日韓対訳で読む聖書

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(15) 人は餅だけでは生きない

日韓対訳で読む聖書
  第15回/ 人は餅だけでは生きない     
   2008.1.1. 元日 

 新年あけましておめでとうございます。
 みなさん、お正月にはおせち料理を召し上がるでしょうか。
 おせちは食べなくても、おもちは一度くらいは食べる方が多いのではないかしら。
 そこで、今日は、聖書からお餅のお話です。

 聖書に次のような、有名な言葉があります。
 あまり聖書を読まない方でも、ご存知なのではないかしら。

 人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
(マタイ4:4)


 これは、新約のマタイ4章4節にある言葉ですが、旧約の申命記8章3節にも同じ言葉があって、その引用です。
 意味はおわかりですよね。
 人はパン、物質的なものが満たされていれば、生きられるというものではない。
 神の言葉、そういう精神的なものがなければ、生きられないということです。

 今の日本は、不景気とはいえ、ほんとに飢え死にする人は少ないでしょう。いや、世界で見れば、アメリカや欧米と並んで、最も豊かな国のひとつだと思います。
 ところが、自殺する人が年間で三万人もいます。中高年のリストラといった経済的な理由ばかりでなく、最近は若い人の自殺も増えていて、精神的な悩みがその大きな理由のようです。

 飽食の時代とかつて言われ、豊かさとは何かと問われた時代がありました。
 戦争や飢饉の国では、自殺率は少ないと言います。その日その日を生きることに精一杯だからでしょう。
 日本は豊かになって、かえって生きがいを見失ってしまった人が多いのかもしれません。
 マザーテレサは日本に来た時に、日本には精神的に飢えた人が多いかもしれないと言ったそうですね。

 さて、正月から堅苦しい説教みたいな話になってしまい、すみません。
 今日、この箇所を取り上げたのは、韓国語の聖書を見ると、ここが次のような表現になっていることに、興味を覚えたからなんです。

 改訳改訂版

 Sa-ram-i  tteog-eu-ro-man  sal  geos-i  a-ni-yo.
  Ha-na-nim-eui  ib-eu-ro-pu-theo  na-o-neun
  mo-deun  mal-sseum-eu-ro  sal  geos-i-ra.

 試訳(直訳)

 人は餅だけで生きるものではない。
 神の口から出るすべてのみ言葉で生きるものだ。

 え〜、なんで、「tteok 餅」なの、と驚きました。
 英訳を見ると、「bread パン」になっています。
 ギリシャ語の原典にあたってみると、「αρτos アルトス」で、「bread, loaf, food」の意とあります。

 「パン」だと洋食でなじみがないから、韓国風に「餅」に替えたのでしょうか。
 でも、それなら、「pap 飯」とか「ssal  米」にしそうなもの。だって、韓国の主食は日本と同じ、炊いた白米の御飯であって、毎日「餅」を食っているわけではないから。「餅」を食うのは、やはり正月とかお祝いの時とか、あるいはお菓子とかであって、ふつうにたべるのは、やっぱり御飯です。

 人は飯だけで生きるものではない。

 これなら普通ですが、なぜわざわざ、「餅」にしているの?
 その謎は、この箇所のお話を、最初から読むとわかるのです。マタイ4章の最初から。

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊≠ノ導かれて、荒れ野に行かれた。
 そして、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 (マタイ4:1-3)

 有名な、荒野での誘惑の場面ですね。
 ここを、韓国語訳で見てみるとこのようになっています。

改訳改訂版

 Keu  ttae-e  Ye-su-kke-seo  Seong-ryeong-e-ge  i-kkeul-li-eo
ma-gwi-e-ge  si-heom-eul  pad-eu-reo  kwang-ya-ro  ka-sa.
  Sa-sip  il-eul  pam-naj-eu-ro  keum-sik-ha-sin  hu-e  ju-ri-sin-ji-ra.
  Si-heom-ha-neun  ja-ga  Ye-su-kke  na-a-wa-seo  i-reu-doe
"Nae-ga  man-il  Ha-na-nim-eui  A-deul-i-eo-deun  myeong-ha-yeo
i  dol-deul-lo  tteok-deong-i-ga  toe-ge  ha-ra.

試訳(直訳)

 その時、イエスさまは、聖霊に導かれて、魔鬼に試験を受けるため、荒野に行かれて、
 四十日を夜も昼も断食された後に、飢えられたという。
 試験する者が、イエスさまのところにやって来て、次のように言ったが、
 「おまえが万一、神さまの子であるなら、命じて

 これらの石ころを、餅の塊になるようにしろ」


  どうですか。このようにひと続きのお話としてみると、よくわかりますね。
 つまり、悪魔は試練を与えるときに、
 「石ころを、餅の固まりにしてみろ」
と言ったのです。わざわざ、「石の塊 tteok-deong-i」と、「deong-i 塊」をつけているくらいです。

 イメージとして、とてもわかりやすい訳だな、と感心します。
 「パンにしてみろ」で、読む人はどのようなパンを思い浮かべるでしょうか。「食パン」とか「クロワッサン」みたいなものを連想しては、よくわからないんです。
 ここは、かちかちの、本場のフランスパンみたいな、皮の固い、一ヶ月でも日持しそうな、そう、まさに石ころみたいなパンを連想しなくてはいけないんです。
 そうであってこそ、「石ころ」が、「パンの塊」になる、というイメージがよくわかる。

 で、もし韓国風や日本風にするとしても、「米にしろ」や「飯にしろ」じゃ、よくわからん。
 もし、砂漠の「砂」を、生の「米」にしろ、ならまだわかりますけどね。
 この場面は、砂漠です。砂とか、石ころしかないんですね。

 そこで、「石を餅の固まりに替えてみろ」と言った。
 これ、私はなかなかの名訳だなあと思いますよ。

 最近は、お餅もスーパーでビニールパックのものが買えるようになりました。
 でも、私が子供のころなんかは、まだ、餅屋さんから買っていましたよ。その餅が、大きくて平たい板みたいな餅なんですが、これが堅い、堅い。まるで、石みたいです。
 まな板の上に乗せて、中華料理屋で使うようなでかい包丁で、がんがんたたくようにして切るのですけど、これがなかなか歯が立たないほど。母の近くで見ていて、指を詰めないかとハラハラしたものです。
 で、お鏡餅も、最近はパックになって、飾ったあとはすぐに食べられるようになっていますが、昔の鏡餅は堅かった。そのうえ何日か飾っておくと、水分が飛んで、ますます堅くなって、アオカビまで生えてたりして……(笑)
 それを、鏡開きの時に、包丁で割って、お汁粉にして食ったもんですが、これがまた切れないことといったら……

 そんなイメージで、この「石を餅に替えてみろ」を読むと、ほんとによく感じが伝わってくる。
 イエスさまも、人間として生まれたのです。四十日の空腹です。腹が減ってしかたない。
 砂漠に転がっている石ころさえ、餅の塊に見えてくるんですよね……わかるなあ。

 さて、この「石」と「餅」のイメージ、もう一箇所、聖書から興味深い箇所をとりあげてみます。
 まず、日本語の訳のほうから。

  あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
  魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
(マタイ7:10)

 有名な、「求めよ、さらば与えられん」の箇所の続きのところです。
 父なる神さまは、子どもである私たちの願いの祈りを、聞き届けてくださる方。
 求めなさい、そうすれば、それは与えられるだろう。その続きです。

 パンをほしがるのに、石を与えるなんてことを、自分の子供にするだろうか。
 もう、おわかりですね。ここの「パン」の代わりに「石」を与える、というイメージ。
 韓国語を見てみると、予想通りの訳で、ついうれしくなってきます。

改訳改訂版

  Neo-heui  jung-e  nu-ga  a-deul-i  tteog-eul  tal-la  ha-neun-de  tol-eul  ju-myeo
  saeng-seon-eul  tal-la  ha-neun-de  paem-eul  jul  sa-ram-i  iss-kess-neu-nya.


試訳(直訳)

  おまえたちのなかで、誰が、息子が餅をくれと言うのに石を与えたり、
  魚をくれというのに、蛇を与える人がいるだろうか。


 イメージがわいてきますね。
 「お父さん、お餅ちょうだい」「はい」「わ〜い」
 と喜んで、餅にかじりつくと、がりっ、
 「痛いっ、これ、餅そっくりだけど、石じゃないの」
 たちの悪いいたずらになってしまいます。
 でも、これが普通の「パン」なら、だまされないでしょう?
 石ころそっくりの餅だから、だまされもするというものです。

 今のはマタイからの引用でしたが、この言葉は、ルカの福音書にもあります。
 そこでは、細かい単語が違っているので、ちょっと比べてみましょう。まず日本語訳。

  あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
  また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
(ルカ11:11〜12)  


 ここでは、パンが出てきませんね。「卵」と「さそり」になっています。
 念のため、韓国語訳のほうも見ておきましょう。

 改訳改訂版

 Neo-heui  jung-e  a-beo-ji  toen  ja-ro-seo  nu-ga
a-deul-i  saeng-seon-eul  tal-la  ha-neun-de
saeng-seon  tae-sin-e  paem-eul  ju-myeo
al-eul  tal-la  ha-neun-de  jeon-gal-eul  ju-gess-neu-nya.

試訳(直訳)

 おまえたちの中で、父となる者でありながら、誰が
息子が魚をくれというのに、魚の代わりに蛇を与えたり、
卵をくれというのに、さそりを与えたりするだろうか。


 ここでもやはり、「al  卵」と「jeon-gal (全蠍) さそり」になっていて、そのままの訳です。
 なお、「卵」は「玉子焼き」とか「卵型」というように使うときは、ふつう「kye-ran  鶏卵」という語を使いますが、ここは、鳥や魚や虫など含めた、一般的な意味の「al  卵」を使っていますね。

 さて、ここで実はもうひとつ、素朴な疑問があります。
 「パン」と「石ころ」が似ていることはわかったのですが、他の組み合わせはどうでしょうか。
 「魚」と「蛇」。う〜ん、まあ、うなぎやどじょうみたいな魚もいるし、魚類と爬虫類ですがどちらもうろこがあってぬるぬるしていて似ているところはあるかもしれません。
 でも、「卵」と「さそり」って、似ていますか? 全然、形が違いませんか? 卵がかえって、さそりになるということ? それもちょっと違うような気がしますが……

 この謎が解けたのは、あるテレビ番組を見ていて。
 「ハーベストタイム」といって、ご存知の方も多いと思いますが、聖書の言葉を福音的に解釈して説明してくれる、良心的な番組です。そこでいつも解説をしている中川牧師が、ここを説明してくれました。

 「ここの砂漠地方にいる蠍はね、丸い形にちぢまっていて、それが砂埃をかぶっていて白い色で、まるで卵そっくりなんですよ」
 あっ、と思いましたね。なるほど。
 やはり、聖書のこの言葉は、似たものを取り合わせているんです。先生の解説によれば、
 「ここのガリラヤの海では、海蛇みたいな形の魚がとれましてね、だから、蛇と比べているんですよ」
 わあ、ますます、納得です。さすが、信仰のある観光客を引き連れてイスラエル旅行のガイドまでしている、先生だけのことはある。よくご存知です。

 そういう目で、「餅」と「石」を見ると、「魚」と「蛇」、「卵」と「蠍」同様、似ていますね。
 でも、そうしたうんちくの知識だけでは、この言葉のほんとの深みはわからない。
 先生がその後に、付け加えた解説に、深くうなずく思いがしました。
 「父なる神さまは、望むものは与えてくださる。
 魚をくれ、と言って、蠍を与えるような方ではない。でもね……
 蠍をくれ、と言っても、蠍はくれない方です。魚を望まなくてはならない」

 目からうろこの落ちる思いでした。
 「求めよ。そうすれば、与えられる」
 といっても、なんでもかんでも与えられるわけではないんです。
 働くのが嫌になったから、宝くじで一億円当ててくれ。馬券で大穴当ててくれ。
 そんな自分勝手な願いは、かないません。
 石ではなくて、パンを、餅を、日ごとの糧を与えてください、と願わなくてはならない。
 それが、神さまの恵みと、悪魔の誘惑と、違うところだと思います。 

 さて、お話はこのくらいにして、またお雑煮でもいただきましょうか。
 焼き餅もいいけど、私はお雑煮がとても好きで……あ、では失礼。
 今年一年、良いお年でありますように。餅のように、粘り強くがんばりましょう。

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