行軍)

やがて、八月の盆が過ぎた頃、遂に「転進(てんしん)命令」が下された。マノクワリーの将兵もぞくぞくと転進をはじめた。

我々辻井小隊もマノクワリーの飛行場を後にして「イドレ」の基地へ行くように命令を受けた。イドレまで歩いて行くのであった。そのとき辻井小隊長は重苦しい言葉で言われた。『途中での糧食の補給は望めない。これという道がないジャングルの中を隠れて進む転進である。着くまで何日かかるか知れないし、無事に行けるかどうかも判らないのだ』ということであった。

そこで、我々小隊二十余名は、持てる限りの食糧と転進に何としても必要であると思うものを持ってイドレに向かって歩き出した。

やがて五日たち、一週間も歩いたと思われる頃、「ワーレン」にたどり着いた。

ワーレンは、我が日本軍の味噌の製造工場があったが、そこにも未だ少数の軍人が踏みとどまって味噌の製造を続けていたのである。

十三、陸路の転進(大蛇、パプア土人)

そのワーレンで転進後、初めて僅かな食糧の補給を受けることが出来た。

これで少しは助かったと喜んでいるうちにパーン、パンと銃声が鳴り響いた。何事かと緊張した。ところが敵ではない。一升ビンほどあったろうか大きな蛇であった。スルスルとジャングルの草むらに姿を消した大蛇であった。ニシキヘビだったのだろうか・・・・。

大蛇とのひと騒動のあと、幾日も暗い密林のさまよい歩き続けているうち、急に明るくなり視界が開けてきた。露天風呂につき当たったのである。

かなり大きな風呂だった。先発部隊の兵士が入浴をしていた。兵士は『温泉だ。入れよ』と叫んでくれた。辻井小隊長も『転進中とはいえ入浴しよう』と許してくれた。思いもよらず温泉風呂に入り、久し振りでアカを落とした。身体もサッパリして軽くなった。

そこを後にして、また何日も歩いている内に持っていた食糧も減ってきた。その途中、「パプア」の部落にたどり着いた。そこは、人食い人種の住むと言う山岳パプアの部落であった。すると、いかにもイカメシイ飾りを着けた厳めしい顔の人がやって来た。ひと目でここの部族の酋長だと分かった。身体中にイレズミをして鼻には銀の棒を差していた。

ここまで来れば何とか食べ物があるだろうと思い、早速話し掛け食べ物を要求したが言葉が通じない。でも何とかして食べ物を手に入れたい。でないと、飢えてしまう。

どうしても食べ物が欲しい。お金を出しても通じない。何でも良いのだ、何とかして口にさえ入ればよいと、身振りや手振りでまた物真似をしているうちにやっと解ってくれた。

物々交換ならよいとのことで、彼らは塩とタバコを要求した。こちらも残り少ない塩とタバコを出した。タバコはパイロットが吸う高級品を出した。そしたら、彼らは酋長の命令どおり自分たちで取ったいろいろの食べ物をさし出して、交換してくれた。

国や人種が違い、言葉も違う異国の人食い人種の原住民の人たちも義理人情というものは少しも変わらない。こうした人の好意とお情けによって腹いっぱい、土人食で空腹を満たした。

このパプアの部落では久し振りに満腹感を覚え、元気を取り戻した。そして、酋長に礼を言って別れた。

だが、折角換えてくれた土人食も幾日ももたなかった。食べる物が無い。

とにかく、食べられるものは何でも採って食べた。イナゴ、みぞ貝、カニ、エビなどはもちろん、自爆用に各自が持っていた「手榴弾」を川に投げ入れて魚も捕った。更に樹木にいる虫も食べて飢えをしのいで行軍した。

マノクワリーを出てからかなりの月日がたっていた。半ヶ月位は経っていたであろう。最早、持っていた糧秣も底をついてきた。何としてでも、米を食い延ばすことにした。

一日の量を半分に、更に三分の一程度にして米の節約をした。その後、この先いつ何処で糧秣の補給があるやら無いやら全く見通しがつかないということになり、ついに更に食い延ばしのため、米一日五勺として粥の「汁」だけを啜った。

流石に体力も衰えてきて、人の後について落伍しないようにすることが精一杯であった。

そんなある時、急に戦友が呟いた。それは、先発隊の人が倒れているのを見て『俺もあんなになりたい。如何にもうらやましい。いっそのこと自分もああして楽になっていきたい』のだと言う。私はすぐさま怒鳴った。『馬鹿なことを言うもんでない。こんな所で死んでどうするつもりだ。何は兎も角一緒に行け!』と叱り、戦友の手を引いた。すると戦友も気を取り直したのか歩き出した。

この頃、私も気力というより精神力で歩いていたのである。

そんなある日の出来事であった。

俄かに銃声が一発、また一発と続け様にジャングルに鳴り響いた。ただ事ではないと思っているうちに先導して歩いていた戦友が大きな鳥を拳銃で撃ち落として、鳥をぶら下げて立っている。それは、王冠(おうかんばと)という鳩であった。王冠鳩は、ニワトリ程ある大きな体であるがスマートな姿の鳩で、肉も多くて味もよく、主として酋長が食べるという鳥である。

戦友皆が、肉や内臓、骨に至るまで分配して、珍重なトリのご馳走にあり付くことができ、一同元気づいた。

そしてその翌々日、やっとの事で糧秣の補給所にたどり着いた。そして五日分の糧秣として米五合の補給を受ける事が出来た。

十四、水路の転進(筏を組んで気力と精神力)

糧秣補給所で、我が辻井小隊長の話によると、『目的のイドレは更にこれから先に在る。此処からイドレまでは海抜ゼロメートルという湿地帯で、沼があり歩いてはいけない。どうしてもイカダを組んで行くより方法が無い』と言うことだった。

さて、五日間の糧秣として米五合をもらって喜んだのも束の間で、もらった糧秣を頼りに筏(いかだ)を作ることにした。

その頃は、最早身体もずいぶん衰弱していて、小さな石に躓(つまず)いて倒れる程であった。しかし、「何が何でも生きるんだ」という気力だけはしっかりと持ち続けていた。

筏を組むには立ち木を切り倒すことから始めなければならないものの、大きな木を切るによい道具が無い。あるのは腰に持った帯剣(たいけん)だけである。

帯剣で立木の切り倒しに取り掛かった。

「苦しい時の神頼み」というが何としても神や佛にすがるより他にない。ご先祖様のお助けを念じ神や佛の御慈悲にすがり、一心不乱になって筏つくりに渾身の力を振り絞った。

すると、不思議というか実に神秘的な力が湧いて出た。それまで、マラリアで起き上がれなかった戦友の熱が下がって木を切る手伝いに来てくれた。

そして、さしもの大きな木をも切り倒す事が出来て、川まで運んだ。また、山に入ってやっとの事でイカダを組むのに使う(ふじつる)を探してきた。

そして、とうとうイカダに組みあげ、水に浮かすことが出来た。

そのとき、夢(ゆめ)か現(うつつ)か、阿弥陀如来様が天空高く現れ賜う姿を見た。あまりの有難さと嬉しさに、只呆然としてしばらくうずくまったままで天を伏し拝んだ。

こうして、神仏のご慈悲とご先祖のお力でイカダが出来上がったのであった。

出来上がったイカダに乗って「イドレ」に行く事になった。

さて、目的地のイドレまで行くためには、四つの水路を伝いながら行くようにと言われた。水路は海の満ち引きによって水の流れ方が違うので満潮と干潮の潮のタイミングにうまく合わせていかなければ海に流されるという、海抜ゼロメートル地帯特有の流れであるから充分に気を付けて川を下るようにとの辻井小隊長から注意を与えられたのであった。

そして、川の形状を想像できないまま、イカダを川の流れに任せ進む途中、マラリアで動けなくなった戦友を助けてやったり、こちらが逆に助けられたりして第四水路まで来たものの、水の流れが止まってイカダが動かなくなった。潮の関係で満潮と干潮の間は水が動かないからである。

よくその辺りは、敵の飛行機が飛んできて銃撃していくという、あぶない水路である。このままいては敵に狙われ危険だ。それとも、引き潮になってイカダが海に流されてしまうか。どうなるか判らない川の真中であった。絶体絶命という事態になった。その時、はるか遠方から聞こえてくるエンジンの音がした。その音は、てっきり敵の飛行機が飛んできたものと思い、最早これまでかと覚悟を決めた。

しかし、音はだんだんと近づいて来て、やがて、それは紛れもない日本の船のエンジン音であることが分かった。

やがて、その船が接近し、イカダの側へ止まってくれた。船から大きな声で『早くこの船に乗れ!』と叫んでタラップをおろしてくれたので、無我夢中でタラップを伝い船上の甲板へ上がった。これは正夢か、頬をつねり、顔をたたいた。痛い!確かに、これこそ夢ではない。はじめて正(まさ)しく我に返った。

船上では早速、食糧の乾パンと飲み水が支給された。幸いにもその船(ダイハツ)には、食糧その他の物資が積まれており、イドレの基地に向かう途中であった。

こうして、生と死のハザマで天祐神助とご先祖様のお力で、かろうじて無事イドレの基地にたどり着くことが出来たのであった。

十五、「イドレ」(バナナの味)

我々がイドレに着いてから十日ほど経った頃のことである。戦友の一部が遅れていて、やっとイドレに着いた者がいた。あまりにも変わり果てた姿であった。聞けば、一度は海に流されたものの、第四水路(イドレ川)まで戻れたので、その間テントに溜まった水を飲んで生きながらえて、やっとたどり着いたのだ。

とにかく人間には、目に見えない偉大な力や生命力のたくましさというものがある、ということをしみじみ思い知らされた。戦友と共に喜び合い、重湯(おもゆ)を飲ませて寝させた。

私もその後、休養を続けているうち、ある日小隊長の命令で私が軍司令部へ行った帰りの途中、ふと見上げたバナナの木になんとまあ驚いた事に熟したバナナの実があるのを見付けた。採ったら銃殺だが、それを覚悟で、思わず手にした帯剣でやっとの事でその実を切り落とした。どうにか隊の宿舎に持ち帰り、戦友とも分け合って食べたそのバナナは、喉のどこをどう越えたか分からない程美味(うま)かった。

南方のバナナの産地では、バナナの実は時期が来ると自然に熟して黄色くなってくるのだということが分かった。熟したバナナの味は、おそらく我々数人が知った味であろう。

イドレで幾日も過ごしてしているうちに、我が辻井小隊に朗報がもたらされた。それは、「サガ」という所の糧秣監視という任務である。地獄に佛とはこの事かと喜んだ。

サガに来てみると、軍の食糧がまだかなり蓄えられていたのであった。しかし、驚いた事に、大切な米を入れた袋が噛み破られて床の上にこぼれているのである。やはり、聞いていたバビの仕業(しわざ)であった。

十六、サガの糧秣監視(バビを獲って料理)

 バビとは、豚が野生化して、猪のようになって何でも食べるのである。牙はなく、イノシシのように怖いことはない。体形も豚と猪との合いの子といったもので、人を見ると怖がって逃げるし、人の臭いなどを嗅ぎ分けて、おそれて近寄らないという一面臆病な動物である。

 一粒の米でもバビに食べられてはもったいない。そのバビを一日でも早く捕まえようということで、コブチを掛けたりワナを仕掛けたり、大きな落とし穴を掘って、バビを待ち構えた。だが、残念ながらどうもうまく掛かってくれない。土人たちでも容易には捕らえにくいと言う。土人にいろいろなワナを教わったがダメであった。

 しかし、何としてもバビを捕らえないと腹の虫が治まらない。それではということで、銃で撃ち取ることになった。そのうえ、豚料理をしようということで、よしきたと皆が張り切って一生懸命になった。

毎日のように、二人掛りで風下にそうっと隠れ、銃を構えて根気よくバビの現れるのを待った。

 そんなある日、数発大きく銃声が鳴り響いた。ヤッタナーと思う間もなく、一頭の大きなバビを棒で担いだ二人の戦友がニコニコして戻ってきた。やっといっぺんに腹の虫が治まった。

 こうして、獲ったバビをすぐさま解体料理した。解体するのは何のこともない。肉は手のひら大に大きく切り分けた。トンカツにしたり、すき焼きにしたり更にタマリ(醤油)漬や塩漬の保存食をも作った。この日は、戦友一同が野戦料理の腕を振るい久し振りに舌鼓を打つことができた。未だに幻(まぼろし)の味(あじ)として忘れることはない。

さて、我々もその後勤務を続けている内に、下痢や腹痛が出てきた。

その中には、津川(つがわ)曹長がいた。十津川曹長は九州熊本の生まれで、実に立派な人であった。転進について先導の先任下士官としても大恩人であった。この偉人ともいうべき十津川曹長も病気には勝てず、大腸炎で亡くなられた。その死の直前、私の近くで座ったまま、はるか祖国に向かってかすかかな声で、『天皇陛下万歳』と唱えられた。そして、朽ちるがごとく眠るがごとく息をひきとられた。あまりにも立派な偉人とも思われるその見事さ、之こそ日本軍人のかがみとして称えられるその死に際に一同はただ号泣するのみであった。ねんごろに弔い、火葬して骨を拾った。

亡くなられたのは、他に滋賀県彦根の出身で経理担当の草野(くさの)軍曹(ぐんそう)であった。草野さんは、これまた大腸炎などで看護の甲斐もなく、亡くなられた。ねんごろに弔いをし、骨を拾った。

それに加え今度は、敵機の襲来で糧秣監視の任務中に三人の戦友が銃撃され、惜しくも悲しむべき無念の最後を遂げる等大きな痛ましいことが起きた。ねんごろに弔い、火葬にしてこれまた骨を拾った。

十七、サガで大腸カタルと熱病(椰子の実と炭の粉)

頼りにしていた戦友も次々に亡くなっていった。

その頃に、私はアメーバ赤痢に罹ったのである。

アメーバ赤痢は、腹痛や下痢がかなりあり、大腸炎とよく似た症状である。

病状が重くなってからでは遅い。治すのは今のうちだ。とにかく自分の病気は自分で治すより他にない。病気は、誰も代ってくれない。なんとかして、どうしてでもよいから自分の病気は自分で治そうと考えた。

いろいろと考えたが「養生(くちようじょう)」することが第一であると考えた。

そして、断食・絶食をすることとした。それに加えて、「炭」は身体の薬になると聞いていたので、「炭の粉」を作ってそれを呑むことにした。

折よく、一人の土人がやってきたので、土人と物々交換により椰子の実を手に入れ、実の中のコプラならよかろうと思い、黒焼きにして「炭」にした。それを呑み易く細かく篩(ふる)い分けて黒炭(くろずみ)の「粉薬(こぐすり)」を作った。

断食を始めると共に、その炭の粉を薬として呑むほか、衛生兵が与えてくれたクレオソート(薬)を呑んで病状の回復に努めた。

大分、お腹の調子が幾分よくなってきたと思っているうちに、高い熱が出てきた。衛生兵から、デング熱という熱病であることを教えてくれた。

マラリアよりタチが悪く、デング熱のため、毎日三八度という高い熱が続き、断食中の私の身体もだんだんと衰弱していった。

そして、断食を一週間も続けているうちに、意識が朦朧としてきた。床から起き上がる力さえない。身体も宙に浮いたような感じだ。

夢に、青鬼・赤鬼が出てくるようになった。それでハッとして、口の方に手を当ててみた。すると、かすかに手のひらに息がかかっていることが分かり、アッ!息をしているようだ。そうだ、これなら確かに生きている。間違いない。ああ、夢ではない。ああ正に生きているのだ。確かに夢とは違うと、ようやく我に返った。

そんな夢のような日々が過ぎて、やがて序々に熱も下がりはじめ、お腹の調子もよくなり、次第に元気を取り戻した。そして、やっと軍務に就くことが出来るようになった。

ほかの戦友もいろいろの病気が治って、軍務に追われているうちに、早くも正月を迎えた。それは、昭和二十年の元旦であった。

去年の正月は、沖縄の洋上だったが、あれから一年経った長い言いようのない三百六十五日であった。その長い長い一年も過ぎ、サガの糧秣倉で正月を迎えようとは、思いもよらぬことであった。

夜が明けて、明るくなったとき、辻井隊長以下「天皇陛下万歳」を三唱し、一同と共に祖国日本の安泰を祈って遥拝した。そして、ささやかながらも正月のお祝いを済ませた。

十八、バボの空襲

そして、半年程は「サガ」で任務を続けた。やがて、七月の末頃、今度は、「バボ」の勤務に就くこととなった。

辻井小隊がバボの警備という新しい任務で派遣されて、現地に着いた。バボは、第二軍の海軍の小さい港で、白い服を着た軍人も少し居た。

しばらくしたとき、ひどい空襲に出会った。

防空壕に入る隙もないほど急に、一発の爆弾が頭の上に落ちてくる。咄嗟に、近くにあった二つに折れていた椰子の木を目がけて、木の下陰にもぐり込み、耳を親指、目を中指などでしっかり押さえ、口を少しあけておくという「防空訓練」どおりの姿勢をとった。

木の下にもぐった瞬間、ドカンと一発の耳を引き裂くようなものすごい音とともに、ものすごい爆風で身体が飛ばされたようであった。同時に、ものすごい火薬の臭いが鼻を突いた。アッ!助かった。

一瞬の恐ろしい出来事であった。我に返って、ふと空を見るとはるか高いところから、爆弾で飛ばされた大小の土石の塊が、パラパラ音もなく舞い降りるように落ちてくるのが見えた。

固唾を飲んで見上げているうちに、落ちてきた土石がバサッ、バサッと音を立てて椰子の葉や、ジャングルの樹にも当たってきた。

椰子の木の下に隠れていた私の肩にも落ちて来た。咄嗟の出来事であり無我夢中でいたので、そのときは痛いどころのことではなかった。

幸いにも、爆風で大きく飛ばされず、飛散落下物による怪我にもならなかったのは、ちょうど爆弾の落ちた所から死角になる所であった為と、椰子の木のおかげであった。

その後も、空襲をよく受けたが、必ず防空壕に入り待機するようにといわれた。

そのうち、辻井小隊は高射機関砲の陣地に就いた。そのとき、私は射手を命ぜられた。

空襲が始まると、その陣地めがけて走った。何とか、撃ち落してやろうとねらいを定めて引き金に手を掛けた。だが、海岸の椰子の木すれすれに飛行してくる低空の飛行機はそうたやすく撃ち落せるものでなかった。

十九、終戦の頃

こうして、任務を続けているうちに、早くも八月の声を聞く頃、どこからともなく、デマが飛び出るようになった。そのデマは、「日本が負ける」というものであった。それこそ、とんでもないことだ。日本はなんとしても勝つんだ!と本当に、デマであると信じていた。

しかし、空襲は益々ひどくなり、昼となく夜となく、日によると一日十回以上の空襲を受けた。急にデマが広がってきた。空襲で夜も寝ていられないよう様になっていた。

こうした、デマが飛び交ううちに、昭和二十年八月十六日の朝を迎えた。

晴れたバボの朝は、不気味なほど静かであった。

あれほど、激しかった敵の爆撃も止んで、空は青空が広がっていた。不思議な静かな日であった。

すると間もなく、整列せよと一同が集められた。

バボの基地の司令官から、『祖国日本は、昨日八月十五日に天皇陛下の玉音が流れ、戦いを終えた』ということや、大本営の発表による無条件降伏の終戦の宣言などを初めて知らされた。そして、『血気にはやる行動を慎み、いさぎよく武器を捨て、武装解除をうけ、捕虜として軍の命令に従う様に』とさとされたその司令官の目は涙でうるんでいた。

二十、内地へ帰る(捕虜,帰国)

こうして、武装解除を受け「ニューギニア」で捕虜生活を送っているうちに、日が過ぎて、昭和二十一年の二月が来た。

その頃には、オランダ領のセレベス島「マリンプン」の捕虜収容所に移されていた。

ここマリンプンは、広々とした緑の平野と水田がひろがっていた。整備された水田、舗装された道路、ずいぶんと広い豊かなのどかな農村風景がみられた。その頃にはすでに二度目の田植えが始まっていた。この地方は、一年に三回も米を収穫する穀倉地帯であった。二月に田植えも終わって早くも、五月の中旬を過ぎる頃には稲刈りが始まっていた。

その頃、内地帰還命令の通報を受けた。そして、連合軍が誇る快速船リバティ型駆逐艦に乗せられて、祖国日本、名古屋の港に着いた。

とうとう帰ってきた。帰ることができた!

検疫も終わり、昭和二十一年五月三十一日、祖国日本の土をしっかりと踏んだ。そして、互いに生き残ったごく僅かの戦友と再開を約して東と西に分かれたのであった。

多くの戦友が傷つき、命を失った本当に長い長い戦争であった。

次の書籍は戦友等から寄贈されたものである。



あとがき

国敗れて、ただ山河ありと。日本へ帰った私を、山も川も人々もみんな、温かく迎えてくれた。

ただ、悔やまれてならなかったことは、亡き中山中隊長と亡き戦友のことであった。

必ずや、いつの日かご遺族にも会い、また、共に還った戦友とも昔をしのび語り合うことを願い、祈りつづけて今日に至った。

そして、今はただ私の心のなぐさめとして、この「南の国の憶い出」の記を英霊に捧げ、せめてもの鎮魂のことばとしたい。

南無阿弥陀仏  合掌

平成十五年十一月

  満九十歳の卒寿を迎えて

三重県松阪市目田町一三二番地
電話・ファックス 0598・28・2654
 著者 田所寅男

大正二年十一月二十七日生

平成十一年十一月作成原稿に、図面等を挿入し、一部加筆訂正した。

 


平成十五年十一月
改訂補遺版 印刷発行

発行責任者 田所 英雄(田所寅男 長男)

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