日韓対訳で読む聖書

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(7) 神の小羊

日韓対訳で読む聖書
  第7回/ 「見よ、神の小羊」
   2003.1.6. 未年

 あけましておめでとうございます。今年は未年ですね。
 は、聖書の中では最も多く出てくる動物です。イスラエルの民が
牧畜を生業とし、羊を飼うことが多かったためでしょう。前回は有名な
「九十九匹の羊」のお話でしたが、今回は別の個所を見てみましょう。

  その翌日、ヨハネはイエスが
  自分のほうに来られるのを見て言った、
  「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。

    ヨハネによる福音書 第1章29節(口語訳)

  I-theun nal Yo-han-i Ye-su-kke-seo
  ja-gi-e-ge na-a-o-sim-eul po-go i-reu-doe
  Po-ra se-sang joe-reul ji-go ka-neun
  Ha-na-nim-eui eo-rin yang-i-ro-da.

    Yo-han pok-eum je1jang 29jeol

 ヨハネは、バプテスマのヨハネと言われ、イエスの現われる前にヨルダン川
で人々に悔い改めの水の洗礼をほどこしていました。しかし、それは来るべき
さらに偉大な方の先導に過ぎなかった。
 「私はその方の靴のひもを解くねうちもない」と彼は予告していたのです。
 イエスが初めてヨハネの元を訪れた時、ヨハネが言ったのが上の言葉です。
 ここで「神の小羊」といっていますね。この「小羊」こそ、イエスの象徴で
あり、その代名詞となる言葉です。
 ミサ曲で、最後に歌われるのがこの「神の小羊アニュス・デイ」です。


ファン・アイク「神の小羊」

   Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: miserere nobis.
   Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: dona nobis pacem.

   神の小羊よ、世の罪を除きたまう。 我らを憐れみ給え。
   神の小羊よ、世の罪を除きたまう。 平安を与え給え。

 ラテン語ですが、どのミサでも共通の言葉で、ヨハネの福音書のここの
言葉からとられているのでしょう。さて、この個所の英訳を見てみます。

The next day John saw Jesus coming toward him, and said,
"Behold! The Lamb of God who takes away the sin of the world!

    the Gospel according to John 1:29 (NKJ)

 「見よ」という言葉が聖書には良く出てきます。これは韓国語では
"po-ra"「見よ」と"po-da"「見る」の命令形が使われていますが、英語では
"behold"で、"see"や"look"より強い「見つめる」という動詞です。
 「神の小羊」によく注目しなさい、ということですね。

 で、この「小羊」ですが、ラテン語では"Agnus"、英語では"Lamb"と
なっています。小羊の肉を「ラム」と言いますね。
 日本語では「小さい羊」で「小羊」です。「子羊」と書く場合もあって
これだと「子どもの羊」ということですね。「仔犬ダンの物語」という映画
がかかっていますが、この「仔」も「子」と同じ意味です。
 これに対して、韓国語では"eo-rin yang"「幼い羊」となります。やはり
"eo-rin"「子どもの」という意味です。

 日本語も韓国語も共通して言えるのは、英語などと違い、一語ではないと
いうことですね。では「羊」はどうかというと、英語では"sheep"と全然別の
単語になってしまいます。また、雄羊は"ram"、雌羊は"ewe"と言い分けます。
同様なことは例えば、「牛」の場合も、"ox"(去勢した)雄牛、"bull"(去勢しない)
雄牛、"cow"雌牛、"calf"子牛、と細かく言い分けます。
 これはなぜでしょう。鈴木孝夫『ことばと文化』の中で言っていますが、
生活に関係の深い語は詳しく言い分けるようです。
 日本でも例えば、魚や雨の名前は区別が詳しいというのと同じです。

 さて、韓国語で動物の子どもの名前を見てみますと、
  馬 mal 子馬 mang-a-ji
  牛 so  子羊 song-a-ji
  犬 kae 子犬 kang-a-ji
  鶏 talk ひよこ byeong-a-ri
 と詳しい言い方をします。ところが、羊に関してはただ、
 「子どもの」 eo-rin  「羊」 yang
と二語をそのままくっつけただけで、はなはだそっけない。
 それから、この「羊」という言葉自体も、「羊」という漢字の音読み
が日本語で「ヨウ」であるように、韓国語で「ヤン yang」というだけ。
日本語ですら「ひつじ」という固有語があるのに、漢字語なのです。
 韓国語では「山」を「サン」、「河」を「カン」といったりもしますが、
一般には生活から遠い言葉のほうが漢字語になっているのが普通です。
 とこれらから見ると、「羊」は韓国人の生活には縁遠い言葉のようです。

 先述したように、聖書にはしょっちゅう「羊」が出てくるのですが、これが
韓国では中国同様に牧畜文化の伝統で、親しみやすいのかと思いきや、言語的
には割合に遠い言葉なんだな、と思った次第です。
 パンと葡萄酒が、ごはんとお神酒だったら、キリスト教も身近になるのかな
と思ったりすることがあります。ただ、韓国ではクリスチャンが3割もいるの
で、言葉や文化が違うから信仰にも影響があるというわけではなさそうです。
 閑話休題、聖書に話を戻しましょう。今度は、聖書の最後の黙示録からです。

 ほふられた小羊こそは、
 力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、
 さんびとを受けるにふさわしい。

   ヨハネの黙示録 第5章12節

Ju-gim-eul tang-han-sin eo-rin yang-eun
neung-ryeok-kwa pu-wa ji-hye-wa him-gwa jon-gwi-wa yeong-gwang-gwa
chan-song-eul pad-eu-si-gi-e hap-tang-ha-do-da.


   Yo-han kye-si-rok je5jang 12jeol

 この黙示録にも、ふんだんに「小羊」という言葉が出てきます。
 そしてそれが、ここにあるように、明らかにイエス・キリストの代名詞
として使われています。間違えてこれを本物の羊と考えると訳がわからなく
なってしまいます。昨年、うちの教会の聖書の講読会で、黙示録の中で
小羊が神様の七つの巻物を開いて読むという個所を読んでいて、ある方が
 「羊があのひづめで、どうやって聖書を開くのかしら」
と言いました。情景を想像したら可笑しくて、みなで笑ってしまいました。
本物の羊さんが本を読んでいると考えると、ギャグになってしまいます。
 ここはやはり、あくまでイエスの象徴や寓意と見なくてはなりません。
この寓意性ということは、黙示録全体にわたって言えることです。

 ここで韓国語の訳を見て、なるほどと思うのは敬語の使い方です。
 tang-han-sinとかpad-eu-si-gi-eというふうに尊敬の「si」が入っています。
 直訳しますと「ほふられになった小羊」「お受けになるにふさわしい」と
なります。子羊がイエスという尊い存在だということがよくわかります。
 英訳を見ますと、当然のことながら、敬語はありません。

  "Worthy is the Lamb who was slain To receive power and riches
  and wisdom,And strength and honor and glory and blessing!"


     the Revelation of Jesus Christ 5:12 (NKJ)

 これは敬語のある韓国語ならではと思うのですが、日本語にも敬語があり
ながら、どうして訳では入れないのか、ちょっと疑問の残るところです。

 逆に、英語ならではの長所もあります。それは先の小羊が巻物を読む個所
(第6章)で、引用はしませんが、子羊がひとつひとつの巻物の封印を解いて
開いていく時に、二回目からは"he"「」と主語を三人称男性で受けているの
です。これだとイエスのイメージで読んでいっても違和感がありません。
 ここを韓国語の訳で見ると、二回めからは主語を省略しています。これは
巧いなと感心します。なぜなら、韓国語も日本語と同様に、主語を省略できる
言語だからです。ところが、同じ個所を日本語の訳でみると、何度も繰り返し
「小羊は」とやっています。これはいささか愚直な訳ではないでしょうか。
だから、先に述べたような勘違いをする人が出てきてしまうのです。

 さて、そもそも聖書やキリスト教でなぜ、小羊がイエスなのでしょうか。
 これには大変、大切な意味があります。旧約のイザヤから引いてみます。

 われわれはみな羊のように迷って、
 おのおの自分の道に向かって行った。
 主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
 口を開かなかった。
 ほふり場にひかれて行く小羊のように、
 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
 口を開かなかった。

   イザヤ書 第53章6〜7節

U-ri-neun ta yang gath-a-seo keu-reus haeng-ha-yeo
kak-ki je kil-lo kass-keo-neul
Yeo-ho-wa-kke-seo-neun u-ri mo-du-eui joe-ag-eul
keu-e-ge tam-dang-si-khi-syeoss-to-da.
Keu-ga kon-yog-eul tang-ha-yeo koe-ro-ul ttae-e-do
ib-eul yeol-ji a-ni-ha-yeoss-eum-i-yeo,
ma-chi to-su-jang-eu-ro kkeul-lyeo ka-neun eo-rin yang-gwa
theol kkakk-neun ja aph-e-seo jam-jam-han yang gathi
keu-eui ib-eul yeol-ji a-ni-ha-yeoss-to-da.

   I-sa-ya je53jang 6-7jeol

 一部分の引用ですが、ここは新約のイエスを預言した旧約の個所の
ひとつと言われています。ある方が、無辜の身で裁かれ、打たれ、その
傷のおかけで、我々すべての者の罪が赦されるだろうという預言です。
 これは直接、イエスの十字架で人類の罪をあがなったというキリスト教
の根本につながるわけです。この教えを、後世のパウロが後付けで考えた
ものだと唱える人もいるのですが、旧約に明確に予告されているのです。
 主が彼を打たれた、とあるから、「」と「彼」すなわち「僕(しもべ)
は違うと考えがちかもしれません。が、「主」が「僕」の形をとって、己を低く
して我々の所に降りてきてくれたというのが「三位一体」の教えです。
 そして、そのとしてのイエスのイメージが「小羊」なのです。

 英語の"sheep"の項を見ると、「臆病者、気の弱い者」という意味も
あります。"sheepish"「羊のような、非常に内気な、気の弱い」という
形容詞さえあるくらいです。(研究社・新英和中辞典)
 韓国語の辞書を引くと、"yang"にはやはり、「(比喩的に)性質が温順な
人」という意味があり、"yang gath-i sun-ha-da"「羊のようにおとなしい」
という例文も載っています。(小学館・朝鮮語辞典)
 このように、「羊」には大変、柔和な優しいイメージがあります。相手の
なすがままにして、抵抗することのない、従順で謙遜な人。
 そして、このイザヤの「ほふり場にひかれていく小羊」こそが、十字架
につけられるイエスだったのです。彼は、ピラトやヘロデの審問の場でも
何も弁解しなかった。すなわち、「口を開かなかった」のです。

 イエス自身が、このように語っています。

 わたしはよい羊飼である。
 よい羊飼は、羊のために命を捨てる。

   ヨハネによる福音書 第10章11節

Na-neun seon-han mok-ja-ra
seon-han mok-ja-neun yang-deul-eul wi-ha-yo
mok-sum-eul peo-ri-geo-ni-wa.

   Yo-han pok-eum je10jang 11jeol

 悪い羊飼いは、狼が来たら羊を捨てて逃げ出してしまう。だが、良い羊飼い
は、乗客を逃がして自ら沈む船長のように、いざという時、羊を守るものだ。
 イエスは自ら、私は良い羊飼いだ、私の元に来なさいと言うのです。
 ここでは「羊飼い」が、"mok-ja"「牧者」という言葉で表されています。
プロテスタントで指導者のことを「牧師」と言い、集まりのことを「牧会
というのも、ここから来ています。
 復活したイエスは、ペテロに「あなたの羊を養いなさい」と言い残して
昇天したのでした。
 では、最後に旧約の創世記から、小羊の話をひとつ見てみます。

 やがてイサクは父アブラハムに言った、
「父よ」。彼は答えた、
「子よ、わたしはここにいます」。
 イサクは言った、「火とたきぎはありますが、
 燔祭の小羊はどこにありますか」
 アブラハムは言った、「子よ、
 神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」
 こうしてふたりは一緒に行った。

   創世記 第22章7〜8節

 I-sak-i keu a-beo-ji A-beu-ra-ham-e-ge mal-ha-yeo i-reu-doe
nae a-beo-ji-yeo ha-ni keu-ga i-reu-doe,
nae a-deul-a nae-ga yeo-gi iss-no-ra
I-sak-i i-reu-doe pul-kwa na-mu-neun iss-keo-ni-wa
peon-je-hal eo-rin yang-eun eo-di iss-na-i-kka.
A-beu-ra-ham-i i-reu-doe nae a-deul-a peon-je-hal eo-rin yang-eun
 Ha-na-nim-i ja-gi-reul wi-ha-yeo chin-hi jun-bi-ha-si-ri-ra
ha-go tu sa-ram-i ham-kke na-a-ga-seo


   Chang-se-gi je22jang 7-8jeol
 
 "peon-je"「燔祭」は、小羊を全焼の献物として、神に捧げる儀式です。
 有名なこのエピソードは、ご存知の方も多いでしょう。
 神は、ある時、アブラハムに一人息子のイサクを小羊の代わりに生贄に
ささげよと命じられます。神を敬うアブラハムは、主の言葉に従います。
 山に登って行くときに、イサクが不審に思って父に尋ねるのがここの
個所です。なんともリアルな臨場感のある、手に汗握るような緊迫した
場面ではありませんか。"pul"と"na-mu"はある、だが"eo-rin yang"
小羊は、いないではないか。これに対して父は、「おまえだ」とは言いません。
 「主みずからが、用意してくださるだろう」とだけ言うのです。
 やがて山上で全てが明らかになります。覚悟を決めて、刀をふりあげた
瞬間、「待て、おまえの心はわかった」と、主は言うのです。

 なんとも芝居がかった大時代な筋書きだ、全能の神であるのに、人の心
が見ぬけなかったのか、とか、そのまま止めなかったらどうなるのか、など
と意地悪な質問をする人もいます。
 いや、主はみ試しをされるもの、人の心を悪に行くも善に行くにも自由に
任せているが、善に行く時は喜ばれるのだ、そして、主は決して、敬う心を
無駄にはしないものです。アブラハムとその子孫は祝福されました。

 最後にここを挙げたのは、実はここが、イエスの十字架にもつながって
いく話ではないかと感じるからです。
 イエスは、我々すべてのために、小羊となって、その身を捧げました。
そして主は、イエスの心を善しとして、復活させてくださったのです。
 命を捨ててくださった良き羊飼いに、我々は従おうではありませんか。
主は、羊の群れにも祝福をくださることでしょう。

                      2003.1.6. 公現日

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