日韓対訳で読む聖書
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| (9) 七人の夫 |
日韓対訳で読む聖書
第9回/ 七人の夫 2003.5.3.
「夢に周公を見ず」
聖人の夢を見ないと孔子は衰えを嘆いたというが、私も最近、あの人の夢
を見なくなってしまっていた。だが、先のイースター、復活祭の後に久しぶり
に彼女が夢に現われてくれた。夢の中では夢とわからないものだ。つきあって
いた大学時代そのままに若かった。なくなったというのは偽りで、親が隠して
いたと聞いた。今からでもやり直せるかもしれないよ、そのように彼女に語り
かけ、いっしょに汽車に乗って旅に出ようとした。だが目が覚めた。
時々、思うことがある。私は復活を信じている。天国を信じている。だが、
もし彼女と私が復活して再び出会えたとしたら、この世で共に暮らしていた妻
と子どもたちはどうなるのだろうか。昔はこう考えていた。この世では妻は幸
せだったが、彼女は恵まれないままに世をさってしまった。だから、来たる世
では、代わりに彼女と結婚をして幸せにしてやってもいいのではないか、と。
だが、天国での暮らしとはどのようなものだろうか。
さて、聖書の話になる。
サドカイ人が、イエスにこのような問答を持ちかけた。
ある女が結婚したが、夫がなくなってしまう。それで、その弟と結婚した。
ところがその弟もなくなった。その弟と結婚した。ところがまたなくなった。
こうして夫が次々と世を去り、女は七人の兄弟と結婚した。もし復活があると
したら、彼女は天国でだれの妻となったらいいのか、と。
いかにも作られた仮定のお話で、現実にはあり得ないことのように思える。
事実、この質問の直前には有名な「カエサルの銀貨」についての問答があり、
イエスを困らせ陥れるための質問が続いているように見える。だが、全くの空
想の話とも言えないのは、当時のユダヤ人の結婚の風習によるからだ。兄が子
なくして死んだ場合、弟は兄の妻と結婚して子をなさねばならない。創世記の
オナンの故事にもある話で、一族の血脈の維持のための習慣であろう。
韓国では、いとこ同志の結婚でも禽獣のごとく言われる。日本でも、兄嫁と
の結婚というのは、決してポピュラーではない。成瀬巳喜男の映画で、戦争で
夫をなくした若い未亡人の人妻に対して、夫の弟が恋心を持つのだが、人倫に
反するとして妻が拒み、悲劇を生むという作品があった。加山雄三と高峰秀子
の二人の、互いに魅かれつつつ結ばれない、純情ゆえの悲恋が涙を誘った。
さて、この難しい質問について、イエスは明快な答えで応じている。
イエスは答えて言われた、
「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。
彼らは天にいる御使のようなものである。
(マタイによる福音書 22:29-30 口語訳)
この「めとったり、とついだり」という言葉の語感が、とても良い。
「めとる」は「よめ」を「とる」、すなわち、嫁をもらうということ。
「とつぐ」は「戸」に「つぐ」、すなわち、婚家に入ることだろう。
言うまでもなくそれぞれ、男の場合、女の場合であって、男女それぞれの立場
からの表現が並列され、相互関係になっているところが、気に入っている。
これを英語の辞書で見てみよう。
For in the resurrection they neither marry nor
are given in marriage,
but are like angels of God in heaven.
(the Gospel according to Matthew 22:30 / NKJ訳)
「marry nor are given in marriage」
これではただ、「結婚したり」「結婚させられたり」ということで、能動形と
受動形、すなわち受け身の形が併記されているだけで、男女の関係ではない。
これは文語的なNKJ訳だがさらに、口語的な訳であるTEVを見ると
For when the dead rise to life,
they will be like the angels in heaven and will not marry.
(同 / TEV訳)
ただこれだけである。双方向性すらなくなり、ただ「結婚しない」だけだ。
どうも味気ない。TEVは例えば、「アダムはイブを知った」という訳を、
雅語的な「know」「知る」という表現ではなく、「have
intercourse」「(性的)交渉
を持つ」と訳している。わかりやすいが、理に落ちていてつまらない。
さて、おまちかね、これを韓国語訳で比べてみよう。
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Ye-su-kke-seo tae-dap-ha-yeo ka-ra-si-dae
neo-heui-ga seong-gyeong-do, ha-na-nim-eui neung-ryeok-to al-ji mos-ha-neun go-ro
o-hae ha-yeoss-to-da.
Pu-hwal ttae-e-neun jang-ga-do a-ni-ka-go si-jip-to a-ni-ka-go
ha-neul-eui iss-neun cheon-sa-deul-gwa gath-eu-ni-ra.
(Ma-thae Pog-eum 22:29-30)
うん、美しい。並んだ響きがいい。
jang-ga-do a-ni-ka-go si-jip-to a-ni-ka-go
チャンガド・カゴ、シヂプト・カゴ
jang-ga ka-da チャンガ・カダ 妻の家に行く
si-jip ka-da シヂプ・カダ 夫の家に行く
といった意味で、夫から見た立場、妻から見た立場と、きちんと双方向になって
いるのも、日本語の場合と同じだ。
「めとる」「とつぐ」と、3文字で簡潔に言い切っている日本語よりはやや冗長に
はなるが、「〜かご、〜かご」と「行く」を二度繰り返しているのが、きれいだ。
おそらく原語のギリシャ語でもそうなのだろう。
英語にはこうした男女別の表現が存在しないのだろうか。
これは日本語と韓国語の長所のひとつと、うれしく思える。
もうひとつ、訳の違いについて取り上げておこう。
「天にいる御使のようなもの」
さて、どのようなものだろうか。あまりぴんとこないかもしれない。
これは口語訳だが、ほかの訳では、それぞれこうなっている。
天の御使いたちのようです。 〜 新改訳
天使のようになるのだ。 〜 新共同訳
「天使」、そうか、これならわかりやすい。
前回に「復活」の項で述べたことと矛盾するようだが、私はこの場合には、
新共同訳のほうがいいと思う。同じ漢字語でも「復活」は「よみがえり」に
比べると、少し固い感じがする。そもそも「復活」に一般人はなじみがない。
だが、「天使」という言葉は、日本でもよくイメージが定着している。逆に、
「天の御使」というと、わかりにくくなってしまうのではないか。
私のごく個人的な語感から言うと、「天使」というのは、キューピッドや妖精
のようにかわいらしい羽の生えた幼児のイメージなのだ。だが、「天の御使」と
言うと、これは剣と甲冑で武装した天の軍勢、あるいはガブリエルやミカエル
のような、いかめしい大天使をつい想像してしまう。
英語では、これがNKJもTEVも「angel エンゼル」となっている。
この「エンゼル」もすっかり外来語として、そのイメージが日本語に定着して
いる言葉だろう。「エンゼルマーク」と言えば、我々世代には懐かしい、森永の
ミルクキャラメルの、愛らしい天使のキャラクターがすぐに目に浮かぶ。
韓国語では「cheon-sa」「天使」そのままである。
こうしたイメージには個人差があると思うが、みなさんはいかがだろう。
なお、この個所には、主から示された啓示と、私の思い入れがある。
なき彼女の思い出を、小説に書き綴ってみようとしたことがある。横浜の
ホテルに連泊し、山手を散策し、教会を訪れつつ、書き進めていった。結果
的に、その小説は文学賞に応募したものの、あえなく選外だった。
だが、その過程で、教会で祈り、西洋からの教えの到来と先人の宣教の跡を
偲ぶ途上で、そして、なき人の魂を追慕する過程で、私は教えに目を開かれ、
救われていった。とても良い経験だったと思っている。
その滞在中の時のことだ。
えんじ色の表紙の、ギデオンの英語の対訳版の聖書を、私は携帯していた。
まず小説を書くにあたり、私の心には迷いと悩みがあった。
それは、なき彼女への思いを書いて公に発表すれば、今の妻が悲しむかもしれ
ないということだ。まして、天国で彼女と再会したいなどという話であったら
なおさらだ。
いや、小説の話だけではない。
現実の問題として、もし魂の復活があるとすれば、その時に私は、天国で
彼女と妻と、どちらをとればいいのかという大問題がある。
七人の夫に対して悩んだ女、という話ならば、古代ユダヤならともかく、
日本ではあり得ない異邦の昔話に過ぎない。
だが、連れ合いと死別し、あるいは生き別れて、再婚する人というのは、
現代の日本でも、いや世界中どこにでもある話だ。
それでは、来世がある時に、人はどうしたらよいのだろう。
これは現代人にも切実な問題ではないか。
悩んで私はまず、聖書を開いた。
その時に示された個所こそ、今回のみ言葉なのだ。
そうか、あの人は、今は「天使」になっているのだ。そして、妻も「天使」に
なる。結婚してやればよかった、結婚してやりたい、そんな世俗的な迷いや
悩みから、天国では解放されるのだ。清浄な魂と魂の出会いだけがある。
すっかりうれしくなり、心が晴れ晴れとした。
主イエスの答えはこのようにいつも的確であり、そして、いつも私の悩み
の状況にぴしゃりと符合して、アドバイスを返してくださるのだ。
これが、私が聖書を正しいと信じ、復活を信じるゆえんである。
ちなみに、この「七人の夫」の話は、ルカにもある。
私が示された個所は、マタイのほうなのだが、ルカのほうも参照しておこう。
こちらのほうが、少し記述が詳しくなっている。
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Ye-su-kke-seo i-reu-si-doe
I se-sang-eui ja-nyeo-deul-eun jang-ga-do ka-go si-jip-to ka-doe
Jeo se-sang-gwa mich jug-eun ja ka-un-de-seo
pu-hwal-ham-eul eot-ki-e hap-tang-hi yeo-gim-eul ib-eun ja-deul-eun
jang-ga-ka-go si-jip-ka-neun il-i eops-eu-myeo
Jeo-heui-neun ta-si jug-eul su-do eops-na-ni
i-neun cheon-sa-wa tong-deung-i-yo
Pu-hwal-eui ja-nyeo-ro-seo ha-na-nim-eui ja-nyeo-im-i-ni-ra.
(Nu-ga Pog-eum 20:34-36)
イエスは彼らに言われた、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、
かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、
めとったり、とついだりすることはない。
彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、
神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。
(ルカによる福音書 20:34-36)
こちらのほうが説明が詳しいのだが、反面、ややくどいようにも思える。
この世の子は「めとったり、とついだり」するが、復活する者は「めとったり、
とついだり」することはないと、二度繰り返しているのは、少ししつこい。
また、「死人からの復活にあずかるにふさわしい者」という説明も長い。ただ、
「復活の時には、めとったり、とついだりすることはない。」
と簡潔な言葉で力強く言い切っている、マタイのほうに今回は軍配を上げたい。
もちろんどちらの福音書が勝っているとかいうことではなく、四つの福音それ
ぞれに特長があるのであり、読み比べて味わえる恵みに感謝したい。
なお、ここでは口語訳でも、「天使」が採用されている。他の訳を見ると、
御使いのようであり、 〜新改訳
天使に等しい者であり、 〜新共同訳
新改訳のほうは、「御使い」で、新共同訳のほうは「天使」で通している。
マタイでもルカでも、訳語が一貫しているわけだ。
韓国語では「cheon-sa 天使」、英訳は「angel
エンゼル」とやはり変わりがない。
なぜ、口語訳だけが違うのか。おそらく、ルカはマタイより文章が長くなって
いるので、少しでも簡潔にするために「天使」と短くしたのではあるまいか。
訳語の不統一と批評してしまえばそれまでだが、そうだろうか。
その場その場の文脈を味わい、文章の呼吸、息の長さに応じて、適切な訳を
振り分けているのは、訳者の細やかさでもあると、私は感じる。
〜 2003年 復活節 第3週
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