尹東柱を読む L 「ツルゲーネフの丘」

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〜 阪神大震災十周年に 〜

【ローマ字表記】

Theu-ru-ge-ne-pheu-eui eon-deok

Na-neun ko-ges-kil-eul neom-go iss-eoss-ta... Keu-ttae se so-nyeon keo-ji-ga na-reul ji-na-chyeoss-ta.
Cheos-jjae a-i-neun jan-deung-e pa-gu-ni-reul tul-leo-me-go, pa-gu-ni sog-e-neun sa-i-da-byeong, kan-jeu-me-thong, soes-jo-gak, heon yang-mal-jjak deung phye-mul-i ka-deuk-ha-yeoss-ta.
Tul-jje a-i-do keu-reo-ha-yeoss-ta.
Ses-jje a-i-do keu-reo-ha-yeoss-ta.
Theop-su-rok-han meo-ri-theol, si-kheo-meon nun-mul ko-in chung-hyeol-doen nun, saek ilh-eo phu-reu-seu-reum-han ip-sul, neo-deul-neo-deul-han nam-ru, jjij-gyeo-jin maen-bal,
A-a, eol-ma-na mu-seo-un ka-nan-i i eo-rin so-nyeon-deul-eul sam-khi-eoss-neu-nya!
Na-neun cheug-eun-han ma-eum-i um-jig-i-eoss-ta.
Na-neun ho-ju-meo-ni-reul twi-ji-eoss-ta. Tu-thum-han ji-gap, si-gye, son-su-geon... iss-eul geos-eun joe-da iss-eoss-ta.
Keu-reo-na mu-theok-tae-go i-geos-teul-eul nae-jul yong-gi-neun eops-eoss-ta. Son-eu-ro man-ji-gak man-ji-gak-geo-ril ppun-i-eoss-ta.
Ta-jeong-seu-re i-ya-gi-na ha-ri-ra ha-go "Yae-deul-a" pul-leo-po-ass-ta.
Cheoj-jjae a-i-ga chung-hyeol-doen nun-eu-ro heul-kkeum tol-a-da-bol ppun-i-eoss-ta.
Tul-jjae a-i-do keu-reo-hal ppun-i-eoss-ta.
Ses-jjae a-i-do keu-reo-hal ppun-i-eoss-ta.
Keu-ri-go-neun neo-neun sang-gwan-eops-ta-neun deus-i ja-gi-ne-kki-ri so-gun-so-gun i-ya-gi-ha-myeon-seo ko-gae-reul neom-eo-gass-ta.
Eon-deok wi-e-neun a-mu-do eops-eoss-ta.
Jith-eo-ga-neun hwang-hon-i mil-lyeo-deul ppeun ---

【試訳】

ツルゲーネフの丘

 私は峠の道を越えていた。その時、三人の少年の乞食が私の横を通り過ぎて行った。
 最初の子は背中にかごを背負い、かごの中にはサイダー瓶、缶詰めの缶、鉄くず、古靴下の片割れなどの廃品がいっぱいだった。
 二番めの子もそうだった。
 三番めの子もそうだった。
 ぼさぼさの髪の毛、まっ黒な顔に、涙のにじんだ充血した眼、色あせ青ざめた唇、たれさがったぼろの服、傷だらけの裸足、
 ああ、どれほど怖ろしい貧しさがこの幼い少年たちを飲み込んだことか!
 私にはあわれみの心が起こった。
 私はポケットをさぐった。分厚い財布、時計、ハンカチ……あるべきものはみなあった。
 しかしおいそれとこれらを出してやる勇気はなかった。手でいじり回すだけだった。
 親しげに話でもしてやろうとして、「おいちょっと」と呼びかけてみた。
 最初の子は充血した眼でちらっとふりかえるだけだった。
 二番めの子もそうするだけだった。
 三番めの子もそうするだけだった。
 そうしておまえは関係ないというように自分ら同志でひそひそ話をしながら峠を越えて行った。
 丘の上には誰もいなくなった。
 濃くなってゆくたそがれが押し寄せるばかり……

【語句】
Theu-ru-ge-ne-pheu ツルゲーネフ eon-deok 丘
ko-ge 峠 neom-da 越える

so-nyeon 少年 keo-ji 乞食 ji-na-chi-da 通り過ぎる
cheos-jjae 最初、一番め  tul-jje 二番め ses-jje 三番め
jan-deung 背中(deung背 の俗語) pa-gu-ni ざる、かご
tul-leo-me-da 背負う <= tu-reu-da まとう、巻く + me-da 担ぐ
sa-i-da サイダー byeong 瓶
kan-jeu-me「カンヅメ」缶詰め ※おそらく日本語から入った言葉
thong 筒、缶  soe 鉄 jo-gak 切れ soes-jo-gak 鉄くず heon 古い
yang-mal 靴下 jjak (一組のものの)片方 phye-mul 廃物、廃品
ka-deuk-ha-yeoss-ta いっぱいだ

keu-reo-ha-ta そうだ、そのようだ、そのとおりだ
theop-su-rok-han (髪やひげが)もじゃもじゃだ、ぼさぼさだ
meo-ri-theol 髪の毛 theol 毛
kkeo-meoh-ta (煙などが)黒い si-kkeo-meoh-ta 真っ黒だ〔強調形〕
kka-mah-ta (瞳などが)黒い sae-kka-mah-ta 真っ黒だ〔強調形〕
ko-i-da = koe-da にじむ、たまる、よどむ 
chung-hyeol-doe-da 充血する saek 色 ilh-ta 失う
phu-reu-da 青い phu-reu-seu-reum-ha-da 青みがかっている
neo-deul-neo-deul-ha-da (筋状のものが)垂れ下がってゆれるようす
nam-ru〔襤褸〕ぼろ
jjij-ta 破る、裂く jjij-eo-ji-da 破れる、裂ける maen-bal 素足、はだし

eol-ma-na どんなに、どれほど mu-seop-ta => mu-seo-un おそろしい、ひどい
ka-nan-ha-da 貧乏だ、貧しい ka-nan 貧乏
sam-khi-da 飲む、飲み込む 〜neu-nya. 〜のか。
cheug-eun〔惻隠〕ha-da 哀れだ、いたましい、ふびんに思う um-jig-i-da 動く、ゆれる
ho-ju-meo-ni ポケット、ふところ twi-ji-da くまなくさがす
tu-thum-ha-da 分厚い、厚ぼったい、余裕がある tu-kkeop-ta 厚い
 〔参考〕tu-theop-ta 情が篤い teop-ta 暑い tteu-geop-ta 熱い
ji-gap 財布 si-gye 時計 son-su-geon ハンカチ joe-da みな、すっかり
mu-theok-tae-go むやみに、やたらに、むこうみずに、無鉄砲に
nae-ju-da 取り出して与える yong-gi 勇気
man-ji-da さわる、ふれる man-ji-gak man-ji-gak-geo-ri-da いじりまわす、なでまわす
未来形 + ppun 〜するだけ、ばかり

ta-jeong〔多情〕ha-da やさしい、親しい ta-jeong-hi やさしく、親しく
ta-jeong-seu-reop-ta やさしげだ、親しげだ ta-jeong-seu-re やさしげに、親しげに
〜ri-ra 〜してやる 〜ri-ra-go 〜するつもりだと
yaedeul-a) この子(らよ)〔呼びかけ〕 pul-leo <= pu-reu-da 呼ぶa
heul-kkeum (人にわからないように横目でにらむようす)ちらりと
heul-gi-da すばやく横目でにらむ
tol-a-da bo-da / tol-a po-da ふりかえる、ふりかえって見る
neo 〔目下に〕お前、君 sang-gwan〔相関〕eops-ta 関係ない
ta-neun = ta-go ha-neun  〜という
連体形 + deus-i 〔主観的な推測を表す〕〜ように、そうに
ja-gi 自己、自分 〜ne 〜ら 〜kki-ri 〜どうし
sok-sak-sok-sak ひそひそ、こそこそ sok-sag-i-da ひそひそ話す

jith-ta (色が)濃い、深い jith-eo-ga-da 濃くなる、深くなる
hwang-hon〔黄昏〕 たそがれ、夕暮れ
mil-da 押す mil-li-da 押される mil-lyeo-deul-da 押し寄せる、なだれ込む

 ※なお原文では、次の語に漢字が使われている。
  「少年」「等」「廃物」「充血」「色」「襤褸」
  「惻隠」「時計」「勇気」「多情」「相関」「自己」「黄昏」

【前置き】

 ツルゲーネフの丘

 今日は、尹東柱の散文詩をとりあげてみたい。
 なぜ、この作品のタイトルが「ツルゲーネフの丘」なのか。この詩だけを読んでいても、それがわかるヒントは含まれていない。
 最初に種明かしをしてしまおう。
 この詩は、1878年に書かれたツルゲーネフの「乞食」という詩をもとに書かれている。その元の詩を掲げておくので、比較していただきたい。

【参考】

 乞食  ツルゲーネフ  神西清訳

 通りを歩いていると……乞食に呼びとめられた。よぼよぼの老人である。
 赤くただれた、涙っぽい眼、青ざめた口びる。毛ばだったぼろきれ。
 うみくずれた傷ぐち。……おお、貧苦に蝕みつくされた不仕合わせな男!
 彼は赤くむくんだ、きたならしい手を、わたしにさしのべた。……うめくように、つぶやくように、お助けをと言う。
 わたしは、ポケットというポケットをさがしはじめた。……財布もない、時計もない、ハンカチ一枚ない。……何ひとつ持って出なかったのだ。
 乞食は待っている。……さしのべたその手は、力なく揺れ、わなないている。
 途方にくれ、うろたえたわたしは、ぶるぶるふるえて汚ない手を、しっかり握りしめた。……
 「わるく思わないでおくれ、兄弟。わたしは何も持っていないのだよ。」
 乞食は、ただれた眼で、じっと私を見た。青ざめたその口びるを、うす笑いがかすめた。
 ――そして彼はわたしの冷たくなった手を握りかえした。
 「結構ですとも、だんな」と、彼はささやいた。「それだけでも、ありがたいことです。――それもやはり、ほどこしですから。」
 わたしはさとった。わたしのほうでも、この兄弟からほどこしを受けたことを。

 この詩はこれでまた良い詩だと思う。
 施しをしたいが、手元にあいにく持ち合わせがないということもあろう。
 そんな時に、言葉だけでも、相手を励ますことができるかもしれない。
 また、この詩では、相手に施すことは自分も精神的に施されることであるという主張があり、それは慈善やボランティアの本質をもついていると思う。
 すなわち、相手のために何かやってやる、という意識ではなくて、自分もそのことにより、自身が満たされ励まされ癒される面を持っているということだ。

 だが、宋友惠さんはこの詩について、『尹東柱・青春の詩人』(伊吹郷訳・筑摩書房)の中で次のようにコメントしている。

 イエスはつとに「なんじの財宝のある所には、なんじの心もあるべし」と辛辣に指摘した。そうだ。財物のともなわない言葉だけの、手ぶりだけの同情がはたしてどれだけの真実の重みをになっているのか。あるいは実際どこまでも真実だったといっても、はたしてそのボロをまとった乞食にどれほど役に立つのか。
 こうした根本的な疑問に、だまって目をつぶって「物乞いする乞食に同情の言葉と素手をさしのべたこと」だけでたがいに満足したとするなら、それは一種のまやかしである。浅薄な自己陶酔にすぎない。だからツルゲーネフの散文詩「乞食」がもたらす感銘や感動はニセの感銘、まがいの感動というほかない。ユンドンヂュはこのようなまがいものの兄弟愛に対して、おそまつな隣人愛に対して反発した。それで、「なんの損もなく感謝と人の心だけを得る」ツルゲーネフの「乞食」のごとき慈善がもっている、自己欺瞞性と不正直さをあばく作品を書き、表題さえも「ツルゲーネフの丘」とつけたのである。

 そのとおり、風刺の詩なのだろう。
 ツルゲーネフの作品に、タイトルばかりではなく細部の描写のレベルに至るまで、構成や内容がちょうどネガとポジのように裏返しで対応している。
 これはもしかすると我々が普通に持っているであろう尹東柱のイメージ、叙情的で繊細で、内向的でシャイな青年というイメージとは少し違うかもしれない。
 だが、単なる抒情詩だけでなく、こうした風刺詩を書くことができるのは、詩人としての幅の広さだと思う。童詩も書く一方で、社会詩も書ける作家なのだ。そもそも、一般的には抒情詩と思われている柔和な作品の中にも、凛とした芯の強さ、核となるような信念が含まれているのが、彼の詩風だ。とすれば、偽善に対する風刺の詩というのも、彼にとっては例外的な作品ではなく、本質的な傾向と一致するものなのかもしれない。

 しかし一方、これを単にツルゲーネフのパロディに過ぎないもの、頭の中で作り上げ、紙上に書き写しただけの観念的な作品と考えるなら、底は浅い。ただ、外国の一作家の偽善を攻撃し揶揄するためだけに作ったのだろうか。そうは思えない。
 誠実な性格の尹東柱のことである。これは、自分に何らかの実体験や見聞があって、それをもとに書かれているのではないだろうか。そうでなければ、この詩の基底に流れる、あわれみの情、良心の痛み、そうした気持ちがうまく説明できないように思える。
 実際にこの通りではなくても、これに類する体験が作者自身にあり、それを心の底に思い出し、その思いに基づいて書いているのではないか。そうした自分の痛みや後悔が、ツルゲーネフの作品にふれることでたち現れ、自らを省みる思いで筆を執ったのだろう。
 そういう前提を基に、こちらも自分の思いを交えつつ感想を書いてみたい。

【コメント】

 私は峠の道を越えていた。

 なぜ、「峠」なのだろうか。ツルゲーネフの詩では、ふつうの「通り」になっている。
 「峠を越える」と言えば、すぐに思い出すのは「アリラン」だ。
 「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン峠を越えていく……」
 峠を越えるというのは、ひとつの象徴かもしれない。この有名な民謡にも、峠を越えて村を出て行く人たち、故郷を失ったり連行されたりした人たちへの惜別の情が含まれているという説もある。あるいはそうでなくても、病気が「峠を越える」、困難な仕事が「ヤマを越えた」などと比喩的に言う。
 ここで、「峠」としたことは、作者の心の中の一つの峠越えであるのかもしれず、そうではなくて、本当に体験した事実の反映なのかもしれない。
 どちらにしても、舞台を峠にしたことは、この詩にある情趣を与えている。

 その時、三人の少年の乞食が私の横を通り過ぎて行った。
 最初の子は背中にかごを背負い、かごの中にはサイダー瓶、缶詰めの缶、鉄くず、古靴下の片割れなどの廃品がいっぱいだった。
 二番めの子もそうだった。
 三番めの子もそうだった。

 今ではあまり見なくなったが、私が韓国に初めて行った頃、それはパルパル・オリンピック、韓国で初のオリンピックが開催された88年だったが、その頃はまだ、物乞いに出会うことがあった。
 当時、ソウルの地下鉄に乗っていると時々、物乞いが回ってきた。物乞いだけではなく、さまざまな物売りもやってくる。これは東京の地下鉄では見られない光景で興味をひかれた。まず新聞売り、これはよく来た。「○○新聞」「××スポーツ」といった新聞名を呼びたてながら来る。それから商品を売りに来る人たち。歯ブラシだの財布だの、ライトだのペンだの。そして、目の見えない物乞いが歩いてくる。白い杖をつきながら、ざるを胸の前に持って。時にハーモニカで賛美歌を吹きながら。
 こうした物乞いに、ソウルの人たち、韓国人たちは、おどろくほどよく施しをしている。日本であまり見られないのは、やっても恵んでくれる人がいないからかもしれない。韓国には、儒教にしろキリスト教にしろ、慈善の精神は生きているのではないか。
 その物売りや物乞いのなかに、子供たちを見かけた。よくあったのは、ガム売りの少年。座席に並んでいる乗客たちのひざに、チューインガムを勝手に乗せていく。なんだろうと思っていると、一巡したところで、今度はお金を回収に来る。二人組みの場合も多い。もちろん要らない人は、ガムを返すのである。同様のやり方で、バスの回数券など他の物を売りに来ることもある。
 なかには商品ではなく、文章を書いた紙片を配る場合がある。ハングルが当時はよく読めない頃だった(今でも大して読めない)が、どうやら、生活に困っているという事情が縷々述べてあるらしい。乗客がひざに載せられた文章を読み終わった頃に、今度はお金と紙片を回収にくるという仕組みだ。韓国の都会の子供たちは、けなげにもたくましく生きているなあと、感心したものだ。

 『低きところに臨みたまえ』を見ていると、くつ磨きの少年が出てくる。私は、足元に人を膝まづかせて磨かせるのが嫌なので、してもらったことはないのだが、これも街頭でよく見かけた。映画の中でも触れられているが、こうした孤児が当時ソウルにはずいぶんといたようだ。もちろん、戦災孤児であろう。国土を二分し軍事境界線が南北に移動した「ローラー戦争」と言われた悲惨な朝鮮戦争で、生き別れ、死に別れの数知れぬ孤児が生まれた。彼らが生きるためにどれだけ苦労をしたことか。
 もちろんこの詩に出てくる少年の乞食は、朝鮮戦争とは時代が違う。大戦前の朝鮮にいた孤児か浮浪児、あるいは親や身寄りはいても貧しい家庭で、このように稼ぎに歩いているのだろう。日本が朝鮮を統治していた植民地時代。日本は朝鮮の経済に貢献したなどと、 泥棒が家の掃除もした式の論理を持ち出す人がいるが、搾取や連行や資本主義の導入によりかえって伝統的な経済は疲弊し破壊されて、貧困に窮迫した人たちも多かった。こうした、貧しい子供たちの姿を、尹東柱自身も見かけたことだったろう。

 背中にかごを背負って、そのかごの中にさまざまな廃品が詰まっていた、ということから、屑屋さん、廃品回収の仕事をしていたということがわかる。屑屋さんというと、日本でも子供の頃によく見かけた。今は、リサイクルの仕事ということで資源活用の面からも注目されているが、当時の屑屋さんというのは社会的には低く見られた仕事だった。
 在日コリアンは、かつて今よりずっと就職差別が厳しかった時代に、なかなか普通の会社勤めなどの仕事に就けずに、廃品回収の仕事をよくしていたようだ。『夜を賭けて』で陸軍兵器工場跡の鉄片回収の儲け仕事に賭ける男たちの姿が出てくる。
 在日のミューズこと歌姫、李政美さんがライブで生い立ちを語る中に、父親が下町で廃品回収の仕事をしていてそれがいやでたまらなかった、町を出たいと子供こころに思っていたという。大人になってからは、「この町もまたふるさと」と肯定できるようになったといい、そこから名曲「京成線」や「ありのままの私」が生まれた。
 鉄屑のほかに、サイダー瓶、缶詰めの缶、古靴下の片割れなどが出てくる。瓶や缶、古着やぼろ切れも、物資の乏しい当時は貴重な資源だったろう。このなかで「缶詰め」という語が「カンジュメ」と原語の発音もそのままで、おそらく日本から品物と共に言葉が入った外来語であろう。「カンジュメ・トン」とあるから、缶詰の筒であり、サイダー瓶と同様、中身がつまっているわけではない。空き瓶、空き缶を集めているわけだ。靴下は「ヤンマル」とあるので、古いもの、しかも片方だけで、使い物にならないぼろということになる。これもくずして利用する廃品として集めているということがわかる。
 それを背中に背負った「かご」にぎっしり、積んでいるという。韓国で今も田舎などに行くと、「チゲックン」、担ぎ屋さんと呼ばれる人に出会うことがある。背中に山のような荷物を背負って運んでいる。時代劇にもこうした人たちが出てきて、竹か木で作っているのであろうけど、上のほうにひろがった扇形の独特の形状の背負子に荷物を満載して杖をついて、すたすたと街道を足早に歩いていく。ここで言う「かご」はそうしたものだろうか、あるいは拾って歩くためのほんとうの籠型のかごだろうか。

 私は個人的に昔よく山に登っていた。といっても、本館的な登山ではなく、ハイキングか夏山散策といった程度だけど、よく山頂の小屋に荷物を運んでいく山男たちに出会った。背負子に背丈を越す荷物を、それも軽いものではなくて、缶ビールや缶ジュースのぎっしり詰まったダンボール箱を何箱もしばりつけて、ただでさえ息の切れる急峻な山道を、ひょいひょいと軽やかな身のこなしで登って行く姿に、さすがにふだんから体を鍛えた玄人は違うと感嘆したものだ。
 だから、ここで尹東柱が、峠で子供たちに出会ったというのも、まんざらフィクションではなくて、それに類した実体験があったとしてもおかしくはないと思う。今でも山の観光地にはよく飲み物の空き缶などが捨ててある。リサイクルに拾って歩く奇特なボランティアの方もいるようだ。また、今でいう産業廃棄物を、街中ではなく山に行って捨ててくる者もいたかもしれない。この時代にも、峠の山道に捨ててあるものを拾って歩いていたとしても不思議 ではない。
 ただ、その一方で、必ずしも実景そのままでなくてもよいとも思う。つまり、あくまで困った人たちを、貧しい子供を救えなかったという経験が、自身の山登りの体験と重ね合わせて、心象の風景として描かれているのかもしれない。なお、尹東柱は登山が好きで友人たちとよく山に登ったようだし、山の詩も書いている。自然に親しむのが好きだったのだろう。そんな折に、峠で浮かんだ詩想だったかもしれない。

 では、子供が三人いるということは、象徴的な意味合いがあるのだろうか。
 「三位一体」「三権分立」「三省」「三本の矢」など、三という数字はキリスト教世界はもちろん、中国や日本などでも、好んで使われている。三点が一平面を固定する、三脚の三点支持のように、バランスの良い数なのだとも思える。あるいは、もっと子供たちはたくさんいたのだが、煩雑になるのでとりあえず三人としたのだろうか。李箱の詩「おそれる子供たち」などを連想してしまったりもした。
 そう考えているうちに、ふと思い出したのが、新約聖書のルカ伝の、あまりにも有名なサマリヤ人の話である。ああ、そうかという気がした。これを下敷きにしているのかもしれない。文語訳聖書から、イエスのたとえ話を引いてみよう。

 ある人、エルサレムよりエリコに下るとき、強盗にあひしが、
 強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負はせ、半死半生にして棄て去りぬ。
 ある祭司たまたまこの途より下り、これを見てかなたを過ぎ往けり。
 またレビ人もここに来たり、これを見て同じくかなたを過ぎ往けり。
 しかるにあるサマリヤ人、旅してその元にきたり、これを見て憐み、
 近寄りて油と葡萄酒とを注ぎ傷を包みて己がけものに乗せ、
 旅舎に連れゆきて介抱し、あくる日デナリ二つを出し、主人に与へて
 「この人を介抱せよ、費もし増さば我が帰りくる時に償はん」と云へり。
 汝いかに思ふか、この三人のうち、いづれか強盗にあひし者の隣となりしぞ。
 ……なんぢも往きて、そのごとくせよ。
   (ルカ伝第十章より)

 行き倒れの旅人は、三人めにしてようやく助けてくれる真の隣人に出会うことができた。それは身分の高い祭司でもレビ人でもなく、当時ユダヤ人からはさげすまれていたサマリヤ人だった。この逸話から、サマリヤの名を冠した医療機関も多い。
 ここで、三人目にして助けてくれる人に出会ったというところが問題だ。
 すなわち、この有名なたとえ話を、尹東柱は裏返しにしているのではないか。
 逆に、助けられるのではなく助ける相手が三人、救われるのではなく救ってやる機会が三度もあったのに、一人として、一度さえも、手を差し伸べなかったということ。
 それが痛烈な皮肉として、また、自らの反省として、突きつけているのではないか。
 たびたび機会はあったのに、何もしてやらなかった、できなかったという。

 ぼさぼさの髪の毛、まっ黒な顔に、涙のにじんだ充血した眼、色あせ青ざめた唇、たれさがったぼろの服、傷だらけの裸足、
 ああ、どれほど怖ろしい貧しさがこの幼い少年たちを飲み込んだことか!

 韓国では、実際にここまでひどい格好の少年たちに会ったことはない。
 だが、映画の中では見かけることがある。昔はこういう子供たちもいたのだろう。
 それにつけて、韓国ではなく他のアジア諸国の私の経験談をしたい。

 舞台は、パキスタンである。
 私の初めての海外旅行はヨーロッパだった。学生時代からあこがれていた。特にモーツァルトはぞっこん好きで、“モツキチ”仲間に入るほど、ケッヘル番号順に吉田秀和さんの案内で全作品を聞こうとしていた。そのふるさとの地、オーストリアのザルツブルグ詣でをしたいと、音楽祭に出かけた。ついでに、ローマ・パリ・ロンドン・スイスと見物した。あれは確か、大学が終わって正式に社会人になる前と出かけた旅行だった。金はないので、バッグパッカーのような貧乏旅行だったが若さゆえ楽しかった。
 その時に使った飛行機がパキスタン航空だった。今のように格安航空券が一般的になる前の時代で、安い飛行機は第三世界の南回り便と決まっていた。パキスタンで一度乗り継ぎ、おしりが痛くなるほど長く、一日近く飛行機に乗っていた。
 さて、ヨーロッパ旅行で二週間過ごした帰りに、またパキスタンに寄った。ところが、帰りの便の接続がないという。このような第三世界の零細な航空会社は、少ない機材でぎりぎりの運行スケジュールを組んでいるから、何かあっても代行便がすぐに出ない。あとで聞いたら、3日も待たされてしまった人もいるという。われわれは幸い、半日くらいだったが、とにかく乗り継ぎ便が出るまでトランジットすることになった。空港からバスで、最寄りのホテルに向かう。
 その時に、初めて空港の外に出て、初めて見たパキスタンの街の光景。

 衝撃だった。こんな世界があったんだと思った。土ぼこりにまみれた、貧しい子供たちの姿、姿、姿。まさに、この詩にあるように、貧困に飲み込まれている姿。
 ぼさぼさの髪、黒い顔、血走った眼、色あせた唇、ぼろの服、汚い裸足。
 その時の数時間の体験で、私の二週間のヨーロッパ旅行の経験はふっとんでしまった。あの衝撃は忘れがたい。思えばあれが、私がアジアに関心を持ち始めた初めだった。
 確かにヨーロッパの光景もみな珍しかったが、映画やテレビや絵画などで、いつか見たことがあるような景色ばかりだった。予想どおりだったと言ってよい。
 だが、パキスタンは……私のまったく知らない世界だった。そして、知らないはずなのに、どこか親近感を感じてしまったこともまた事実なのだ。
 実はヨーロッパを回っている間から、すでに違和感はあった。現実のヨーロッパ訪問はあこがれの世界の確認であるとともに、挫折の始まりでもあった。いくら西洋音楽や西洋文化を学んでも、本場の彼らには決してかなわないという圧倒的な質と量のホンモノが目の前にあった。いくら洋服を着て洋食を食って洋風の建物に住んでも所詮、猿真似だ。
 そしてまた、観光客とはいえ貧しい、黄色い顔の人種である日本人の青年に対して、必ずしも好意的な人たちばかりではなく、差別とまではいかなくとも冷たい目や疎外感を感じることもあった。
 それがこのパキスタンの土に降り立った時に、つくづく感じたのだ。
 おれも、アジア人なんだ、と。
 そして同時に、こんなに貧困に苦しむ世界が目の前に現実にあるのに、私は同じアジア人として、欧米人のような裕福な生活を享受していてよいのか、とも思ったのだ。

 私にはあわれみの心が起こった。

 この「あわれみの心」、原語では
  チュグウン〔惻隠〕ハン・マウム
 で、漢字で「惻隠」の字が当てられ、もとの尹東柱の原稿もその字になっている。
  惻隠の情。
 さすがに、朝鮮は儒教のお国柄だ、とうれしくなってくる。辞書の訳を見ると、
   哀れだ、いたましい、ふびんに思う
 とあるが、この言葉から思い出すのはまず、「孟子」だろう。その一節に言う。

 惻隠の心は人皆之有り。惻隠の心は仁なり。
   人間はだれでも惻隠、すなわち人の不幸を哀れむ心を持っている。
   惻隠の心は仁の徳の発露である。

 惻隠の心は、すべての人にあるという。
 そしてそれは、儒教の最高の徳、「仁」に通じるという。
 といってもわかりにくいかもしれない。孟子の他の箇所ではこうも言う。

 人皆人に忍びざるの心有り。
  人々はみな人に忍びざるの心、すなわち人の難儀を見過ごしにできない心が有る。


 人が困っているのを見て、見過ごしておけない気持ち。これならわかりやすい。
 続けて孟子は、身近なたとえ話で語る。イエスが民衆に語ったように。

  今かりに突然幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、だれでもはっと驚き
 深く哀れむ心持が起こって助けようとする。
  それは子供を救ったのを手づるにその両親に交際を求めようとするからでもなく、
 村人や友人にほめてもらおうとするからでもなく、見殺しにしたら悪口を言われて
 困るというので救うのでもない。
  利害得失を考えた結果ではなく、反射的にすることだ。
                         〔訳は明治書院「漢文大系」による〕

 もちろん尹東柱はクリスチャンである。
 だが、朝鮮人として、儒教の心には接して知り、また共感もしていたろう。
 それに、キリスト教も、慈善ということをとても重視している。それは、イエスの言葉で言えば「隣人愛」。隣の人が困っているのを見て見過ごしに出来ない気持ち。
 キリスト教に限らない。仏教だって、釈迦は慈悲の心による施しを説いた。イスラム教だって、コーランは貧者への喜捨を大きな徳の一つに数えている。
 宗教によらず、人種に関わらず、文化や国家や歴史や習慣を越えて、人をあわれむ心は、人類普遍にある、人間本来の感情なのだ、と孟子は解くのだ。
 人は本来、良い心を持つ。いわゆる「性善説」だ。
 神はそのように、人間を良いものとして造りたもうたのだと思う。そういう心を、善を求める精神を、神の似姿である人に与えたもうたのである。
 だから人は、他人が困っていたら、理屈は抜きで、まず助けてあげたくなる。
 それが「惻隠」の心、忍びざるの心、ふびんに思いあわれむ心だ。

 私はポケットをさぐった。分厚い財布、時計、ハンカチ……あるべきものはみなあった。
 しかしおいそれとこれらを出してやる勇気はなかった。手でいじり回すだけだった。

 なぜ、東柱は、子供たちに持っていたを渡せなかったのか。
 ここも、単にツルゲーネフのパロディだと見れば、それまでの箇所だ。
 確かに、道具立てはそのまま同じである。あるかないかが裏返しであるだけだ。
 ツルゲーネフは、ポケットを探って言う。
 財布もない、時計もない、ハンカチ一枚ない。
 東柱は、同じくポケットを探って言う。
 厚い財布がある、時計もある、ハンカチもある。
 このように持ち物までそっくり同じであるのを見れば、東柱が頭の中で、原作の字句をそのまま使って逆さまに組み立てただけだ、という見方が有力だ。事実そうなのだろう。
 だが、それでもなお、東柱には似たような経験があったのではないか、というのが私の仮説だ。そうでなければ、ただツルゲーネフの偽善を攻撃するだけの文章になる。

 クリスチャンは本来、謙虚なものだ。もちろん、クリスチャンと言っても他人の非をあげつらい、自分こそは正しいと高慢に思い高ぶっている方も見かけるようだが、イエスは謙虚になることを繰り返し説いていらっしゃる。
 自らを低めるものは、高くされる、と。
 そして、口先の信仰だけでなく、実際に行うことを重んじている。
 もちろん、それだからこそ、言葉をかけるだけで実際に物質的な施しをしなかった、ツルゲーネフを批判しているのだ。
 だが、他人を非難するばかりでなく、自分にもそういうところがないか常に省みること。論語風に言えば、賢を見ては等しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みること。
 いや、さらに言えば、東柱にも、場所や道具立ては違ったとしても、同じように貧しい者たちに会い、その時には施しをしてやれなかったという苦い経験、そうした心の痛みがあって、その古い傷がこのツルゲーネフの詩を読んだときに触発されて噴出し、他人を批判すると同時に、自らを反省して自戒する気持ちで書いたのではないかと思うのだ。

 では、仮にそうだとして、なぜ、東柱は、施しをしてやれなかったのか。
 これは、照れであり、ためらいであったのではないか。
 文中には「勇気がなかった」とある。そうなのだろう。
 良いことをするのにも、勇気がいる。
 いや、良いことをすることにこそ、勇気が必要なのだ。
 悪いことをするのは、勇気ではなくて怒気であり狂気である。
 なにも難しい理屈が必要なのではない。
 例えば、電車でお年寄りに席を譲らない若者が多い。だが、彼らが等しくすべて、譲る気がそもそもないのか、というとそうではあるまい。なかには、率先して立って、目の前にいる老人に席を譲りたいのに、どうしても立つことができない者もいるのだ。これは私もそういうことがあるだけに、わかるような気がする。それで、混んでいる車内では初めから立っていたりする。
 なぜだと言われても困るが、面映い、恥ずかしい気持ちがするのだ。
 吉野弘さんに「やさしさについて」という、いい詩がある。電車の中で、勇気を出して席をゆずった女の子。だがそのお年よりは次の駅で降りた。続いてまた席をゆずったが、相手はまた次の駅で降りた。三度目に、少女は席を譲らなかった。お年よりは目の前に立っていた。そうしたままで、うつむいた少女はどこまで電車に乗って行ったのか。夕焼けの向こうに続く線路のかなたに。優しい人は、いつもつらい思いをする。
 そんな内容の詩だった。心に残り、電車に乗るたびに思い出してしまう。
 この気持ちは、きっとわかってくれる人が多いと、私は感じている。
 尹東柱は、優しく温和な性格だったと生前の友人や家族たちは言っている。おそらく内気でシャイで、照れ屋だったのではないか。残された肖像画を見てもそんな印象だ。
 あげるのが惜しかったわけではない、と思うのだ。
 むしろ、貧しい人には恵んであげたいという気持ちは人一倍あった。
 しかし、どうしても「さあ、あげるよ」とポケットの中のものを取り出す勇気が、その場では出なかったのだろう。

 親しげに話でもしてやろうとして、「おいちょっと」と呼びかけてみた。

 言葉をかけてやることも意味がある、と思う。
 世の中、ただ、お金やものをあげて解決することばかりではない。
 事故にあった人、病気になった人、肉親や友人を失った人、試験や仕事に失敗した人、夢を失い絶望している人、
 いくらお金をあげても、どうしても深い病気や障害は直らず、失われた人々は戻らず、
試験に合格したり仕事に成功できたり、夢がかなうわけではない場合もある。
 だがそんなときでも、言葉だけでもかけてあげるのはいいことだ。
 日本語ではよく、「がんばって」「大丈夫」などという言葉が、励ましのためにかけられることが多い。その言葉で、力づけられる人もいるだろう。
 だから、ツルゲーネフの詩を、私は悪い詩ではないと思うし、そんなに強く批判する気にもなれないのだ。

 だが一方でまた、無責任に、形だけの慰めの言葉で済ませてしまう場合もある。なかには「ご愁傷様」「大変ですね」などと言っても、口先だけで、外面や体裁だけとりつくろう、「巧言令色すくなし仁」ということも、また往々にしてあるだろう。
 本当に傷つき絶望している人に、「がんばって」「大丈夫」と繰り返すだけでは、かえって「何をがんばれと言うのか」「どこが大丈夫なものか」と反発することもあろう。
 詩の中で「親しげに」という言葉が使われている。
 「親しく」ではなく、「親しげに」なのだ。
 「タジョンイ やさしく、親しく
 「タジョンスレ やさしげに、親しげに」
 タジョン「多情」という語は、日本語のように気が多いとか浮気だという意味ではなく、情が細やかで思いやりがあるという肯定的な意味で使われる。だが、「〜スロプタ」〜そうに、という接尾語が付いている。細かいニュアンスの違いだが、重要だと思う。
 親切に語ったのではなくて、いかにも親切そうに、語ったのだ。
 顔色をとりつくろい、親切を装って、という表情がうかがえる。
 しかし、世の中には、そうした人も多いのではないだろうか。お悔やみの席、お見舞いの場で、「このたびはご愁傷様です」「いろいろと大変ですね」「どうぞがんばってください」などと深刻そうに言いながら、実は大して心配などしていない人が。

 他人事ではない。私にも苦い思い出がある。
 阪神大震災から、ちょうど十年になるが。
 私はあの震災の時に、いったい何をできたかと思い返すのだ。
 当時、私の友人の女性の一人は、彼女はカトリックだったのだけど、まず被災地へと向かった。なにしろ当時、数千人の死者が出て、現場は道路も鉄道も、ガスも水道も、ライフラインが寸断されていた。そこまで行くのもひと苦労だ。そのうえ、食料も医療も現地の人の手当てだけで精一杯で、かえって何も知らない、技能もないボランティアが行っても足手まといになるだけだ、そんな風評も聞こえてきた。私は彼女にいま行かないほうがいいとさえ行った。だが彼女は行った。その行動力に私は感心したものだ。
 私は行けなかった。仕事がある、家族がある、そうおいそれとは行けない。そう自分で自分に言い訳しながら、せいぜいいくばくかの募金をして、それで済ませた程度だった。

 そして、昨年の全国的な台風被害、秋の中越地震、そして暮れのスマトラの大津波。
 李政美さんは今月、阪神大震災十周年の頃、三鷹でチャリティコンサートを開かれた。収益金は中越地震の被害者に送られるという。最近ご無沙汰なので久しぶりに聞きに行ってみようかと主催者に電話したがすでに予約だけで満席でお断りしている状態とのこと。盛況を心の中で祝いつつありがたく遠慮させていただくことにした。
 沢知恵さんは先月聞きに行ったクリスマスライブの席上で、CDの売り上げから中越地震の支援に募金しているとお話しだった。さらになんと、来月十一日には中越地震の被害者を見舞いに、新潟の十日町の教会でコンサートを開かれるという。現地の人たちは、心励まされることだろう。
 お二人とも、歌を歌うだけでなく、歌を通じて人々を癒し、実際に人々のために慈善の寄付をしようとしている。これは形式的な問題ではない。その慈しみの心こそが、お二人の歌を支えているものであり、歌の根本に流れるこころ、精神なのだから。歌がそのまま人であり、人がすなわち歌であるのだ。
 そして、スマトラの大津波。
 「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンは、三千万円を寄付したという。それを聞いて、今まで“冬ソナ”も「スキャンダル」も見たことのない私も、感心してしまった。売名とか偽善だとかいう人もいるだろうか。いてもいい。たとえそうであっても、寄付したほうがしないよりいいに決まっている。一億円の宝くじを台風の被災地に送った人もいたっけ。
 それに比べて、自分は一体何をしたのだろう、何ができたというのだろう。
 また、赤十字とかユニセフとか、そんな募金をいくらかしただけだ。その郵便払い込み票を持っていれば、それが果たして免罪符になるだろうか。ほかの人々にも募金を勧めているし、ここのサイトでも書いた。しかし、自分がいくばくかの金を出したからとて、人にえらそうに勧めたりなどできるのか。

 私は日曜には教会で献金をする。だがいつも思うのだ。
 神様に感謝して捧げ物をし、教会の運営のために献金するのもいいことだ。
 だが、真に困っている人たち、例えば、戦争や飢餓に苦しむ難民たちや、風水害や地震や津波に苦しむ被災者にこそ、まず募金し寄付すべきではないか。
 こう思って私は、教会の月約献金を減らしたけど、そのぶんをワールド・ビジョンのフィリピンのペアレントにも出しているし、そのほかにも……
 いや、右の腕のしたことを左の腕にも知らせるな、と言うではないか。人前でそんなことを自慢げに言うのは慎むがよかろう。いやいや、私は誇ろうとするのではない。ただ、献金も募金もきりがなくなることがあり得るというのだ。
 岩波新書に「ボランティア」という名著がある。その中で金子郁容さんは、「自発性のパラドックス」というキーワードで、ボランティアに伴うこの矛盾を説いている。
 初めにある募金をしたとする。すると、どうしてもっと出せないのか、あるいは、この募金をして、あの募金をなぜしないのか、ということになり、際限がなくなる。それなら、最初から何もしなければいい、ということになるのか。
 私は今は、こう思っている。
 たとえわずかなこと、気休め程度のことでも、しないよりはずっといい。
 貧者の一灯という諺もある。やもめの献金というたとえもある。
 街頭の赤い羽根に百円玉ひとつ入れる。コンビニの募金箱に余った小銭を一円でも五円でも入れる。そんなことでも、何もしないよりずっといい。
 そして、自分はこれは募金する、でも、それは募金しない。あるいは、ここまでは募金する、でも、それ以上は募金しない。そういうふうに、自分で目安を作ってしまえばいい。
 それで誰に恥じることもない。みんながわずかずつでも手元から出せば、二匹の魚と五つのパンが、五千人の給食をまかなう食糧を生み出すこともできるのだ。
 それこそ、奇跡であると思う。今も、現実に奇跡は起きる。人々のこころによって。

 最初の子は充血した眼でちらっとふりかえるだけだった。
 二番めの子もそうするだけだった。
 三番めの子もそうするだけだった。
 そうしておまえは関係ないというように自分ら同志でひそひそ話をしながら峠を越えて行った。

 子供の目。ひたむきな目。悲しみの目。
 言葉をちゃんとかけてやれば、いや、思い切ってポケットの中のものを施してあげれば、子供たちはにっこり微笑んで、いや、歓声をあげて寄ってきたことだろう。
 ボランティアをするということは、施しをするということは、関係を結ぶということ。「相互関係のタペストリィ」と、「ボランティア」の金子さんは言う。
 この社会で、この世界で、だれも一人で生きているのではない。お互いに、同じ地球の空気をすって生きている。そこにはなんらかの見えない関係があるのだ。
 だが、行動に移さなければ、こちらから働きかけようとしなければ、お互いは無関係のまま。袖すりあうこともなく、縁もなくただ通り過ぎるだけ、エトランゼとして。

 サン・テグジュペリ「人間の土地」の中のエピソード。
 サンテックスよ、君は他の飛行士仲間たちと共同して、友人であったアラブのある奴隷の男を解放してやるのだ、身代金をカンパして集めて使用人に払うことによって。そして、自由になった男をフランスまで飛行機で運んでやったのだ。
 その時に、右も左もわからない異郷の地では困ってしまうだろうということで、その男に当面の生活費を渡してやった。ところが、その男はすぐにそれを使い果たしてしまう。わずか数日で。どうして、何に使ったのか。
 男は風船やお菓子や玩具を買って、広場に遊んでいるおおぜいの子供たちにすべて与えてしまうのだ。自分が助けてもらったことへの感謝のつもりか、あるいは、ただ子供が好きで、子供たちと遊んでほしかったというのか。
 そこで、サンテックス、君は言うんだ。彼はきっと、みんなと関係を結びたかったのだ、と。ひとり孤独ではさびしすぎて。そう、施しは世界と、人々と関係を持つこと。それは他人のためでもあるけど、自分の存在のためでもあるってこと。

 もうひとつ、私の経験を聞いていただきたい。
 あれは、インドネシアでのことだった。
 私たち夫婦は、新婚旅行にバリ島を選んだ。合唱のケチャダンス、獅子舞のバロンダンス、宮廷舞踊のレゴンダンス、そうした芸能にひかれたこともあり、また精巧な銀細工や荒削りの木彫、また色彩豊かなバティック、エキゾチックな民画、そんな工芸にひかれたこともある。そして、海の青さ、神殿の神々にひかれたせいもあろうか。
 宿は妻の希望で、コテージタイプ。広いゴルフ場のような芝草の茂る野に点在する別荘風の部屋、移動は電動のワゴンカーによる送迎、静かにプライベートな環境を楽しめ、部屋の間取りや居心地も最適と、リッチな気分にひたれるデラックスなホテルだった。
 さて旅行の中日に、私たちはインドネシアの本島に出かけた。ジョグジャカルタのボロブドゥールの遺跡や、水の王宮を見学するためであった。このパック旅行を私が選んだのは、この古代遺跡を見るためが半分以上であったためかもしれない。
 それはたいへん壮大でよかったのだが、一行はスケジュールの中で、ジャカルタにも寄った。そこは都会であり進んではいたが、また、スラムもあり貧しい人々も多くいたのだ。団体バスが通りかかる街角で、人だかりがしていた。車が、小さな少年をひっかけたようだ。彼は腕から血を流していた。だが、運転手は謝るどころか、何か怒鳴りつけながら去って行った。日本なら、逆に被害者が賠償請求をするところだろうに。この国ではまだ、人の命の値段が安いのだろうか。血を流している少年は、すぐに我々の視界から消えてしまったが、心に刻み付けられてしまった。

 何よりも心を悩ませたことは、バスが観光地に付くたびに、小さな少年や少女がたくさんやってきて、おみやげ物を売りつけようとすること。みな口々に叫ぶ。
 「センエン、センエン!」
 この日本語だけを、彼らは覚えているらしい。「千円」。
 おみやげは、確かに安いのだ。例えば、木彫りのキーホルダーが、三十個で千円といった具合に。彼らはいろいろなみやげものを手に手に、バスが発着するたびにわあっと集まってくる。ざっと百人ほどもいようか、群衆である。
 みんな、必死にこちらを見つめている。つぶらな瞳。黒い髪。可愛いのだ。
 つい、一人からでも買ってしまいたくなる。千円札を財布から出しそうになる。
 ところが、バスのガイドさんが言う。
 「決して買わないでください。一人から買うと、みんなが殺到してバスが出られなくなってしまいます。それに、癖になるといけませんから」
 聞けば、千円で彼らは一家が一ヶ月暮らせるくらいの大金なのだという。
 ああ、家ではどんなに、家族たちが彼らの帰りを待っていることだろうか。
 あの時の、こちらを見つめる悲しい瞳が、必死の声が、今も忘れられない。
 「センエン、センエン!」
 もはやホテルに帰っても、贅沢な雰囲気に酔っていることはできなかった。

 スマトラで、年末に大津波の災害が起った。
 マレーで、インドで、インドネシアで、一体どのくらいの人が死んだのか。
 十五万と言われた被害者は、まだまだ増え続けているようだ。
 ああ、あの子たちは今どうしているのだろうか。
 みな流されて死んでしまっただろうか、あるいは親や兄弟を失って路頭に迷っているだろうか。あのつぶらな黒い瞳を、悲しく光らせ、涙をいっぱいにためて。
 惻隠の情が、隣人への愛が、動かされる。
 われわれは今、何かしなければならない。

 丘の上には誰もいなくなった。
 濃くなってゆくたそがれが押し寄せるばかり……

 私はこの詩のラストから、ある童謡を連想してしまう。
 お山の大将、おれひとり。あとから来るもの突き落とせ。
 「お山の大将」
 ひとりよがり、独善的、井の中の蛙といった感もある。ほかに登ってくる連中を突き落として、自分だけがおサルのサル山の親分でもあるかのように、山頂を独占してふんぞり帰っているというのだ。子供ごころに、なんだかエラそうな歌に聞こえた。今思えば、まるで現在の受験競争でも思わせるようなところもある。エリートはのし上がり、落ちこぼれは見捨てられる。
 ところが、この童謡のラストは、実はこうなのだ。
 ……あとから来るもの、夜ばかり。
 山頂を独占して、他人を突き落としていても、やがて誰も相手にしなくなり、家に帰ってしまう。遊びは終わる。残ったお山の大将は孤独、かえって世の中から見捨てられたような気分になるだろう。みんなと仲良く遊べばと思っただろうか。
 「あとから来るものは、夜ばかり」という言葉は、あたかも人生の寓喩であるかのようだ。

 あとに残された、尹東柱の孤独を思う。
 彼はずっと、山にたたずんでいたのではないか。子供たちが去ったあとも。
 ああ、わずかでも、財布から恵んでやればよかったと思わなかったろうか。
 そうした思いは、あとあとまで尾を引くものだ。
 なぜなら、そうした機会は、一期一会だから。
 他の場所で、他の人に施しをすることはできるだろう。それは罪ほろぼしになるだろうか、贖罪になるだろうか、身代わりになるだろうか。
 だが、いくらその後、他人に施しをしたとしても、その時、その処で、その人に対する施しの機会は一度きりなのだ。通りすがりの場合には、まず間違いなくそうだ。
 「センエン、センエン!」
 ああ、あの時に、私と目があった、あの少女。二度と会うことはあるまい。

 だから、私たちは、機会を逃さず、施しをしようではないか。
 施しをする機会が与えられることも、惠みなのである。
 それは、私に恵むだけの物が与えられていて、さらに、与えるべき人と、与えるべき機会が与えられているという、二重の恵みであるのだ。
 思い迷うことはない。勇気さえもいらない。ただ行動しよう。
 遅くならないうちに。日の暮れないうちに。後悔しないうちに。

スマトラ沖地震にご支援を 

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