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〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕
【ローマ字表記】
Tol-a-wa po-neun pam
Se-sang-eu-ro-pu-teo tol-a-o-deus-i i-je nae job-eun pang-e tol-a-wa
pul-erul kkeu-ob-ni-da. pul-eul khyeo tu-neun geos-eun neo-mu-na
phi-ro-rob-eun il-i-ob-ni-da. Keu-geos-eun naj-eui 延長(yeon-jang)i-ob-gi-e
----
I-je 窓(chang)eul yeol-eo 空気(kong-gi)reul pa-kku-eo teul-eo-ya hal-then-de
pakk-eul ka-man-hi nae-da po-a-ya 房(pang)an-gwa-gath-i eo-du-eo kkok
se-sang
gath-eun-de pi-reul maj-ko o-deun kil-i keu-dae-ro pi-sog-e jeoj-eo
iss-sa-ob-ni-da.
Ha-ro-eui ul-bun-eul ssis-eul-pa eops-eo ka-man-hi nun-eul kam-eu-myeon
ma-eum-sog-eu-ro heu-reu-neun so-ri, i-je,
思想(sa-sang)i neung-geum cheo-reom jeo-jeol-lo ig-eo ka-ob-ni-da.
1941.6.
【語句】
se-sang 世間、世の中、社会 〜(eu)ro-pu-teo 〜から
tol-a-o-da 帰ってくる、戻ってくる tol-a-po-da ふりかえる、かえりみる
〜deus-i あたかも〜のように、〜するかのように
i-je 今 job-eun 狭い、小さい pang(房) 部屋
pul-erul kkeu-da / khye-da 明かりを消す/つける 〜tu-da 〜しておく
-ob-ni-da 〜でございます、いたします(謙遜)
〜tu-da しておく neo-mu-na〜 あまりにも〜 neo-muの強調
phi-ro 疲労 〜rop-ta 〜しそうだ naj 昼 〜ki-e 〜なので、だから
yeol-da 開ける、開く pa-kku-da 替える teul-da 入る
〜a / eo-ya ha-da 〜しなくてはならない
〜l-then-de 〜するはずなのに (the = theo + i)
pakk 外 ka-man-hi 静かに、そっと、じっと
nae-da po-da 外を見る、眺める、見やる 〜a-ya 〜すれば、すると(条件)
〜wa / gwa gath-ta 〜のようだ、〜と同じだ
eo-du-eo 暗く <- eo-dup-ta 暗い kkok 〜gath-ta まるで〜のようだ
〜(eu)n-de 〜だが、だから pi 雨 〜reul maj-ta 〜を受ける、〜に遭う
kil 道 keu-dae-ro そのまま jeoj-ta ぬれる、浸る
〜sa-ob-ni-da 〜でございます、いたします(謙遜)
ha-ro = ha-ru 一日 ul-bun 鬱憤 ssis-ta 洗う、そそぐ、はらす
〜pa 〜すること、ところ(依存名詞)
nun-eul kam-da 目を閉じる、つぶる
ma-eum 心 〜(eu)ro 〜に、へ heu-reuda 流れる so-ri 声、音
i-je 今 neung-geum 和林檎、地林檎 〜cheo-reom 〜のように
jeo-jeol-lo 自然に、ひとりでに、自ずから ik-ta 熟れる、熟す、実る
【試訳】
かえりみる夜
世間から帰ってきたかのように、今 私の狭い部屋に帰ってきて
明かりを消すのです。明かりをつけておくのは、あまりにも
疲れそうなことなのです。それは昼の延長なのですから。
今 窓を開けて空気を入れ替えなくてはならないのですが
外をそっと見やると 部屋の中のように暗くて まるで世間のようですが
雨に降られて来た道が そのまま雨に濡れているのです。
一日の鬱憤を晴らすこともなく 静かに目を閉じれば
心の中に流れる声、今、
思想が林檎のように 自ずから熟れていくのです。
【コメント】
かえりみる夜
タイトルはどうでしょうか。
韓国語の「〜してみる po-da」は日本語と同じく試しにするという意味にも使います。
帰ってきてみる、というと試しに帰ってみた、という意味にもとれるのですが、少し不自然な気もします。ただ、帰ってきて、のあとで切ると、「見る夜」ということになりますが、「夜を見る」ということになりますが、どういう意味でしょうか。まだ「会う夜」ならわかりますが。
ここは「かえりみる」だと、とてもぴったりとくるところです。自らを「顧みる、省みる」という意味になりますから。ただもちろん、「tol-a po-da」ではなく「tol-a-wa
po-da」なのですが、あえて「かえりみる」と訳しておきましょう。
世間から帰ってきたかのように、今 私の狭い部屋に帰ってきて
明かりを消すのです。明かりをつけておくのは、あまりにも
疲れそうなことなのです。それは昼の延長なのですから。
世間から帰ってきたように、とあります。どこに帰ってきたかというと、私の狭い部屋です。世間から部屋に帰ってきたわけです。
しかし「帰ってきたかのように」とあります。「かのようにdeus-i」ということは、実際には世間から帰ってきていないのでしょうか?
いや、やはり世間から帰ってきたのでしょう。ではなぜ「かのように」というのか?
これは考えてみれば、部屋も世間のうち、世界の空間の一部だからではないでしょうか。それでも、まるで、私の部屋は世間とは違う世界のように、公とは違う私の世界、あたかも世間から隔離された避難所のように考えられる。ですから、世間という別の世界から帰ってきたかのように、と言うのでしょう。
それから、彼は明かりを消してしまう。
帰ってきたのは、もう夜なのです。明かりをつけなければ暗い。それでも、あえて明かりを消してしまう。なぜでしょうか?
明かりをつけておくと、疲れそうだと言うのです。そして、明かりをつけると昼の延長のようだとも言うのです。昼は世間という公の世界、せっかくそこから逃れてきたのに、明かりを付けておくと、まだ夜の私の世界に、昼の世界が入り込んできそうだと。
この気持ち、私には、なんだかよくわかるような気がします。
というのは、私も自分の部屋で電気をわざとつけないで過ごすことがあるので。あるいは、照明の明るさを少し落としていることがよくあります。
「なぜ、全部つけないの、目に悪いよ」と言われたりします。
「ちょっと節電にね」「性格が暗いもんで」などと冗談で紛らわすのですが、特に精神が疲れている時などは、煌々と照明が照っていると、神経が逆なでされるようで、どうも気が休まらないのです。なんだかまだ職場にいるような気がします。
そこで、明かりを暗めに、それも白々しい色の蛍光灯ではなく、暖かい橙色の電球を一つくらい、あたかも蝋燭か行灯のように付けておくと、心が安まります。
みなさんは、そんな気分になること、ありませんか?
今 窓を開けて空気を入れ替えなくてはならないのですが
外をそっと見やると 部屋の中のように暗くて まるで世間のようですが
雨に降られてきた道が そのまま雨に濡れているのです。
2連めに入ります。
全体に散文詩に近い感じの詩で、説明的なのですが、ここも状況や情景の描写がそのまま続きます。なお、文末はずっと「〜(sa)ob-ni-da」が使われていて、一般の「〜b-ni-da です、ます」より一段と丁寧な、謙遜の表現です。
その意味を入れようとすると「であります」「でございます」となるのですが、そう訳してしまうと、現代語ではなんだか兵隊口調のような、あるいは馬鹿丁寧な感じになってしまうので、「なのです」と少し改まったくらいの文末にしておきます。
窓を開けて空気を入れ替えようとします。
一日出かけていたわけでしょうから、狭い部屋の空気はよどんでいるでしょう。気分も暗いようなら、少し外の空気を入れて気分転換もしたいでしょう。
ところが、窓を開けることはしないのです。「窓は開けなかった」とは書かれていませんが、「開けなくてはならないのですが」で終わっているので、おそらく開けないままで終わってしまった、という文脈に読みとれます。
なぜ、開けなかったのでしょうか?
窓の外の情景描写が続きます。
「部屋の中のように暗い」とあります。部屋は明かりを付けていないから暗いのですが、外も夜だから暗いのです。それが、世間のようだ、と言います。
少し、疑問を感じそうです。なぜなら、さっきは世間の昼が入ってこないように、部屋は暗い夜のままにしておきたい、と言ったのですから。
ということは、どちらも同じく暗いけど、よく見たら、外の暗さは世間の暗さだということでしよう。空気を入れたいけど、それは外の空気だということ。子宮の羊水のように、安全な部屋の空気に包まれていて、世間の嫌な空気を入れたくない。
それほどに、世間で疲労困憊し、傷つけられることがあったのでしょう。
でも、もっと実際的な理由はその後にあります。
外には今、雨が降っているのです。雨に打たれて帰ってきたのですね。
夜の道が、街灯か月明かりにでも照らされていたのでしょうか、窓から見えていて、その道があいかわらず雨に濡れているのが見えたのです。
だから、窓を開ければ、雨が降り込んでくるのですね。
ただ、雨が降っているから窓を開けるのはやめた、ではあまりに散文的です。それに、気分としては、まず外の空気が嫌だ、ましてや雨まで降っていて、しめった気分を増すじめじめした空気は入れたくない、という気持ちの順番になるのですね。
一日の鬱憤を晴らすこともなく 静かに目を閉じれば
心の中に流れる声、今、
思想が林檎のように 自ずから熟れていくのです。
憂鬱な情景が続きましたが、最後の連に至り、詩は清澄な空気を発します。
こうした転換が、優れた詩にはあります。東柱の詩はそうだと思います。
「一日の鬱憤」と、ここで初めて語られます。
外の世界、世間では、この日、嫌なことがあったのでしょう。
一日分の鬱憤。
それが何であるかは、説明されていません。あるいは、朝鮮人として差別を受けたことでしょうか。もちろん、日本留学前の詩ですが、当時は植民地であった朝鮮では、さまざまな差別的な待遇や侮蔑を受けることがあったかもしれません。
あるいはそうではなくても、彼は特にデリケートで傷つきやすい性格だったのではないかと思われます。遺っている写真は、優しい微笑みを浮かべていますし、書き遺した詩を読んでみると、どれもガラスのように繊細な叙情をたたえているのです。
でも、私たちだって、一日が終わって、何かその日に、職場とか学校の人間関係などで嫌なことがあった時に、例えば、仕事がうまくいかず上司や先生に叱られたとか、同僚や仲間とぎくしゃくしたりいじめられたとか、さまざまな試練に会うことがあります。
はっきりどんな悩みか、どのような鬱憤なのかとは書いていません。いや、具体的に書いていないからかえって読者も、そうしたつらい一日を経験することがあるな、と感情移入しやすいのではないでしょうか。それが、散文ではない、詩だと思います。
しかし、今、その鬱憤を晴らすことはできない。思い返しても、腹を立ててみても、どうすることもできないのです。そんな時に、あなたならどうしますか。
東柱は、だまって目を閉じるのです。ただ、それだけです。
暗い部屋に閉じこもって、ただ目を閉じるだけです。
すると、心の中に、「声 so-ri」が流れてくる。
この「声」って何でしょうか。韓国語の「so-ri」は音にも使われますが、ここでは何か物音や音楽が流れたというのではないと思います。「声」でしょう。
それは、誰の声でしょうか。
私は、神さまの声だと思います。
また宗教がかった説明をするな、と言われるかもしれませんが、事実、東柱の詩はいつも宗教的なのです。クリスチャンの精神に満ちているのです。
ここで、「黙って目を閉じる」のは、ただ眠ろうとしているわけではありません。それなら、「声」なんか聞こえてこないのでしょう。
これは「祈り」です。祈っているのだと思います。
どうしようもない嘆き、やり場のない怒り、晴らせない鬱憤。
でも、静かに目を閉じて、それらを心の中で、神さまに告げて、お祈りする。「祈り」はクリスチャンにとって「呼吸」だと言った人がいます。生きるために息をするように、祈ります。それはクリスチャンの「特権」でもある。
そうすると、不思議なことに、狭く小さな、窓も締め切った、電気も消した暗い部屋が、広く大きな輝かしい宇宙に通じ、神さまとお話することができるのですね。
「今日はつらい試練にあったね。でも、希望を失わずにがんばりなさい。」
そのように、神さまの声が、心のうちに流れてくるのだと思います。
最後の一行。
「今、思想が林檎のように熟れていきます」
「今 i-je」はそれぞれの連にあり、ここで3度めです。
今、家に帰り、今、外を見て、今、目をつぶる。進行形で詩が進みます。
しかし、ここは少し意味のとりにくい言葉ですね。なぜ「林檎」なのか?
茨木のり子さんは、ここの部分を引いて、立原道造の詩と比較しています。
「眠りの誘い」 より
ともし火のように
風のように 星のように
私の声はひとふしにあちらこちらと……
するとおまえらは 林檎の白い花が咲き
ちいさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
短い間に 眠りながら見たりするであろう
そして、尹東柱は立原道造を読んでいたことを挙げ、このように共通点を指摘します。
「林檎のイメージが共通というばかりではなく、一見弱そうにみえながら、
ピアノ線のようにピンと張った透明な叙情の質に、ある共通性が感じられてならない」
だが、一方でこのような相違点があると言います。
「尹東柱のほうが、はるかに鬱屈の度合いは深い」
「立原道造の詩は音楽のようで、意味に重きがおかれていない。
一方、尹東柱の詩は、核というか芯がありたえずそこへ集約されてゆき、隠された意味も重く深い」
この「林檎」には立原道造のイメージがあるともいえなくはないでしょうが、やはりかなり質が違うと思います。
茨木さんの言う「核というか芯」「隠された意味」というのが、信仰だと私は考えています。
初めて読んだ時に、すぐに頭に浮かんだのは、アダムとイブの「禁断の実」。
クリスチャンの詩人、島崎藤村が「初恋」で歌っているように、禁じられた恋のイメージが、「林檎」にはあるのですね。
ところが、聖書にはどこにも「林檎」とは書かれていません。
ただ「実」とか「果実」で、韓国語の聖書でも「yeol-mae」「kwa-sil」となっています。
もし、禁断の実を表したいなら、そのように書くのではないのかな。
それから、「林檎」が「沙果 sa-gwa」ではなくて、「neung-geum」であるということ。ふつう一般的には「sa-gwa」のほうを使います。「neung-geum」は辞書を引くと「和林檎、地林檎」とあるので品種が違うようです。外来種ではなくて、より素朴な感じを出したかったから? 聖書にそういう語があるのかと調べましたが、見当たりません。
ここで思ったのは、「sa-gwa」だと「謝過」、謝罪という意味の同音異義語とイメージが重複してしまうと考えたのかもしれないということです。
実際、こないだ見た韓国映画で「サグァ」というタイトルのものがあって、それは、男女の不倫を描いていますが、劇の中に林檎が出てきて、それから、女が謝罪するという場面がありました。ティーチ・インだったかプログラムの解説だったかに、タイトルにはそうした重複的な意味があると語られていました。
でも、この詩では、むしろ「林檎」は良い意味なのではないかしら。
だから、そういう「禁断の実」をイメージする言葉を使いたがらなかったのでは。
祈る時に、「思想」が、「林檎」のように成熟し、実っていく。
ここの「思想」は、ほとんど「信仰」と読み替えてもいいと思います。
「思想」はふつう、民主主義とか、民族主義とかいう政治的なイデオロギーと結びつけられがちですが、東柱はそうではないと思います。もちろん、彼は独立運動の嫌疑で逮捕されたし、当時の朝鮮人のインテリなら誰もが持っていたような、民族独立の思想は持っていたと思います。でも、彼は声高な政治的メッセージを直接に訴える人ではありません。詩の叙情によって、信仰の敬虔によって、訴える人です。
ですから、この「思想」は「信仰」だと思います。
そして、信仰は、祈りによって、与えられた試練の中で祈ることによって、自ずから熟れて、豊かに実を結んでいくのだと思います。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。
そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます。 (マタイ6:6)
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます。 (ヨハネ15:5)
2006.8.4. 〜 光復61周年 平和月間