尹東柱を読む N 「おそるべき時間」

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〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕

【ローマ字表記】

Mu-seo-un 時間(si-gan)

Keo na-reul pu-reu-neun-geos-i nu-gu-yo,

Ka-rang-iph iph-pha-ri phu-reu-reo na-o-neun keu-neul-in-de,
Na a-ji yeo-gi 呼吸(ho-heub)i nam-a iss-so.

Han-beon-do son-deul-eo po-ji-mos-han na-reul
Son-deul-eo phyo-hal Ha-neul-do eops-neun na-reul

Eo-di-e nae han-mom tul Ha-neul-i iss-eo
Na-reul pu-reu-neun geos-i-o.

Il-eul ma-chi-go nae juk-neun-nal a-chim-e-neun
Seo-reop-ji-do anh-eun ka-rang-iph-i tteol-eo-jil-then-de......

Na-reul pu-reu-ji-ma-o.

〔語句〕

mu-seop-ta 恐ろしい、怖い、心配だ、不安だ
keo = keo-gi そちら pu-reu-da 呼ぶ、招く
geos 者、ものn nu-gu だれ 〜yo ですか

ka-rang-iph 柏の葉、〔特に柏の〕枯れ葉 iph 葉 pa-ri 垣根
phu-reu-da〔reo変〕 青い、〔若さがあふれ〕溌剌としている、気勢が鋭い
phu-reu-reo = phu-reu-da + eo  〜eo〔先行動作〕〜して、〔理由〕〜ので、から
na-o-da 出る、出てくる、わき出る、現われる、そこから起こる
keu-neul 陰、日陰、物陰、陰影 〜in-de = i-da + n-de
n-de 〔前置き〕〜だが、だから、〔逆接〕〜なのに、だが
a-jik まだ、いまだに、なお、やはり yeo-gi ここ、こちら
ho-hup  呼吸、息 nam-da 残る、とどまる 〜so 〜です、ます

han-beon 〔試しに〕一回、一度 son 手 deul-da 〔物を〕上げる、挙げる
a/eo po-da 〔試しに〕〜してみる 〜ji mos-ha-da 〜できない
phyo-ha-da  表わす、表する、示す
Ha-neul 天、空、神 eops-ta ない iss-ta ある

eo-di どこ、どこか nae = nae-eui 私の han〔接頭語〕正しい、本当の、真〜
mom 体、身、身体 mom(eul) tu-da 身を置く、身を寄せる
neun geos-i-da 〜のだ、のである

il 仕事、用事、用、こと ma-chi-da 終わる、終える、すます
juk-ta 死ぬ nal 日 a-chim 朝  seo-reop-ta 悲しい、つらい
ji anh-ta 〜しない、〜くない  anh-ta = a-ni-ha-da
tteol-eo-ji-da 落ちる

〔未来連体形 +〕theo〔強い意志・推量・予定〕つもり、はず
then-de = theo + i-da + -n-de 〜するはずなのに、だから
ji mal-da〔l変〕 〜するのをやめる
o〔中称の終結語尾〕〔平叙・疑問・勧誘・命令〕〜です、ですか、お〜なさい

【試訳】

  おそるべき時間

そこで私を呼ぶのは誰ですか、

柏葉の垣根が青く茂ってできる木陰があるから、
私はまだここに息を保っています。

一度も手を挙げてみられなかった私を
手を挙げて示す天の神もいなかった私を

どこかに私の真の身を寄せる天の神がいて
私を呼んでいるのですか。

仕事を終えて私が死ぬ日の朝には
悲しみもしない柏の枯葉が落ちるはずだから……

私を呼ばないでください。


【コメント】

  おそるべき時間

 「ムソウン・シガン」おそろしい時間。
 『天と風と星と詩』所収のこの詩について、私は長い間よくわからず、解説するのをひかえてきた。ちょっと読んだところ、何か不信仰や背教を、あるいはそこまでいかなくても、疑いや恐れを示す詩のような気がしていたからだ。
 私を呼ばないでください。私には、手を挙げて自分を示す神もいないのだから。
 そのように言って、神様の呼びかけに背を向けている詩にも読める。
 ずっと強い信仰を持っていたように見える尹東柱も、あるときは信仰に疑いを持つ時期もあったのだろうか。だが、それでもいい、とも思えた。それもまた人間的だ。敬虔なクリスチャンでも、人間なのだから時には迷うこともきっとあるだろう。
 しかし、最近読み直していて、実はこの詩も彼の強い信仰の一端を示す詩ではあるまいか、と思うようになってきた。そういうふうに読むわけを、これから述べてみたい。

  そこで私を呼ぶのは誰ですか、

 「コ」を、感嘆詞の「それ」と読む解釈もあるが、やや大時代な気もする。ここは、「コギ」の短縮形として、「そこで」ととっておこう。
 「そこから」はどこからか。後のほうを読むと「天」が出てくる。だから「天から」とすればつながりそうだ。空のかなたの天から、だれか私の名前を呼ぶものがいる。高い天空にいる、あなたは誰ですか、と問いかけている。
 「ヌグヨ」であって、「ヌグヤ」ではない。「どいつだ」というぞんざいな呼びかけではないと思う。かといって、「ヌグセヨ」でもないので、「どなたですか」でもない。
 空から呼びかける者、それはふつうに考えれば、ましてクリスチャンなら、天の神であろう。だが、そうではないかもしれない。サタンや異なる霊かもしれない。神なら「どなたですか」だし、サタンなら「どいつだ」だが、どちらとも知れない。
 だから「誰ですか」という問いかけなのではないかと、思った。

  柏葉の垣根が青く茂ってできる木陰があるから、
  私はまだここに息を保っています。

 ここの、葉の木陰、という言葉の解釈が、この詩で難しいところだ。
 映画「パッション」を見ていたら冒頭、ゲッセマネの園で祈るイエスに対して、木陰から十字架の苦難から逃げなさいと、堕落をささやく蛇の姿をしたサタンが出てきた。サタンが蛇であるのは、旧約の失楽園のイメージでもあろう。
 この尹東柱のイメージも、実はそうなのかなと読んだこともある。すなわち、葉陰から蛇であるサタンが、禁断の実を薦めて、神からの離反と罪への誘惑をささやくという発想だ。それも面白いかと思ったのだが、今はそうではないだろうと考えている。

 「カランイプ」は、辞書で確認すると、「柏の葉」である。これが「いちじくの葉」なら、いちじくの葉で罪なる裸身を隠したというアダムとイブの故事に合うし、いちじくの木は、新約でも旧約でもしばしば登場し、イスラエルの象徴ともされる。神を信じない、不従順ないちじくの木は、枯れてしまうのだ、とイエスが弟子たちに語り、事実そうなったいう記述もある。だが、「柏の葉」なのだ。
 「樫の木」かとも思った。「かしわ」は「かし」にも通じる。日本語の語源を辞書で見れば、「かしわ」は「炊し葉」すなわち広い葉で食物を包み蒸し焼きするのに使ったから、「かし」は「かたし」すなわち堅い木の意であるとの説明もある。だが、植物学的には同類あるいは近い種類の木であり、韓国語ではどちらも同じであるようだ。「樫の木」は旧約には登場する。神殿を建てる木でもあるが、偶像を彫る木でもあったりする。
 このように考えてみるが、どうもここで「柏の木」が出てくる意味がまだわかりにくい。
 「カランイプ」には、もうひとつ「枯れ葉」という意味もある。そちらの意味のほうが先に載っている辞書も多い。「柏の葉」のほうは「方言」とする本もあり、あるいは「特に柏の枯葉をさす」とする本もある。柏の葉は広葉樹で特に大きく、枯れると茶色くなってかさかさとなるので、特に枯れ葉として目立つということか。
 この「カランイプ」は、詩の中で二箇所出てくる。後に出てくるほうは、「落ちていく、散っていく」カランイプであるので、こちらは「枯れ葉」と訳してもよい。ただし、前に出てくるほうは「青い」カランイプであるので、こちらは「青い枯れ葉」とは訳せない。どらかにそろえるとすれば、やはり「柏の葉」である。前者が「柏の青葉」後者が「柏の枯れ葉」ということだろう。
 伊吹郷氏の訳ではそのまま「カランイプ」と訳していて、注で「柏の葉と枯れ葉の両義がある」と付けているが、これはどっちつかずでやや苦しい。

   柏葉の垣根が青く茂ってできる木陰があるから、

 「パリ」は普通に考えれば「ガラス」でも「ハエ」でもなく、葉による「垣根」だろう。その葉が「青くて現われる陰」というのが直訳だが、「青く茂るので、その下にできる木陰」ということだろう。このあと、木陰が「あるのに」とどの訳も逆接に訳すが、意味がうまく通りにくい。「〜ンデ」は「〜のに」とも訳すが、「〜から」と順接にも訳せる。日本語の「〜が」と同じくやや両義的な言葉で、前置きととれる接続助詞だ。
 なぜ、あえて順接にするかといえば、その後の言葉があるからだ。

   私はまだここに息を保っています。

 直訳は「呼吸が残っている」だが、「息を保っている」と柔らかく訳しておく。
 木陰があるのに、息を保っている、のか?
 木陰があるから、息を保っている、のではないのか。
 というのは、後半で「私が死ぬ」すなわち息をひきとる日には、葉は枯れて散ってしまうだろう、とある。とすれば、合理的につじつまを合わせるなら、こうだろう。
 木陰があるから、息を保っている。
 だが、木陰がなくなれば、息をひきとってしまう、のではないのか?

 説明がいささか回りくどくなった。
 そろそろ、種明かしをしたほうがいい。私の説は、こうだ。
 この詩の発想の元は、旧約の「ヨナ記」によるのではないのか。
 実は最初に読んだときに、きっとそうに違いない、という勘がした。
 だが、ヨナ記に出てくるのは、「柏の葉」ではなく、「とうごまの葉」なのだ。そのため、ちょっと解釈に無理があるかもしれないと、いったんその説を留保していた。
 ここで、「ヨナ記」って何だ? と首をかしげる方のために、そのお話の概略を紹介しておこう。日本むかしばなしならぬ、ユダヤの昔話といった感じの素朴なお話で、私はこれがなかなか気に入っている。

 ヨナは、ある日、神の命を受ける。
 異邦人の地、ニネベに言って宣教せよと言うのである。ヨナは恐れて拒む。
 そして、神の目を逃れようと、船に乗って旅立つ。ところが、海が荒れて船が進まなくなる。自分のせいだと悟ったヨナは、他の乗組員のために犠牲となり海に身を投げる。
 そこへ大きな魚が来て、ヨナを飲み込む。このへんは、ピノキオの鯨の話のようで面白い。3日3晩、大魚の腹の中で暮らしたあと、吐き出されたのはなんとニネベの海岸。
 やむを得ず、ヨナは宣教を始める。当時のニネベの街は、退廃し堕落していた。
 もし神の教えに従わないのであれば、神は四十日後にニネベの街を滅ぼすと言う。
 これを聞いた、ニネベの王や住民たちは深く悔い改めた。
 神はこれを見て、よしとされた。そして、ニネベに与える罰を思いとどまられた。
 ここで終わればハッピーエンドに見えるが、ヨナは内心、不満だった。というのは、自分が預言したことがうそになってしまい、ニネベが滅びなかったからだ。
 ヨナは荒野に出てそこで暮らした。日差しが強い。そこで神は、とうごまの葉を茂らせて、ヨナの頭上をおおった。これは良い木陰だと、ヨナは喜んだ。
 ところが、神は次の日、とうごまの葉を枯らしてしまう。日差しがまともに照りつけ、ヨナは死にそうになる。「神様、いっそもう殺してください」とやけになった。
 そこで、最後に神様の言う言葉が、良い。
 「おまえは、とうごまの葉一枚さえも惜しむのか。では、私がニネベの大きな街とそこに住む人々を惜しむのは、当たり前ではないか」

   柏葉の垣根が青く茂ってできる木陰があるから、
   私はまだここに息を保っています。

 ヨナの話を知ってから読めば、ここにそのイメージが明確に認められないだろうか。
 とうごまの葉であるかどうかはひとまずおいて、神様が葉が茂らせてできた木陰のために、私はまだ息をしてこうして生きています、という言葉がヨナを思わせるではないか。
 そして、その文脈で、次のフレーズを読んでみると、どうだろうか。

   一度も手を挙げてみられなかった私を
   手を挙げて示す天の神もいなかった私を

   どこかに私の真の身を寄せる天の神がいて
   私を呼んでいるのですか。

 ここは、神様の呼びかけに応じようとしなかった、ヨナの姿が重なってこないだろうか。
 ヨナよ、おまえに与えられた預言者としての道を行け、と神は言う。
 だが、ヨナは、ハイとばかり手を挙げて、宣教に出かけることをしなかった。
 しかし、それでも神は、魚の奇跡などを起こして、どうしてもヨナのことをあきらめず、あくまで彼を、神の言葉を広めるために用いようとするのだ。
 「ハヌル」という言葉が繰り返されている。
 この「ハヌル」は詩集のタイトルにもあり、また尹東柱の詩で頻出する言葉だが、これをただ「空」と訳すことの多い従来の訳では、その真の意味がわかりにくい。
 手を挙げて自分を示す、その相手というのは、たんなる青い虚空、物理的な空間ではないのだ。天にまします我らの神よ、とよびかける、人格を持った神様だ。
 韓国語の「ハヌル」には、「天」すなわち「神」という意味でよく使われ、尹東柱は明らかにその意味で用いている。
 だから「私の身を置く空」などではなく、「私の身を寄せる神」なのだ。
 だが、いくら拒もうと、神は私のことを呼んでいるのだ。
 たれですか、あなたは。そう言いながら、実はもう詩人は気づいている。宣教には、危険のある異邦人の地への宣教には、できれば行きたくはない。
 しかし、神は私を呼んでいる。苦い杯はやはり飲まねばならないのか。であるから、詩のタイトルが「恐ろしい時間」なのだ。
 では、ヨナにとって宣教の地であった異邦の国、ニネベとは、尹東柱にとってはどこであったろうか。言うまでもあるまい。日本である。
 そして、この詩を読んだ翌年、彼は実際に日本に向ったのである。

   仕事を終えて私が死ぬ日の朝には
   悲しみもしない柏の枯葉が落ちるはずだから……

 神様は、とうごまの葉をヨナに対して枯らしたように、柏の葉を枯らされるのか。日本への宣教の、その仕事を追えた時に、そして自らの死のおとずれる時に、私をおおってくれていた木陰は、枯れ葉の散るとともに消えるのだろうか、私に同情することもせずに。そのように、詩人は嘆いているのだろうか。
 今、我々は、詩人が日本にわたった後に、独立運動の件で逮捕されて、非業の獄死を遂げたことを知っている。だから、ここで詩人の予感した恐れ、それは的中したともいえるのだ。彼が日本での働きを終えて死ぬ日に、日本人たちは、まして検察や獄吏は彼の死を悲しんだろうか。だれも悲しみもしなかったのかもしれない。散る枯れ葉のように。
 この箇所も、先と同じ理由で、「なのに」でなくあえて「だから」と訳しておく。

 ここで、柏の葉のなぞに臨んでみたい。
 ヨナ記の「とうごまの葉」は、実は韓国語訳では、「ひょうたんの葉」となっているのだ。これはもしや韓国のお国柄を反映した訳ではないかと最初思った。たとえば、
 「子供がパンがほしいというのに、石を与える親がいるだろうか」
 だから、神様は、あなたがたのほしいものを与えてくださる、という比喩の言葉だが、この聖書のことばの「パン」を韓国語では「トク」すなわち餅と訳しているのだ。
 ここで「ひょうたん」というのは、「パク」すなわち、ふくべ、よくその実を二つに割って器とする「パガジ」である。とすると、熱帯には多いが韓国人になじみのない「とうごま」ではなく、韓国にも親しみやすい植物「ひょうたん」を出したのかとも思われる。ひょうたん、ふくべのできる懸崖作りの棚の木陰をイメージしやすいのかもしれない。
 ところが、日本の新改訳など見ても、「ひょうたん」という訳もある、と書かれている。調べてみると、日本や韓国よりずっと古い七十人訳と呼ばれる訳で、この「ひょうたん」という訳が採用されているという。それは、「とうごま」がなじみにくいとか、原語の示す植物はこれらしいという解釈などによるものらしい。ともあれ、これで韓国の民俗性に合わせた訳、という説は消えることになりそうだ。

 それにしても、なぜ「柏の葉」なのか。
 簡単に割り切ってしまえば、別に「とうごま」でも「ひょうたん」でもいいのなら、「柏の葉」に置き換えてもかまわないということになる。いずれも、葉の大きい植物ということでは共通している。葉が大きくて木陰を作ってくれるようなら何でもいいわけだ。
 「とうごま」は「ひま」とも呼ばれ、その種からあぶらをとって、「ひまし油」を作り、下剤にもなる。そんな知識は百科事典をひけば出てくるが、いかんせん、身近に見られるかといえば、やはりあまり目にしない植物だろう。それなら何でもいいから、日常的に目にするものに置き換えればいいではないか。
 実際に、尹東柱の目の前に、庭の柏の葉があったのかもしれない。あるいは好きな山登りをした時でもあろうか。「柏」あるいは「樫」という木は、日本でも韓国でも割とポピュラーな種類の植物だ。どんぐりやくぬぎに近い仲間でもあるらしい。何より、日本人には5月の節句のころに食べる、「柏餅」を包む葉で親しまれている。
 言われてみれば、確かに葉っぱは大きい。日よけにもなりそうだ。
 とそんなことを考えて終わりにしてしまおうかと思っていたのだが、韓国語の辞書を改めて「カランイプ」を引いていて、次の例文に目が留まった。

 「カランイプで目隠しをする」

 これは韓国のことわざだ。すぐにばれる、時宜に会わない隠し事をすることを言う。柏の葉は大きいから、それで相手の目をおおって目隠しをしようとしても、見え見えの擬態であるし、なによりも直に枯れ葉となって散ってしまえば、目隠しにはならない。
 ここを読んで、はっと目からうろこが、いや葉が落ちる気がした。
 このことわざがあって、それを意識しての「カランイプ」かもしれないぞ、と。
 その国のことわざというものは、そこに生まれて言葉を母国語として生活の中で使いこなす人には、自然に身につくものだ。詩人は新しい言葉使いをするものだが、一方で伝統的な言い回しやことわざを、意識的にあるいは無意識に使うことがあるだろう。

 神様の目を、柏の葉などで隠そうとしても、すなわちそれは無駄なことだ。
 そんな寓意が含まれる。そのためにこそ使われた「カランイプ」ではないか。

   私を呼ばないでください。

 さて、最後にもうひとつ、ぜひ申し添えておくべきことがある。
 ヨナ記を下敷きにして読んでみたが、それでも、詩人が神様を恐れていることには変わりないではないか。やはり不信仰や背信ではないかとも言われそうだ。
 だが、そうであろうか。
 呼ばないでください、と言いながら、彼は呼んでほしかったのではないか。

 この詩のあとに書かれた二つの詩、これらはすでにこの連載で読んでみたが、これを含めた三つの詩、詩集の中でも並んでいる三部作とも言うべき三つの詩を見てみよう。
 「おそろしい時間」のあとに、「十字架」そして「風が吹いて」。
 「十字架」では、
 「私にもイエスへのように十字架が許されるなら
  暗くなってゆく空の下で静かに血を流します」
 というのだ。これは、殉教はしたくない、という背信とは正反対だ。陽は尖塔の十字架にかかって手が届かない、鐘の音も聞こえてこない、だが、私は許されるなら、宣教に向かい血を流して殉教したい、と言う。
 「風が吹いて」では、
 「風は吹くが私の足は岩の上にある
  川は流れるが私の足は丘の上にある」
 という。だが、これも前回読んでみたように、だから安心だ、というのとはほど遠い。もし許されるのなら、ほんとうは風に身を任せたい、流れに身を投じたいという気持ちの現われではないか、とそのように私は読んだ。
 とすれば、それらに先行して読まれている、この「恐ろしい時間」もそうではないのか。同じ時期に読まれた三つの詩であること、それらの基調が同じであることは充分に予想できるし、何よりその後に彼がとった日本留学のことを思う。
 「私を呼ばないでほしい、今まで手も挙げられず身を隠していた
  しかしどうしても呼ぶのであれば、仰せのとおりにします」
 そんな気持ちがうかがわれると私が感じるのは、牽強付会ではないと信じる。

 であるから、全体のタイトルも従来の「恐ろしい時間」は、やめておこう。
 本気で「恐ろしい」「恐い」と感じて、逃げているのだろうか、そうではなかろう。
 「恐さ」といっても、ここは神に対する「畏怖」と言うべき感情だろう。
 とすれば、「おそるべき時間」である。「ムソウン」は「おそるべき」実力といったような用法で使われる場合もあると辞書に載っていて、そうした訳例もある。
 神の召命を受ける、時間。
 神の時は、恐れかしこみ、そして苦い杯であっても受けるべき、聖なる時間、神々しい時間、総身の震えるような、まさに「おそるべき時」なのだ。

【追記】

 以下は、余談の個人的な付け足しになる。
 この詩について、以上のことを近隣の図書館で調べた夕べのことだ。
 事典を引いていると「ヨナ記」に次の解説の一項があった。

 「“ヨナ”とは、そもそも“鳩”の意である」

 鳩? そうか、鳩か……
 それは土曜だった。そしてその日、図書館に来る前に、私は自分の教会に出かけてきた。付属幼稚園の四十周年を記念する礼拝があったので参列したのだ。
 その時に、参列者にお土産に配っていたのが「鳩サブレー」だった。なぜ?
 鎌倉に関係者でもいるのかな。あ、そうか、ノアの箱舟の話に出てくる「鳩」、洪水に浮かぶ船に地上のオリーブの葉をもたらした鳩、平和のシンボルの鳩か。
 そう思っていたが、今、目の前に“ヨナ”は“鳩”と言う。
 イエスの聖書の中の言葉が、こころに響く。
 「この不信仰な時代には、ヨナのしるし以外にはしるしは与えられないだろう」
 そうですね。イエス様。
 でも、逆に言えばあなたは、ヨナのしるしは与えてくださるのですね。
 もちろん、この言葉が、イエスが墓の中に三日三晩いてからよみがえったことを暗示するという解釈は知っている。でも、このときの私にはそのように響いたのだ。なぜなら、娘のこと、信仰のこと、教会のことで悩んでいた時だったから。

 ヨナのように、尹東柱のように、
 神よ、この私もあなたが呼びかけてくだされば、その言葉に従いましょう。

                               2005.6.3. 〜 洗礼四周年に


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