尹東柱を読む O 「懺悔録」

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〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕

【ローマ字表記】

  懺悔録(Cham-heui-rok)

Pha-ran nog-i kkin ku-ri-keo-ul-sog-e
Nae eol-gol-i nam-a iss-neun geos-eun
Eo-neu 王朝
(wang-jo)eui 遺物(yu-mul)i-gi-e
I-da-ji-do yok-toel-ka

 Na-neun na-eui 懺悔
(cham-heui)eui keul-eul han-jul-e ju-ri-ja
 ――満二十四年一個月
(man i-sip-sa-nyeon il-kae-weol)eul
  mu-seun ki-ppeum-eul pa-ra sal-eo wass-teun-ga

Nae-il-i-na mo-re-na keu eo-neu jeul-geo-un nal-e
Na-neun tto han-jul-eui 懺悔録
(cham-heui-rok)eul sseo-ya-han-da.
――Keu-ttae keu jeolm-eun na-i-e
   Wae keu-reon bu-kkeu-reon 告白
(ko-baek)eul haess-teun-ga

Pam-i-myeon pam-ma-da na-eui keo-ul-eul
Son-pa-dag-eu-ro pal-pa-dag-eu-ro takk-eo po-ja.

 Keu-reo-myeon eo-neu 隕石
(un-seok)mith-eu-ro hol-lo keol-eo-ga-neun
Seul-pheun sa-ram-eui twis-mo-yang-i
Keo-ul-sog-e na-tha-na-on-da.

                     <1942.1.24>

【語句】
pha-ran <= pha-rah-ta 青い nok〔緑〕緑青、錆 kki-da 生える
ku-ri 同 keo-ul 鏡 sok 中
eol-gol = eol-gul 顔 nam-ta 残る、遺る、とどまる

eo-neu どの〜〔選択疑問〕、ある、とある〜〔不特定〕
王朝(wang-jo) 王朝 遺物(yu-mul) 遺物
〜gi-e 〜ので、だから〔理由〕、〜だからといって〔理由を問う〕
i-da-ji こんなにまで yok〔辱〕恥 yok-toe-da 恥になる

懺悔(cham-heui) 懺悔 keul 文、文章 han 一つの jul(文章の)行
ju-ri-da = jul-i-da 減らす、縮める、省く 〜ja 〜しよう

満二十四年一個月(man i-sip-sa-nyeon il-kae-weol) 満二十四歳一ヶ月
mu-seun 何の、どんな、どういう〔疑問〕、何か、どんな〔不特定〕
ki-ppeum 喜び、うれしさ ki-ppeu-da うれしい、喜ばしい
pa-ra-da 願う、望む、期待する sal-da 生きる、暮らす
〜teun-ga = teon-ga 〜したのかな〔過去の回想、自問・反省〕

nae-il 明日 mo-re 明後日 〜(i)na 〜でも〔例示〕〜や〔列挙〕〜も〔同様〕
jeul-geop-ta 楽しい、うれしい nal 日
sseo <= sseu-da 書く 〜ya ha-da 〜しなければならない

keu ttae jeolm-ta 若い na-i 年、年齢 wae なぜ keu-reon そんな
bu-kkeu-reop-ta 恥ずかしい 告白(ko-baek) 告白

pam 夜、晩 〜i-myeon 〜になれば pam ma-da 夜ごとに、夜な夜な、毎晩
son-pa-dak 手のひら pal-pa-dak 足の裏 〜(eu)ro 〜で〔手段〕、〜へ〔方向〕
takk-ta (つやが出るように)磨く、(よごれたものを)ぬぐう、ふく

keu-reo-myeon そうすれば 隕石(un-seok) 隕石 〔類・pyeol-ttong-tol〕
mith 下、もと hol-lo 一人で keol-eo-ga-da 歩いていく、歩む
seul-pheu-da 悲しい、かわいそうだ、あわれだ sa-ram 人、者
twis-mo-yang 後ろ姿 na-tha-na-da 現れる、表に出る、明らかになる

【試訳】

  懺悔録

 緑青のふいた銅鏡のうちに
 私の顔が残っているのは
 ある王朝の遺物だからといって
 これほどまでも辱められるのか

 私は私の懺悔の文を一行に縮めよう
 ――満二十四年一個月を
   どんな喜びを望んで生きてきたのか

 明日か明後日かあるうれしい日に
 私はまた一行の懺悔録を書かねばならない
 ――その時その若い年で
   なぜそんな恥ずかしい告白をしたのか

 夜になれば夜ごとに私の鏡を
 手のひらで足の裏で磨いてみよう。

 するとある隕石の下へと一人歩いていく
 哀れな者の後ろ姿が
 鏡の中に現れてくる。


【コメント】

 タイトルが「懺悔録」
 いったい詩人は何を懺悔しようというのだろうか。

 「懺悔」という言葉は、きわめてキリスト教的である。
 まず自らの「罪」を認め、悔い改め、許しを請うこと。それが「懺悔」であり、
心から悔い改める者には、神の赦しと救いが与えられる。
 萩原朔太郎の初期の詩篇に、この「懺悔」という言葉がよく見られる。
 彼は、学生時代に妹の同級生に恋をしていたが、彼女は他の男と結婚してしまった。
それをあきらめられず、道ならぬ恋の想いを抱くようになってしまったのだ。だが、
彼女を幸せにはできなかった。その悔恨が、「懺悔」の言葉に表れている。
 だが、尹東柱が懺悔したのは、恋の想いではなかった。それでは、何か。

 緑青のふいた銅鏡のうちに
 私の顔が遺っているのは
 ある王朝の遺物だからといって
 これほどまでも辱められるのか

 古い鏡のイメージ。胴でできていて、しかも緑青でさび付いている。
 直訳だと「青い錆のついた胴の鏡」ということだが、「緑青」「銅鏡」と古めかしい
言葉を使っておこう。三角縁神獣鏡と教科書で覚えた術語がふと浮かんだりするが、
銅鏡というのは日本の古墳でもよく発掘され、大陸や半島との古い交流を偲ばせる。
 その中に、私の顔が「残っている」と言う。単に「映っている」ではない。
 鏡の中に自分の顔を映してみるという発想は、詩集の最初にある「自画像」という
詩にも見られる。田舎の村の井戸の底に映った顔を見ての述懐だ。その場合は実際に
通りかかった実景ではないかとも思えるが、この詩の鏡は、象徴ではないか。
 それは「王朝の遺物」という語が次に見えているからだ。
 すなわち、銅鏡というのを、古い王朝の遺物の象徴として詠んでいるのだろう。
 そして、「王朝の遺物」という理由によって、「恥辱となる」、すなわち「辱めを
受ける」というように続く。
 では、その「王朝」とは、いつのどこの何の王朝か。
 尹東柱という男にとって、そして、今は、ここで今というのは、彼が詩を書いた
大戦下の一九四二年という年にあって、すでに古い銅鏡のように錆びついて失われ
た王朝とは、いったい何だろう。言うまでもないことだ。
 朝鮮王朝である。さかのぼれば高麗、新羅より続く半島民族の由緒ある王朝。
 今、その王朝は失われた。ほかならぬ日本の帝国主義の侵略によって、朝鮮は
植民地となり併合されて国は滅び、李朝王朝は滅亡させられたのであった。
 そして、その末裔である朝鮮人であるがゆえに、彼は差別されてきたのだ。
その苦い思いが、「こんなにも辱められるのか」という慨嘆となって表される。
 ではなぜ、「ある王朝」というばかりで、はっきり朝鮮王朝と言わないのか。
これは愚問かもしれない。当時の日本の統制下では、明確に体制を批判するよう
なことは言えるはずがない。
 なおここを、「どの王朝」としている訳が見られるが、「eo-nu」には疑問「どの」
だけではなく、不特定の「ある」という意味がある。朝鮮王朝ということは作者
は知っていて、わざと韜晦しているのだから、「ある」が適当だろう。

 私は私の懺悔の文を一行に縮めよう
 ――満二十四年一個月を
   どんな喜びを望んで生きてきたのか


 彼の生まれたのは、1917年、第一次大戦の始まった年の暮れも押し迫った
十二月三十日だった。この詩が書かれたのが、42年の一月二十四日。だから、
満年齢で二十四年と一ヶ月過ぎたところになる。
 懺悔の文を一行に縮めるとはどういうことか。
 懺悔したい思いはいろいろあって、語れば長くなるのだが、あまり冗長に流れる
と散文的になってしまう、詩なのだから一言で簡潔に述べたいという気持ちもある
だろう。また、生い立ちから当時の社会情勢など背景を述べ始めれば、時局批判と
なるから、あいまいに象徴的に書くという意識もあるかもれない。
 一言で言って、自分の過去に二十四年の生涯とは何だったのだろう。もうすでに
その倍近くも生きのびている私の目から見れば短いが、青春の只中にあって情熱的
に生きてきた尹東柱にとっては、すでに充分に長い年月だったろう。
 それをあえて詩の一行で言ってしまうとどうなのか。
 「どんな喜びをもって生きてきたというのか」
 これは反語的にとれば、喜びと呼べるようなものなどあっただろうか、何も喜び
はなかった、という意味になる。そうかもしれないが、それではあまりにも絶望的
とも言える。当時、キュルケゴールを耽読していたという彼のことだ。絶望こそ、
「死に至る病」、神への背信、人の犯す最大の罪であるという考えからすれば、
決して絶望ではなかったのだと読める。事実、彼の詩には不安や懐疑や悔恨は見ら
れても、究極の絶望はなく、一抹でも希望につながるものが多い。
 とすれば、ここは文字通り、「何の喜び」「どういう喜び」をもってきたのか、と
いう疑問、すなわち、喜びそのものの内容なり質なりを尋ねているととられよう。
生活上の喜びが、小市民的な喜びが、幼時より何一つなかった、とは考えられまい。
日常生活を送っていくうえで、さまざま喜怒哀楽、ささやかな幸せもあったはず。
だが、それらは真の「喜び」ではなかった、いったいおれはなぜそんな表面的な
「喜び」になぞ満足したりしていたのだろう、という反省の気持ちではないか。
 真の「喜び」をこそ、求めるべきであったのに、という。

 それにしても、異様ともいえるくらい高揚した悔悟、強烈な懺悔の気持ちが
うかがえるのはなぜだろうか。ここで当時の彼の事情に触れねばならない。
 元来、詩とか小説とかいうものは、それ自体で完結していなければならず、
当時の作者の事情とか、時代の背景とか、作品にまつわる付属的な要素などを
理解していなければよさがわからないというのは好ましくない、と思う。
 だが一方で、それ自体としても独立して鑑賞できるが、さまざまな事情を知れ
ば知ったで、より深く理解し味わうことができる、そういう詩もあるはすだ。
この「懺悔録」の場合、韜晦的な表現ということもあるが、事情を知っていた
ほうが良い詩だと思われる。まわりくどいが、そろそろ種明かしをしよう。
 この詩の草稿が残っていて、その手書きの原稿が、七十七年版の原本の詩集、
それから、日本で伊吹郷さんの翻訳された詩集の、表紙見開きのページに、その
影印版、コピーが掲げられている。なぜか、日本版のほうは中間部の印刷が伸び
ていて読めない箇所があるのだが、これは単純にコピーの都合だろうか。
 それはさておき、その手書きの草稿を見ると、詩の下部の箇所に、「落書」と
漢字で書いて、文字どおり筆者の落書き、メモが書かれている。この覚え書き、
ノートのはしっこに書き散らした落書きに、けっこう重大な意味がうかがえる。
 断片的な単語の羅列なのだが、それをここに拾ってみよう。
 

 落書
 詩人eui
(の)告白
 渡航 渡航証明

 上級
 him
(力)
 生
 生存
 生活
 文学

 詩ran
(とは)
 不知道
(わからない)

 古鏡 古鏡

 悲哀 禁物


※ 以上、ローマ字の部分は原文ではハングル、( )内は引用者の邦訳。

 詩人eui
(の)告白
 渡航 渡航証明


 まず、「詩人の告白」、これは、この落書きが、詩人である自分の告白であること、
いや、詩のための制作スケッチ、発想メモだとすれば、「懺悔録」という詩自体が、
ひとつの告白なのだと言いたいのだろう。
 次にかかれている「渡航証明」、これがもっとも重要なのである。
 というのは、この詩の書かれたのは一九四二年の一月だが、それからまもなく
尹東柱は日本に渡航し、同年の四月には立教大学に入学しているからだ。
 この詩は、彼が渡航する前に、最後に書いた詩なのである。
 そしてもうひとつ彼にとって、そして彼の家にとって最大の事件は、この前年
の暮れ、十二月に、尹家がついに「創氏改名」したということだった。

 「創氏改名」についてすでにご存知であろうみなさまには、今さらの解説に
なるのだが、これは当時朝鮮を支配していた日本政府が、朝鮮人たちの先祖伝来
の大切な姓を、無理に日本式の姓に改めさせるという暴挙で理不尽な政策だった。
 「内鮮一体」と称して朝鮮人を日本人化しようということだったが、儒教の
伝統が深く、先祖代々の家の系図を「族譜」として大切にしている彼らにとって
これは最大の屈辱だった。なかにはご先祖に申し訳ないと自害した家長もいる。
三代遡れば曽祖父の名前もよく知らない日本人の感覚ではわかりにくい。
 「風の丘を越えて(西便制)」で日本でも有名になった巨匠イム・グォンテク
に「族譜」という映画がある。梶山季之の原作小説によるのだが、日本の政策に
よりやむなく「創氏改名」を迫られる家長、その娘に恋する日本人青年の悲恋を
描き、朝鮮民族の運命を歎ずる悲哀に満ちた名画だった。

 さて、尹(ゆん)家は改名して、「平沼(ひらぬま)」と名乗るようになる。
そして、尹東柱(ゆん・どんぢゅ)は「平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)」と
いう名となった。もちろん、家にとっても彼にとっても大きな屈辱だ。
 日本の政府は、当時さまざまな手段や理由で陰に陽に、改名政策を推し進めて
いった。だが、尹家の場合、その直接の原因は、尹東柱の「渡航証明」をとる
ためだったのだ。名前が日本式でなければ、渡航証明書をとるのが難しかった
のである。これは一つの大きな矛盾であって、本当に「内鮮一体」であり朝鮮
も完全に日本の一部であるのなら、九州から本州に渡る場合のように、半島から
日本に渡る場合も「国内」旅行なのだから、パスポートや証明書など不要なはず
だ。ところが、それが必要だった。しかも、平等と言いながら、日本名でなければ
実際には認可が難しい。こんなところに、当時の日本政府の姿勢がうかがえる。

 尹東柱にとって、自分の日本渡航のために、自分はもちろん、家族の者までも
「改名」することになってしまった、その屈辱感はいかばかり深かったか。
 そのさぞかし無念であったろう心中を察するときに、詩の冒頭の言葉、
 「ある王朝の遺物だというので、
  こんなにも辱めを受けるのか」
 という慨嘆が、身をもって肌から伝わってくる。口語的に平たく言えば、
 「おれが朝鮮人の子孫だからというので、
  こんなに差別され恥ずかしい思いをするのか」
 その強い懺悔、自分自身の罪悪感、祖先や家族への申し訳なさ。
 それは言葉にはとてもならない、語りつくせないものだが、あえて言えば、

 「満二十四年一ヶ月を、何を喜びとして生きてきたのか」

 こんな悲しみ、つらさ、恥ずかしさ、悔しさ、憤り、それを味わうために、
おれはおめおめ今まで二十四年を生きてきたのか。今まであった喜びなど、
ふきとんでしまえ。自身の誇り、家の誇り、祖先の誇り、そして民族の誇り。
それこそを尊い精神的な「喜び」として目指すべきだったのに、そのもっとも
重大な「喜び」は失われてしまったではないか。おろかな自分よ。
 明らかに、自分を責めている、責めさいなんでいる詩なのだ。
 だからこそ「懺悔」録なのである。

 彼は一体、何のためにそこまでして、日本に渡りたかったのだろうか。
 東柱の父親も、日本に渡ったことがあるという。しかもその時に、あの
関東大震災があり、忌まわしい朝鮮人の虐殺もあったのだ。朝鮮人に対する
強い偏見や差別があることは、知っていたはずなのに。
 父も文学を志したことがあるらしい。しかし、それは挫折してしまった。
父は息子が文学に進むといった時に反対した。自分と同じ失敗を歩ませたく
なかったのだろう。だが息子の意志が固いのを見て、折れた。
 もし、東柱が父の言葉に従って文学をあきらめていたら、例えば彼と共に
日本に渡った従兄弟のように法学の道を進んでいたら、今日の彼の詩作も
なく、その名も知られることはなかっただろう。
 彼は文学の道について、「序詩」に見られるように「天命」とも思えるほど
の強い使命感を持っていた。「自分に与えられた道」だと思っていたのだ。
 そして、文学を究めるためには、詩の力を磨くためには、日本に留学しなくて
はならないと、思っていたのだろう。朝鮮人は日本に行かなくては道が開けない
といった社会的な事情があったのかもしれない。あるいは、あえて差別されて
いる日本に渡って道を説くことが自分の使命という覚悟だったのかもしれない。
 そこで、メモはこう続く。

 上級
 him
(力)
 生
 生存
 生活
 文学

 「上級」の「力」を得るために、自分は日本に渡る。
 いったい「生」とは何か。「生存」や「生活」というのは何か。
 それを究めるのが「文学」であり、そのために私は日本に行く。
 そうした決意と、自らの進むべき道、文学の意義の再確認だろう。
 ところが、その直後に、メモにはこう書かれている。

 詩ran?
 不知道

 詩とは?
 わからない。

 いったい、「詩」って、そもそも何なんだろう。
 それは「わからない」と言うのだ。これは深刻である。
 自分は詩人を目指している。詩を書くことが天職だ、と思っている。
 その詩人が、あらためて「詩とは」と自らに問いかけている。
 しかもそれが「わからない」と書いているのだ。

 ここにあるのは、彼の強烈な悲哀の感情だと思う。
 自分の名を犠牲にして、家族の名も共に改め、父祖以来、先祖代々伝えられ
てきた名を変えて――朝鮮で最大の悪口のひとつが「名を変えるべきやつ」
なのだが――そこまでして、このおれは、文学などやりたいのか。
 上級の力がほしいのか、自分の生活のためか、文学こそ生を究めるものだと
思い上がっているのか、そういうおまえは、一体「詩」というものの本質を、
わかっていると言えるのか。そのようにまた自分を責める。
 この詩人は、よく自身を責める。これはまたクリスチャンの特長でもあるが、
自らの罪を認め、懺悔して悔い改めることによって、さらに前向きに進む。罪を
意識しなければ、それを改めることもできないのだから。
 そうやって、自分を問い詰める時、彼の口からは謙虚な言葉が出る。
 「不知道」
 これが、中国語であることに注意したい。
 朝鮮語で、「もるら」「もるげっすむにだ」ではない。
 まして、日本語で「わからない」でも英語で「I don't know」でもない。
 「不知道」 bu chi dao ぷーちーたお
 「わからない」という意味で、中国語では普通に使う口語的な言葉だ。
 これを使ったのは、彼が満州育ちで、小学校や近隣にも中国人が多くて自然に
中国語には慣れ親しんでいたということもあろう。つい口をついて出た。
 だが、自然に出るのなら、まず母語の朝鮮語であるはずだ。なぜ異国語か。
 日本語には、侵略者の国の言葉として、複雑な感情があろう。英語やフランス語
ではよそよそしい。――もっとも、メモのうち書いてから消されている部分には、
「poem」と英語で繰り返し書かれた痕跡が残っているのが読めるのだが――
 そこでとりあえず、もっとも親しい外国語を使った。
 ここにはまた、自身に対する揶揄や、一種の諧謔、韜晦といった気分もあるの
かもしれない。詩が「わからない」とはっきり言い切るは、恥ずかしく、また
情けないことだと。おそらくそうだろう。
 しかし、もうひとつあるのかもしれない、と私は思う。
 「不知道」。これは、日本的な漢文の訓読で読めばどうか。
 「道を知らず」、である。すなわち「詩」こそ天から与えられた自分の「道」
だと思っていたが、はたしてそうなのだろうか。詩とは何かわからないし、
道も自分の道なのかわからない。そうした迷いや慨嘆を掛詞として重ねて
いるかもしれない。と読むのは、考えすぎだろうか。

 ともかくも、「渡航証明」のための「創始改名」の悲劇、自らの「文学」や
「詩」に対する苦悩、そうした気持ちは、はっきり読み取れる。
 ところが、メモは最後に結ぶ。

  古鏡 古鏡

  悲哀 禁物


 イメージが「古鏡」へと飛翔する。それを繰り返す。
 そして、「悲哀」は「禁物」だと言う。

 ここで詩の言語、修辞ということに思い至る。
 彼にとっては、思わず叫び出したい気持ちだろう。
 朝鮮人だからとばかにするな、渡航証明がなんだっていうんだ、
ああ、文学って、詩ってなんだ、おれにはわからん!
 だが、そう叫んでしまっては、詩にはならないのだ。
 それは単に、話し言葉に過ぎない。
 詩にするには、ひとつの文語化、雅語を使った表現、イメージや比喩を
使った修辞、というものが必要になるのだ。
 もちろん、思いをありのままに、日常の口語をつかって書いた詩も
詩ではないとはいえない。そういう素朴な、直截な詩もあるだろう。
 しかし、尹東柱の個性は、詩人としての方向性は、少なくともそうでは
なかった。強い悲哀、叫びだしたいような慨嘆をぐっとうちに秘めつつ、
それをみやびな言葉でよもうとする。それは何か。
 「古鏡」
 このイメージを得たときに、彼にとっての詩が生まれた。
 崩れいく、滅びゆく、錆びていく、朝鮮王朝。
 それを、古鏡にたとえよう。
 そしてその末裔の自分を、そこに映る影にたとえよう。
 見事な象徴化だ。そのとき、古代の朝鮮民族の伝統に彼の精神は通じ、
誇らかな自尊心が、没落の貴族の不屈かつ高貴な矜持へとつながるのだ。

 だが、「悲哀」は「禁物」というのは、詩的表現の完成のためだけではない。
 もっと前向きに、自分自身の実際の生き方に、朝鮮の未来のあり方に、
それは結びついていく。
 泣いていて、どうなる。嘆いていて、問題は解決するのか。
 泣いてたまるか。おれが泣いても、何にも出ないぞ。
 上を向いて、歩こう。涙が、こぼれないように。

 さて、回り道をしたが、メモを読み終わって、詩の本編に戻るとしよう。
 後半にいたって、詩は急に、暗から明へと転じるのである。悲哀を、脱して。

 明日か明後日かあるうれしい日に
 私はまた一行の懺悔録を書かねばならない
 ――その時その若い年で
   なぜそんな恥ずかしい告白をしたのか


 今は悲哀だが、いつかうれしい日はやって来る。
 「keu eo-neu nal」とある。直訳すれば「その、とある日」だ。
「eo-neu」は、ここでも疑問の「どの」ではなく、不特定の「ある」日だ。
いつかはわからないが、「ある晴れた日」が来るのだ。
 しかも「その」という。この指示語もよく使われるが、何かが起こる日、
その、待ちに待った、その、ほかでもない、その、という指定がある。
 それはさらに「明日」かもしれないし、「明後日」かもしれない。遠い将来
ではなくて、すぐに実現するかもしれない、いや、してほしい。
 そしてそれは何より、「うれしい日」なのだ。
 詩の前半で読まれた、いわれのない「辱め」、悲哀、懺悔、慨嘆、それらが
一掃される日がやって来る。それは何の日か。
 「古鏡」に映る「顔」、「ある王朝」の「遺物」、すなわち朝鮮王朝の末裔と
しての自分が、恥辱や差別から解放される。それは何の日か。
 言うまでもあるまい。
 民族解放の日、朝鮮独立の日である。
 すなわち、「光復節」。
 日本にとっては「終戦記念日」だが、朝鮮にとっては光の服する日である。

 そして、その日、彼はまた懺悔録を書かなくてはならないというのだ。
 それはいったい、どんな「懺悔」なのか。
 「その時その若い年で
  なぜそんな恥ずかしい告白をしたのか」
 この「その時」「そんな告白」とは、何をさしているか。
 これは明らかに、この前の懺悔と対になっている、対句の用法である。

 ――満二十四年一個月を
   どんな喜びを望んで生きてきたのか


 この告白が「恥ずかしい告白」であり、なぜそんなことをしたのかと、
あとになって後悔するだろうと言うのだ。もう少しくだいて言えば。
 おれも、二十四のまだ若いときに、若気の至りでさ、未来はもうないかの
ような、絶望的な詩を読んだことがあるけどさ、ばかだったよ、恥ずかしい
気がするよ。朝鮮民族に未来はない、みたいなこと書いちゃってさ、こうして
待っていたら、解放の日が来たじゃないか。
 そのように、過ぎてみれば笑い話と言うが、未来になって、未来の自分が
過去の自分をふりかえってみるときがくるだろうというのだ。
 これは「たやすく書かれた詩」の末尾と照応している。

 ともし火をつけて 暗闇を少し追いやり、
 時代のように来る朝を 待っている最後のぼく、

 ぼくは ぼくに 小さな手を差し出し
 涙となぐさめで握る 最初の握手。


 やがて、「時代のように来る朝」、すなわち時代の夜明けがやってくれば、
その時私は、うれし涙にくれて、未来の自分から過去の自分に対して、
「涙と慰めで握る」「握手」をするだろう、と。
 もっともこれは、喜びばかりではない、もう一つの「懺悔」だとも言う。
 それはなぜか。自分で自分を見限ってしまうこと、朝鮮の未来を悲観して
しまったこと、それもまた罪だと言うのだ。先に述べたように「絶望」は
罪なのだ。どんな状況でも「希望」を持って生きなくてはならない。
 絶望してしまったこと、もう喜びはないと言ってしまったこと、そのこと
に「懺悔」しなくてはならないような、喜びの日が来るだろうと言うのだ。

 しかし、尹東柱よ。
 あなたが生きて、その日を見ることはなかった。
 四年後に二十八歳で、若い年のまま、あなたはこの世を去った。
 1945年2月16日。
 よろこびの日、解放の日の、それは半年前だった。
 あと半年、あとちょうど六ヶ月だけ、生きていられたなら。
 今、解放の日から六十年。あらためてあなたの無念を思う。

  さて、詩は最後の二つの連へと向かう。
 ところが、ここが謎なのだ。ここまでは「古鏡」の比喩はあるものの、
わりとわかりやすい詩だと思う。だが、このあとの象徴はやや難解だ。

 夜になれば夜ごとに私の鏡を
 手のひらで足の裏で磨いてみよう。

 するとある隕石の下へと一人歩いていく
 哀れな者の後ろ姿が
 鏡の中に現れてくる。

 鏡を磨いていると、その中から現れてくる謎の人物。
 隕石とは、一体なんであろうか。
 そのもとに歩いていく男とは、はたして誰なのか。
 この謎とき、みなさんはどうお考えになるだろうか。

 こうした詩の象徴は、それぞれが解釈するのが面白いだろう。
 必ずしも、ひとつの解釈に決め付ける必要もないと思う。
 これから述べるのは、今の時点での私の一つの解釈である。
 あるいは間違っているかもしれないし、変わる可能性もなくはない。

 まず、前の節からの文脈の続きで考えてみる。
 この詩の、さび付いていく「古鏡」とは、朝鮮の失われてゆく王朝の比喩、
あるいは滅びつつあった朝鮮民族そのものであると読めた。
 とすると、そのさびをとりのぞくということは、失われてゆく朝鮮民族の
誇りを解消することであろう。それは単純な、王政復古、李王朝の再興、と
いった意味ではなく、あくまで朝鮮という国であり民族であると考えられる。
 毎晩毎晩磨く。それは、詩人である彼にとっては、詩作であり文筆であった
ろうが、より広く言えば、思索でありそして祈りでもあったろう。そのことに
より、古い民族の誇りがよみがえり、独立に向けての行為が始まる。
 「私の鏡」と、あえて「私の」と言っている。これは、「我々の」でもなく、
「わが国の」や「わが民族の」でもない。とすれば、基本的には個人の内省で
あり、内面的な精神世界、「心の鏡」ととれるのではないか。

 このよう読んでくれば、歩いていく男、とは、誇りの行為、独立の運動に
向けてあゆんでいく男であり、それは第三者ではない、ほかならぬ自分自身
ということになるのであろう。
 その意味で、ここの箇所を訳本によっては、
 「悲しい人の後ろ姿」
 と訳しているのは、やや解せない。「悲しい人」だと第三者、自分以外を
指す表現であろう。もし自分だとすれば、
 「あわれな者の後ろ姿」
 となるべきである。「sa-ram」は「人」とも「者」とも訳し得る。自分のこと
にも人のことにも同様に使うのである。そのため、韓国人が日本語を話す時、
慣れないうちは、よくこういう言い方をしてしまう人がいる。
 「私は、李という人です」
 これはおかしい、口語的ではない。ふつうこのように自己を指す場合は、
 「私は、大田という者です」
 と「者」を使うのである。「人」は第三者に対して使う。
 「彼は、田中という人です」
 これなら、普通に言う。逆にここを、次のように言うと変だ。
 「彼は、田中という者です」
 言わないことはないが、意味としては見下した言い方になるだろう。つまり
「人」より「者」のほうが軽度が低いので、自己の謙遜に使うのである。
 また「悲しい」のほうは、「悲しい者」でも悪くはないが、自分の運命をやや
悲壮感をもって、あるいはやはり、大したことのない者だという卑下をもって、
描いていると読める。とすれば、
 「(私という)あわれな者」
 ということになり、これで訳が通ることになる。

 ここで「悲しい人」と第三者にとってしまいがちなことには、理由がある。
 なぜなら、自分が鏡をのぞきこんでいるはずなのに、そこに自分の後ろ姿が
見える、というのは、合理的に考えれば矛盾しているからだ。自分の前姿、顔
が見えるというのなら、理屈に合うのだが。しかし、合理性を言うのなら、
のぞきこんだ鏡の中に第三者の後ろ姿が見えるというのも、同様に妙な話だ。
 ここは、あくまで象徴的に、自分の将来の姿、未来像を予感して見ている、
ととるのがよいのではないか。よく、鏡は古い時代には占いに使われたりもした。
水晶や鏡に未来の姿が映るというやつで、そうした発想があるのやもしれぬ。
 そして、そう解釈する時、自分、すなわち尹東柱はこれからどこに歩いていく
のか、と考えれば、「隕石」の元へ、という比喩も自ずから明らかになりそうだ。
すなわち、朝鮮というひとつの大きな星が分解し、その隕石が、朝鮮民族たちが、
朝鮮の星たちが落ちていく、その先に行き、その元で合流し、新たに真の独立の
国を打ち立てるために、星をふたたび輝かせるために、努力するという志。
 詩の文脈から、そのようにひとつの解釈をしてみた。

 次に、他の詩を参考にして、解釈を補強してみよう。
 時代的背景と同様に、他の作品を参考に考えるというのも、あくまで詩作品
自体の解釈と比べれば、二次的な方法だが、有力な手段ではある。詩人という
のは、作家はたいていそうだが、同じような発想、修辞をよく使うものだから。
 尹東柱の諸作品を見ていても、明らかに類似し共通した作風が見られる。
 「古鏡」に映る「姿」という発想は、「自画像」を思わせる。詩集の最初に
ある代表作の一つだが、古い村の井戸を作者が覗き込んで、そこに自分自身の
顔を発見する、という発想の作品だ。
 その「自分」について、作者は憎らしくなる、とともに、哀れみやいとおしみ
を持つ、というアンビバレンツな愛憎半ばする感情を持つ。それがこの詩に、
よく似ている。鏡に自分の顔を映して、なんという辱めを受けていることか、
名前を変えて民族のアイデンティティを失ったおまえはなんだ、と責めている。
 また、「自画像」では、自分が憎らしくなって一度去りかけては、またいとお
しくなって戻ってきて、ふたたび自分の顔を見る、ということを繰り返している。
同様の発想で、去り行く自分の姿に対して、自らあわれみの気持ちを抱いて
見送る、というイメージは、自然に読みとれると思う。

 もうひとつ、「隕石」についてだが、これには実は有力な手がかりがある。
 やや長編の散文詩になるのだが、
 「星くずは落ちるが(pyeol-ttong tteol-eo-jin-de)」という作品だ。
 この詩の末尾に、このようにある。

(試訳)

 「どこに行かねばならないのか
  東はどこか 西はどこか
  南はどこか ああっ!
  あの星が きらりと流れる
  星くずが 落ちたところが
  私が行く ところのようだ
  それなら 星くずよ!
  必ず 落ちなければならないところに
  落ちなければならない


 伊吹郷氏の訳では、「pyeol-ttong 星くず」は「隕石」となっている。
 直訳すれば「星くず」なのだが、あえて「隕石」と訳しているのは
なぜか。ここは、伊吹先生の、なかなか慧眼であるところだと思った。
 つまり、「懺悔録」に読まれている「隕石」と、それは同じものを指して
いる象徴だ、という解釈だろう。それは正しいと思う。
 すなわち、詩人は、どこにこれからの人生を歩もうか、東か西か南か、
と思っているうちに、星が落ちてしまったのだ。すなわちそれは、民族の星
であろう。今、私は落ちたその星くずを拾いにいかねばならない。そして、
民族を復興せねばならない。だから、その星くず、朝鮮民族の同じ志士たち
の集うところを正しく教えてくれ、そこに自分は行こうというのだ。

 この詩を残して、彼は二ヵ月あまり後に、日本の地に立っている。
 とすれば、彼が星の落ちたところと考えたのが、日本だったのだろう。

 さて、最後にもうひとつの読み方を付け加えておきたい。
 まだひとつ大きな問題が残っている、と私には思われる。
 それは、終わりから二連目の部分である。

 夜になれば夜ごとに私の鏡を
 手のひらで足の裏で磨いてみよう。

 鏡を磨く行為は、別におかしくはない。ただし、磨くものは何か。
 「手のひらで足の裏で」とある、「手のひら」はいいとして、「足の裏」で磨く
ことがあるだろうか。普通はないだろう。なぜ、足の裏も使うのか。あまり熱心
に磨くあまり、手のひらだけでは足りないのか、そういう考えもあり得るかも
しれないが、それではなんだか可笑しくて、ギャグでもあるかのようだ。

 ここでひとつ、彼がクリスチャンである、ということを考え合わせたい。
 またか、といわれそうな気がする。というのは、これまでもこの拙い連載で、
キリスト教的な読み方をよくしてきたから。だが、繰り返して言っておくが、
尹東柱は、クリスチャンの詩人である、しかも、熱心な信者であって、日本への
渡航は、神からの召命の意識に燃えていたと思われるふしがあることは、これ
までも述べてきた。だからここも、そう読んでもいいのではないか。
 それでは、なぜ、それが足の裏と関係あるのか。
 キリスト者にとって根本である、主であるイエス・キリストにとって、
手のひら足の裏とは何を意味するか。クリスチャンのシンボルとなっている
十字架、尹東柱が「十字架」とそのまま詩に読んでいる、その十字架に磔刑
となり、人類の罪をあがなってくださったと言われている、メシアにとって
その十字架の意味を考えるときに、手のひら足の裏とは何か。
 そう、すなわちそれは「聖痕」である。
 手のひら足の裏に、イエスが十字架に釘付けされた時の跡があるのだ。
復活したイエスを弟子のトマスは信じなかった。その時に、イエスは自ら
の聖痕、傷跡を示されて、復活の証としたので、トマスも信じたのだ。
 それとこの詩を結びつけるは、こじつけだろうか。
 私にはそうでもないと思える。

 というのは私が、この詩の意味がよくわからずに、何ヶ月が眺めては
考えていた時に、こんなことがあったのだ。
 出版社の編集者をしていて、教科書編集の仕事でもお世話になり、
共に尹東柱の教材の指導書作りに携わってくれた、クリスチャンの女性
がいる。彼女は、うちの教会にきてくれたことも何度かある。
 そうした折によもやま話をしていて、ふと「手話」の話になった。
その時に彼女が言った。
 「手話には方言があるんですよ」
 「ええ、知っていますよ。例えば、『ありがとう』は、日本では
手を合わせて合掌、でも、アメリカでは投げキス、明るいですね」
 「そうそう、でもね、イエスは万国共通なんですよ」
 「へえ、どんなしぐさですか。十字を切るとか?」
 「いえ、こういうしぐさです。なんだかわかりますか?」
 そう言って、彼女はあるしぐさをしてくれた。
 右手の人差し指で左の手のひら、そして左手の人差し指で右の手の
ひらを、それぞれ指したのだ。
 「それはもしかして……聖痕?」
 「そうなんですよ。」
 驚きとともに感動があった。そうか、受難こそ、そして復活こそ、
キリスト教の要。とすれば、イエスの釘打たれた苦しみのしるし、
そして、栄光のよみがえりのしるしこそ、そのシンボルではないか。

 だから、手のひらと足の裏で心を磨く、のではないかと思えた。
 ちょうどこの詩について考えていた時で、啓示のようにすら感じた。
 尹東柱は、古鏡をそのまま復活させて、朝鮮の古い王族を再興しよう
などと思っているのではあるまい。
 とすると、イエスの博愛の精神によって、そして魂の復活の秘蹟に
よって、新生の朝鮮を、世界を救おうという意図ではあるまいか。

 そのように読んでいくとき、実は最終の連にももうひとつの解釈が
出てくるのだ。すなわち、「隕石」「星くず」の解釈である。
 ベツレヘムの星よ、エルサレムの星よ、そして、人類の希望の星よ。
 主の栄光の輝き、イエスの出生と、そして復活と昇天をシンボルする
ものが、星であるとも解釈できてくるではないか。
 その時に、落ちてくるその星のかけら、隕石とは何か。イエスの弟子
たるクリスチャンたちではないか。それが各地に散らばって、朝鮮は
もちろん、日本にも出て行って、福音を述べ伝えること、その使命を
尹東柱は実行しようとしたので、詩にも読んだのではあるまいか。

 最初は、隕石の元に歩んでいく、「悲しい人」こそ、イエスその人かも
しれないとも思った。その後ろに自分もついていく、ととればそのまま
通るし、「後ろ姿」であることにも矛盾が出てこない。
 それなら「哀れな者」ではなく「悲しい人」と第三者、「彼」で呼んで
もいいはすだ。ただし、そうした場合、今度は悲しい「人」ではなく「方」
になるではないか、という気もした。敬語を使うはずではないか。
 いや、それでも「十字架」の詩では「苦しんだ男、イエスキリスト」と
敬語を使っていなかったではないか。それは、「友なるイエス」に対する
へだてのない親愛の表現かもしれない。
 ただし、最後に問題となるのが、隕石である。イエスが、隕石の元へと
歩いていくのであるとすると、その隕石とは何なのか、ということになる。
隕石すなわち星が「父なる神」であって、そこに歩いていくのは人間イエス、
すなわち地上に人として降りたまいし「子なる神」であるという、いわゆる
「三位一体」的な解釈も成り立つかもしれない。それでも、「星」ではなくて
「星くず」であるところには、まだ引っかかる。
 やはり、空に輝く「星」が「主なる神」であり、落ちてきた「星くず」が
「子なる神」イエス、そして、そのもとに歩いていく人は、キリストの弟子、
イエスを慕い求め、メシアを捜し求めている、クリスチャンの尹東柱その人
である、とする解釈が、もっとも穏当で妥当ではあるまいか。
 と、今のところはそのように、私は考えている。

 以上長々と述べたが、先に述べた民族主義的な解釈と、あとで述べた
キリスト教的な解釈が矛盾はしていないか、どちらが正しいのかと、お尋ね
の方がいるかもしれない。民族の「星」なのかイエスの「星」なのかと。
 しかし、矛盾はしていないのだ。どちらも正しいと言える。両者が共存し
ていたから、尹東柱は「国民詩人」であると共に「信仰詩人」だった。
 民族主義的な独立がまず最初にあった。しかし続いて、いやそれと同時に
キリスト教的な、民族や国籍の違いによらない博愛が次に大切である。もし
いずれかが大切かといわれれば、尹東柱は後者だったろうと私には思える。
 なぜなら、イエスの教えはそうだったからだ。
 イエスが最初に人々から期待されたのは、当時ローマの支配下にあった
ユダヤの民族的独立だった。しかし、イエスの目指していたのは民族主義で
はなく、国家を超えた博愛主義だった。そのため人々はイエスから離れた。
 だが、民族紛争が激化する今日、すでに明らかになっているように、本当に
大切なのは博愛の精神だった。
 そして当時の日本をローマ、朝鮮をユダヤに置き換えれば、状況は相似である。
ローマにあえて布教にいって殉教したペテロやパウロと同じ運命が、
尹東柱を待っていたのだった。

 最後にもう一度、この詩の最後の言葉を口ずさんで終わりにしたい。
 これは、朝鮮を去って日本に向かう前、最後に彼が遺した詩だという重みを
あらためて読みながら感じたい。
 こののち、日本に渡ってからの詩は、わずか五編しか残っていない。彼が
逮捕され投獄された時、他の詩の原稿はすべて没収されたからである。
 だから、この詩は、彼の最後の遺言と読んでもよい言葉なのである。
 あくまでイエスの足跡を追って行った、悲しい詩人の後ろ姿を偲んで。

 するとある隕石の下へと一人歩いていく
 哀れな者の後ろ姿が
 鏡の中に現れてくる。

                              2005.8.20. 〜 終戦六十周年記念に


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