日韓対訳で読む聖書
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| (8) わたしはよみがえり |
日韓対訳で読む聖書
第8回/ 「わたしはよみがえり」 2003.4.20.
イースターおめでとうございます。
といっても、ぴんとこない方が多いと思います。クリスチャンにとっては
クリスマス以上に大切なこの聖日ですが、日本ではなじみが薄いですね。
ひとつには、クリスマスは12月25日と日付が毎年決まっているのに、
イースターは年の暦によって違うということがあるかもしれません。
春分の日の後の最初の満月の後の日曜日ということに決まっています。
これはもともと春を迎える民間信仰のお祭りと共になったようで、クリスマスが
冬至の祭りや北欧の常緑樹信仰と合体したのと似ていますね。
しかし何といってもイースターがノンクリスチャンに受け容れにくいのは、
クリスマスがイエスの誕生日であるのに対して、イースターが復活の日だから
でしょう。誕生日は誰にでもありますが、復活はそうではありません。復活を
信じるかどうか、それはとりもなおさず、信仰の基本になるからです。
では、イースターによく引用される、ヨハネ福音からのみ言葉を読みます。
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「わたしはよみがえりであり、いのちである。
わたしを信じるものは、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じるものは、いつまでも死なない。
あなたはこれを信じるか。」
ヨハネによる福音書 第11章25-26節(口語訳)
Na-neun pu-hwal-i-yo saeng-myeong-i-ni
Na-reul mit-neun ja-neun jug-eo-do sal-gess-ko
mu-reus sal-a-seo na-reul mit-neun ja-neun
yeong-weon-hi juk-ji a-ni-ha-ri-ni
I-geos-eul ne-ga mit-neu-nya.
Yo-han pok-eum je11jang 25-26jeol
この個所は、まだ受難や復活より前のお話です。
イエスが、ラザロを生き返らせるという奇跡を行うところです。ラザロの
姉妹のマルタとマリアが兄の死を嘆き悲しんでいました。そしてマルタが、
「もう少し早く来ていただれば、兄は死なずに済んだかもしれないのに」
と言ったことに、お答えになった言葉とされています。一言で言えば、
「信仰によるよみがえりを信じますか」
ということですが、マルタはこれに対して「信じます」と明言します。
それに続いて、大きな奇跡が起きるのでした。この話は、信じることの
大切さをよく示していると思います。信じるものは救われる、ですね。
さて、この韓国語訳で気になった点を一つあげておきます。
「わたしはよみがえりであり、いのちである」
ここが韓国語の訳では、
"Na-neun pu-hwal-i-yo saeng-myeong-i-ni."
となっています。ここで、「よみがえり」が「pu-hwal(復活)」、「いのち」が
「saeng-myeong(生命)」という漢字語に訳されています。私の趣味から言うと
これはちょっと固いなあ、という気がします。固有語のほうが優しい感じです。
韓国語にそういう表現がないわけではなくて、辞書を引いてみると、
「よみがえる」 toe-sal-a-na-da
=「toe また + sal-a 生き + na-da 返る」の意味
「いのち」 mok-sum
=「mok のど + sum 息」の意味
というもともとの韓国語があるのですね。こうした言葉を使ったほうがずっと
やわらかい感じが出ると思います。
もう少し細かい、発音上の話をしておきます。
「復活」は、日本語でも韓国語でも同じ字をあてますが、日本語は「ふっかつ」
であるのに対して、韓国語では「pu-hwal
ぷふぁる」と読ませています。
ところが最初この言葉を韓国語で見た時「復活」がすぐに浮かびませんでした。
というのは、「復」の漢字読みは「puk
ぷく」、「活」は「hwal ふぁる」ですから、
合わせれば「puk-hwalぷくぁる(ぷくふぁる)」になるはずです。ところが、
「pu-hwalぷふぁる」では、「pu ぷ」からすぐに「復」の字が連想されません。
むしろ「不」などを思い起こします。「不活」では意味が全く逆になりますね。
辞書(小学館「朝鮮語辞典」)を引くと、この「復活」の項目に、
「▼puk-hwal とならないことに注意。」
とわざわざ注がついています。それだけ、この発音が例外的ということでしょう。
もともと韓国の漢字音は、「一字一音」が原則です。日本語だと複数あるのがむしろ
普通で、例えば「行」なら「行(こう)動」「行(ぎょう)事」「行(あん)灯」と、
3種の読みがあります。韓国語では「行(haeng
へん)」一音です。
もっとも、韓国でも一字に複数の音がある場合もありますが、例外です。この
ケースは例外のひとつと言えるわけです。
例えば「不」は「ぷ pu」「ぷる pul」とふたつの音があります。辞書によると
前者は「t・jで始まる言葉に付いて」という場合です。これは意味というより、
発音上の規則であり、要するに発音しやすい音になっているわけでしょう。
言語の音変化は、一般に古今東西、発音の容易な方向に変化するようですから。
なお、もうひとつ比較の例として、「副」という漢字は「pu
ぷ」と発音します。
日本語の「ふく」からすると、この字も「puk
ぷく」と読みそうですが違います。
これはやはり発音のしやすさということ、「不」と同じく、「副会長」といった
ふうに他の語と合成語になりやすいこと、使用頻度の高いことなどから、より
発音しやすいように音変化が進んでいるのかもしれません。
ひるがえって再び「復活」を見るに、これは「復興」などと同様な音変化で、よく
使われる複合語であるのでしょう。
「復活」という語が、韓国語でポピュラーであることをうれしく思います。
以上説明が長くなりましたが、やはり漢字語が固いという印象は免れませんね。
さて、イエスはこの聖書の個所で、悲しむマルタに優しく慰めるように語りかけて
いるのであり、「よみがえり」の大和言葉のやわらかい語感のほうがよりぴったり
来ると思うのですが、いかがでしょうか。
「生命」に対する「いのち」もそうですが、「復活」に対する「よみがえり」と
いう語の響きには、素朴な雰囲気が漂っています。
「復活」だとどうもちょっと、正式ではあるが格式ばった感じもします。
ところが、日本語の他の訳を調べてみますと、口語訳、新改訳では「よみがえり」
なのですが、一番新しい新共同訳ですと「復活」になっています。
新共同訳は最近広くカトリック・プロテスタント一般の教会で使われていますが、
必ずしも新しいから全て良いとは言えない例かもしれません。
「よみがえり」を「蘇る」と漢字で書くと、「蘇生」という感じで普通ですが、
「黄泉返る」と書くと、いかにも黄泉の世界、冥界から戻ってくるというイメージ
で、ややおどろおどろしい、オカルティックな霊気さえ匂わせているかのように
感じられます。ただ、だからこそ、肌に感じられる、実感的な復活のイメージが
伝わってくるではありませんか。よみがえりは、理論ではなくて現実ですから。
最近、『黄泉がえり』という映画がヒットしました。
なぜ、このような古めかしい話の映画が今ごろ流行ったのでしょうか。いや、
今だからこそ流行っているのでしょう。いつの時代になっても、人は愛する人と
の死別を惜しみ、また再会したいと心から願うものであります。いくら技術が
発達し生活が豊かになり寿命は延びても、やはり死別は避けられません。
古事記のイザナギとイザナミの別れ、それは「オルフェオとエウリディーチェ」
の話と酷似しています。後者は幾度も劇化され、モンティベルディの名オペラ
「オルフェオ」からグルックの同名オペラ、コクトーの「オルフェ」から「黒い
オルフェ」など映画化、本当に人々に慈しまれている題材なのです。
この世を去った早世の愛しい恋人にどうしても会いたくて、男は冥界まで女を
迎えに行くのです。冥界のプルートの許しによってめでたく再会できるのですが、
連れて返る途中に「決して振り返ってはいけない」というタブーを、旧約のロトの
妻のごとく破ってしまい、2人の中は永遠に裂かれてしまうのでした。
だが、イエスは、信じるものは救われる、また復活できると言うのです。
そして、ラザロを生きかえらせて、愛する姉妹に再会させます。
のみならず、イエス自身が、十字架にかかった後、自ら復活してくれます。我々
の罪を購ってくれるばかりでなく、自身が復活の初穂となり、我々信じる者にも、
復活と永遠の命を約束してくださった、これがキリストの大いなる救いです。
あなたは信じますか。とてもそんな愚かなことは信じられませんか。
私は、信じます。主イエスにすべてを、おゆだねするつもりです。
願わくば、わが命を救い、先にゆきし恋人との再会がなりますように。
最後に、私の好きな聖パウロの言葉を、使徒行伝の最後に近い26章から
ひいて、結びに代えさせていただきましょう。
「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、
どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」
Tang-sin-deul-eun Ha-na-nim-i jug-eun sa-ram
ta-si sal-li-sim-eul eo-jji-ha-yeo-ya mos mid-eul geos-eu-ro yeo-gi-na-i-kka.
ここでは韓国語訳でも「よみがえらせる(また生かす)ta-si
sal-li-da」という
素朴な言い方が用いられているようですね。
これに対し、フェスト閣下は「おまえは気が狂っている」、アグリッパ王は、
「おまえは少し説いただけで私をクリスチャンにしようとしている」と言います。
だが、パウロは泰然としてこう言い放つのです。
「わたしは気が狂ってはいません。わたしは、
まじめな真実の言葉を語っているだけです。」
Nae-ga mi-chin geos-i a-ni-yo
cham-doe-go jeong-sin cha-rin mal-eul ha-na-i-da.
〜 2003年のイースターを祝って
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