日韓対訳で読む聖書
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| (13) 三位一体の神 |
日韓対訳で読む聖書
第13回/ 三位一体の神 2007.1.6. 公現日 (1月3日に教会で話した話をもとに加筆)
讃美歌1(教団66) 聖なる、聖なる、聖なるかな
讃美歌673(教団541) 父 み子 聖霊の
聖書箇所 ヨハネの手紙 一 5:6〜8
イエス・キリストについての証し
この方は、水と血を通って来られた方、
イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血によって来られたのです。
そして、霊≠ヘこのことを証しする方です。
霊≠ヘ真理だからです。
証しするのは三者で、霊≠ニ水と血です。
この三者は一致しています。
あけましておめでとうございます。
年の初めにあたりまして、今年一年が良い年となりますように、みなさまに祝福がありますように、
教会が恵まれますようにお祈りします。
さて、今日はまず、ふたつの讃美歌を見てみましょう。
バプテスト教会の讃美歌集では、始めと終わりにある歌です。
私は、αであり、Ωである、私は、初めであり、終わりである、とおっしゃった
主なる神を、今また思い起こし、感謝いたします。
この二つの歌に共通しますのは、「三位一体」の神ということです。
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ひとつめの歌ですと、最初に
聖なる 聖なる 聖なるかな
三つにいまして 一つなる とあり、最後にも
三つにいまして 一つなる
神の大み名 ほめまつらん
とありますね。これは日本語ですが、英語ですと、教会で夕礼拝の時に使われております、
「BAPTIST HYMNAL」でも、この歌は一番で、このようにあります。
Holy,holy,holy!
Lord God Almighty!
聖なるかな、全能の主なる神 とありまして、
God in three Persons,
blessed Trinity!
三つのペルソナ(位格)を持つ神
祝福された トリニティ とあります。
このトリニティのTriは tripleや triangleの triで「三つ」を表す接頭語ですね。
この「トリニティ」が「三位一体」という言葉です。
私は韓国が好きで、韓国は3割がクリスチャンですが、この歌は韓国語の讃美歌ですと。
このように歌われています。
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keo-ruk keo-ruk keo-ruk
jeong-neung-ha-sin ju-yeo
seong sam-wi il-che u-ri ju-ro-da
ソン・サミ・イルチェ ウリ・チュ
聖三位一体の 我らが主
と、はっきり「聖三位一体」と言っています。
ふたつめの歌ですと、
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ちち み子 せいれいの 主なる神に
とあり、「父 み子 聖霊」「父なる神 子なるイエス 聖なる霊」の三つが一つ
である、三位一体の神だと歌っています。
私たちは、この歌を、一年間五十二週、毎週日曜の礼拝のたびに、最後に繰り返して、
三位一体の神を、私たちが信じていることを、確認し、告白し、讃美しているわけですね。
この歌も英語では、
to Father, Son, and Holy Ghost
ファーザー、父、サン、子、ホーリーゴースト、聖なる霊 とあります。
韓国語では、
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chan-yang seong-bu seong-ja
seong-ryang
sam-wi il-che sin-kke
チャンヤン ソンブ ソンチャ ソンリャン 称揚す 聖父 聖子 聖霊
サミ・イルチェ シン・ケ 三位一体の神に
と歌っています。
さて、今日は年の初めに、キリスト教の基本である
三位一体について、自分の証しをも交えて、お話ししたいと思います。
クリスチャンの信仰の長い方々には、今さらのお話かもしれませんが、
一年の初めに、あらためて、新たに、
根本について、確認することは、意味のあることだと思います。
この「三位一体」は、難しいとか、よくわからないということを、
キリスト教の信者でない方から、よくお聞きします。
実は、そういう私自身、クリスチャンでないうちはそうでしたし、
正直言いますと、バプテスマを受けてからも、時々、よくわからなくなったり、
あるいは、少し疑ってしまったことすら、ありました。
それは、どうしても、頭で、人間の理屈で、狭い智恵で、考えてしまうと、
納得がいかなくなってしまうことがあるからでしょう。
父と子と聖霊、三つのものが、三つでありながら、一つである。
1+1+1が、3でなくて、1になる。
単純に考えると、おかしいと思われるかもしれません。
ここでまず、私のささやかな証しを、お話ししてみたいと思います。
昨年の暮れの話になります。
ある日、私が、職場からの帰り、東武東上線の、朝霞台駅を通りかかりました。
毎日、この駅で乗り換えて、武蔵野線で通勤しています。
その日の夜、もう遅い時間でしたが、この朝霞台の駅前に、ある二人連れが立ってい
ました。こういうふうに、雑誌をふたつ高く掲げています。その雑誌には、
「目覚めよ」「ものみの塔」と書いてあります。
そうです、ご存じのように、エホバの証人の方々ですね。
正統のキリスト教からは、キリスト教の異端の一派とされています。
普通でしたら、敬遠して近づかないことでしょう。
でも、私はときどき、その雑誌を受け取ったりしてみます。
ただ、もらいっぱなしではなくて、その代わりに、うちの常盤台教会の案内ですとか、
催しのちらしですとか、かばんに入っているのを交換に渡して、
「よかったら、こちらにも、来てくださいね」
と言うようにしています。相手はちょっと、けげんな顔をしますけどね。
そういった人たちが、一人でも教会に来てくれたらいいな、と思うからです。
また、そればかりが目的ではなくて、私は受け取った雑誌をちょっと読んでみたり
することもあります。というのは、彼らは彼らなりに、よく聖書を読み込んでいて、
なかには、教えられることもあります。でも、サタンさえも、荒野のイエスを誘惑す
る時には、聖書を引用したくらいですから、その解釈には気を付けなくてはなりません。
その日、受け取った雑誌を開いてみると、
「三位一体の誤謬を正す」という記事が載っていました。
エホバの証人と、私たち正統とされるキリスト教の最も大きな違いは、彼らは
三位一体の神を信じてはいない、ということです。
エホバ神、と彼らは神の事を呼び、彼らの使う聖書にはそう記されています。そして
このエホバ神は、イエスではない、つまり、イエスは神の子ではなく、父なる神とは別の
ものだと考えているわけです。
これは、ユダヤ教やイスラム教でも、イエスは偉大な預言者ではあるが、しかし、
神ご自身ではないと、考えているわけですね。
私たちキリスト教の教えとは、違うわけです。
けれども、前に言いましたように、私自身が、この三位一体については、疑ってしまう
ことがありました。父なる神と子なるイエスは別と考えたほうが、人間の理屈ではわかり
やすいからです。この時も、ちょっと迷いかけて、雑誌を開いてみました。
すると、「私はある」と言うことのできるのは、エホバ神だけである、と見出しに書いて
あります。「私はある」という言葉は、ご存じのように、旧約の出エジプト記でモーセの
前に現れた神が、モーセから「あなたのなんと名前のいう神ですか」と尋ねられた時に
「私はある」という神である、と言ったという言葉ですね。
すなわち、世の初めからあり、今この現在もあり、未来にも永遠にある、全能の神、
ということでしょう。
そのように言える神は、エホバ神だけだと、彼らは言うのですね。
さて、この雑誌を少し開いて読みかけたまま、駅の階段を下りて、ホームに着きました。
すると、ホームで、電車が動かないで、止まっているんですね。それも、ふつうの止
まり方ではありません。ホームから、三分の一ほど発車しかけたところで、ぴたっと止
まっているんですね。何かまるで、見えないものの手で、止められているように。お客
さんも乗ったままで、ドアももちろん開いていません。
そうして、そのことについて、何の説明のアナウンスもないんかですね。
5分たっても、10分たってもそのままです。もう遅い時間でしたから、ホームには
あまり人がいませんでしたが、それにしても、何の案内のアナウンスもなくて、深夜の
ホームはしんと静まりかえったままなんですね。
私はふと、これは何か、神さまが私に示そうとしているんじゃないかな、と思いまし
た。私には時々、そういうことがあるんですね。
それで、私はその時、鞄の中からいつも持っている聖書を出して、お祈りして開きま
した。すると、ヨハネによる福音書13章でした。新共同訳聖書ですと、195ページです。
まず、こういう言葉が目に入りました。
「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」(21節)
「わたしのパンを食べているものが、わたしに逆らった」(18節)
これは、ユダの裏切りを戒める言葉ですね。
思わずはっとします。同じページに次のような言葉がありました。19節です。
事の起こる前に、今、言っておく。
事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
あなたがたが信じるようになるためである。(ヨハネ13:19)
ちょっとびっくりしました。事の起こるとは、ユダの裏切りとそれに続く復活ですが、
私にとって「事」とは、今、目の前で電車が止まっているという「事」に思えたのですね。
それから、「わたしはある」ということを、という言葉が、まさしく、エホバの証人の
雑誌に書かれていた言葉と、ぴたりと合うわけです。
「わたしはある」と言えるほんとうの神が、主イエスであったことを、あなたは、事が
起こった時に信じるだろう。
そのように、聖書を通して、イエス様は語ってくれているのだと感じました。
「わたしはある」という神、すなわち、主はイエスであるのだと。
三位一体を信ぜよと、主はおっしゃる。
私は、雑誌を読まずに捨てることにしました。
すると、そのとたんに、電車は何事も無かったかのように動き出したのです。
ほんとうに、すうっと、何の説明もないまま、動いて行ってしまったんですね。
なお、あとで調べてみたところ、ここの箇所は、新共同訳は今述べたような訳ですが、
口語訳では
そのことがまだ起こらない今のうちに、あなたがたに言っておく。
いよいよ事が起こった時に、私がそれであることを、あなたがたが信じるためである。
新改訳では、
わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。
そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
とあります。いずれも「私がそれである」「わたしがその人である」といった訳で、
新共同訳のように「わたしはある」というもの、神であるとはっきり訳してはいません。
ここを私に示していただいたことを、あらためて深く思います。
なお、韓国語の聖書を見てみますと、ここの訳は
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Ji-geum-pu-theo il-i i-ru-gi jeon-e
mi-ri neo-heui-e-ge i-reum-eun
il-i i-rul ttae-e nae-ga keu-in jul neo-heui-ro
mit-ke ha-ryeo hab-i-ro-ra.
今から事の起こる前にあらかじめおまえたちに言うのは
事が起こる時に、私がそれ(その人)であることを、おまえたちに信じさせようとするのだ。
と、やはり「それ(その人)であること」と、口語訳や新改訳と同様になっています。
新共同訳の「わたしはある」もの、という言い方は、言語のギリシャ語に近いもので、
「エイゴ・エイミー」文といい、神さまが自分を規定する表現だそうです。
さて、この話はまだ終わりではありません。続きがあります。
その次の日のことです。翌日の、出勤のバスの中でのことでした。
私は、よくこうした朝のひと時、聖書を開けて読んでみたりします。
その時に示される言葉は、不思議によく私の悩んでいることや、これから行うべきこ
とについて、はっきりしたアドバイスをくれることが多いのです。
で、その日は、昨日のこともありましたから、
「神さま、昨日はどうもありがとうございます。今日もこれから、何かみ言葉かあれば
お示しください。従いますから」
そう心の中でお祈りして、聖書を開けました。すると、こういう言葉が目に飛び込ん
できました。ヨハネの第一の手紙2章22節。新共同訳で、443ページですね。
偽り者とは、イエスがメシアであることを
否定する者でなくて、だれでありましょう。
御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。(ヨハネT2:22)
もう、昨夜のできごとに続いて、またこの言葉を与えられました。
わかりました、イエス様。と言いたくなりました。
信じざるを得ないな、という感じがしました。私が聖書の教えを信じ、またキリスト
教を信じるようになったのは、実は、こういうことが何回もあったからなんです。
頭で、理屈で考える限り、三位一体の教義は、矛盾だと思えてしまいます。でも、理
屈を超えたしるしを、いつも神さまはわたしに示してくださってきたのです。
ここも、韓国語訳で見ておきますと、
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Keo-jis-mal-ha-neun ja-ga nu-gu-nyo
Ye-su-kke-seo Keu-ri-seu-to-i-sim-eul pu-in(否認) ha-neun ja-ga
a-ni-nyo
A-beo-ji-wa a-deul-eul pu-in-ha-neun keu-ga
jeok-Keu-ri-seu-to-ni
偽り(うそ)を言う者はは誰か
イエスがキリストでいらっしゃることを否認するものではないか
父と子を否認するその人が、敵キリストなのだ。
ここでは「jeok Keu-ri-seu-to 敵キリスト」という言い方をしていますね。
英語だと、anti-Christ 、アンチ・キリストで、こちらのほうがわかりやすいかもしれません。
韓国のカトリック訳の聖書ですと、
Nu-ga ko-jis-mal jaeng-i-ib-ni-kka?
Ye-seu-kke-seo Keu-ri-seu-to-si-ra-neun geos-eul
pu-in-ha-neun sa-ram-i a-ni-kess-seub-ni-kka?
I-reon sa-ram-i kot Keu-ri-seu-to-eui jeog-i-myeo
a-beo-ji-wa a-deul-eul pu-in-ha-neun ja-ib-ni-da.
誰が偽り者(うそつき)ですか?
イエスがキリストでいらっしゃることを、否認する人ではありませんか?
そういう人がすなわち、キリストの敵であり、父と子を否認する者です。
と、もう少しわかりやすい言い方になっていますね。
でも、この話、ここで終わりではありません。
もうひとつ、まだ続きがあります。3回目ですね。
その日の帰り道のことでした。
帰る途中の武蔵野線の中で、私はかばんの底から一冊の手帳を取り出しました。その
手帳はずっと入れっぱなしになっていたんですが、五年前に使っていた手帳です。
私がこの教会でバプテスマを受けた年のものです。ときどき開けてみると、バプテスマを
受けたころの、心が熱く燃えていた自分がしのばれて、なつかしい思いのするものです。
その日はなにげなく、「五年前の今ごろって、自分は一体何をしたり考えたりしてい
たのかな」と思い、五年前のその日のページをふと開けてみました。
「三位一体」のお話
そう書いてあるではありませんか。ぎょっとしましたよ。
ちょうど、その頃いらした中田先生の説教を聞いたメモがそこに書いてあったんです。
キリスト教の教えで、変えてはならないものがあります。それが「三位一体」です。
これは正統と異端を分ける教理です。
1+1+1が、3にならずに、1となるという教えです。
「唯一の神であるのに、イエスが神であるとはどういうことか」
という人間的な判断で考えてしまいますが、それは「わかる」ことを重視しているから
です。しかし、「わからない」こともある。そこから真理を学んでいくのです。
「わからない」ことの中にも、全く意味不明なものと、私たちの理解の範囲を超えた
ものがあります。私たちの理解を超えたものだから、わからないこともあるのです。……
そのように、説教は続いていました。
アーメン、もちろん信じます、と思いました。
三度もはっきりと示されては、信じないわけにいくでしょうか?
……そして、手帳のメモは続きます。
「三位一体」という言葉はそのまま出てこないが、聖書の箇所からそのように理解で
きるところがある。そうして引用された箇所が、今日さきほど読んでいただいたところです。
もう一度、読んでみます。ヨハネの第一の手紙五章6節から。新共同訳446ページ。
イエス・キリストについての証し
この方は、水と血を通って来られた方、
イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血によって来られたのです。
そして、霊≠ヘこのことを証しする方です。
霊≠ヘ真理だからです。
証しするのは三者で、霊≠ニ水と血です。
この三者は一致しています。 (ヨハネT5:7,8)
この箇所について、先生のお話をベースに、私の解釈を交えてお話ししておきます。
霊と水と血の一致について、このみ言葉は述べています。
なぜ「霊と水と血」なのでしょうか。
まず、「霊」とは、神さまの霊が人となってこの世に来られたのが、イエスさまであ
るということです。イエスさまは、神ご自身だということです。
次に、「水」とは、何でしょうか。
主イエスは、水を通ってこられた、と言うのです。
これは、イエスさまがバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けたことを示して
います。私たちが、バプテスト教会でやるように、全身で水をくぐられた。
しかし、私たちの場合には、罪深きものですから、罪を悔い改めのためにバプテスマを
受けるわけですが、本来、神のみ子であるイエス様は罪を持たなかったのだから、罪の
悔い改めのバプテスマを受ける必要はなかったわけです。
現に、マタイの福音書3章にありますが、イエス様がヨハネにバプテスマを受けたい
とおっしゃった時に、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、こう言います。
イエスさま、とんでもありません。
「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのとこ
ろに来られたのですか」
そうすると、イエスさまはお答えになります。
「今は、止めないでほしい。正しいことをするのは、我々にふさわしいことです」
そうおっしゃって、強いて、水のバプテスマをお受けになった。
これは、本来罪のなかったイエスさまが、ヨハネから「水」のバプテスマを受けること
によって、我々と同じ人となられて、人々の罪を負われたのです。罪の悔い改めのな
い方が、水を通ることによって、世の罪をになわれ、罪人となって生きられたのです。
では、最後の「血」とは、なんでしょうか。申すまでもありません。
イエスさまは、十字架にかかって、十字架の上で「血」を流すことによって、背負っ
た人々の罪をあがなわれたのです。その身を捧げて、十字架で「血」を通ることによって、
聖霊の働きをとおして、救いのみわざをなしとげくださったのです。
ヨハネ福音書19章には、十字架にかかられたイエス様のわき腹を、兵士がやりでつ
いた時に、「すぐ血と水とが流れ出た」とあります。
そして「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あな
たがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」とあります。
その後、イエスさまは復活されることによって、聖霊として我々のうちに働くように
なりました。「私はいつまでもあなたがたとともにいる」とおっしゃったように、私た
ちと共に、聖霊となっていつもいっしょに働いてくださるようになったのです。
このように見てきますと、「霊」と水と血の一致ということが、わかります。
本来、「霊」である父なる神である方が、罪のない神である方が、「水」をくぐって
人の子となって来られ、私たちの人の罪を背負われ、「血」をくぐることによって、背
負った私たちの罪を、聖霊の働きによってつぐなってくださった、というわけです。
ゆえに、父なる神と、子なるイエスと、聖霊は、三位一体なのであると。
「霊」と水と血は、一致する。わかりやすい説明ではないかと思います。
現に初期のキリスト教会、3世紀から4世紀の教会では、このヨハネの手紙の箇所に、
「天において証しするものが三つあります。父と、言と、聖霊です(言葉というのは、
真理のことばである、イエスさまですね)。これらの三つは、一つです。
また、地において証しするものが、三つあります。霊≠ニ、水と、血です」
という説明を加えて、読まれ信じられていたそうです。
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A-deul-e kwan-han jeung-eon
I-neun mul-kwa phi-ro im-ha-sin ja-ni kot
Ye-su Keu-ri-seu-to-si-ra mul-lo-man a-ni-yo
mul-kwa phi-ro im-ha-syeoss-ko
jeung-geo ha-neun i-ga ses-i-ni
seo-ryeong-kwa mul-kwa phi-ra
tto-han i ses-i hap-ha-yeo ha-na-i-ni-ra
子に関する証し
これは水と血を通って来られた者であり、すなわち
イエス・キリストであられ、水だけでなく
水と血を通って来られたのであり、
証しするものは聖霊であられ、聖霊は真理なのだ。
証しするものは三つであり
聖霊と水と血なのであり、
さらにこの三つは合わさって一つなのだ。
とこのように、韓国語の聖書でも同様の説明となっています。
ただ、意外だったのは、カトリック用の聖書でして、次のようになっていました。
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A-deul-e kwan-han jeung-eon
Ha-neu-nim-eui a-deul-i in-gan-eu-ro o-syeo-seo
mul-lo se-rye-reul pad-eu-si-go su-nan-eui phi-reul
heul-li-syeoss-seub-ni-da.
Keu-bun-i pa-ro Keu-ri-seu-to i-sin Yu-su i-sib-ni-da.
Keu-bun-eun mul-lo se-rye-reul pad-eu-sin
geos-ppun-man a-ni-ra
se-rye-reul pad-eu-si-go su-nan-eui phi-do
heul-li-syeoss-seub-ni-da.
I-geos-eul jeung-eon-ha-sin-neun pun-eun
seon-ryeong-i-sib-ni-da.
Seong-ryeong-eun kot jin-ri-ib-ni-da.
Jeung-eon-ja-ga ses iss-seub-ni-da.
Kot seong-ryeong-kwa mul-kwa phi-in-de i
ses-eun seo-ro il-chi-hab-ni-da.
子に関する証し
神さまの子が人間として来られて
水で洗礼を受けられて、受難の血を流されたのです。
その方がまさにキリストであるイエスでいらっしゃいます。
その方は水で洗礼を受けられただけではなくて、
洗礼を受けられて、受難の血も流されたのです。
これを証しなさる方は聖霊でいらっしゃいます。
聖霊はすなわち真理なのです。
証するものが三つあります。
すなわち聖霊と水と血であり、この三つは互いに一致します。
とこのように、かなり具体的に詳しいのですね。
特に6節の、「水と血を通って来られた」「水だけでなく、血も通って来られた」というところが、
とても詳しく解説してあります。
「水」とは、「水で洗礼を受けられた」こと、「血」とは、「受難の血を流された」ことという解釈で
ややくどいほど繰り返して書いています。
これはわかりやすさから言えば、一番わかりやすい。リビングバイブルのように、かみくだいた
解釈をして、それを本文に書き込む形にしていますね。
けれども、以上お話したことはあくまで、人の知識による解釈です。
それを信じさせてくださるのは、聖霊の働きであると、今回の出来事で感じました。
聖霊が、信じにくかった私に働いて、信じられるようにしてくれたのだと思います。
さて、固い話が続いたので、最後にお正月らしく、映画の話でもしましょう。
お正月の冬休みや、春休み・夏休みににいろいろな映画が公開されますが、子供向け
の映画として、前からよく上映されているアニメが、「ドラえもん」です。
その中で、ここにひとつ絵がありますが、「ドラえもん 〜 のび太の創世日記」と
いうお話があります。最初これを見た時には、けしからん映画だと思いました。
どういうお話かというと、のび太が夏休みの宿題の自由研究のために、ドラえもんか
ら「創世セット」というのをもらうんです。「創世記」の「創世セット」ですね。
それで新しい宇宙の天地創造をして、その観察日記をつけるというんですね。
初めはこれは、けしからん、神さまを冒涜する話じゃないか、と思ったんですが、子
供といっしょに見ていたら、けっこうこれは聖書の神さまのことを、子供たちにもちょ
っと理解させてくれるお話かもしれないな、と思ったんですね。
というのは、新しい地球を造った後に、のび太が、「ちょっと様子を見に行こう」と
言って、小さくなって自分の造った地球に行くんですね。
そうすると、自分が地球を造ったのに、そこで人間たちが、神さまでもない木や石で
できた像を拝んでいる。
「ちょっと、ほんとに天地を造った神さまはぼくなのになあ」
と、そこでのび太はがっかりして、言うんですね。
それから、地球でまた戦争があったり、ろくなことをしていない人たちを見て、これは
いけない、なんとかしなくては、と人々の平和のために働くんですね。
それで、見ていて思ったんですよ。
これが、神さまがイエス様となって、人の子となって来られた理由じゃないかなと。
主が、万物を創造した主が、それから、われわれのところまで降りてきてくれたとい
うことなんですね。それは、自分の造った天地と、そこに住む自分が造った人間を愛し
ていたから。でも、人間は自分の思ったとおりにならずに、憎み合ったり争ったりしている。
それで、人間を救うために、人間の形となって来られたのではないか、と思うんです。
それでも、人間たちは、そのことを理解しないで、神さまでもないものを拝んでいたり、
せっかく来てくれた神さまに冷たくしたりしていた、ということではないでしようか。
えっと、もうひとつだけ、これはだれの言った話かちょっとよく覚えていないんです
が、こんな話を聞いたことがあります。
ある時に、農夫が、野原の中に家に住んでいると、鳥たちがやってきた。その鳥たち
が、渡り鳥でまっすぐ飛んでいたのでしょうか、それとも、物音に驚きでもしたのでしょうか、
窓に当たっては落ちていく、というんですね。
血だらけになって、窓に当たっては、それでも、ガラスの窓がそこにあるとわからな
くて、ぶち当たっては落ちていく。その時に、農夫が、いくら言葉で「こちらには来る
な」と言っても、鳥たちには通じないし、気づかれない。
それでも、なんとか農夫は、その小鳥たちを助けてやりたい。しまいには、農夫は窓
ガラスを打ち破って、血を流しながら、鳥たちを助けてやった。
そこで、農夫は、「ああ、自分が小鳥になることができたら、鳥たちに鳥の言葉で語
りかけて、正しい道を教えてやれるんだがなあ。」と思った。
その時ふと、農夫は、なぜ、イエスさまが、この世に人となって来られたか、その理由
がよくわかるようになった、と言うお話です。
前に藤井先生に聞いたことがあります。
この世を造った全能の神さまがいらっしゃるということはわかるんですが、その方が、
イエスさまとなって、人の子の姿をして来られたということが、よくわからないんです。
ユダヤ教やイスラム教のほうが、その点はわかりやすいんですけど、と。
そうしたら、先生は言いました。
でもね。ユダヤ教やイスラム教の神さまでは、神と人との距離が離れすぎているんだ。
神がまったく人の手の届かないところにいる。しかし、キリスト教の神さまは、私たち、
人間を深く愛するがために、この世まで降りてきてくれたんだよ、と。
今は、私は、そうだと信じています。そして、キリスト教の三位一体というのは、本当に
すばらしい、ありがたい教えだなと思っています。
毎週日曜 am10:30〜 主日礼拝 pm4:00〜 夕礼拝
毎週水曜 pm7:00〜 祈祷会 第一日曜 pm1:00〜 ウェルカム・サンデー
常盤台バプテスト教会/174-0071 東京都板橋区常盤台2-3-3
東武東上線・常盤台駅北口・歩3分/TEL
03−3960−0449