日韓対訳で読む聖書

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(11) 百合の花

日韓対訳で読む聖書
  第11回/ 百合の花
   2003.6.8. 花の日記念

 親しくしていた方がなくなったので、お通夜に行ってきた。
 みなさんとお話もできなくて、すぐ退席してしまった。

 百合の花を、帰りに見かけて買ってきた。
 すらりと背の高い、子供の背丈くらいありそうな、大きな鉢植えだ。
 オーバードという品種らしい。
 悲しくて胸が破れそうだったが、その鉢を抱きかかえながら帰ってきて、
部屋の中に置いたら、ふんわりと百合の良い香りが立ち込めて、気持ちが
安らぎいやされていくのが感じられた。

  ゆりの花のことを考えてみなさい。
  どうして育つのか。
  紡ぎもせず、織りもしないのです。
  しかし、わたしはあなたがたに言います。
  栄華を窮めたソロモンでさえ、
  このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
(ルカ12:27)

 イエスは詩人だと思う。
 福音書の説教には、たとえ話が豊富で、常に民衆にはたとえを用いて話された
とあるのだが、それは単にわかりやすくということ以上に、詩的だと思う。
 そう、あの人は、百合の花のような女性だった。
 暑いときも、また、病に疲れている時も、いつも着物をきて、背筋をきちんと
伸ばしていらした。お茶やお花の師範でもあり、常に心構えがあったのだろう。
 ソロモンの豪奢な装いより、清楚な一輪の百合の花の美しさよ。

 ところが、この花だけど、新改訳では上のように「ゆり」になっているが、
他の訳では、少し違うのだ。

  野の花のことを考えて見るがよい。(口語訳)
  野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。(新共同訳)

 単に「野の花」「野原の花」となっている。では、文語訳ではどうだろうか。

  百合を思ひ見よ。 (文語訳)
  試みに百合の如何にか長ずるを思へ。 (正教会訳)

 ここは、やはり「百合」である。
 すなわち、訳の古い順番から見ると、文語訳で「百合」だったのが、口語訳で
「野の花」となり、また新改訳で「ゆり」にもどり、ふたたび新共同訳では、
「野原の花」となってしまったのだ。二転三転、理解に苦しむところだ。
 私のイメージとしては、ここはぜひ「百合の花」であってほしいところだ。
 さて、韓国語訳を見てみよう。

  Paek-hap-hwa-reul saeng-gak-ha-yeo po-a-ra.
Sil-do man-deul-ji anh-ko jja-ji-do a-ni-ha-neu-ni-ra
Keu-reo-na nae-ga neo-heui-e-ge mal-ha-no-ni
Sol-lo-mon-eui mo-deun yeong-gwang-eu-ro-do ip-neun gos-i
I kkoch ha-na-man gath-ji mos-ha-yeoss-neu-ni-ra.

  Paek-hap-hwa 百合の花

 ほら、やはり「百合」だ。うれしくなった。これだけでも、韓国語訳のセンス
の良さを感じてしまう。さすが、詩人の多いお国柄だ、とさえ思う。
 そう、ここの花はなんでもいい、というわけにはいかない。やはり「百合」だ。
 中国語でも、漢字で「百合花」となっている。
 ついでに英語訳を見てみよう。

  Consider the lilies, how they grow: (NKJ)
  Look how the wild flowers grow: (TEV)

 なんとこちらは、古いほうの訳では「the lilies 百合」だが、新しい訳では
「the wild flowers 野の花」となっているではないか。この推移は、日本語訳
における、文語から口語訳への変化と似ている。
 どうしてこのような変更が加えられているのだろうか。
 おそらく、イエスが聖書で述べているガリラヤの野の「百合の花」という
のは、現在我々が見ている「百合」とは品種が違う、だから正確を記して、
「百合」と限定することは避ける、といった、学者さんの説でもあるのだろう。
 たとえば、遠藤周作の『聖書の中の女性たち』の口絵には、フィリッポ・
カイザリヤ地方の野原の写真があり、脚注に「聖書に出てくる所謂『野の百合』
がこの花である」というていねいな解説まで書いてある。なるほど、学問的に
は正確なのかもしれず、また、野に咲き乱れる名もない花、あざみやたんぽぽ
のような花とすれば、庶民の飾らない素朴さを強調しているかもしれない。
 だが、それでもあえて、「百合の花」が私は良いと思う。
 大好きな讃美歌に、「うるわしの白百合」がある。

  うるわしの白百合  ささやきぬ昔を
  イエス君の墓より  いでましし昔を
  うるわしの白百合  ささやきぬ昔を
  百合の花、ゆりの花、ささやきぬ昔を

  春に会う花百合  夢路より目覚めて
  かぎりなき生命に  咲きいずる姿よ
  うるわしの白百合  ささやきぬ昔を
  百合の花、ゆりの花、ささやきぬ昔を

 イエスさまを象徴する花が、この「白百合の花」なのだ。
 高潔にして純真、可憐にして高貴、りんと背筋を伸ばして立つありさまは、
野にありながらやはり、気品と品格がある。
 やはり、「百合」でなくてはならない。
 歌のほか、西洋の宗教画でも、よく象徴として描かれている。
 また「白百合学園」というように名前にとったり、校章やエンブレムに
百合の花をデザインして採用したりする、ミッション系の学校が多いのも
ここに由来している。
 新しい訳は、みな「野の花」になっているかというと、そうでもない。
韓国語訳では新しい訳でも「百合」だし、日本語訳にも例がある。

  ゆりの花を見なさい。(リビングバイブル)
  ゆりがどのように生長するのか、よく考えてみなさい。(回復訳)

 このような最新の訳でも、やはり「ゆり」が採用されている。
 これは復古であろうか。いやいや、原文の詩的なイメージを損なわない
ようにという美的な配慮ではないかと思うのだ。
 イエスは詩人であったのなら、その説教も詩でなくてはならない。

 さて、最初の話にもどる。
 お通夜の次の日。仕事はあったのだが、昨夜のことが心残りだった。
急遽、時間割の授業を入れ替えてもらって、昼間に告別式に出かけてきた。
親族の方のほか、お茶やお花の仲間の方、退職された同僚の方など、
やはり多くの方がおいでだった。
 納棺の時に、白い花を入れた。顔のそばにそっと置いた。
 安らかな顔であった。そして、百合のように気品のある顔だった。

  きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草をさえ、
  神はこのように装ってくださるのです。

  あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、
  自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 天国での再会をお待ちしております。
 どうぞ、彼女の魂を、お救いください。
 主にすべてをおゆだねいたします。アーメン。

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