尹東柱を読む (24) 「一本のろうそく」
今日2月16日は、尹東柱の命日です。
終戦の1945年になくなっているので、今年で62年目になります。
夭折の詩人を悼み、その早熟の才能を惜しんで、今に遺っている詩人の作品のうち、最初のものを読んでみましょう。
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〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕
【ローマ字表記】
Cho Han Dae
Cho han-dae ---
Nae pang-e phum-gin hyang-nae-reul math-neun-da.
光明(Kwang-myeong)eui 祭壇(je-dan)i mu-neo-ji-gi jeon
Na-neun kkae-kkeus-han 祭物(je-mul)eul po-ass-ta.
Yeom-so-eui kal-bi-ppyeo gath-eun keu-eui mom,
Keu-eui 生命(saeng-myeong)in 心志(sim-ji)kka-ji
白玉(Paek-ok)gath-eun nun-mul-kwa phi-reul heul-lyeo
Pul-sal-lyeo peo-rin-da.
Keu-ri-go-do chaek-sang-meo-ri-e a-rong-keo-ri-myeo
Seon-nyeo-cheo-reom chos-pul-eun chum-eul chun-da.
Mae-reul pon kkweong-i to-mang-ha-deus-i
暗黙(Am-hok)i chang-gu-meong-eu-ro to-mang-han
Na-eui pang-e phum-gin
祭物(Je-mul)eui 偉大(wi-dae)han 香(hyang)nae-reul mas-po-no-ra.
【語句】
Cho ろうそく han 一、ひとつの dae 本
pang 部屋 phum(phung)-gi-da 漂う、放つ
香hyang-nae 香り、匂い math-ta かぐ
光明(Kwang-myeong) 光明 祭壇(je-dan) mu-neo-ji-da 倒れる、崩れる
〜gi jeon 〜する前 kkae-kkeus-ha-da 清らかだ、清潔だ、潔い
祭物(je-mul) 祭物、捧げ物、いけにえ po-ta 見る
yeom-so 山羊 kal-bi-ppyeo あばら骨 〜gath-eun 〜のような
keu 彼、それ mom 体 生命(saeng-myeong) 生命
心志 (sim-ji) 心と意志、灯心、ろうそくの芯 〜kka-ji 〜まで
白玉(Paek-ok) 白玉 nun-mul 涙 phi 血 heul-li-da 流す、こぼす
pul 火 sal-li-da 生かす、よみがえらせる 〜a/eo peo-ri-da 〜してしまう
keu-ri-go そして、それから chaek-sang 机 meo-ri へり、ふち
a-rong-keo-ri-da ちらちらする、ちらつく 〜myeo 〜しながら
seon-nyeo 仙女 〜cheo-reom 〜のように -s 〜の
chum-eul chu-da 踊りを踊る
mae タカ、鷹 kkweong キジ、雉
to-mang-ha-da 逃げる、逃亡する 〜deus-i 〜ように
暗黙(Am-hok) 暗黒 changgu-meong 窓や障子の破れ穴 〜(eu)ro 〜から
偉大(wi-dae)ha-da 偉大だ mas(eul)po-da 味をみる、味わう
〜no-ra 自分の動作を格式ばって相手に伝えたり、感動を述べる
【試訳】
一本のろうそく
一本のろうそく――
ぼくの部屋にただよう香りをかぐ
光の祭壇が崩れ落ちる前に
ぼくは清らかな供物を見た
山羊のあばら骨のようなその体、
その生命である灯心まで
白玉のような涙と血を流し
火を生かしてくれる
それでも机のへりにゆらめきながら
仙女のようにろうそくの火は舞を舞う
鷹を見た雉が逃げるように
暗闇が障子の穴から逃げていった
ぼくの部屋にただよう
供物の偉大な香りを味わうのだ
【コメント】
一本のろうそく
原題は「ろうそく一本」で、韓国語の数詞はよく後ろについたりするけど、日本語らしい順番としては「一本のろうそく」のほうが自然だと思います。美空ひばりの名曲で沢知恵もカバーしている「一本の鉛筆」や、昔流行った人情物の童話「一杯のかけそば」なども連想しなくもありません。
「ろうそく」は、韓国語では「チョ」で一音節の言葉。「蝋燭」と漢字で書くと重々しいが、もっと素朴な感じの基本語だから、ひらがなにしておきます。
一本のろうそく――
ぼくの部屋にただよう香りをかぐ
この詩は、尹東柱が34年、14歳の年、中学生のころに書いた処女作です。
それにしてはなかなかよく書けているなと、感心するのですが。
ここでは少年らしく、「私」ではなく「ぼく」にしておきましょう。原語も「チョ」ではなく「ナ」を使っていますから。
ぼくの部屋に、ろうそくがともっています。
ちなみに、日付を見ると、1934年12月24日、クリスマスイブになっているで、クリスマスキャンドルなのかもしれません。ふつうは、人々はその光の輝きに心を惹かれるでしょう。
しかし、ここで詩人の卵である彼は、光よりも香りに心を向けています。
ぼくの部屋にただよう香り。
原詩では「pum-gi-da プムギダ」となっていますが、標準語では「pung-gi-da
プンギダ」となっているこの動詞は「ただよう」という意味です。おそらく少し北の地方のなまりが入っているのではないかしら。
ろうそくの燃える、芯の焼ける、ろうの溶ける良い香り。
それを、少年の彼はかいでいます。かんばしい香りです。
ああ、わたしの子の香りは
主が祝福された野の香りのようだ。(創世記27:27)
「香り」という言葉は、聖書にはよく出てきます。
主なる神がよろこばれるのが、かぐわしい香りなのですね。
光の祭壇が崩れ落ちる前に
ぼくは清らかな供物を見た
光明の祭壇、という表現がきれいですね。
神にささげる光をともす祭壇が、ろうそくだという比喩でしょう。
その祭壇は、光が輝けば輝くほど、しだいに崩れ落ちていくのです。ろうが溶けて流れて、刻一刻とその姿を変えてつぶれていくのです。
これはまるで人間のようではありませんか。自分の生命を燃やすことで、世の中を明るく照らしていくのです。
よく人間の命をろうそくにたとえたりします。あの世には、人それぞれの命のろうそくがあって、本人は知らないけどその長さは決まっているの。そんなおとぎ話を子供の頃に聞いたことがあるように思います。
命と引き替えに、「清らかな供物」がささげられます。
でも、この「供物」とはなんでしょうか。
ふつうは「光」と考えますし、実際にそうなのでしょうが、ここではさらに「香り」のほうに、より重きがあるような気がします。
この前の節にも、最後の節にも「香り」が出てきますから。
雄羊全部を祭壇で燃やして煙にする。
これは主にささげる焼き尽くす献げ物であり、
主に燃やしてささげる宥めの香りである。(出エジプト29:18)
何より聖書、特に旧約の神が喜ばれるのが、祭壇に焼き尽くす羊の捧げ物の香りなのです。幼い時からクリスチャンであった彼は、それをよく知ってふまえていたはずです。
山羊のあばら骨のようなその体、
その生命である灯心まで
白玉のような涙と血を流し
火を生かしてくれる
ここで強調されているのは、体を犠牲にして火を燃やすろうそくの姿です。
「あばら」が「カルビ」であるのは、私たち日本人にも焼き肉を連想させて生々しい単語です。山羊のあばら骨のような体。それはおそらく、ろうそくのろうが溶けて、たらたらと筋をひいてろうの柱を流れくだり、そのまま幾筋もの筋となって冷えて固まった、そのようすをたとえて言うのではないかしら。
ろうそくは、体の芯、灯心まですっかり燃やし尽くしてしまいます。
ここの「心芯 シンジ」という単語ですが、「心と意志」という書かれた漢字の文字通りの意味もある一方で、「シンジ」には「ろうそくなどの芯、灯心」という語義もあるのです。おそらく、作者は両方をかけて言っているのではないかな。つまりろうそくの芯、それは、擬人化して言えば、ひとの心の意志のようなものだと。
こころの底から、体の芯からの情熱によって、人の心は燃えるのです。
そこで流れる溶けたろうの、輝く白玉のような、涙と血。
すぐに私たちが連想するのは、新約の受難伝で私たちのために十字架のうえで血を流された、イエスの姿でありましょう。
キリストは私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、
いけにえとして私たちのために神に献げてくださった。
そのように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エフェソ5:2)
自らの体を犠牲として捧げることで、世に希望の光をもたらし、私たちの心に愛の灯を灯し、永遠の命を生かしてくださった、イエスキリストの姿。
それでも机のへりにゆらめきながら
仙女のようにろうそくの火は舞を舞う
香りのことを言いましたが、ここの光の描写は見事です。
仙女の舞というのが、朝鮮の伝統舞踊にあります。長い羽衣の袖を、ひらりひらりとなびかせ、はためかせて、空から鶴のように舞い降りた天女のように、福音をもたらしに蝶のように羽ばたいて訪れる天使のように。
電灯の火とはもちろん違い、しかし、油やガスの火ともまた違う、ろうそくの火の魅力というのは、そのゆらめきにあるのでしょう。
原語の「アロンコリダ」は、「ちらちらする、ちらつく」といった、日本語にもよくある擬態語、オノマトペの類の語です。ろうそくの火が、漏れいる風の流れのためでしょうか、微妙な空気のゆれのせいでしょうか、ちらちら、ゆらゆらとゆれるのです。その光の作る陰が、部屋の机のへりにひらひらとひらめいているのです。
このゆらめきに、仙女の舞の振り袖のような、たゆたう優美で閑雅な趣があるのです。
「チュムル・チュンダ」は直訳すれば「踊りを踊る」です。朝鮮語ではただ「チュンダ 踊る」と言わずに、「踊りを踊る」と重ねて言います。これを日本語に訳す時は、重複するから一回にして「踊る」と訳しなさい、とよく教えられます。
でもここは「踊る」一語では弱い気がします。ゆらゆらとゆらめく感じが、一回の繰り返しでは十分に出ないような感じがしてなりません。
ですから、「踊りを踊る」にしようと思いましたが、これだと少し重い感じがします。そこで「舞を舞う」としましょう。少し炎の軽快さが出るでしょうか。
こうして、ろうそくは、自分の体を犠牲にして、世に光を放っていきます。
聖書では「世の光、地の塩」という有名な言葉があります。
あなたがたは世の光である。(マタイ5:14)
ろうそくに光をともして、それを台の下に置くものはいない、台の上に置いて、部屋を明るくするであろう。そのように、イエスさまはおっしゃる。
私たちは、世の中を照らす光にならなくてはならないのだ、と。そして、食物を味つける塩になるのだ、と。もし、光が輝きを失い、塩が味を失ったら、なんの役に立つだろうか、と。
私たちは、自分たちの身をすり減らしても、世の中を明るい希望で照らしていかなくてはなりませんね。
鷹を見た雉が逃げるように
暗闇が障子の穴から逃げていった
「鷹を見た雉が逃げるように」
ここの描写も見事です。
鷹と雉の取り合わせは、朝鮮のことわざや慣用句でもよく使われます。例えば、
kkweong noh-chin mae 雉を逃した鷹
(非常に悔しがるようす)
kkweong jab-neun geos-i mae-da 雉を捕えるのが鷹だ
(自分の役割を果たすようす)
といった言い回しがあります。雉にとって、鷹は天敵といった感じなんですね。
それで、鷹を見ると、雉はそれこそ脱兎のごとく、一目散にまっしぐらに逃げ去っていくわけです。そのようすが、うまく比喩に生かされていて、ユーモアさえ感じられます。
鷹が来たぞ、と雉が逃げていくように、光が来たぞ、と暗闇が逃げていくというのです。ここでは光の偉大さが強調されているではありませんか。
障子の穴から、というのがさらに効果的です。実際には、障子の穴を通して一条の光がさっと、ひと筋の光線のビームとなって外の暗闇に抜けていく光景でしょう。
しかし、ここにはそうした客観的な光景の描写以上に、光の偉大さにかなうこともなく、こそこそと逃げていく闇の卑小さ、勇敢な善の勝利に対する、臆病な悪の敗北といった、精神的な寓意が描かれているようです。
光は闇の中に輝いている。
闇は光に打ち勝たなかった。 (ヨハネ1:5)
イエスの光と、サタンの闇といった、聖書的な象徴をも感じませんか。
ぼくの部屋にただよう
供物の偉大な香りを味わうのだ
そして最後にまた、香りがただよいます。
愛の光のかもす高貴な香りを、ぼくはまたうっとりとした調子で礼賛し、その香気を心ゆくまで胸いっぱいに吸い込むのです。
レモンのみずみずしい香りをかいで、青年の梶井基次郎がその産地のカリフォルニアを思い起こしたように、少年の尹東柱は、ろうそくの芳醇な香りにイスラエルの祭壇を思い起こし、そこに捧げられた供物の
神聖な香りを想像したことでしょう。
この詩の読まれたのは、クリスマスイブ。遠い昔、はるかなエルサレムの地でこの世に生まれたみどり子、救い主なるイエスのことを、その馬小屋にまで運ばれ捧げられた東方の博士たちの供物の乳香の香りをも思い起こしたかもしれません。
しかし、ただ少年は良い香りに酔いしれていただけでしょうか。
「キリストの香り」という言葉があります。
この言葉を、ブログのタイトルに使っている、クリスチャンの友人もいます。
よい言葉ですね。
これは、キリストが私たちの罪をあがなって救うために、自らの体を供物として十字架に捧げてくださった、その供物の香りをさしています。
そして、クリスチャンはキリストの弟子として、自己を犠牲として、世のため人のために尽くしていかなければならない。
尹東柱はその後、詩作を続け、やがて日本の大学に留学します。
そこで、独立運動の嫌疑で逮捕されて、二十七歳の若さで獄死してしまうのです。
尹東柱は、その体をろうそくのように燃やしてしまいました。しかし、遺された数々の詩の香気は、今も気高く高貴に香り立っています。ろうそくが燃え尽き崩れ落ちたあとも、そのあとにいつまでも良い香りが遺っているように。
書かれた詩、文章というものは、本人の体がなくなったあとまでも遺り、その精神と志をいつまでも伝えていくものです。だから私は、文章が好きです。
先人の思いをその遺した文からうかがい、その遺志をついでいくということ。
それは、ろうそくの香りのような、聖霊の香りにもたとえられるでしょう。
クリスチャンではないのでしょうが、先日、近くのときわ台駅前の交番の警官の方が、踏切に入った女性を止めようとして殉職されました。
何年か前に新大久保駅で、転落した酔客を救おうとしてホームに降りて、巻き添えになってしまった韓国人青年と日本人青年のことをも思い出しました。
この日韓の青年二人の生き方を、尹東柱の生涯と重ね合わせて描いた劇「光の夏〜プラットホーム」を観たことが、私が尹東柱の詩を訳し始めるきっかけになりました。
そしてまた、三浦綾子の「塩狩峠」で、暴走する列車の乗客を救おうとして、自らを犠牲にしたクリスチャンの青年のことをも思い起こすのです。
彼らはみな、人々の心の奥深くに残る、高貴な良い香りを発しています。
わたしたちはキリストによって
神に献げられる良い香りです。(コリントU2:15)
かくいう私には、まだまだキリストの良い香りなど、ただよってはいないと思います。
ただ、洗礼を受けてから五年が過ぎ、少なくとも前のような悪臭はいくらか少なくなってきたかな、とは思っています。
以前の私のようすといったら、生活が乱れていて、特に道徳的な退廃が、顕著でした。
なかなか良い香りまではいかないのですが、少しでもならいたいと思っています。
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2007.2.16. 〜 尹東柱命日