日韓対訳で読む聖書
[「日韓対訳で読む聖書」のページへ/トップページへ戻る]
| (4) 愛は寛容 |
日韓対訳で読む聖書
第4回 / 「愛は寛容」 2002.3.31. イースター記念
私が通っている教会で、先日、結婚式があった。
その時、参列者に配られた式次第のパンフレットに、次の言葉があった。
キリスト教式の結婚式では、よく読まれるところらしい。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、
恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」
(コリントT13:4-7)(口語訳)
聖書の中でも、とても好きな言葉の一つだ。
コリント人への手紙の中の「愛の賛歌」と言われる名文句である。
「愛」というのは、キリスト教の挙げる最も高い徳目である。
パウロはこの後の部分でさらに、こうも述べる。
「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である」 (コリントT13:13)
「信・望・愛」はキリスト教の三徳目とされる。その中でも、「愛」が
最も大切としている。これは驚くべき言葉だ。
「信仰」よりも「愛」が大切なのか? そう、「信仰」よりも、なのだ。
ここで言う「愛」は、おそらくふつうの日本人が理解しているような、
「恋愛」と同じような「愛」ではない。日本語の「恋」と、LOVE、「愛」は
かなり違う。もろちん、恋愛も大切なことだが、それだけではない。
福音書の中で、イエスが、最も大切な教えは何かと問われて答えるのは、
「『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これより大事ないましめは、ほかにない」 (マルコ12:31)
という「隣人愛」である。
そして、それはイエスの愛、「神の愛」にならうものだと思う。
冒頭に挙げた「愛の賛歌」をあらためて見てみよう。
ここでは、「愛」のさまざまな美点、長所が挙げられている。
どれも大切なことだが、なかなか実際にはできにくいことでもある。
今日はまず、この言葉の英訳から見てみたい。
Love is patient and kind; it is not jealous or conceited or proud;
love is not ill-mannered or selfish or irritable;
love does not keep a record of wrongs;
love is not happy with evil, but is happy with the truth.
Love never gives up; and its faith, hope, and patience never fail. (TEV訳)
職場の机の上に、「みことばカレンダー」を置いている。
小さな卓上型の隔日めくりのカレンダーで、二日ごとにかわいいイラストと
聖書の言葉の一節が書いてある。
仕事の合間に、ちょっとそれをながめて祈ると、心がなごむ。
ある日のカレンダーに、この言葉があった。
「愛は寛容である。」 "Love is patient."
この訳に、私はふと違和感を持った。
"patient" は「寛容」だろうか?
これが素朴な疑問だった。実は、今日の話のきっかけは、ここからだった。
私が昔覚えた英単語の乏しい語彙の記憶からすると、
"patient" は「忍耐」のはずなのである。
手元のハンディな英和辞典を引いてみると
patient 1.忍耐[辛抱・我慢]強い、気長な ; 勤勉な
2.許容する、余地のある (研究社『新英和中辞典』)
……ほら、やはり「忍耐」だ。
「寛容」と「忍耐」は同じようなものだろう、と言われるかもしれない。
確かに、似てはいる。しかし、私の言葉の感覚から言うと、かなり違うのだ。
「寛容」は、相手に対してやさしく接する、という外面性が強いようだ。
それに対して、「忍耐」は、自分が堪え忍ぶ、という内面性を感じる。
また「寛容」はどちらかというと、明るく穏やかなイメージなのだが、
「忍耐」というと、暗く苦しい雰囲気がしてしまう。
他の言葉で言えば「辛抱」とか「我慢」という語感に近い。
しかし、「忍耐」が悪いと言うのではない。逆に「忍耐」だからこそ、良い
のではないか、と思うのだ。
「愛は忍耐」なのだ。じっと耐えること、それが「愛」だ。
「愛するって、耐えることなのね」
などと言うと、どこかで聞いた安手のメロドラマのお芝居のようだけど。
学生の頃、オルゴールを一つ持っていた。
今はもうなくしてしまったのだが、記憶におぼろげに残っている。
白木でできた平たい正方形の箱で、横にハンドルがついて手回しで音を出す。
曲は、モーツァルトの「パパゲーノのアリア」だった。
表面にペイネのイラストが、モノクロのしゃれたタッチで描いてあった。
ベンチに紳士の男が一人すわっている。ベンチの下に、たばこの吸い殻が
たくさん積もっている。男は腕時計を見て、悲しそうな顔をしている。
その上に、一言、英文が書いてある。
"Love is patient."
そのころは、なんだ、男を待たせるなんてわがままな女の子だ、そんな
子を待っていないで、帰ってしまえばいいのに、と思ったものだ。
でも、今はわかるような気がする。待ってあげなくてはいけないんだ。
私は待ってやれなかった。いや、待たせてしまった。
さて、次に、韓国語の訳を見てみよう。
Sa-rang-eun o-rae cham-ko sa-rang-eun on-yu-ha-myeo
thu-gi-ha-neun ja-ga toe-ji a-ni-ha-myeo
sa-rang-uen ja-rang-ha-ji a-ni-ha-myeo kyo-man-ha-ji a-ni-ha-myeo
mu-rye-hi haeng-chi a-ni-ha-myeo seong-nae-ji a-ni-ha-myeo
ak-han geos-eul saeng-gak-ji a-ni-ha-myeo
pul-eui-reul ki-ppeo-ha-ji a-ni-ha-myeo jin-ri-wa ham-kke ki-ppeo-ha-go
mo-deun geos-eul cham-eu-myeo mo-deun geos-eul mid-eu-myeo
mo-deun geos-eul pa-ra-myeo mo-deun geos-eul kyeon-di-neu-ni-ra
(試訳)
愛は長く我慢し、愛は穏やかで、
嫉妬する者となることなく、
愛は自慢することなく、驕慢でなく、
無礼にふるまうことなく、腹を立てることなく、
悪いことを考えることなく、
不義をよろこばず、真理と共によろこび、
すべてのことを我慢し、すべてのことを信じ、
すべてのことを望み、すべてのことを耐えるものだ。
韓国訳では、"o-rae cham-ko"「長く我慢し」という訳になっている。
"cham-da"は、「我慢する」という動詞である。
同じような意味の動詞で、"kyeon-di-da"「耐える」という単語もある。
最後の「すべてのことを耐える」にはこちらが使われている。
このふたつの語感の違いというのは、ほぼ日本語の「がまんする」と
「たえる」の差に近い。どちらかと言えば、前者のほうが普通に日常会話
に使われ、後者のほうがやや書き言葉的である。
「がまんしなくちゃ」とは友達や子供相手にもよく言うけど、「たえな
さい」というと、ちょっと大げさな感じがするだろう。
これを使っているから、あとの「すべてのことを我慢し」でも、同じ
"cham-da"を使っていて、違和感がない。
また、"o-rae 「長く」を使っているのも、とても良い。
「じっと我慢」「ひたすら辛抱」とでも訳してみたら、ぴったりこよう。
やはり、愛というのは「おしん」の世界なのだ。まず、辛抱なのだ。
しかも、ちょっと我慢、とか、ひとときの辛抱ではない。ずっと我慢を
し続けなくてはならない。これは実に大切なことだと感じる。
かくいう私自身、いつも、こらえ性がない。
我慢しなくちゃ、と思いながら、ついかっとしてしまうことがある。
洗礼してクリスチャンになったら、少しは、気が長くなるかと思ったが、
なかなか一朝一夕には性格は直らないものだ。
例えば、妻や子供などの家族に対して。例えば、友人に対して。例えば、
職場の上司や同僚に対して。例えば、ネットの仲間に対して。
「ああ、いかんいかん、また腹を立ててしまった」
と、切れて怒ってしまった後の、後味の悪さといったらない。怒った後に、
ほんとは自分が悪かったということがわかることも、とても多い。
そして、腹を立ててしまった場合、ほとんど、その後の人間関係は悪くなる。
「雨降って地固まる」とも言うが、喧嘩してあまり良くなった試しはない。
逆に、こちらが謙遜して出れば、向こうもわかってくれる場合が多い。
これは表向き慇懃に接するのではなく、心から低くならないといけない。
それでも、どうしても相手が理不尽だ、我慢できないということもある。
しかし、そういう我慢できない場合こそ、我慢しなくてはいけないのだ。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」と言う。
韓国語のことわざでも
" Cham-eul in(忍)-ja ses-i-myeon sal-in-do phi-ha-da."
「がまん」の「忍」の字が三つあれば、殺人をも避ける。
というのがある。一度でもなかなかできない我慢を、三度する。すると、
「殺してやりたい」という思いも静まると言う。三回くらい簡単だ、と頭では
思うが、実際は難しくて、たいてい二度も同じ目に遭うと、切れてしまう。
「仏の顔も三度まで」と言う。
逆に言うと、仏様でも、四度め以降は許されない、ということだろうか。
イエス様は、ペテロに「先生、何度まで許すべきですか。七たびですか」
と聞かれてこう答えた。有名な言葉だから、ご存じだろう。
「わたしは七たびまでとは言わない。
七たびを七十倍するまでにしなさい。」 (マタイ18:21)
単純に計算しても、七七、四十九で、四百九十回は許せということだ。
それじゃ、四百九十一回からは許さなくてもよいのか。
そうではないだろう。そもそも、「七」は聖書でよく出る「聖数」なので、
正確に七回、と勘定しているわけではあるまい。
イエス様が「七の七十倍」と言ったのは、結局、こういうことだろう。
「いつまでもいつまでも、何度でも何度でも、許しなさい」
できないなあ、と思う。クリスチャンは、イエス様にならうのが目標なの
だけど、とてもできない。やはり、二、三回で切れて、後悔してしまう。
イエス様は、我々の許されがたい罪を我慢して、身代わりに十字架に
かかってくださったのに。そして、自分を十字架につけた者を我慢して、
その救いのために祈ってくださったのに。
「愛はがまんだ」
この一言だけでも、人生のモットーにしていけたらなあ、と思う。
さて、他の訳の聖書を比べておこう。まず、文語訳から。
「愛は寛容にして、慈悲あり」
「慈悲」というのがいかにも文語訳らしくて良いが、「寛容」はそのままだ。
カトリック系のフランシスコ会訳でも同じで、
「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛」
新改訳でも口語訳と同様であり、
「愛は寛容であり、愛は親切です」
となっている。「親切」のほうはわかりやすいが「寛容」はそのままだ。
あるいはこれらは、先行する文語訳の伝統に影響されているのだろうか。
これが、正教会訳では、
「愛は寛忍し、矜恤(きょうじゅつ)し」
となる。「寛忍(堪忍)」は、なかなかいいが、「救恤」はどうも難し過ぎよう。
|
|
いろいろ見た中で、適当だなと思ったのは、新共同訳だ。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い」
「忍耐」。これは、なかなか良い。ふだん私は、新共同訳は平俗に過ぎる
ような気がしてあまりとらないのだが、これはわかりやすい。回復訳では、
「愛は辛抱強く、愛は親切です」
と「辛抱」となっていて、これも悪くない。
ただ、私の語感では「がまん」という日本語が、一番ぴったり来る。
なお、新改訳は、後の部分の訳では、
「すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」
と「がまん」を使っている。これを先の部分でも使ったら、と思う。
比較の最後として、英訳のうち、NKJ訳のほうを挙げておこう。
"Love suffers long and is kind."
これは、大変よく感じが出ている。
"suffers long" 「長く苦しむ」
なるほどと思う。"suffer"「苦しむ、悩む」という動詞が、適切だ。
そしてこれは実は、先に挙げた韓国語訳の
"o-rae cham-ko" 「長く我慢し」
という訳とぴたりと符合する。
さらに、中国訳(香港版)も見ておくと、
「愛是恒久忍耐、又有慈愛」
とあり、「恒久忍耐」、となっている。これも同意だろう。
あるいは、韓国語訳はこちらの系統から来ているのかもしれない。
「恒久の忍耐」は、「恒久の平和」につながる、というわけか。
それにしても、最近の世界の時事を見るにつけ、この言葉を思う。
アメリカで特攻テロがあった。報復としてアフガニスタンに爆弾が雨あ
られと落とされた。
イスラエルで自爆テロがあった。報復にパレスチナ自治区が占領された。
アメリカはクリスチャンの多い国だし、イスラエルはユダヤ教の国だけど
やはりクリスチャンとも関係が深い国だ。
お互いに、もう少し「がまん」ができればなあ、と思う。
だけど、これは「傍目八目」、当事者でないからそう思うのであって、
肉親や仲間を殺されたら、とてもそうは思えないのかもしれない。
平和そのものの日本で、身内や友人とのほんのちょっとしたいさかいで、
すぐかっとしてしまうような私にはなかなか言えないことだ。
最後に、フランス文学者の渡辺一夫の言葉を、挙げておきたい。
「過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が
自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不寛容になった例を
しばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、
自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない」
「寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、
寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは
あたかもジャングルの中で人間が猛獣に食われるのと同じことかもしれない。
ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、
不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。
そこに若干の光明もある」
[「日韓対訳で読む聖書」のページへ/トップページへ戻る]
毎週日曜 am10:45〜 主日礼拝 pm5:00〜 夕礼拝
毎週水曜 pm7:00〜 祈祷会 pm8:00〜 「聖書」講読会
常盤台バプテスト教会/174-0071 東京都板橋区常盤台2-3-3
東武東上線・常盤台駅北口・歩3分/TEL
03−3960−0449