筑摩教科書  「空と風と星と詩」

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〜 尹東柱没後60年に寄せて 〜             2005.2.16.

【特集】 〜 筑摩書房教科書の「空と風と星と詩」

 今年は戦後六十年、そして韓国の国民詩人・尹東柱の没後六十年に当たる。
 彼は敗戦をさかのぼる半年前の2月16日に、福岡の刑務所で獄死した。
 筑摩書房「現代文」教科書には茨木のり子の随想「空と風と星と詩」が収録されて
いる。先日、その指導書を書く機会が与えられた。その原稿の一部をここに掲載し、
尹東柱の生涯と作品をしのぶよすがとしたい。彼の魂の平安をお祈りする。


 空と風と星と詩     茨木 のり子   (教科書本文)

 韓国で「好きな詩人は?」と尋ねると、
 「尹東柱」
という答えが返ってくることが多い。

    序詩

  死ぬ日まで空を仰ぎ
  一点の恥辱なきことを、
  葉あいにそよぐ風にも
  わたしは心痛んだ。
  星をうたう心で
  生きとし生けるものをいとおしまねば
  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。

  今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

 二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風は、若者をとらえるに十分な内容を
持っている。
 長生きするほど恥多き人生となり、こんなふうにはとても書けなくなってくる。
 詩人には夭折の特権ともいうべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してし
まったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に
水仙のようないい匂いが薫り立つ。
 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。
 一九四五年、敗戦の日をさかのぼることわずか半年前に、満二十七歳の若さで福岡
刑務所で獄死した人である。
 最初は立教大学英文科に留学、やがて同志社大学英文科に移り、独立運動の嫌疑に
より下鴨警察につかまり、福岡へ送られる。
 そこで中身のよくわからない注射をくり返し打たれたという。亡くなるまぎわには、
母国語で何事かを大きく叫んで息絶えたそうだが、その言葉が何であったか、日本の
看守にはわからなかった。だが、
「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました。」
という証言は残った。
 痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない。
 いずれは日本人の手によって、その全貌が明らかにされなければならない人だった
し、その存在を知ってから私も少しずつ尹東柱の詩を訳しはじめていたのだが、彼が
逝ってから三十九年目にあたる一九八四年に、伊吹郷氏によって、全詩集『空と風と
星と詩』の完訳が成った。
 私の気勢はそがれたが、伊吹郷氏のみごとな訳と研究には完全に脱帽で、可憐な
童謡にいたるまで日本語で読めるようになったのは、なんともうれしいことだった。
 原詩を知る者にとっては、なみなみならぬ労作であることがわかるが、そればかりで
はなく、尹東柱の背景を知るために徹底的に足で歩いて調べあげた情熱にも打たれる。
 留学先の東京、京都、福岡刑務所とその足跡をたどり、八十代の元特高刑事とも会い、
あたうかぎりの努力をして、ついに獄死の真相を突きとめられないことを記している。
残念ではあるが、その実証精神にはむしろ信頼がおける。動かぬ証拠で、いずれの日に
かは明瞭になってほしいところである。
 伊吹郷氏にお目にかかった折、調査の過程での日本検察関係の壁の厚さというものを
つぶさに聞くことができた。
 四十年前のことである。なぜそんなに秘密主義、隠蔽主義なのだろうか。日本人で
あれ韓国人であれ真摯な研究者に対しては、もっと資料を公開すべきではないか。
 そしてまた、尹東柱のかつての下宿先やゆかりの地など訪ねて証言を求めようとして
も、だれ一人彼を覚えている日本人もいなかったという。
 写真を見ると、実に清潔な美青年であり、けっして淡い印象ではない。ありふれても
いない。
 実のところ私が尹東柱の詩を読みはじめたきっかけは彼の写真であった。こんなりりし
い青年がどんな詩を書いているのだろうという興味、いわばまことに不純な動機だった。
 大学生らしい知的な雰囲気、それこそ汚れ一点だにとどめていない若い顔、私が子供
のころ仰ぎみた大学生とはこういう人々が多かったなあというあるなつかしみの感情。
印象はきわめて鮮烈である。
 それなのに日本人のだれの記憶にもとどまっていなかった。
 英文学演習八十五点、東洋哲学史八十点とその成績も優秀なのに、教授の印象にもとど
まらなかったのだろうか。魯迅における藤野先生のような存在も一人だになかったのだ。
尹東柱の深い孤独をおもわざるを得ない。

    たやすく書かれた詩

  窓辺に夜の雨がささやき
  六畳部屋は他人の国、

  詩人とは悲しい天命と知りつつも
  一行の詩を書きとめてみるか、

  汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
  送られてきた学費封筒を受けとり

  大学ノートを小脇に
  老教授の講義を聴きに行く。

  かえりみれば 幼友達を
  ひとり、ふたり、とみな失い

  わたしはなにを願い
  ただひとり思いしずむのか?

  人生は生きがたいものなのに
  詩がこう たやすく書けるのは
  恥ずかしいことだ。

  六畳部屋は他人の国
  窓辺に夜の雨がささやいているが、
  灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、
  時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

  わたしはわたしに小さな手をさしのべ
  涙と慰めで握る最初の握手。

 尹東柱が抵抗詩人か否か、韓国でもいろいろ論議されているが、朝鮮語弾圧の当時、
敢然とハングルで書いたこれらの詩は、手紙と一緒に送られた友人が、甕に入れ地下深
く隠して保存したため残ったという。
 それらを全部集めても百余編、日本の官憲に押収された詩は、あと行方知れず。
 そのころ、ハングルで詩を書くことじたいが大変な抵抗であったと言える。あと半年
生きのびたら、戦後の故国で第一線の活動をすぐさま開始できた人だったろう。
 生前は一冊の詩集もなく、無名の青年だった。

 一九八四年秋、日本で尹東柱の実弟、尹一柱氏にお目にかかることができた。
 一柱さんは建築学者で、成均館大学教授でもあるのだが、たまたま東大生産技術研究
所の客員教授として来日されていた。
 尹東柱の詩に「弟の印象画」というのがあり、彼の詩の中でもっとも好きな一編で
あったから、その弟さんに実際お会いできたことに感慨ひとしおであった。

    弟の印象画

  あかい額に冷たい月光がにじみ
  弟の顔は悲しい絵だ。

  歩みをとめて
  そっと小さな手を握り
  「大きくなったらなんになる」
  「人になるの」
  弟の哀しい、まことに哀しい答えだ。

  握った手を静かに放し
  弟の顔をまた覗いて見る。

  冷たい月光があかい額に射して
  弟の顔は哀しい絵だ。

 十歳違いの幼い弟の、手の感触まで伝わってくるようだ。「人になるの」は「人間になる
の」とも訳せるが、いずれにしても兄貴の意表をついた答えで、それが一編の詩を成立
せしめたといえる。
 犬も犬たらんとし、猫も猫たらんとするのだろうか? 人は生まれた時は動物にすぎな
いが、長い間かかっておそらくは死ぬ寸前まで人間たらんとする志向を持続するふしぎ
ないきものだ。
 尹東柱もそういう志向の強い人だったからこそ、幼い弟の「人になるの」という返事に
打たれ、反応したのだろう。
 しかも、この弟が成長するころ、今のままの母国では正当な人間にもなれないのでは
ないか、という暗澹たる思いが、「弟の顔は哀しい絵だ」という行になって噴き出している
ような気がする。
  幼いころのあどけない予言のごとく、弟の一柱さんは、今、五十八歳ぐらいか、まさしく
りっぱな「人になって」その時の兄との問答は、かすかにかすかに覚えていると言われる。
 篤実で陰翳深いお人柄、そこはかとない茶目っ気もあり、
「私はなんだか兄の後始末をするために生まれてきたようで……。」
 ほほえみながら言われたが、確かに散逸したまま残された詩稿を、今日見るように
整然と跡づけ、詩集としてまとめられたのも弟さんだし、延世大学にある尹東柱詩碑の
設計をされたのも一柱さんである。
  専門の仕事を進めるかたわら、どれだけ多くの時間と労力を兄上のために使われたことか。
 その時、夫人とお嬢さんも御一緒だったが、
「この子は伯父(尹東柱)を大変誇りに思っております。」
と夫人は言われ、その大学生のお嬢さんは、はにかみながら澄んだ声で「星をかぞえる夜」
一編を朗読してくださった。
 一柱さんは淡々と言われた。
「このごろ、父のことをよく思うのですよ、どんな思いで兄の骨を抱いて、福岡から釜山、
それから汽車にゆられて北間島(旧満州)の家まで戻っていったのかと……。」
 朝鮮半島の端から端までの長い道のり、当時はいったいどれぐらいの時間がかかった
ものだろう。遺骨を抱いて、忿懣やるかたない父君(死亡)の、当時の心情をおもいや
る息子の言葉は、どんな烈しい弾劾よりも、ぐさりとこちらの胸を刺した。
 尋常ではない息子の死は、親にとっては、はっきりと虐殺と受けとめられていたはず
である。
 なんでもない世間ばなしのように言われた一柱さんの言葉が、こんなにも強くまっす
ぐにこちらの心に届くとは……。伝達のメカニズムということにも思いを至さないわけ
にはいかなかった。
 数年前、私は船で下関から釜山まで、玄海灘を渡ったことがある。夕方出航し、だん
だんに九州も遠ざかり、海のいろも藍壺のように濃くなり、六千トンの船も一枚の木の
葉のようにたよりなく、よるべなく、大きなうねりに身を任せていた。
 荒れると聞いていた玄海灘も、その日はおだやかで、刻々変わる海のいろ、夕日、
漆黒の闇、またたきはじめ、やがて満天にきらめき出す初秋の星座、島の灯かと見まが
ういかつり船、それらに目を凝らしつつ私は深夜まで甲板を離れることができなかった。
 晴夜であったにもかかわらず、私のまわりを濃霧のようなものが取りかこんでいた。
空気が濃密と言ったほうが当たっていただろうか。
 なんともいえない哀しみの気。ぞっとするようなものではなく、さりとてさわやか
でもない霊気。あえて言えば歴史の悲愁とでも名づけたいような何か。
 古代からもっとも早くひらけた海の道、数知れぬひとびとの往還、あまたの思い、
波の上にも波の下にも濃く漂う目には見えない何か。
ふだんけっして霊感の強いほうではないので、この時の異様な感覚はあとあとまで残った。
 今にして思えば尹東柱のおもいも、遺骨を抱いて帰った父君のおもいもあのなかに
混じっていたのだ。あとで知ったことだが、骨壺に入りきらなかった尹東柱の骨灰を、
父君は玄海灘にまきちらしたという。

 弟の一柱さんと話していると、そのお人柄にどんどんひきつけられていった。私の
脳裡に「人間の質」という言葉がゆらめき出て、ぴたりと止まった。あまり意識して
こなかったけれど、思えば若いころからずっと「人間の質とは何か? どのように決定
されるのか?」ということを折々にずいぶん長く考えつづけてきた、見つづけてきた、
という覚醒が不意にきた。
 ふしぎな体験だった。
 それも尹一柱さんというすばらしい「人間の質」に触れ得て、照らしだされてきた
ことで、いきおい兄である尹東柱もまた、こういう人ではなかったか? と想像された。
 もの静かで、あたたかく、底知れぬ深さを感じさせる人格。
 だが三年間近くの日本留学生時代、伊吹郷氏の丹念な調査にもかかわらず、だれ一人、
彼を記憶していないということは……なんとも言えない情けなさである。
 ともあれ尹東柱・一柱兄弟に出会えたことは、最近の私の大きな喜びである。


指導書解説より  (初案・一部抜粋)      てじょん こと 大田雅一

学習の目標
○茨木のり子の詩論を通じて、尹東柱の生涯と詩について筆者がどのように理解し
愛着を持っているかをとらえる。
○本教科書には詩の単元がないので、尹東柱の訳詩を鑑賞して詩的表現や叙情の
特徴について考え、詩の本質を理解していく。
○尹東柱の詩を通じて、韓国の詩、抵抗の詩、またキリスト教の詩の特質をとらえ、
ひいては日本の詩の理解に役立てる。
○日韓の歴史と交流について、過去の不幸な経緯を十分に理解しながら、現在および
将来の発展的な関係について考える。

 尹東柱の詩に関する評論が旧版の筑摩書房の現代文教科書に載ったことは、ひとつの
画期的な出来事だった。韓国でも日本の高校の国語教科書に韓国の代表的詩人の詩が
載ったことが、マスコミでも好意を持って大きくとりあげられた。
 もちろん尹東柱はあくまで韓国の詩人であり、彼の詩は韓国の詩である。だが日本の
国語教科書にも従来、西洋文学の詩や小説、中国の古典や現代文学の翻訳は多く載せら
れてきている。隣国の文学が取り上げられない理由はない。
 韓国語を少しでも学んだことがある者は、その日本語との非常な類似に誰しも驚く。
世界の中では双生児の言語と言ってもよいくらい、その膠着語的な構造は似ている。
中国語や印欧語と比べて、文法構造などはまさに瓜二つと言ってよい。
 韓国は日本の「合わせ鏡」とよく言われる。人は自分と全く違ったものだけではなく、
よく似ているが少し違うものを見た時に自分の特質について理解するものだ。韓国の
文学と言語の理解が、日本の文学と言語の見直しにも役立つと信じる。

 さらに茨木のり子の文章は、尹東柱と韓国への深い愛着に満ちているし、何よりも
彼女自身の詩人としての鋭い感性と叙情的な表現があいまっている。詩と鑑賞と随想
が一体となった、日本語の名文として、生徒に読み味わわせたい。
 また日本と韓国の歴史には、過去に不幸な歴史が見られた。尹東柱が日本の官憲に
捉えられて不幸な死を遂げたことは、両国の暗い過去として、日本人の負い目と責任を
筆者も示唆しているし、生徒にも理解させる必要があるだろう。
 だが同時に筆者が尹東柱の実弟である尹一柱との会話、特にその優しい調子の言葉を
挙げ、その「人間の質」を考えていることは、過去の「恨」のみにとらわれぬ両国の
発展的な未来の関係を託するものとして、読むものに希望を示している。

 さらに尹東柱がクリスチャンの詩人であったことはもっと注目されてよい。というより、
キリスト教的な背景を抜きにしては彼の詩の本質は語れない。この点について、従来の
研究が必ずしも十分であったとは言い難いように見える。
 日本ではクリスチャン人口は一%だが、西欧を初め世界的には比率が高い。韓国でも
三割がそうだ。国際的理解に必要なのに日本人に欠けているのがキリスト教的視点だ。
もちろん宗教の押付けではなく、文化的理解のために考察しておきたい。
 なお、尹東柱の詩と生涯については、十年前にこの教材が初めて採用されたころと
比べると日韓でずいぶん研究や鑑賞が進んでいる。

出典
 『ハングルへの旅』(一九八六年刊行・朝日新聞社)のうちの「こちら側とむこう側」
の一章「尹東柱」によった。教材化するにあたって、原文を変更した箇所がある。

主題
 茨木のり子の文章も良いが、主題は尹東柱の生涯と作品である。茨木さんも尹東柱を
紹介しようと心から意図した文章になっている。日本の高校生たちに、韓国の有名な
詩人を知ってもらうことは、日韓の文化交流の上でも有意義だろうし、また詩の表現や
抒情を学ぶ上でも参考になるものがあろう。
 同時に、韓国と日本の過去の不幸な関係についても、茨木さんは強く主張している。
尹東柱の悲劇的な生涯を通して、日本の植民地時代の行為、日本語の強制や創氏改名、
特高の弾圧といった事実にも触れている。こうした過去の歴史も主題であり、それを
知ることで未来の日韓関係が構築されるだろう。

茨木のり子
 本名・三浦のり子。一九二六(大正十五・昭和元)年生。
 大阪府生まれ。父は長野出身の宮崎洪で医師。母は山形出身の勝。長女として父の
勤務地で生まれた。京都・愛知に転居。
 一九四三(昭和十八)年、帝国女子大学薬専(現・東邦大学薬学部)入学、四六年
九月卒業。薬学を選んだのは女性を自立させようという父の意図だったが、文学に
ひかれるようになる。読売新聞主催の第一回戯曲募集に応じて、「とほつみおやたち」
が選外佳作となり、父を説得して文学に進む。
 脚本を書いたことから、山本安英と知遇を得て戯曲を学ぶが、詩も読むうちに金子
光晴に傾倒して詩人を志していく。四九年、医師の三浦安信と結婚し、この頃から詩作
を始める。
 ペンネームを考えていた時、ラジオから歌舞伎の長唄「茨木」が流れて、「鬼の我執と
いうか、自我にあやかりたいと思って、ヒョイとつけた」という。
 一九五三(昭和二八)年、川崎洋とともに詩誌『櫂』を創刊。谷川俊太郎、吉野弘、
大岡信などが『櫂』同人となっていく。
 詩集に『対話』『見えない配達夫』『鎮魂歌』『人名詩集』『自分の感受性くらい』
『寸志』『食卓に珈琲の匂い流れ』『椅りかからず』など。訳詩集に『韓国現代詩選』、
随筆に『言の葉さやげ』『ハングルへの旅』『一本の茎の上に』、詩評に『詩のこころを
読む』(岩波ジュニア新書)など。
 高校の教科書にもよく詩や文章が採られている。

戦争と共にあった青春
 茨木のり子の青春時代は、戦争と共にあった。
 小学校五年の時に、日中戦争が起きる。この頃、生母が死ぬ。そして、愛知県立西尾
女学校三年の時に、太平洋戦争が起きた。女学校では、女生徒たちに号令をかけて指揮
する中隊長で、農家の勤労動員で農作業に明け暮れることも多かった。
 四三年に上京して帝国女子薬専に入学した後、戦況はとみに敗色を濃くし、連日連夜
の空襲に脅かされる。魂は教室からさまよい出て、青春の苦悩に自殺を考えたりしたと
いう。
 四五年に空襲に被災して帰省したが、東海大地震で医師の父は被災者の手当に忙殺さ
れている。自身も動員令を受けて再び上京する。東京世田谷区の海軍療品廠で一ヶ月半
勤労奉仕をさせられた後に敗戦を迎えてようやく帰郷する。
 進駐軍を恐れて、頭巾をかぶって登校していたという。
 自分の美しい盛りの青春が、このように戦争のため顧みられなかったことに対する
哀しみ、また犠牲となっていった青年たちへの鎮魂を歌いあげたのが、教科書にもよく
載っている名作「わたしが一番きれいだったとき」だ。

茨木のり子は「抵抗詩人」か
 茨木のり子は本文の中で、尹東柱は抵抗詩人かどうか、という問いを発している。
そして、そうだと結論している。
 では、私は問いたい。茨木のり子さんは抵抗詩人だろうか。そして私は結論したい。
茨木さん自身も抵抗詩人だと。
 彼女の立場は常に平和を希求し、反戦の精神に満ちている。これは先に述べたような
彼女の青春時代の反映だろう。権力というものに対して、疑惑の目と抵抗の姿勢を
持っている。
 だが、彼女はそれらを声高なあるいは難解な政治的メッセージではなく、優しく
わかりやすい言葉で、時には諧謔や揶揄、ユーモアを込めた表現で、そして美しい
抒情で歌いあげる。
 これが彼女が叙情的でありながら抵抗詩人であるゆえんで、実はこの点、後述する
ように尹東柱の特性と似ている。この韓国の詩人にひかれたのも、同質なものを見た
からではないか。
 また、彼女は常に、虐げられている者、社会的な弱者、差別されている少数者など
に、優しい理解と同情の目を向けている。日本における中国人や朝鮮人に対して、
熱いシンパシイと胸を焦がす良心の痛みを訴える詩は、ずいぶん早くから書かれる。
 早い時期の代表作として、『鎮魂歌』の「七夕」がある。
 また、長詩になるが、「りゅうりぇんえんの物語」は圧巻であり、叙事的なストー
リーを最後までぐいぐいと引き込んで読ませ、読後に涙を禁じえない傑作だ。
 『穴にかくれて十四年』というノンフィクションの実話をもとにしている。
北海道の炭鉱に強制連行で送られて逃亡、日本の山中に隠れて十四年過した中国人、
劉連仁の半生を読んだ詩である。このような、戦争の時代が生んだ差別に対して、
作者は真正面から取り組んできた。
 こうした抵抗詩人としての一貫して通じる真摯な生き方の上に、『ハングルへの旅』
があるのだ。

『ハングルへの旅』〜朝鮮語への動機
 茨木のり子の韓国への関心と愛着は、若い頃からのものであった。その長年の思いが
一冊に凝縮されたのが、『ハングルへの旅』であり、「尹東柱」(教科書では「空と風と
星と詩」と改題)はその最後を飾る文章である。
 ではなぜ、茨木のり子はハングルに興味を持ったのか。
 『ハングルへの旅』初めの「動機」にそれが詳しく述べられている。この文章は桐原
書店の現代文にも採られている。
 その中で彼女は、うまく説明できない、たった一つで簡潔に答えられないとして、
さまざまな理由を挙げている。
 金素雲の『朝鮮童謡集』(岩波文庫)を、十五歳の少女時代から愛読して隣国の民謡
の神髄に触れ、言葉のわかりやすさ、素朴さ、愛情表現の機智にひかれたこと。これは
「古典派」か。
 古代史を読むのが好きだと「古代史派」の要素もあり、戦後に解放された古代史研究
にひかれ、朝鮮語の視点から『古事記』を読み直してみたいと思ったこと。
 日本の詩人として、まず隣国の詩人たちの詩を読み味わい、作品を少しずつ訳して
移しかえようとしていること。これはいわゆる「文学派」になろう。
 韓国の女流詩人、洪允淑(ホン・インスク)さんが来日した折に話して親交を持つ
ようになり、文通をしていること。こうした個人の交際から始まる「交流派」もよくある。
 洪さんたちの世代が、過去の植民地時代に日本語を強制的に学ばされたことに思い
至り、今度はこちらが汗水たらして朝鮮語を学ばなくてはならないと思った、これは
「贖罪派」とも呼ぶべきで、こうした一種の良心から入る人も多い。
 それから、朝鮮から渡来した仏像、高麗青磁などの焼き物、李朝民画などの美術品
から入っていく「美術派」。
 もしかすると、母方の祖母が「朝鮮に行きたい」と言って骨董にひかれていたこと
から、渡来人の血筋があるのではないかという「ルーツ派」、これは在日コリアンは
もちろん、日本人の多くが渡来の血筋を引いていることにあるかもしれない。
 さまざまな理由を挙げているが、ここには朝鮮語にひかれる一般の人たちの心理も
投影されていて興味深い。私事になるが実はこの指導書の原稿を書いている私自身、
茨木さんのように多様な理由から朝鮮語にひかれていったのでよくわかる。
 近年は、これに加えて、韓国のドラマや映画から関心を持ったという「芸能派」も
多いことだろう。
 このようにいろいろ挙げて、最後に彼女は言う。
 こんなふうに動機は入り組んでいるから、最近はただ、
 「隣の国のことばですもの」
 ということにしていると。単純明快な答えである。
 そう、ただ隣国の言葉だから、そういうシンプルで素朴なスタンスから学んでいく
人がいてもいいではないか。そういう人たちが増える時に、日韓の摩擦とか誤解という
ことも減って少しは相互に理解ができるようになってくると思う。
 さて、茨木のり子はこのように動機を挙げた後で、韓国語の実際についてこと細かに
述べていく。単なる概論でなく、大変細やかな日韓のことばの言語文学論・比較文化論
になっているところはさすが言葉に鋭い詩人と感心させられる。
 ぜひご一読をお勧めしたい。

尹東柱
生い立ち
 尹東柱(ユン・ドンジュ)は、一九一七年十二月三十日、当時「満州」と呼ばれてい
た中国東北部の間島(カンド)省(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)の明東(ミョンドン)
村で生まれた。一族は朝鮮が日本の植民地となる以前に移住してきた開拓民で、敬虔な
キリスト教徒であった。この間島は国を追われた多くの朝鮮人の移り住んだところで、
抗日独立運動の中心で民族主義が強かった。一方で日本が満州進出の拠点とした地で、
日本軍による抑圧も強かった。
 ここで幼少期を過した彼の精神に、民族主義とキリスト教は大きな影響を及ぼし、
その作品にも反映されている。

中学時代
 一九三一年三月に明東小学校を卒業し、一時中国人小学校で学ぶが、一九三二年四月
近郊の龍井(ヨンチョン)のキリスト教主義の四年制の恩真(ウンジン)中学校に入学
した。この中学時代の詩が現在残っている最も古い彼の詩である。
 一九三五年九月、恩真中学校を中退し平壌(ピョンヤン)の五年制のミッション系
学校崇実(スンシル)中学に転校した。転校の理由は故国朝鮮に留学したかったことと、
上級学校への進学に備えるためだった。この時期に旺盛な創作意欲を示し、学友会誌に
詩が載ったのが活字になった最初だった。
 だが、まもなく大きな試練に直面する。それが神社参拝問題だ。日本は併合後、各地
に神社を建て参拝を強要していたが、三十年代に入りミッション系学校にもそれを強制
し始めた。学校はこれを拒否し廃校を迫られる。尹東柱ら学生は抗議し三六年三月同盟
して退校した。学校は三八年三月廃校になる。
 結局彼は再び龍井に戻り、嫌っていた親日系の光明(クァンミョン)中学に入学する。
当時、龍井で五年制の学校は光明しかなく、五年制でないと上級学校への進学が困難
だった。この時期に彼は多くの童詩を書き残している。

専門学校時代
 一九三八年四月、彼はソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校〔現在の延世(ヨンセ)大学〕
文科に入学する。父は医学を薦めて対立するが、彼の文学志向は根強かった。当時の
延専は数少ない民族学校でミッション系学校でもあった。
 延専時代の四年間は、日本の統治政策の強化された時期であったが、彼の短い人生の
中で最も充実した時代でもあった。良き師や友人に恵まれて文学修行が進んだ。全国紙
の『朝鮮日報』学生欄や、延専の文芸誌『文友』に作品を発表した。
 「序詩」「弟の印象画」「星を数える夜」「夜明けがくるときまで」「十字架」など、
民族主義とキリスト教精神がうかがえる代表作がこの時期に書かれている。
 先達の詩作にも関心を持ち、日本人作家では、立原道造、三好達治、北原白秋、小川
未明などを読んでいる。
 だが、自選詩集の発表に失敗し、日本の学校への進学問題に悩む。結局日本に留学
するが、渡航証明書を得るため創氏改名をして「平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)」と
名乗った屈辱と自責を詩「懺悔録」に残している。

留学時代
 一九四二年三月、尹東柱は太平洋戦争下の日本に渡り、四月二日東京のミッション系
の立教大学文学部英文科(選科)に入学し、四ヶ月を過ごす。
 この東京時代に故国の友人に送った詩五編のみが残る。その一つが「たやすく書かれた
詩」である。
 のち東京を去り、一九四二年十月京都の同志社大学文学部英文科(選科)に転入学した。
同志社もやはりミッション系であり、尊敬する詩人・鄭芝溶(チョン・ジヨン)が留学
していた学校でもあった。また、いとこで幼なじみの宋夢奎(ソン・モンギュ)が京都
帝大文学部史学科(選科)で学んでいたことも、転学の理由のひとつとされている。
 だが、宋夢奎は独立運動家として特高にマークされていた。ついに一九四三年七月
十四日、尹東柱は京都下鴨警察署により独立運動の嫌疑で逮捕される。宋夢奎も主犯
として逮捕された。
 京都時代の詩作は押収され、所在不明である。
 翌四四年三月三十一日、京都地方裁判所で治安維持法違反の罪で懲役二年の判決を
受け、福岡刑務所で一年近く服役。
 四五年二月十六日、獄死した。宋夢奎も三月十日に獄死。遺骨は父に引き取られ、
三月六日に故郷龍井の東山(トンサン)教会墓地に葬られた。享年二十七歳。
                 (宇治郷 毅「尹東柱の生涯と詩」による)

詩集「空と風と星と詩」
 詩集のタイトルは最初「病院」のつもりだったという。当時の社会が「病院」ばかり
だからという意図だった。だが、結局は今の題名に落ち着く。「病院」より叙情的で
適切だろう。
 題意だが、四つのものが並べられている。まず「空」。これは「ハヌル」で神の
おわす「天」または「神」そのものを示す。「風」と「星」は「序詩」に見られるよう
に、時代に吹く厳しい風潮の「パラム」と、希望の星の「ビョル」であろう。
 そして、それらを美しく歌い上げるのが、自分に与えられた詩人の天命によって
生まれた「詩」であった。
 一九四一年十一月二十日、今まさに太平洋戦争の幕が切って落とされようという時、
詩集の序となる「序詩」が書かれた。
 彼はそこで、今まで書いた詩の中から十八篇を自選する。
 それらの詩の表題は、以下のとおりである。
 @自画像 A少年 B雪ふる地図 C帰って見る夜
 D病院 E新しい道 F看板のない街 G太初の朝
 Hまた太初の朝 I夜明けが来るときまで J怖しい時間
 K十字架 L風が吹いて M貧しい同族 N眼を閉じてゆく
 Oもうひとつの故郷 P道 Q星をかぞえる夜
 詩集のタイトルは『空と風と星と詩』とし、延専の卒業記念に出版するつもり
だった。七十七部発行の予定だったという。この「七十七」という数にも、彼の信仰が
感じられる。「七」はキリスト教の聖数であるから。
 だが、詩稿を読んだ先生に、時局柄、ハングルの詩集を出版することはまずかろう、
「十字架」「もうひとつの故郷」など内容的にも当局の検閲を通るまいと言われて
見合わせる。
 卒業後、ソウルから帰郷した時になんとか出そうとするのだが、何よりも先立つ
資金がなくて出版は実現しない。
 尹東柱はそのことを大変残念がっていたようで、「三百円あればなんとかなるんだが」
と周囲にもらしていたらしい。
 彼が獄中でなくなった後に、弟の一柱が遺志をついで詩集を発行する。天国で彼は
喜んでいることだろう。

尹東柱は「抵抗詩人」か
 尹東柱は「抵抗詩人」であったか、これは本文中で問われていた問いである。これに
対しては、然り、と答えたい。
 日本の統治時代、朝鮮語の使用が禁止されていた時代に敢然とハングルで詩を書いた
ことだけでも、そうであると茨木のり子は主張している。故国の韓国や朝鮮でも、民族
詩人、抵抗詩人という評価は固まっているようだ。
 だが、単に「抵抗詩人」であるだけではない。彼の美質は同時にまた「抒情詩人」
でもあったことにある。
 中野重治は「あかまんまの歌を歌うな」と言った。
 だが、尹東柱は美しい抒情詩を書き、空を歌い風を歌い星を歌う。あどけない童詩も
書き、花を歌い鳥を歌い子供を歌う。
 もし、彼が声高な政治的メッセージを単刀直入に訴える抵抗詩を書いていたらどう
だろうか。もちろん、「抵抗詩人」「民族詩人」という評価は変わらないだろうが、
今ほどに、母国で、そして日本でも広く愛読される詩人とはなっていなかっただろう。
すぐれて叙情的であり、また自分でも真摯に問いかけ深く迷い悩んでいるその生き方
の姿勢が、現在も多くの読者の共感を誘うのではなかろうか。
 本文に登場する実の弟、尹一柱のお人柄もまた同様だ。茨木のり子は弟君の人格に
接して、兄の東柱も同じような性格ではなかったかと推察している。正しいのだろう。
 生前に彼に接していた、親族や友人たちの証言からも、その温厚で静かで内面的で、
シャイで内気とも言える人物がうかがえる。「文は人なり」という言葉を思い起こす。
 だが、その優しい風貌と文章の中に、きりりと筋の通った芯の強さがある。同じく
透明な叙情を持つ詩人、立原道造と比較して茨木のり子は言う。
 尹東柱は「はるかに鬱屈の度合いが強く」「核というか芯がありたえずそこに集約
されていき、隠された意味も重く深い」と。その鬱屈こそ、当時の朝鮮の置かれた状況
であり、また核と芯とは、民族主義とキリスト教精神であろう。
 あえてハングルの詩を書き続け、獄死を選んでしまった彼は、民族主義としては
「殉国」の詩人であり、キリスト教精神としては「殉教」の詩人だった。

受難への道のり
 尹東柱はクリスチャンの詩人だった。彼の詩と生涯を、この観点から読んでいくこと
が理解のために必要と思われる。
 彼はなぜ、殺される危険の高い日本にあえて出かけたのだろうか。単に、日本の大学
で勉強するためだけなのだろうか。
 蔵田雅彦は「受難への道のり」として次のように述べる。
 「戦時体制下において日帝の懐にあえて向かった東柱。独立運動家として当局の監視
下に置かれていた、いとこの夢奎の後をあえて追っていった東柱。おそらくは自らの
受難を覚悟した上での東柱の渡日を、イエスのエルサレム行きと重ね合わせて見ること
はあながち無理ではないように思えるのである。
 イエスが自らの死を予知していたことを、福音書記者は受難予告という形で、ドラマ
の伏線のように記している。
 (例えば、マルコ八・三一、九・三一、一〇・三三など)
 東柱も日帝支配のど真ん中に入り込んで、死を覚悟の上で朝鮮語の詩を書き続けた。
京都時代の詩をわれわれは今見ることはできないが、すでにそれ以前の詩の中に自らの
受難を暗示するような言葉が残されているのではなかろうか。」
 なるほど、そう言われてみれば、彼の詩には最初からそうした予告のような言葉が
見られる。
 代表作の「序詩」からして、
 「死ぬ日まで天を仰ぎ 一点の恥辱なきことを」
 死ぬ予感、そして、天すなわち神に対して恥のないような生き方、死に方をしたいと
いう決意表明がある。
 さらに、教科書の本文に採り上げられた詩でも
 「たやすく書かれた詩」には、
「時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし
 わたしはわたしに小さな手をさしのべ
 涙となぐさめで握る最初の握手」
 と、自らの最期と、そして、時代の夜明けを待つ復活のイメージが読み取れる。
 教科書の本文では割愛された詩「もうひとつの故郷」では
 「白骨にこっそり
  美しいもうひとつの故郷へ行こう」
 という言葉に、物質的な死を乗り越えて、精神的な魂の故郷、天国に行こうという
メッセージがある。
 また、尹東柱の姪が茨木のり子に朗読したという詩「星を数える夜」でもさらに明確に、
 「しかし冬が過ぎわたしの星にも春がくれば
  墓の上に緑の芝草が萌えでるように
  わたしの名がうずめられた丘の上にも
  誇らしく草が生い茂るでしょう」
と自らの終末を予告し、それはイエスの埋葬と復活に重ね合わせているように見える
描写がある。
 さらに、最もキリスト教的な詩「十字架」ではこう言う。
 「イエスキリストのように 十字架が許されるなら
  頸をたれ 花のように咲き出す血を
  たそがれゆく空のもと 静かに流しましょう」
 このように、尹東柱はイエスにならって受難に殉教した。だからこそ、「敵を許せ」
と言ったイエスの教えのように、日本人をも許したいと願っていたのであろうし、さらに、
日韓の境を越えて、罪ある者たちが許され和解することを祈っていたはずなのである。
 尹東柱の魂が天に召されていることを、そして日韓の、また世界の平和が実現する
ことをお祈りして、筆を置きたい。


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