日韓対訳で読む聖書

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(3) 耐えられないような試練

【新連載】 日韓対訳で読む聖書
  第3回 / 「耐えられないような試練」
    2002.2.4.  立春

 1週間前の月曜の未明に、義母がなくなりました。肺ガンでした。
本人も死を覚悟していたようで、あとで遺書が見つかりました。
木曜に告別式を済ませました。
 教会員の友人でも、家族が、あるいは本人がガンにかかった
人がいます。そんな時は、みんなでお祈りを捧げています。これは
人生の試練と呼ぶべきことでしょう。

 「試練」について、今日は見てみたいと思います。
 コリント人への第一の手紙 第十章十三節から。

  あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。
  神は真実である。
  あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、
  試錬と同時に、それに耐えられるように、
  のがれる道も備えて下さるのである。 
  (口語訳)

 クリスチャンになったら、病気にかからないでしょうか。怪我もしないで
しょうか。お金がもうかるでしょうか。人にもほめられるでしょうか。
 いや、クリスチャンでも病気になることも、事故に遭うこともあるで
しょう。お金をなくしたり、人にけなされたりもするでしょう。
 旧約に「ヨブ記」という話があります。敬虔な信仰を持つヨブという
人物が、神のみ試しにより、さまざまな困難に遭います。しかし、信仰
を失うことなく、ついには神に義を認められ、前にも優る恵みを受けます。

 この「試錬」ですが、他の邦訳ではどのようになっているでしょうか。
 新改訳や新共同訳では「試練」で、「練」の字が違うだけです。バルバロ
訳やフランシスコ会訳など、カトリック系の訳でもそうなっています。
 ただし、最近出た回復訳(Living Stream Ministry発行)では、次のように
なっていました。


回復訳「聖書」

  あなたがたに臨んだ試みで、人の常でないものはありません。
  神は信実であって、
  あなたがたが耐えられないような試みに遭うことを許されません。
  むしろ、あなたがたがそれに耐えることができるようにと、
  その試みと共に、逃れる道をも備えてくださいます。

 この「試み」という訳のほうが、神様が我々の信仰を「試み」られている
のだ、ということが明確にわかって、良いでしょう。
 主の与える災いは、ほんとうに逃げ道のない絶望では、決してありません。
我々を見放した懲罰ではなくて、我々を「試み」られているだけです。
 コリント人への手紙の言葉を読むと、それがわかって勇気が出ます。
ちょっとした病気にかかったり、なにか障害があったりすると、人はすぐに
意気消沈してしまいがちなものです。
 主により頼み、あきらめなければ、きっと活路は開けるでしょう。

 なお、文語訳ではここはこうなっています。

  汝らが遭ひし試煉(こころみ)は人の常ならぬはなし。
  神は眞實(まこと)なれば、
  汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。
  汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁るべき道を備へ給はん。

 相変わらず、格調の高い訳です。
 「試煉」と書いて、「こころみ」といつものようにルビをふってわかりやすく
しているのが、すばらしいですね。正教会版も、同様でした。

 さて、では、韓国語訳で見てみましょう。

 Sa-ram-i kam-dang-hal si-heom-pakk-e-neun 
  neo-heui-e-ge tang-han geos-i eops-na-ni
O-jik Ha-na-nim-eun mi-ppeu-sa
 neo-heui-ga kam-dang-chi mos-hal si-heom tang-ham-eul
  heo-rak-ji a-ni-ha-si-go
si-heom tang-hal jeu-eum-e tto-han phi-hal kil-eul nae-sa
neo-heui-ro neug-hi kam-dang(堪當)ha-ge ha-si-neu-ni-ra.
(試訳)
 人が耐えるだろう試験の外には、おまえたちは遭うことがないものだ。
 ひとえに神は頼もしくいらして
 おまえたちが耐えられない試験に遭うことをお許しにならず
 試験に遭う際にはさらに避ける道をつけられ
 おまえたちによく耐えるようになさるものだ。

 ここでは「si-heom 試験」という言葉が使われています。
 「ip-hak si-heom 入学試験」とか「ki-mal si-heom 期末試験」という時の
「試験」と全く同じ単語です。辞書では「考査、テスト」とも訳されます。
 神の「試し」「試み」であることがたいへん明確な訳ですね。
 そうかあ、神様も私たちのことを「試験」なさるんだ。
 それでは我々は、試験に合格するように、がんばらなくてはいけません。

 また、神は「mi-ppeu-da」と言われています。これは「mi-deop-ta」と同じく
「頼もしい、信じるに足る」という訳になります。日本語訳だと「真実だ」
という訳で、ややわかりにくいですね。
 すなわち、神様はとても頼りになる方だから、信じて従えば、決して我々を
苦難に遭ったままほうっておくことはない、ということですね。
 試験を課しても、最初から点を取れないような試験ではなくて、がんばれば
解ける問題を出してくれます。落とすためでなく、合格させるための試験です。
 それが「避ける道」を用意してくださっている、ということですね。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 さて、ここから私の体験談になります。
 私は洗礼を受ける前に、いろいろと悩み迷っていた時期がありました。
 当時の私は、道徳的に不品行な生活を続けていました。恥ずべきことに、
私の身は教職の地位にありながら、不道徳な行いをしていました。
 しかし、一方ではそうした退廃した暮らしを悔い、このままではいけない、と
いう気持ちも持っていたのです。クリスマスから、教会に通い始めていました。
 ある時、それは昨年の成人の日の後、雪が降ったあとでした。私は今までの
生活を悔い、今日を最後に明日からまっとうに生きます、と神様に祈りました。
 けれどもまた一方で、そうした不品行な生活の持つ、暗く甘い魅力も捨て
がたく思っていました。背徳の味は、忘れがたいものです。

 祈った次の日。学校に行くと、ある生徒が一枚の紙切れを持ってきました。
 その時、私は三年生の担任で、卒業文集の編集顧問を担当していました。
全学年で二百人以上いる生徒のうち、ひとりの生徒がなかなか学校に来ないで、
最後まで原稿を出していませんでした。電話で催促したものの、ほとんど
あきらめていたのです。「やっと持ってきたか」と言って受け取りました。
 あとで、その紙片の原稿をよく読むと、何やら英語の文章が書いてあります。
それはこのような言葉でした。

  No temptation except what all people experience has laid hold of you.
 God will not permit you to be tempted beyond your ability but will
  at the time of temptation, provide a way out so that you will be able to stand it...

 英語の先生に見せても、よくわからない、これは何かの詩かな、と言います。
 それを聞いていたクリスチャンの同僚が、それは聖書の文句だと言いました。
 そうです。今日、話題に出している、コリント人への手紙の一節ですね。当時
の私は、まだこの言葉を知らなかったのです。
 この英語の言葉を、直訳してみましょう。

  すべての人が体験していないような誘惑があなたを捕らえることはない。
  神は、あなたが能力を越えて誘惑されることを許されず、
  誘惑の時にも、あなたが耐えられるように出口を用意してくれる。

 この言葉で、私がひっかかったのは、「temptation」という単語です。
 これは聖書では「試練」や「試み」と訳されていますが、普通は「誘惑」
訳します。あらためて英語の辞書を引いてみても、「誘惑」になっていました。
 「試練」というと、災害や病気など、苦しいことを連想します。しかし、
「誘惑」というと、「女性を誘惑する」など、もっと甘いことを連想します。
 そこで、はたと私は、気付いたのです。
 なぜ、今の私にこの言葉が、まるで郵便でも届けるように来たのか。
 そして、それがなぜ英語であり、なぜ私に意味を確認させたのか、を。
 その時に私にとっては、不品行な行いこそ「誘惑」だったのです。そして、
その誘惑から逃れなさい、と神様は言ってくれたのです。それはできない
ことではない、みんな同じような誘惑を受けているのだから、と。
 この言葉の前には、このような言葉もありました。
 「また、ある者がしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。
  不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった」
(10:8)

 また、当時まで、私は仏像美術に傾倒し、あちこちの寺を訪れては、仏像を
拝んでいました。家には写真集も多くありました。私はもし、クリスチャンに
なるなら、そういう物も捨てるのか、と内心寂しく思っていました。
 このみ言葉の前後には、偶像崇拝についても、戒めてありました。
 偶像は美術的には美しいものが多いのです。それを見ることは、私に
とってはやはり「誘惑」だということを、この言葉は教えてくれました。

 あとでその生徒に会った時に聞いてみました。
 どうしいこんな言葉を書いてきたのか、君はクリスチャンなのか、と。
 その生徒は、「ただ、漫画で見て気に入った言葉だ」と言うのです。
 これは神様が生徒を通じて私にくれた言葉だと、その時に確信しました。
こんな形で、神様は私を諭すために、み言葉を与えてくれたのです。
 それ以後、私が、あることに悩んでいる時に、神様にお祈りすると、とても
偶然とは思えないような、確かなみ言葉の啓示が示されるようになったのです
が、そのことについては、またいずれ、日を改めて。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 聖書の別の箇所を見てみましょう。
 同じ「試み」という言葉は、「主の祈り」の中にもあります。クリスチャン
の祈りの中でも代表的なこの祈りは、ルカによる福音書の中にあります。
 イエスご自身が、祈る時にはこのように祈りなさいと言われた言葉です。
その祈りの最後にこういう一言があります。

  「わたしたちを 試みに会わせないでください」(ルカ11:4)

 神様の試験は、受けるべきですが、あまり試験というものは受けたくない
というのが、生徒の正直な気持ちでしょう。
 しかし、人間は弱いもので、試験がまったくなくなると、ついつい勉強し
なくなってしまうものです。試験があれば、試験勉強をする。
 それでも、あまり難しい問題は解けないので、どうか厳しい試験は避けて
ほしい。そのように先生にお願いする気持ちだと思います。
 英訳を見てみましょう。

  And do not lead us into temptation. (NKJ)
    And do not bring us to hard testing. (TEV)

 NKJはやはり「temptation」で「誘惑」ですが、TEVは「hard testing」で、
「厳しい試練」「難しい試験」という意味ですね。
 他の邦訳はどうでしょう。新改訳は口語訳と同文です。回復訳も同じ。
 ただ、新共同訳フランシスコ会訳では、

  わたしたちを誘惑に遭わせないでください。    (新共同)
  わたくしたちを誘惑に陥らないように導いてください。(フランシスコ)

 と「誘惑」を使っていますね。文語訳ではどうでしょうか。

  我らを嘗試(こころみ)にあはせ給ふな

 と「嘗試」という漢語で、いつものようにルビを使って解決しています。
 それでは、正教会版はどうでしょうか。これは少し変わっています。

  我らを誘(いざない)に導かず、猶我等を凶悪より救ひ給へ

 「誘い(いざない)」という訳は、奥ゆかしい日本語ですね。
 「誘惑」と似ています。人を、罪に誘う、というわけですね。
 さて、最後に韓国語訳を見ておきましょう。

  u-ri-reul si-heom-e teul-ge ha-ji ma-op-so-seo ha-ra.
  私たちを試験に当てないようにしてください

 やはり「試験」でした。
 邦訳の多くは、コリント人への手紙と、このルカの福音書の箇所で、
訳が異なっていました。韓国語訳は、一貫している点が良いと思います。
 とまれ、あまりきつい試験は受けたくないし、試験に会った場合にも、
カンニングはいけませんが、なんとかがんばって合格したいものです。
 しめくくりに、明治のクリスチャン新渡戸稲造の言葉を書いておきます。

 心の準備とは人生の幸も不幸も大掴みに掴んで、何事があっても動かぬ、
    憂きことのなほこの上につもれかし
         限ある身の力ためさむ
 との心懸けである。その憂きことが如何なる形となって現はれても、即ち
 親の病死として現はれても、一家の不幸として現はれても、財産消滅として
 現はれても、友人の裏切として現はれても、その現はれ方は何であっても、
 心だけは動かないところに準備の妙があると思ふ
   (『人生読本』より)

 この本は、義母の告別式のあとに寄った、キリスト教書店で見つけました。
 帰って読んでいて、ふと開いた箇所にあった言葉です。主に感謝します。

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