日韓対訳で読む聖書

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(10) 怪しむな

日韓対訳で読む聖書
  第10回/ 怪しむな
   2003.6.8. ペンテコステ

 (2003.6.8.記 イースター50日後)

 今日は教会歴ではペンテコステ(五旬節)聖霊降臨日とも呼ばれる。
 イエスが復活されてから、40日後に昇天され、その後、10日後に弟子たちに
聖霊が降ったという日にあたる。イエスが昇天された後、不安だった弟子たちは、
大いに励まされたことだろう。教会の誕生日とも言われるゆえんである。
 今日は、前回・前々回に続いて、復活の話の3回目を書いておきたい。

 イエスは、世に在りし時より、復活について語られていた。自らの十字架と復活
について予告すると共に、我々信じる者にも復活を約束してくださったのだ。
 だが、本当だろうか、そんなことがあり得るかと疑う方も多かろう。
 かく言う私も、さまざまな導きによりその教えを信じるようになったものの、
時々、疑ってしまうことがある。洗礼名はトマスと名のるべきかとも思う。

 さて、ある夜、こういうことがあった。
 真夜中に、私はまた、なき恋人Rのことを思い出して、悲しみにくれていた。
 そのころすでに復活は信じていた。「七人の夫」の話による啓示を与えられ、
天国での彼女との霊的な再会を信じてもいた。
 だが、生身の体に、肉体をもった彼女に、やはり会いたくなることがある。
 私は、告白しよう。
 彼女の骨を、持っている。彼女がなくなってしばらくしてから、彼女の両親に
お願いして、分骨していただいたものだ。今はイースターエッグを模った、象嵌
を施した、小さなエナメルエッグの中に収めて、机の引き出しに入れてある。
 その夜、誰も起きていない真夜中、そのエッグを胸に、涙した。
 主イエスよ、あなたの言葉は信じたいのです。しかし、今一度、生身の体を
持った彼女に再会することはできないのでしょうか。
 跪いて祈った末、机上にいつも置いてあった、文語訳の聖書を開いた。

ニコデモ言ふ
「人はや老いぬれば、いかで生るる事を得んや、
 再び母の胎に入りて生るることを得んや」
イエス答へ給ふ
「まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、
 神の国に入ること能はず。
 肉によりて生るる者は肉なり、霊によりて生るる者は霊なり。
 なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな。
 風は己が好むところに吹く、
 汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。
 すべて霊によりて生るる者もかくのごとし。」
 (ヨハネ福音3章3〜8節)

 私は驚きに、目を開かれた。そして、喜びに、胸を打たれた。
 なんという適切な、力強い、答えのみ言葉であろうか。
 ニコデモのように、復活を疑っていた私だった。
 イエス様は、そんな私の迷いに対して、ぴしゃりと叱られた。

 「なんぢら新に生るべしと我が汝に言ひしを怪しむな」

 この「怪しむな」という語感が、厳しくまた雄々しい。
 文語ならではの、簡潔な力強さだと思う。口語の訳と比べてみよう。

あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、
不思議に思うには及ばない。
(口語訳)

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを
不思議に思ってはなりません。
(新改訳)

『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、
驚いてはならない。
(新共同訳)

 「不思議に思うには及ばない」では、少し調子が弱い。「思ってはなりません」
ではさらに柔弱な感じになる。「驚いてはならない」が三つの中ではまだ力強いが
やはり「あやしむな」と五字で言いきる簡古さには及ばない。
 では、韓国語訳と比べてみよう。

Ye-su-kke-seo tae-dap-ha-si-doe
Jin-sil-lo jin-sil-lo ne-ge i-reu-no-ni
Sa-ram-i mul-gwa seong-ryeong-eu-ro na-ji a-ni-ha-myeon
ha-na-nim-eui na-ra-e teul-eo-gal su eops-neu-ni-ra.
Yug-eu-ro nan geos-eun yug-i-yo. Yeong-eu-ro nan geos-eun yeong-i-ni
Nae-ga ne-ge keo-deup-na-ya ha-gess-ta ha-neun mal-eul nol-lap-ke yeo-gi-ji mal-la
Pa-ram-i im-eui-ro pul-mae ne-ga keu so-ri-neun teul-eo-do
eo-di-seo wa-seo eo-di-ro ka-neun-ji al-ji mos-ha-na-ni.
Seong-ryeong-eu-ro nan sa-ram-do keu-reo-ha-ni-ra
.
   (Yo-han Pok-eum 3:3-8)

Nae-ga ne-ge keo-deup-na-ya ha-gess-ta ha-neun mal-eul nol-lap-ke yeo-gi-ji mal-la
私があなたに生まれ変わらなくてはならないといった言葉を
驚くべきことだと思ってはならない

 あまりこなれない訳だが、直訳すればこんな感じだろうか。
 nol-lap-ta 驚くべきだ、驚嘆に値する、目覚しい
 yeo-gi-da 思う、感ずる
 〜ji mal-la 〜するな =〜ji mal-da 〜しない の命令形
 というわけで、途中はやや冗長だが、語尾は命令形で力強いほうだ。

 今まではあまり考察に含めてこなかったが、考えてみれば、韓国語訳にも日本語訳
と同様に、文語や口語などいくつか種類がおそらくあるはずだろう。
 ただそれについてはまだよく調べたわけではなく、はっきりしたことは言えない。
 手元にいくつかある韓国語訳の中で、古そうな装丁のものから引用しておこう。
この本は「聖経全書」と漢字でタイトルがあり、また本文も縦書きの漢字ハングル混
じり文という、古色の感じられる様式になっている。おそらくこちらが古い形だろう。

Ye-su-kke-seo 對答ha-si-doe
眞實lo 眞實lo ne-ge i-reu-no-ni
Sa-ram-i mul-gwa 聖靈eu-ro na-ji a-ni-ha-myeon
ha-na-nim na-ra-e teul-eo-gal su eops-neu-ni-ra.
肉ro nan geos-eun 肉i-yo. 聖靈eu-ro nan geos-eun 靈i-ni
Nae-ga ne-ge keo-deup-na-ya ha-gess-ta ha-neun mal-eul 奇異hi yeo-gi-ji mal-la
Pa-ram-i 任意ro pul-mae ne-ga keu so-ri-reul teul-eo-do
eo-di-seo o-myeo eo-di-ro ka-neun-ji al-ji mos-ha-na-ni.
聖靈eu-ro nan sa-ram-eun i-reo-ha-ni-ra.
(Yo-han Pok-eum 3:3-8)

旧 => 新
ha-na-nim na-ra => ha-na-nim-eui na-ra
 天(神)国     天(神)の国
聖靈eu-ro => 靈eu-ro
 聖霊によって  霊によって
keu so-ri-reul => keu so-ri-neun
 その声を  その声は
eo-di-seo o-myeo => eo-di-seo wa-seo
 どこから来りて  どこから来て
sa-ram-eun i-reo-ha-ni-ra => sa-ram-do keu-reo-ha-ni-ra
 人はこのようだ   人もそのようだ

ハングルが漢字になっている部分のほかで、目に付いた違いというのは、
上に挙げたものくらいだ。助詞の異同程度で、ほとんど訳に違いはない。
ところがその中で、問題の個所は単語もかなり変わっている。

奇異hi yeo-gi-ji mal-la => nol-lap-ke yeo-gi-ji mal-la
 奇異に思ってはならない  驚くべきことだと思ってはならない 

 古い形のほうがより簡潔で、「怪しむな」の語感に近いのではないか。
 とはいえ、韓国語訳の古い形としてあげたものは「文語訳」というほどの
文体の違いというものではなく、せいぜい、「口語訳」と「新共同訳」程度の
マイナーな違いと言えよう。韓国語に「文語訳」があるのかは後日再考したい。
 ついでに、英訳も少しだけ見ておこう。

Do not marvel that I said to you, 'You must be born again.(NKJ)
Do not be surprised because I tell you that you must all be born again.(TEV)

 この場合も、古いNKJのほうが "marvel"となっていて、 "be surprised"とより
口語的な訳になっているTEVより、簡潔な感じがする。そのあとの部分を見ても、
イエスの言葉を古い形は直接話法で示しているのに対して、新しいほうは間接話法
にしたうえで、becauseと関係を示す接続詞でつなぐところがやや理屈っぽく説明的
な口調になっていると言えよう。やはりここは、古い形が私には好ましい。

 Do not marvel! 怪しむな。

 きびきびした、良い語感ではないか。
 子供は甘やかすばかりでなく、時にはきびしく叱るべきだという。
 イエス様も、われわれが迷う時には、きびしい言い方もしてくださる。
 「怪しむな」ではないが、「恐れるな」という言葉も、聖書には頻出していて、
数えた人の話によると、百回以上は出てきているという。
 それだけ人というものは、すぐに恐れたり惑ったり迷ったりするものなのだろう。
いざという時に狼狽せずに、ひたすら信じられるようでありたい。難しいことだが。
 特に、人の死と生にあたっては……


  (2003.6.9.記 イースター51日後)

 今日はペンテコステの翌日の月曜だ。
 訃報を聞いた。
 「てぃんかーべる」という愛称で、私のこのページでもよく発言していた方だ。
ハンドル名のことは伏せておいて、と言われたのだけど、もういいだろう。
 李政美さんのコンサートも幾度かご一緒したことがある。最期にお会いしたのは、
4月のセカンドアルバム発売記念コンサートだった。
 胸が癌に侵されて、手術と再発を繰り返していたが、とうとういけなかった。
 先ほど、お通夜に行ってきた。遺影に向かってただ祈るばかりで、いたたまれず
にそのまますぐ退席した。半月がコンサートの時のように寂しそうに輝いている。
 今、カフェテラスで、携帯パソコンでこれを書いている。
風が強い。昨日から、風が強いようだ。風は彼女の霊なるか。

 風は己が好むところに吹く、
 汝その声を聞けども、何処より来り何処へ往くを知らず。
 すべて霊によりて生るる者もかくのごとし。

 ここで「風 Pa-ram」に「聖霊 Seong-ryeong」はたとえられている。
 ペンテコステの日にも、昇天したイエスをしたって共に祈り続ける弟子たちの
うえに、大風が大きな音とともに吹きつけた。それが聖霊の訪れだったのだ。
 もともと、人の「息」が、ギリシャ語でも「霊」の意味だったという。
 人の口から出る風、すなわち、息こそが、霊魂そのものだった。
 韓国語で、「いのち」のことは「mok-sum」「のどの息」と言うのだと、こないだ
この連載で書いていたら、彼女はそれを読んでいのちを実感したという。なぜなら
彼女も胸を侵されて、すでに息が苦しかったからなのだ。
 Rのレクイエムを書いてばかりいる私に、彼女は私のレクイエムを書くような
ことになってはほしくないねと、笑っていた。だが、その日は訪れてしまった。
 あなたは今、どこにいるのか。風の中にいるのだろうか。

 風は急に 天は高くして 猿のなく悲し
 渚は清く 沙は白くして 鳥のとび巡る
 
     杜甫「登高」より

 ティンカーベルさんの魂が、どうか天に召されますように。
 主イエスの御名を通じて、御心におゆだねします。アーメン。

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