日韓対訳で読む聖書

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(6) 九十九匹の羊

日韓対訳で読む聖書
  第6回 / 「九十九匹の羊」
    2002.10.29.  My Birthday

 今日は私の特に好きな聖書のエピソードを挙げよう。
 ルカによる福音書、15章4節から7節。

 Neo-heui jung-e eo-tteon sa-ram-i eo-tteon sa-ram-i yang
paeg ma-ri-ga iss-neun-de keu jung-eui ha-na-reul ilh-eu-myeon
a-heun-a-hop ma-ri-reul teul-e tu-go keu ilh-eun geos-eul
chaj-a-nae-gi-kka-ji chaj-a-ta-ni-ji a-ni-ha-gess-neu-nya.

  あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている
 者がいたとする。その一匹がいなくなったら、
 九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった
 一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

Tto chaj-a-naen-jeuk jeul-geo-weo eo-kkae-e me-go
jib-e wa-seo keu beos-kwa i-us-eul pul-leo mo-eu-go mal-ha-doe
"Na-wa ham-kke jeul-gi-ja, na-eui ilh-eun yang-eul
chaj-a-nae-eoss-no-ra" ha-ri-ra.

  そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、
 「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を
 見つけましたから」と言うであろう。

Nae-ga-neo-heui-e-ge i-reu-no-ni i-wa gath-i
joe-in han sa-ram-i hoe-gae-ha-myeon
ha-neul-e-seo-neun hoe-gae-hal geos eops-neun eops-neun eui-in
a-heun-a-hob-eu-ro mal-mi-am-a ki-ppeo-ha-neun geos-po-da teo-ha-ri-ra.

  よく聞きなさい。それと同じように、
 罪人がひとりでも悔い改めるなら、
 悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにも
 まさる大きいよろこびが、天にあるであろう。 
(口語訳)

 有名な「迷える羊」のたとえである。
 韓国語の語句について、ひとつ触れておこう。「数詞」の話だ。
 「九十九匹」、これは韓国語で
  a-heun-a-hop ma-ri アフン・アホプ マリ
 となる。この「アフン・アホプ」という数え方が面白い。
 これは漢字語ではなく固有語である。つまり、いちにいさん、ではなく
ひいふうみい、という数え方になっている。日本語でこのような数え方は
   ひとつ ふたつ みっつ よっつ いつつ
   むっつ ななつ やっつ ここのつ とお
 と、せいぜい10止まりで、11以上は、
   じゅういち、じゅうに……
 というふうに漢字語で読むのが普通だ。昔の「土佐日記」など読むと
「とおあまりひとひ」というような言い方も出てくるが今は言わない。
 年齢では、「二十」のことを「はたち」、「三十代」「四十代」のことを
「みそじ」「よそじ」という言い方もする。また、日数で、「二十日」は
「はつか」、「三十日」は「みそか」と言うが、これらはむしろ特例だ。
 ところが、韓国語では、1から99まで、固有語で数えられる。

   ハナ ha-na ひとつ   ツゥル tul ふたつ
   セッ ses みっつ   ネッ nes よっつ
   タソッ ta-seos いつつ  ヨソッ yeo-seos むっつ
   イルゴ il-gop ななつ  ヨドル yeo-deolp やっつ
   アホプ a-hop ここのつ ヨル yeol とお

   スムル seu-mul 二十   ソルン seo-reun 三十
   マフン ma-heun 四十   スィン swin 五十
   イェスン ye-sun 六十  イルン il-heun 七十
   ヨドゥン yeo-deun 八十  アフン a-heun 九十
   ペク paek 百
(ひゃく・漢字語)

 年齢もこれで数える。例えば、私は今日が誕生日だったが、年は韓国語で
  「マフン・ネッ ma-heun nes」 ということになる。

 以前に、『ひよこたちの祭り』という映画を見ていた。少年野球チームの
子供たちが出てくる。主人公の少年が、猛特訓をする場面がある。そこで
素振りを何回もするのだが、「ひとつ、ふたつ……」と数えていって、
   「……a-heun-a-hop, paek ……アフン・アホプ、ぺク」
 とちゃんと固有語で九十九まで数えていたのには、いささか感心した。
 こうして、羊が「九十九匹」は、
  a-heun-a-hop ma-ri アフン・アホプ マリ
 となるわけだ。これはなんだか、うらやましい気もする。韓国人には、
この「九十九匹の羊」のたとえが、より身近に感じられるのではないか。
 この韓国語訳を読んで、一番気になったのはそこのところだった。


ガリラヤの野の羊飼い

 さて、この羊のたとえを聞くと、私がいつも思い出す歌がある。

 「小さい羊が家を離れ  ある日とおくへ遊びに行き
  花さく野原のおもしろさに  帰る道さえ忘れました」

 「けれどもやがて夜になると  あたりは暗くさびしくなり
  うちが恋しい羊はいま  声もかなしく泣いています」
                  (こども讃美歌72)

 幼稚園のころ、私はキリスト教系の幼稚園に通っていた。卒園後は、
日曜学校に通うこともほとんどなく、在園中に読んだはずの多くの
聖書の言葉や、歌ったはずの讃美歌もあらかた忘れてしまっていた。
 しかし、この歌だけはなぜか、強く心に残っていた。物悲しい哀切な
メロディーと共に、夕暮れに一匹だけ取り残された哀れな羊の姿が、
イメージとなってまぶたに焼き付いて成人後も忘れられなかった。

 ルカ伝にはこれに引続き、金貨のたとえと、放蕩息子のたとえがある。
 10枚ある金貨のうち、1枚をなくしたら、その人は他の9枚を置いて、
なくなった1枚を捜しませんか。
 また、ある金持ちに二人の息子がいた。弟は父の身代の半分を譲り受ける
と、旅に出て、異郷の地で放蕩の生活をしてその金を使い果たした。帰って
くると、父は遠くからその姿を見つけて走りよって抱きしめ、子牛を屠って
宴会をし、失われた息子の帰還を喜んでくれた。
 私も、その弟のように、四十を過ぎるまで放蕩暮らしの日々を過ごした。
今ようやく、父のもとに帰ってきたが、父は快く迎えてくれた。なくなった
1枚の金貨のように、迷子になった羊のように、見出されたのだ。
 迎えてくれた父に、捜してくれた羊飼いに、心から感謝を捧げたい。

 「情けの深い羊飼いは  この子羊のあとをたずね
  遠くのやまやま谷底まで  迷子の羊をさがしました」

 「とうとうやさしい羊飼いは  迷子の羊を見つけました
  抱かれて帰るこの子羊は  よろこばしさにおどりました」

 この羊のたとえは、なかなか奥が深い。
 教会の友人が、このたとえは3者の立場から読むことができると言った。
ふつうは、自分が迷った羊だったらどうしようか、と読む。しかし、後に
残された九十九匹の羊だとしたらどうか。
 実は子供の時にこの話を聞いたときも、子供心にそこが少し心配だった。
羊飼いが一匹を探しに行っている間に、後の九十九匹がいなくなったら、
どうするのだろう。取り残された羊たちも、不安になるのではないか。
 だが、後の金貨のたとえと読み合わせれば、疑問は解ける。
 残りの9枚の金貨は、当然大切にしまってあるだろう。
 羊たちも、さくに囲って守られているのだろう。逃げる心配のない、
すでに救われた羊たちなのだ。彼らは、いなくなった兄弟の羊が帰る
までは、安心して待っているはずなのだ。

 もうひとつ、羊飼いの立場から読んだらどうだろう。
 私は今、高校の教員をしている。
 クラス担任をしていても、教科の授業を受け持っていても、いつも
気になる生徒がいる。それは群れを離れた生徒である。
 一つのクラス、四十人の中に、一人だけ出席や成績の悪い生徒が
いることがある。他の三十九人は置いて、その生徒のことが気になる。
呼び出して話してみたり、電話をしたり、手紙を書いてみたり、時には
家に行ってみたりすることもあった。
 他のまじめにやっている三十九人からすれば、あの「態度の悪い」子
ひとりのために、僕らをほうっておいて、と心外に思うかもしれない。
 でも、その子ひとりが、どうしても気になる。
 そんな子が学校にもどってきて、無事、卒業してくれた時は、ほんと
にうれしい。だが力及ばず、一匹の羊はいなくなってしまうこともある。
それでも、いつまでもその失われた羊のことが気にかかるものだ。
 イエス様も、そのように私たちのことを待っていてくださる。

 また、日本聖書教会の、渡辺信先生の講演を聞いたことがある。
 その中で、先生はこの話を引いて、こう言われていた。
 「西洋では、クリスチャンがほとんどだから、この話は通じる。
 だが、日本ではどうか。クリスチャンはたった1パーセントだ。
 つまり、柵の中にいるのは一匹で、九十九匹は野にいる
 この話は、私にはひとつ、目からうろこが落ちる思いがした。
 日本の教会では、限られた信者の中だけの交流で満足していてはいけ
ないのだ。広く野原に、九十九匹の羊を探しに行かなくてはならない。
たとえ、一匹の羊を置いてでも、道は遠くとも。

 最後に、小説『三四郎』について触れておく。
 東大の本郷キャンパスに「三四郎池」がある。ここで、主人公の三四郎
君は美禰子に逢う。この池の名前は、この小説からとられている。本来の
名前は、加賀藩の前田侯のお屋敷にあった「心字池」だそうだ。
 美禰子は、優柔不断な三四郎に愛想をつかし、謎の微笑を残して去る。
 その美禰子の言葉が、忘れられない。彼は三四郎に言う。あなたは
 「ストレイ・シープ stray sheep」
なのね、と。つまり、「迷える子羊」ということだ。
かつて私も、大学時代に恋人のRとここを散歩した。そのRは今はこの
世にはいない。私は、迷える子羊となった。だが、いつか、羊飼いのもと
で、先に召されしかの子羊と再会できる日を待ち望んでいる。

              2002.10.29. 〜 四十四歳の誕生日に

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