日韓対訳で読む聖書

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(2) 若者たちは「幻」を見る

【新連載】 日韓対訳で読む聖書
  第2回 / 「若者たちは『幻』を見る」
   2002.1.14.

 成人の日ですね。
 昔は15日と決まっていたのですが、最近は日曜に付属している感じです。
 成人式のマナーの乱れが取りざたされていますが、式をすること自体は、
成人の社会への門出を祝い、将来の夢を考える意味で良いと思います。
 かくいう小生は、二回目の成人式を受けるほど年をとってしまいましたが、
若い人たちの元気な姿を見るのは、なかなか心地よいものです。
 女性の晴れ着姿は、お正月の延長のようで華やかすね。しかし、世界では
さまざまなできごとがあり、先行きが明るいことばかりではないようです。

 さて、今日は、「使徒行伝」2章17節から。
 イエス・キリストが復活して天に挙げられ、後に残された弟子たちに
聖霊が降る、という場面で、語られている言葉です。

  神がこう仰せになる。終わりの時には、
  わたしの霊をすべての人に注ごう。
  そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、
  若者たちは幻を見、
  老人たちは夢を見るであろう。

 「終わりの時」とは、いつでしょうか。遠い将来でしょうか。
 戦争や不況、環境汚染、その時はもう来ているのかもしれません。
 聖書的には、キリストが昇天した後の時代ということになるようです。

 主は、「終わりの時」に、聖霊を人々に注がれると言います。
 そして、むすこや娘が「預言」をし、若い人たちが「幻」を見、
老人が「夢」を見ると言うのです。来るべき新しい世界について、
主が人々を通じて、語りかけられるということでしょう。
 さて、ここで気になったのは「幻」という言葉です。
 みなさんのふつうの日本語の感覚で、この語感はいかがでしょうか。
 「夢」とどう違うでしょうか。
 たぶん「夢」のほうが語感がいいと思います。「夢を持つ」「夢見る乙女」
「夢のようなできごと」というと、大体、良い夢ではないでしょうか。
 しかし「幻」というと、日常的には、あまり語感が良くないと思います。
 「計画は幻に終わった」「人生五十年、夢まぼろしのごとくなり」と、
蜃気楼のように、はかないもの、仮の錯覚という感じがするでしょう。
 ところが、聖書の「幻」は、明らかに良い意味に使われています。

 うちのバプテスト派の教会で、「バプテスト」という月刊誌を出しています。
 記事の中で、、全国各地の教会を順番に紹介していく連載があります。そこに
各教会ごとに「教会の幻」という項目があります。読んでみると、それぞれの
教会の今後の目標や計画、といった内容が書いてあります。
 これは明らかに、積極的な意味で使われている用法です。
 聖書でも、新約・旧約ともに、預言者や聖徒・信者などが「幻」を見たという
話がよく出てきます。これも、神から与えられた今後の将来像という内容の、
良い幻が多いのですね。

 例えば、使徒行伝で見ると、アナニヤに幻が現れて、キリスト教を迫害して
いたパウロのもとに行き洗礼して改宗させるようにという「幻」が降ります。
その後、パウロは誰よりも熱心な布教を始めます。
 また、ペテロは、それまでのユダヤ教のさまざまな食物のタブーに対して、
何を食べても良いという意味の「幻」を見ます。
 ステファノは、天が開けて、キリストが主の右に座っていらっしゃると言う
「幻」を見て語ったために、反対派によって石打の刑にされます。
 その他、旧約では、主が預言者たちに直接語りかけて「幻」を見せることが
しばしば見られます。

 このように聖書では「幻」は明らかに良い意味です。
 英語の訳を見てみますと、「vision」となっています。
 なるほど、「ビジョン」なら、日本語にも外来語として入っていますから、
そのまま使えますし、良い意味で使われることが多いですね。
 「会社経営の方針についてのビジョン」「将来のビジョンをもって努力する」
というふうに、はっきりした未来像、という語感で使われますね。
 最近は、「ハイ・ビジョン」が普及して、「ビジュアル」な映像も増えてきま
したが、高級感さえあることばです。
 もともと、日本語では、外来語が舶来のものというイメージのせいか、良い
語感があり、そのため、外来語が増えていることは周知の事実です。ただし、
聖書で「ビジョン」などと外来語を使うと、どうも収まりが悪いでしょう。
 「そこで、ペテロは、将来のビジョンを見た」なんて訳すと、どうも会社の
経営者か何かのようで、あまり宗教的でないように感じます。
 では、この言葉は、韓国語では一体どのように訳されているでしょうか。

Ha-na-nim-i ka-ra-sa-dae,
 ハナニミ・カラサデ
Mal-se-e nae-ga nae yeong-eu-ro mo-deun yuk-che-e-ge pu-eo ju-ri-ni
 マルセエ・ネガ・ネ・ヨンウロ・モドゥン・ユクチェエゲ・プオ・ジュリニ
Neo-heui-eui ja-nyeo-deul-eun ye-eon-hal geos-i-yo
 ノエエ・チャニョドゥルン・ヨオナル・ゴシヨ
Neo-heui-eui jeolm-eun-i-deul-eun hwan-sang-eul po-go
 ノエエ・チョルムニドゥルン・ファンサンウル・ポゴ
Neo-heui-eui neulg-eun-i-deul-eun kkum-eul kku-ri-ra.
 ノエエ・ヌルグニドゥルン・クムル・クリラ。

(直訳)
 主のたまわく、
 末世に私は私の霊をすべての肉体に注いでやるから、
 おまえたちの息子むすめたちは預言することだろう、
 おまえたちの若者たちは幻象を見、
 おまえたちの老人たちは夢を見るだろう。

 「終わりの時」は「末世」と訳されています。「世も末だ」と言い、仏教
では「末法」の世と言いますが、それに近いかもしれません。

 ここでは、「幻」ではなく、「幻象」という言葉を使っています。
 この語は、韓国語読みでは「ファンサン」。これは「幻想」という
言葉と、発音は同じになります。最近の韓国の文書は全てハングルで
書いてあるものが多いので、「幻想」ととってしまう人もいるでしょう。
 「幻想」は、某韓日辞書によれば、「ファンタジー」となっていて、
これだとあまり違和感なくとれます。
 しかし「幻想」のままだと、語感としてはどうでしょうか。
 「幻覚」「幻影」など、やはりあまり良い意味ではないようです。
 聖書の積極的な意味は出てきません。
 ちなみに日本語の「まぼろし」にそのまま当たる、韓国の固有の
単語はないようです。

 さて、この使徒行伝の神の言葉の前に、こういう一節があります。
 「これは預言者ヨエルが預言していたことに他ならない」
 新約では、これこれのできごとは、旧約のこれこれのできごとの預言の
成就である、といった考え方、書き方がよく見られます。
 それでは、その元の箇所を、旧約のヨエル書から見てみましょう。

  その後わたしはわが霊を
  すべての肉なる者に注ぐ。
  あなたがたのむすこ、娘は預言をし、
  あなたがたの老人たちは夢を見、
  あなたがたの若者たちは幻を見る。  (ヨエル書2:28)

 老人と若者の順番が逆になっているなど、細かい相違はありますが、
ほとんどそのままの言葉でしょう。これを韓国語訳で見てみます。

Keu-hu-e nae-ga nae sin-eul man-min-e-ge pu-eo ju-ri-ni
Neo-heui ja-nyeo-deul-i jang-rae il-eul mal-hal geos-i-myeo
Neo-heui neulg-eun-i-neun kkum-eul kku-myeo
Neo-heui jeolm-eun-i-neun i-sang-eul pol geos-i-myeo ...

(直訳)
 その後、私が私の霊(神)を、万民に注いでやると、
 おまえたちのむすこ娘たちが将来のことを話すであろうし、
 おまえたちの老人は夢を見、
 おまえたちの若者は異象を見るであろうし……

 ここでは、「異象 i-sang / イサン」という言葉が使われています。
 「幻象」と「異象」は、どのように違うのでしょうか。「象」は「像」
に通じ、「印象」「心象」などに見られるように、心の中の像、イメージ
ということです。これは共通ですが「幻」と「異」が違う。
 「幻」は「まぼろし」で仮のものという感じですが、「異」だと「こと
なる」ということで、普通と違う、非日常的という点が強調されます。
 すでに述べたように、「幻」というのは良いイメージで使われています。
決して、一時の錯覚ではなく、神様から与えられたメッセージです。仮の
ものではなく、確かな内容を含んでいます。
 ですからここは「異象」を使い、神秘的なビジョン、という意味を
持たせるのが、良い訳だと思います。

 ただ問題は、漢字語だと、音が紛らわしいということです。
 耳で「いしょう」と聞くと、「衣装」とか「異称」を思い浮かべ、
普通の会話で「異象」という語はまず使わないでしょう。
 韓国語でも「異象 / イサン」は、「異常」と同じ発音なので、混同する人
がいるかもしれません。ハングルで書くとなおさらでしょう。
 この点、イメージとかビジョンといった外来語は、耳で聞いて紛らわしく
ないという長所があります。
 漢字語の多さと、耳で聞いたわかりにくさというのは、日本語や韓国語
に共通する問題点だと申せましょう。

 しかし、面白いのは、日本語の口語訳では、新約も旧訳も「幻」を使って
いるのに、韓国版では、新約が「幻象」、旧約が「異象」と違うことです。
 日本語の他の訳ではどうなっているでしょうか。
 新改訳も、新共同訳も、この箇所は大して変わらない。
 それでは、文語訳はどうか、と調べてみて、驚きました。

  神いひ給はく、末の世に至りて、我が霊を凡ての人に注がん。
  汝らの子女(むすこむすめ)は預言し、
  汝らの若者は幻影(まぼろし)を見、
  なんぢらの老人(としより)は夢を見るべし。  (使徒行伝2:17)

  その後われ吾霊(わがみたま)を一切(すべて)の人に注がん
  汝らの男子(むすこ)女子(むすめ)は預言せん
  汝らの老たる人は夢を見
  汝らの少(わか)き人は異象(まぼろし)を見ん  (ヨエル2:28)

 ここでは明らかに、二つの言葉は違う訳になっています。
 「幻影」「異象」と、違うのですね。ところが、どちらもルビは
「まぼろし」となっています。この他の言葉でも、同じ読みなのに、
漢字が違うという例が、いくつか見られますね。例えば、同じ「むすこ
むすめ」でも、「子女」と書いたり「男子女子」と書いたりしています。
 ここが、ルビの面白いところです。文語訳では、すべての漢字に
ルビ、すなわち、ふりがなが付いています。昔の本ではよくこういう
ものがあり、子どもたちの漢字の読みのお勉強になったものです。
 .ルビは、耳で聞いてわかりにくい漢字の意味を説明的に説くために
使われることが多く、この場合もうまい使い方だと感心します。
 ところが、口語訳では、「幻影」も「異象」も、どちらも「まぼろし」
だから、漢字で「幻」としてしまえばいいだろう、と考えて、実際に
そうしてしまったのでしょう。だから区別がなくなってしまいました。
これが、新改訳以降も受け継がれているというわけでしょう。
 「幻影」はともかく「異象」は残しても良かったかもしれません。

 ここでふと考えつきました。
 もしかして、「異象」は中国語訳から来ているのかもしれません。
 というのは、日本の文語訳は、中国語訳をもとにしていると言われて
いるからです。そのため、用語にその影響が残っています。
 例えば、「福音書」と言いますが、この「福音」という言葉はもともと
中国語で、「よろこばしい知らせ」という意味です。
 調べてみると、果たせるかな、でした。以下、香港版の聖書から。

 「神説、在末後的日子、我要将我的霊澆灌凡有血気的
  尓們的児女要説預言、尓們的老年人要作異夢、少年人要見異象」
                           (使徒行伝)
 「以後、我要将我的霊澆灌凡有血気的
  尓們的児女要説預言、尓們的少年人要見異象、老年人要作異夢」
                           (約珥書)
 旧約も新約も、ほとんど全く同文です。
 「異象」が使われています。ちなみに、「夢」もただの夢ではなくて、
「異夢」と表記され、「異象」と同じ類のものだと明記されています。
 これで、ひとつの謎が解けました。


正教会版「新約」

 その後ふと、正教会版の「新約聖書」を開いてみました。これは、
札幌のハリストス正教会に行った時に、お土産に買ってきたものです。
1861年に来日した、聖ニコライが訳したものだそうです。

 主曰く、末の日に於て、我は我が神(しん)を以て、凡その肉体に注がん。
 爾等(なんじら)の子女は預言し、爾等の少き者は異象(いしょう)を見、
 爾等の老いたる者は夢の兆を見ん。       (聖使徒行実)

 なんと、「異象」が使われ、しかもルビも「いしょう」になっています。
 これが、元に一番忠実な訳かもしれません。
 思うに、文語訳も正教会訳も、今では古い訳と思われていますが、
文章の格調の高さのみならず、こうした用語の適切さにおいても、
まだまだ参考とすべき点が多いのではないでしょうか。

 なお、もうひとつこの正教会訳で気になるのは、「神」です。
 ここでは、「かみ」ではなく「しん」と読ませています。これは、
主の神様ではなくて、神霊、聖霊という意味で使われているのでしょう。
 この箇所は、文語訳でも口語訳でも「霊」が使われているのですが、
なぜか、韓国語の旧約のほうにだけ同様に「神/sin」が使われています。
 この一致は何を示すのか。あるいは、両者の訳が、より古い形の
中国訳テキストからとられているのかもしれない、と思います。
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 さて、最後にもうひとつ、他の興味深い箇所について見ておきます。
 口語訳の「使徒行伝」には「幻」が計11回出てきますが、もう1か所、
新約で「幻」という訳が出てくる箇所があります。
 それは、「コロサイ人への手紙」2章18節です。

 「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、
いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いに
よっていたずらに誇るだけで」

 ここの箇所は、新改訳も新共同訳も同様です。しかし、韓国語訳を見ると、

" Nu-gu-deun-ji il-bu-ro kyeom-son-ham-gwa cheon-sa sung-bae-ham-eul 
 in-ha-yeo neo-heui sang-eul ppae-as-ji mos-ha-ge ha-ra.
Jeo-ga keu bon gos-eul eui-ji-ha-yeo keu yuk-che-eui ma-eum-eul
 joch-a heos-doe-i kwa-jang-ha-go "

(直訳)
 「だれでも、わざと謙遜することと、天使崇拝することによって、
 あなたたちのほうびを奪われないようにしなさい。
 自分がその見たことに頼り、その肉体の思いに従ってむなしく誇張し」

 とあり、「見たことに頼り」となって、「幻象」とは訳されていません。
 同様に、中国語訳でも、
  「拘泥在所見過的」 (見たことに拘泥し)
 とあり、「異象」は使われていません。
 文語訳でも「見し所のものに基き」となっています。

 さらに正教会訳に至っては、「未だ見ざる事を窺い」となり、
まだ見ていないことになっています。
 NKJ(英語の文語訳)を見てみますと、同様に、
 intruding into those things which he has not seen
  (見ていないものを押しつけ)
 となり、「見ていない」という訳です。ただ、TEV(英語の口語訳)では、
 because of special visions  (ビジョンによって)
 と、"visions" を使ってしまっています。

 このように比較してみたのは、大切なことがあるからです。
というのは、この「コロサイ人への手紙」で、批判されている人たちは、
ちゃんと見てもいないものを見たと思いこみ、言い張るからなのです。
 つまり、彼らは「異象」など、見てはいない人たちなのです。
 「異象」というのは、今まで見てきてわかるように、はかない一時の
錯覚などではなくて、神から与えられた明確な将来像なのです。
 使徒行伝で使徒が与えられたものは、正しい「異象」でしたが、
偽りを言う人たちは、違うのです。
 それなのに、どちらも「幻」と訳してしまうことは、そのもともと
持っている悪い語感からしても、誤解を招きかねません。
 やはりここでも、古い訳のほうが、そうした教義的な区別をきちんと
しています。新しい訳は、わかりやすさをねらった訳の結果なのか、
根本的なところを混同させる危険性を持っていると言えましょう。
 韓国語訳が、その点を区別しているのは、さすがですね。

 さて、「幻」にひかれて、話がつい長くなってしました。
 みなさんは、新年、成人の日に、何か「幻」をお持ちですか。
 消えてしまう、はかない夢まぼろしではなく、将来に対する明確な
ビジョンをもって、過ごしていきたいですね。それが自分だけの思い
こみではなくて、天から示されたものであれば、なお結構でしょう。
 それでは、みなさんのご多幸をお祈りして。

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