尹東柱を読む (23) 「肝」
今日12月30日は、尹東柱の誕生日です。年末、クリスマスの後に生まれたのですね。
これを記念して、彼の作品の興味深いひとつ「肝」を読んでみましょう。
イースターの頃にご紹介しようと思いつつ、取り紛れて今日に至ってしまいました。
![]() |
![]() |
〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕
【ローマ字表記】
肝(Kan)
Pa-das-ka haes-pis pa-reun pa-wi-u-e
Sup-han eul phyeo-seo mal-li-u-jda,
Kho-kha-sa-sseu 山中(san-jung)e-seo to-mang-hae-on tho-kki-cheo-reom
Tul-leo-ri-reul ping-ping tul-myeo eul ji-khi-ja,
Nae-ga o-rae ki-reu-deun yeo-win tok-su-ri-ya!
Wa-seo tteud-eo meog-eo-ra, si-reum-eops-i
Neo-neun sal-ji-go
Na-neun yeo-wi-yeo-ya-ji, keu-reo-na,
Keo-bug-i-ya!
Ta-si-neun 龍宮(yong-gong)eui 誘惑(yu-hok)e an-tteol-eo-jin-da.
Pheu-ro-me-the-u-seu pul-ssang-han pheu-ro-me-the-u-seu
Pul to-jeok-han joe-ro mog-e maes-tol-eul tal-go
Kkeuth-eps-i 沈殿(chim-jeon)ha-neun Pheu-ro-me-the-u-seu.
【語句】
kan(肝) 肝、肝臓
pa-das-ka 海辺 haes-pich 日光、日の光、日差し
pa-reu-da まっすぐだ、正しい、日当たりがいい
pa-wi u = wi 上
seup(湿)ha-da 湿り気のある、じめじめする
phyeo-da 広げる、(たたんだものを)開く
mal-li-da 乾かす ma-reu-da 乾く
kho-kha-sa-sseu コーカサス to-mang(逃亡)ha-da 逃亡する
tho-kki うさぎ 〜cheo-reom 〜のように
tul-leo-ri = tul-le 回り ping-ping ぐるぐる
tol-da 回る ji-khi-da 守る、保護する、保つ
o-rae 長く、永らく、久しく ki-reu-da 育てる、飼う、養う
yeo-wi-da やせる tok-su-ri クロハゲワシ
tteut-ta ちぎる、(くっついているものの一部を)取る
si-reum 心配、憂い、悩み si-reum-eops-ta 元気がない/悩みがない(?)
sal-ji-da 肥えている、太っている keu-reo-na だが、しかし
〜a-ya-ji 〜しなくては、すべきだ
keo-buk 亀 ta-si また yu-hok 誘惑 tteol-eo-ji-da 落ちる
pul-ssang-ha-da かわいそうだ、あわれだ、気の毒だ
to-jeok 盗賊 joe 罪
mok 首 maes-tol 石うす tal-da つるす、たらす、下げる
kkeuth-eops-ta 限りない、果てしない kkeuth-eops- 限りなく、果てしなくi
【試訳】
肝
海辺の陽射しの良い岩の上に
湿った肝を広げて乾かそう
コーカサス山中から逃亡してきた兎のように
回りをぐるぐる回りながら肝を守ろう
私が長く飼っていたやせたワシよ
来て取って食べよ、悩まずに
おまえは太り
おれはやせなければ、しかし、
亀よ!
再びは龍宮の誘惑に陥るまい。
プロメテウス、あわれなプロメテウス
火を盗んだ罪で首に石うすを懸けて
果てしなく沈殿するプロメテウス。
【コメント】
肝
一読してちょっといっぷう変わった作品だな、と思いますね。
「肝」(kan)とは、「きも」であり、「肝臓」のことです。
この詩には、ふたつの伝説が下敷きとしてあります。
まず、それを知っていないと、何の意味かわからないこともあると思いますので、少し長くなるかもしれませんが、先にご紹介しましょう。
そのひとつは、みなさんもおそらくよくギリシャ神話にある、プロメテウスの神話です。
「縛られたプロメテウス」というギリシャ古典の劇作品もあり、プロメテウスの火というエピソードとして知られていますね。
ゼウスは、人間から火を奪おうとします。しかし、人類のために、火を盗み出してくれた英雄がプロメテウスでした。人間はそのために文明を持つことができたわけで、いわば彼は人類の恩人であるわけです。
ところが、ゼウスは怒りました。プロメテウスをコーカサスの深い山中の奥山の頂に縛り付けます。そして、残酷なことに、ワシを遣わしてその生き胆をついばませる刑罰を科してしまうのです。
さらにプロメテウスにとって悲劇であったのは、普通の人間なら死刑は一回きりで終わりなのに、巨人族で不死であったために、いつまでも毎日、同じ責め苦を味わうという窮地に陥ったことでした。
やがて、ヘラクレスが現れて、彼は解放されるのですけど、それまでの苦しみはいかばかりであったことでしょう。永劫に続く苦しみというものがあったとしたら、それは大変な拷問であることでしょう。
さて、もうひとつの伝説は、実は私たち日本人にもなじみ深いものです。
「日本むかしばなし」のひとつとして、これもご存知の方もいるでしょう。
「くらげの使い(くらげとさる)」のお話です。今さらですが、ひとつ昔話ふうに簡単にお話ししてみましょう。
昔むかし、海の竜王の娘が病気になってしまいました。その病に効くのは、猿の生き胆という話を聞いて、竜王はくらげの使いを遣わしました。
くらげが海岸に行くと、猿がいます。海の底の龍宮ではすばらしい暮らしができるとか何とかごまかしてその気にさせて、くらげは猿を背中に乗せて、いざ龍宮へと出発しました。
ところが、気のいいくらげは、つい油断して口をすべらせ、ほんとうの目的をもらしてしまいました。「実は、竜王さまはおまえの生き胆がお入用なのだ」と。
これを聞いて青くなった猿ですが、そこはもともと頭がいい猿のこと。ひとつの計略を思いついて、くらげにこう語りました。
「それは残念。さっき海岸で昼寝している時に、肝を岩の陰に干したまま来てしまったんだよ。取りに帰らなくては」
これを真に受けた正直なくらげは、あわてて海岸へ引き返します。すると岸に着くやいなや、ひょいとくらげの背から飛び降りた猿は言いました。
「ばかめ。肝が無くて生きていけるやつが、どこにいるものかい」
さてはだまされたかと、くらげは大変くやしがりましたが、あとのまつりです。すごすごと龍宮へと引き上げたのでした。おしまい。
この有名なお話、実はもともと日本のものではなくて、どうやらインドに起源があるらしいのです。「今昔物語」でも、昔で言う「三国」、すなわち「天竺、震旦、本朝」、今で言う「インド、中国、日本」のお話が集められています。そのように、インドの民間伝承が、日本の説話文学に大きな影響を及ぼしていたのですね。
以下は、『朝鮮小説史』(東洋文庫)からの受け売りなのです。
もとはインドの「本生(ジャータカ)経」には、竜王の妻が懐妊して、栄養をつけるために猿の生き胆を食べたいと言ったので、竜王自らが出向いて探しに行く。そして猿を見かけて声をかけるのだが、先に述べたような計略でだまされてしまう。
これは、日本の話と比べ、くらげと竜王が違いますが、ほとんどそのままですね。
ほぼ同じ話が、『鼈猿猴経』には、すっぽんと猿のお話として収められているそうです。「鼈」はすっぽんのこと、「猿猴」は猿のことですね。
では、尹東柱は、この話をどこから知ったのでしょうか。
インドのそれでしょうか、それとも日本でしょうか。
いずれでもありません。実は、朝鮮には子供なら誰でも知っている、いや、大人になってももちろん有名な、「兎(トッキ)生員伝」という昔話があるそうです。
おそらく、インドのものが原型で、それが朝鮮と日本に伝えられたのでしょう。
このお話では、竜王の娘が病気になったことと、竜王の使いが遣わされたろところまでは日本と同じなのですが、「くらげ」は「亀」、「猿」が「兎(トッキ)」、つまり「うさぎ」になっています。
猿よりも可愛いですかね。どうも兎よりは猿のほうが頭がよさそうですけど。兎と亀のかけっこの話では、逆に出し抜かれてしまうし。あ、でも、カチカチ山では狸より賢かったっけ。
朝鮮では「山うさぎ」というよく知られた童謡もあり、月にうさぎがいるなんて伝説もあるようで、うさぎというのがなかなか親しまれている役柄なようです。
面白いのは、歴史を訪ねると、朝鮮の古代史にこの話が登場するんですね。
これも同書の受け売りですが、高句麗・百済・新羅の三国時代の歴史を記した『三国史記』にこういうエピソードがあるそうです。
新羅の善徳王十一(642)年、新羅が百済に襲われて、金春秋の娘と夫が討ち死にします。金春秋は、百済の背後で糸を引く高句麗を討つべく、善徳王に願い出て出兵し、少数の手勢を率いて高句麗王を訪ねたものの、無理難題をふっかけられて逆に監禁されてしまいます。その時、高句麗王の家臣で金春秋に通じていた者が、ひそかに春秋を訪れて、この「亀の使いとうさぎ」の話をしました。自分はうさぎと同じ立場と知った春秋は、、高句麗王の申し出を受け入れたと見せかけて、窮地を脱したのでした。
昔話が、実際の政治の駆け引きのたとえに使われるといった話は、中国の『戦国策』や『史記』などの史書によく見られるところですね。
こうした昔話の世界や歴史の知識を通じて、尹東柱もおそらく子供のころから、このお話をよく知っていて、この詩に用いたのだと思われます。
さて、前置きがすっかり長くなってしまいましたが、以上のお話を頭に、この詩をあらためてご一緒に読んでみましょう
海辺の陽射しの良い岩の上に
湿った肝を広げて乾かそう
海辺で日当たりの良いうららかな昼下がり、自分の肝を日に干して乾かしているのは、だれでしょう。そう、朝鮮の昔話に登場する、うさぎさんですね。
でももちろん、実際には、うさぎは自分の生き胆を、体から取り出して洗濯物のように干したりできるはずはありませんね。これはうさぎの話に触発された、夢のおとぎ話のなか、詩人の空想の中でのことです。
コーカサス山中から逃亡してきた兎のように
回りをぐるぐる回りながら肝を守ろう
いよいよ、うさぎさんが登場しましたね。
おや、ところがこのうさぎは、朝鮮半島にいたのではなさそうです。
なんと、中央アジアのコーカサス山中からやってきたというのですね。
ここから、もうひとつの昔話、ギリシャ神話のプロメテウスの話がミックスされて登場してきます。コーカサス山で、縛り付けられて生き胆を食われていたのは、うさぎではなくてプロメテウスであったはず。
しかしここでは、うさぎがプロメテウスに取って代わっています。そして、「コーカサスの虜」となっていたうさぎは、うまく逃亡しおおせたようです。食われることなく持ってきた肝を、安心したうさぎは今、朝鮮半島の海辺でほしているのでしょうか。
しかし、その周りをぐるぐる回りながら、とはどうしたことでしょうか。これは、龍宮の使いの亀が横取りしていかないようにと見張っているのでしょうか、それとも、コーカサスの山中から、ワシが追いかけてこないとでも限らないというのでしょうか。
私が長く飼っていたやせたワシよ
来て取って食べよ、悩まずに
とうとう、おそるべきワシがその姿を現しました。
ところが、不思議なことに、そのワシから逃げようとはしないのです。
「取って食べよ」と、いうのです。
しかも、そのワシは、自分が長く飼っていたワシだと言う。それはどういう意味でしょう。自分の体の肝を食べさせることで、これまでそのワシを養ってきたとでもいうのでしょうか。どうにも、不思議な話です。
実は、私はここの箇所を何度読んでも、わかりにくかったのです。ここに限らず、この詩は全体に伝説のおとぎ話に題材を借りた、比喩による寓話ではないかと思われるのですが、その寓意が今ひとつよくわからなかったのです。
尹東柱は、クリスチャンであるはずです。それも敬虔な。
なのに、この詩は、寓話的であるばかりでなく、もインドの仏典に起源を持つ昔話を引用したり、あるいは仏教と同じく多神教的であるギリシャ神話の神々の世界に題材を求めたりしている。尹東柱らしくないのではないか、とも思えました。
あえてもっと言うなら、奇をてらったつまらない詩なのかもしれない、とさえ考えたこともあります。ただ、気になるのは次の言葉です。
おまえは太り
おれはやせなければ、しかし、
相手を太らせて、自分はやせていく。
やせたワシに、自分の肝を食らわせて、自分自身は、やせ細っていく。
これは、自己犠牲なのでしょうか。
仏典で言うなら「捨身与虎」の話を思い起こします。自らの体を、飢えた虎の親子に与えるという、慈悲なる業を遂げたのが、釈迦の前世であったといいます。その功徳によって、仏陀に生まれ変わったのだと。
しかし、クリスチャンであるという文脈で読めば、どうなのか。
ここであくまで、私の読み方としては、聖書の言葉によることにします。今までも、尹東柱の詩を読み続けてくる中で、私はそうしてきたし、またそのように読む時に、聖書の言葉の引用として読むと、彼の詩にはぴたりと意味が符合する場合が多いからです。
とすると、気になる言葉は、この前の節の、
「取って食べよ」 tteud-eo meog-eo-ra
という言葉です。この言い方からすぐにクリスチャンが思い浮かべるのは、聖書の次の箇所です。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ 26:26)
なぜ、この箇所がクリスチャンに親しみ深いかと言えば、これは、教会の礼拝(あるいはミサ)の時に、主の晩餐式(あるいは聖餐式)のたびに、繰り返し繰り返し、読まれ唱えられるみ言葉だからです。
「取って食べよ。これはわたしの体である」
そのみ言葉とともに、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、主イエスに従って、キリストのおん体(あるいはご聖体)をいただくのですから。そして、キリストのいさおの記念(あるいは体そのもの)を思い起こして、そのみわざにならおうとするのです。
そのみわざとは、すなわち、自己犠牲。
自らの体を十字架上で捧げることによって、命を捧げることによって私たちの罪をあがなってくださったという信仰。それにならって、私たちも自分を犠牲にして、隣人のために尽くさなくてはならないという愛の教えなのです。
敵を赦せという。自分の敵であるワシにすら愛を注げという。
亀よ!
再びは龍宮の誘惑に陥るまい。
だが、もうひとつわかりにくいのは、次の箇所です。
「亀よ!」と、今度は亀に語りかけています。
この詩では、自分のことを、逃亡してきたうさぎに見立てていたのですから、うさぎから、亀に向かってよびかけた言葉ととれるでしょう。
龍宮の使いとして、自分を誘惑してきた亀に対して。
「龍宮の誘惑に陥るまい」と言っています。そして、「再びは ta-si-neun」と言っていることに注目しましょう。すると、一度は誘惑に陥った、ということになります。
昔話の中で、うさぎは亀の甘い言葉にだまされて、龍宮に向かったのでした。そこには、酒池肉林の享楽の世界があると、だまされたのです。
しかし、目覚めたうさぎは、もう二度と、龍宮のむなしい誘惑には陥らないようにしようと決意しているのです。
この「yu-hok 誘惑」というのも、クリスチャンにはとても慣れ親しんだ言葉です。
毎日繰り返し、三度三度唱える、「主の祈り」。
これはカトリックもプロテスタント諸教派も、共通して唱えることのできる数少ない共通の祈りであり、主イエスご自身が、聖書の中で教えている祈りです。
その「主の祈り」の最後に、こうあります。
私たちを誘惑に遭わせず、悪よりお救いください。
ただし、今しがた共通だと言ったばかりですが、ここの「誘惑」は、プロテスタントのほうでは「試み」となっています。「誘惑」とするのは、カトリックのほうです。
英訳ですと、「試み」は " hard test " であり、「誘惑」は " temptation "
となっています。ここのところ、実は私は、カトリックの訳がなかなかいいと思っています。
というのは、「試み」は、「試練」なのであり「テスト」なのです。「試練」と言われて想像するのは、外から災害とか困難とか障害とかさまざまな不幸が襲ってきて、それを打ち破っていくといったイメージがあります。神様が、信仰を試す「試験」を与えられるという感じ。まるで、ヨブ記のヨブに対するように。
でも、「誘惑」というと、これはもっと、内面的な要素が強いように思うのです。そしてそれは、必ずしも、世間的にこの世の基準としては、「不幸」ばかりではない。一見「幸福」に見えることが、実は「誘惑」であったりします。例えば、恋愛の誘惑、金儲けの誘惑、名誉の誘惑、さまざまに人の心を堕落させる誘惑があります。
そして、これは私の体験から言っても、実はいっそう難しいのは、外からの「試練」よりも、内なる「誘惑」に負けてしまう心を克服することだと思うのです。
「龍宮の誘惑」というのは、そうではないでしょうか。
自分の「肝」を、「心」を、「良心」を、「信仰」を、「愛」を、世間的な「誘惑」のために、費やしてしまうことを言うのではないでしょうか。
そして、亀の示した現世的な「龍宮の誘惑」ではなく、イエスがそのご自身のみ体で示されたような「自己犠牲」を貫いていくことこそ、私たちの目指すべき道ではないでしょうか。
このように解釈してくれば、次の箇所もすっきりとわかるような気がするのです。
プロメテウス、あわれなプロメテウス
火を盗んだ罪で首に石うすを懸けて
果てしなく沈殿するプロメテウス。
詩人は、プロメテウスに、限りない同情を示しているようです。
プロメテウスは、主イエスのように、自分の体を犠牲として捧げたのですから。そのことによって、人類を救ったのですから。
ここで、ギリシャ神話と聖書と、その宗派や聖典こそ違えど、プロメテウスと主イエスに、おなじ義挙を、いさおを見たと言ってもよいのではないでしょうか。
しかし、プロメテウスは、火を盗んで人類に与えたというその英雄的な行為にも関わらず、その罪を問われて刑に処せられてしまったのです。
この最後の連の「首に石うすを懸けて」云々のフレーズ。ここには、まごうかたなくはっきりと明確に、聖書の次のみ言葉の引用が見られます。
わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、
海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(マルコ9:42)
ただし、ここで最後の謎が残ります。
それは、この「石臼」のたとえは、主イエスを信じない者、その信仰をつまずかせる者に対する裁きの言葉だということです。
プロメテウスは、主イエスのように、英雄的な行為をしたがゆえに、罪に問われてしまったのではないのか。なのに、ここの言葉を引用したら、主イエスに逆らった罪ということになってしまうのではないか。
つじつまの合うような解釈を、考えてみましょう。
プロメテウスの話は、ギリシャ神話です。彼が逆らったのは、ゼウスに対してでした。キリスト教の主なる神ではなかった、ということでしょうか。
あるいは、そのままの意味として「火を盗んだ罪」というものが、「小さな者をつまずかせた」罪と同じということなのでしょうか。つまり、人類を「誘惑」に導いたという。
または、プロメテウスは、冤罪に問われた、すなわち無実の罪だったということでしょうか。「小さな者をつまずかせた」というのは、いわれない罪だということでしょうか。
いろいろな解釈ができそうで、少し難しいところですね。
さて、いったん話は変わります。
私にとって、この詩がとても印象に残っている理由があります。
それは、昨年、2005年が尹東柱にとっては記念すべき年だったからです。いや、彼だけではなく、韓国にとっても日本にとっても、そして世界にとっても。
というのは昨年は、第二次大戦あるいは太平洋戦争が終結してから60年だったからです。そして、尹東柱は終戦の年、終戦のちょうど半年前の二月に世を去ったので、没後60年でもあったのです。
そのため、韓国でも日本でも、記念の追悼行事が行われました。
その中で、私が参加した催しの一つが、池袋の聖公会教会で開かれた追悼の集いで、尹東柱の親戚で著作を出されているある宋さんの講演もありました。
それと同時に、詩人であり尹東柱の訳詩集をも出している金時鐘さんの講演もあったのです。その中で金さんは、尹東柱の詩をキリスト教的な解釈で読む見方もあるという話をして、その例として、光栄なことに私のこのサイトの記事を引用してくれました。
ただし、金さんはあまりにキリスト教的な見方をすることにはいささか批判的なようでもありました。尹東柱は、詩人であったのであり、宣教師ではなかったからというのです。
私はその考えには否定的です。尹東柱は宣教師ではなかったけど、その詩には明らかにキリスト教のメッセージがこめられているし、伝道を天命であり自らの使命とすら考えていたのです。そういう詩人の詩を、詩人の意図したキリスト教の文脈で読まないことは、かえって詩人にとって失礼であり、詩の解釈も正しいと言えないのではないですか。
しかし、ここで私は、金さんを批判したくて、こうした話を始めたのではありません。
実はその時に、金さんが公園の中で最後に引用された詩が、「肝」だったからです。
このことがまず、私にとっては意外でした。というのは、この詩は必ずしも、この詩人の代表作ではないのではないかと、当時の私は考えていたので。
だが、それよりもさらに意外なことがありました。金さんは言ったのです。
「この詩には、尹東柱の大きなメッセージがあり願望があると私は考えます。それは何であると思いますか」
なんだろう。私にはよくわかりませんでした。彼は続けました。
「それは、復活です。復活はあるというメッセージ、そして、自分も復活したいという願望です」
自分は驚きました。金さんは、この詩では積極的にキリスト教的な解釈を示してくれたので。そして逆に私は、そういう解釈があるとは、その時は思えなかったので。その理由を聞きたいと思ったのですが、あいにくそこまでの話ですでにかなり時間が費やされていて、会のスケジュールの関係で、詳しく話されるひまがなかったのです。
私の理解力の無いせいかもしれませんが、はっきりとわからないまま終わってしまいました。私はその時、講演を録音していたわけではないし、ちゃんとしたメモもとれていませんでした。
けれども、会が終わったところで、「本日の講演の、詳細な記録集が後日、出版され配布される」という話でしたので、それを待って読んでから論じよう、と思っていました。
しかし、です。その後、二年近くたつというのに、まだその講演の記録集が出たという話を聞きません。会の内容はとてもよかったので、この点はちょっと残念です。
それで、ここで、私なりの読みで、この詩が「復活」の詩でもあるかもしれないという解釈で読んでみます。
そのように読むと、最後のところの解釈も、少し納得できそうな気がします。
すなわち、うさぎであり、プロメテウスであるのは、詩人自身である。
主語は一人称。尹東柱その人としましょう。
とすれば、自分はイエスさまにならい、プロメテウスの英雄的行為にならおうとしたものの、それを罪と誤解されて、あるいは、ほんとうに意図せずに誤って、詩人としての仕事の中で、小さなものをつまずかせるような言動をしてしまったかもしれない、私は本当に復活できるのか、それとも、うさぎやプロメテウスのように、肝をついばまれて海に沈められてしまうのかという、不安が反映されていくのではないでしょうか。
その解釈で、もう一度、詩を最初から読んで終わりましょう。
私は、肝すなわち、命を守りたい。私は、うさぎのように弱いもの。しかし永遠の命、復活を得たいと願っている。
「命を守ろうとするものはそれを失い、
人の為に捨てるものは得ることができる」
というみ言葉のように、それは人のために命を捨てる自己犠牲によって初めて、永遠の命を得ることができる。これが、復活の逆説である。
「とって食べよ」と言われた主イエスのように、自分の体をワシのような敵に与える、そうした神の愛によってこそ、永遠の命の復活はあり得る。
この世の、亀の誘うような現世的な誘惑にかられていては、永遠の命を得ることはできないのだ。私はそうした誘惑に陥ったこともあるが、これからそういう誘惑に陥らないようにしよう。
イエスが人類の罪を負って十字架にかかることによって復活したように、そしてプロメテウウスは人類に希望を与えることによって罪を負ったように、死の深遠にいったんは沈むことがあっても、きっと私も復活することだろう。
石臼を懸けられるのではない、私はあえて、自らそのくびきを負おう。私のくびきは負いやすいとイエスは言われた。それは人をつまずかせる罪ではなく、無実でありながら人の罪を負う行為なのであり、ともに十字架を背負う行為なのだ。
尹東柱の魂の復活を、お祈りします。
そして私たちの魂も、救われますように。
2006.12.30. 〜 Yun Dongju's Birthday