尹東柱を読む (25) 「夕立」

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 尹東柱を読む (25) 「夕立」

 今年はことさら残暑が厳しいようですが、いかがお過ごしでしょうか。
 ひと雨ざっと来てくれるといいのですが、東京地方ではなかなか望めないようです。

 尹東柱が世を去ってから、62年と半年めになります。

 今日は彼の書いた詩から、「夕立」を読んでみます。
 書いた年が1937年の8月になっていますので、ちょうど70年前に書かれた詩ですね。

〔※ 原文は77年版の縦書きの本文です〕

【ローマ字表記】

So-nak-pi

Beon-gae,  noe-seong,  wak-ja-ji-geun  ttu-da-ryeo
Meo---n  都會地
(do-heui-ji)e  落雷(nak-roe)ga  iss-eo-man  siph-ta.

Byeo-ru-jjang  eoph-eo-non  ha-neul-lo
Sal-gath-eun  pi-ga  sal-cheo-reom  ssod-a-jin-da.

Son-pa-dak-man-han  na-eui  庭園
(jeong-weon)i
Ma-eum-gath-i  heu-rin  湖水
(ho-su)toe-gi  il-ssu-da.

Pa-ram-i  phaeng-i-cheo-reom  ton-da.
Na-mu-ga  meo-ri-reul  i-ru  jap-ji  mos-han-da.

Nae  敬虔
(kyeong-keon)han  ma-eum-eul  mo-syeo-deu-ryeo
NO-A-ttae  ha-neul-eul  han-mo-geum  ma-si-da.


【 単語】

So-na-gi  夕立 pi 雨

beon-gae 稲妻、稲光 noe-seong(雷声) 雷鳴
wak-ja-ji-geu-reu-reu 大勢が騒ぐ様子、がやがやと
ttu-deu-ri-da (何回も強く)たたく、打つ

meo-n  (<-meol-da) 遠い do-heui-ji(都会地)都会
nak-roe(落雷)落雷 -n-ga/-ji  siph-ta 〜ようだ(推測)

byeo-ru 硯 byeo-ru-jip  硯箱 jang  物を入れる家具?
eoph-ta ひっくり返す、覆す eoph-eo-noh-ta ひっくり返して置く
ha-neul 天、空 -lo 〜から
sal (=hwa-sal) 矢 sal-gath-i  矢のように
sal-cheo-reom  矢のように
ssod-a-ji-da こぼれる、あふれる、降りしきる、降りそぞく

son-pa-dak 手のひら man-ha-da 〜くらいだ、ほどだ
jeong-weon 庭園 ma-eum 心 gath-i  〜のように
heu-ri-da 濁らす、濁っている ho-su(湖水)湖 toe-da 〜になる、できる
-gi-ga  il-ssu-da 〜するのが常だ、〜しがちだ

pa-ram 風  phaeng-i 独楽 ton-da <- tol-da 回る
na-mu 木 meo-ri 頭 i-ru  (否定と共に)とうてい〜てぎない
jap-ta つかむ、(場所を)決める、(曲がったものを)直す
〜ji  mos-ha-da 〜できない

kyeong-keon(敬虔)ha-da 敬虔だ 
mo-si-da 仕える、はべる、お供する、大事にする、まつる
〜a/eo deu-r-i-da 〜してさしあげる、いたす
NO-A〔聖書〕 ノア ttae  時、時代
han-mo-geum  ひと飲み、ひと口 ma-si-da 飲む

【 試訳】

夕立

稲妻、雷鳴、ざわざわと鳴り響き
遠ーい街に落雷があったようだ

硯箱をひっくり返したような天から
矢のような雨が矢のごとく降りそぞく

手のひらほどの私の庭は
心のように濁った湖になるのが常だ

風は独楽のように回る
木はとても頭をもたげることができない

私の敬虔な心にお仕えして
ノアの時の天をひと口飲む

【コメント】

夕立

 「ソナギ」は夕立のこと。「ピ」は雨なので、夕立の雨。
 単なる「にわか雨」ではなくて、夏の夕べにざっとくる夕立を詠んだ詩だ。

稲妻、雷鳴、ざわざわと鳴り響き
遠ーい街に落雷があったようだ

 まず前触れに、空に稲妻が走り、雷鳴がとどろく。
 「ワクチャク」は、人が騒ぐようすとあり、「ざわざわ」といった擬音語だろう。
 雨がばらばらと音を立てて降ってくる、ともとれるが、 雷鳴がごろごろ、ごろごろと
繰り返し打ちならされる様子ではないか。

 遠い街から、雷が落ちた音が聞こえてくる。
 「モン」は遠い、だが、「モーン」とハングル表記が伸ばされている。
 「とおい」ではなくて、「とおーい」という感じの強調だ。
 「はるか遠い」「ずっと遠くの」でもいいが、そのまま「とおーい」としよう。

 「ごろごろ、びしゃーっ」
 「あ、落ちたな、遠いようだが」

 にわかにかき曇った空を仰ぎ、雷の音に耳を澄ます。
 落ちたか、いや、まだ遠い。近くまで来るだろうか。
 そうした経験は誰しもあるだろう。
 夕立の今しも訪れんとする緊迫感がよく写されている。

硯箱をひっくり返したような天から
矢のような雨が矢のごとく降りそぞく

 やがて、どっとばかりに、集中して豪雨がふりしきる。
 熱帯のスコールのような、バケツをひっくり返したような、烈しい雨。
 それを詩人は、たとえて言う。
 「硯箱をひっくり返したような」
 これは巧い。バケツではなくて、硯とたとえたところがいい。

 空が真っ暗になっている様子が、硯箱をひっくり返して置いたような、
灰色の石板のように、どんよりとダークな色合いなのだ。
 また、そこから降ってくる雨の色も、まるで硯で摩った墨のように黒い。
黒い空から、黒い墨汁がぶちまけられたような黒い雨。

 それは「矢のような」雨であり、「矢のごとく」降る。とある。
 「(ファ)サル」、「矢」というたとえが繰り返されている。
 これは普通に言いそうな素朴なたとえだが、あえてそのまま訳そう。
 二度の繰り返しも、稚拙かな感じもするかもしれないが、そのまま訳す。

 「篠つく雨が叩きつける」と訳した本もある。こなれた訳ではあるのかも
しれないが、原文から離れた意訳になり過ぎていないか。
 「矢のような雨が、矢のように降る」
 雨足の鋭さが、矢のようだ、まったく矢のようだ、と子供のように感嘆
している作者の姿は、そのまま訳したほうが素直に出ると思う。

 「うわあ、ほんとに矢のようだね」
 「大粒だし、あたると痛いくらいだよ、すごいなあ」

手のひらほどの私の庭は
心のように濁った湖になるのが常だ

 自分の家の庭に雨がふるのだが、その庭は狭い。
 「手のひらほどしかない」と言う。日本で言えば、「猫の額みたいな」感じだろう。

 「おたくは一戸建てですか、いいですね」
 「いえいえ、狭くて。ほんの猫の額みたいなもので。おまけに水はけが悪くて。
雨が降ると、すぐに池になってしまうんですよ」

 「イルスダ」というのは、「そうなるのが常だ」ということ。 
 詩の中で降っている雨は、もちろん、この時に降った一回性のものだ。
しかし、雨が降ることはたびたびあり、そのたびに庭には湖ができるのだ。

 私の勤務する学校のグラウンドも、水はけが悪い。
 ちょっと雨が降ると、すぐに水がたまって、体育も行事も中止になる。
 うちはK高校というので、もじって「K湖」と呼んでいる。
 雨がふると出現する、湖。日本庭園の山水でいう、一種の「見立て」だろう。

 ここまでの描写は、まあ、月並みと言えば月並みだろう。
 しかし私が好きなのは、ここでこう言っていることだ。

 「心のように濁った湖」

 これがこの詩人らしい表現であり、発想であると思う。
 単なる技巧や修辞の問題ではない。精神や心根のあり方なのだ。

 雨がふる。庭に池ができる。泥水で茶色に濁っている。
 そうしたときに、人はどう思うだろうか。

 屈原のように、世間の水が濁っていると考えるか。
 私は清いのだが、濁った世間に妥協はできないと、淵に身を投げるか。

 尹東柱は、自分の心のように濁っている、と言う。
 ここが、この詩人の謙虚なところである、そう私は思う。

 アウグスティヌスだったか、よく覚えていないのだが、
 「キリスト教の精神は、一に謙譲、二に謙譲だ」と言ったそうだ。

 おれは清い、他のやつらは濁っている、そう考えれば独善にいたる。
 わたしは罪深いもの、濁っているものです、そう考えれば謙虚になれる。

 私はどうして、こんなに濁った心の持ち主なのでしょう。
 そしてそのことは、雨がふるたび、湖ができるたびに省みさせられることなのだ。

風は独楽のように回る
木はとても頭をもたげることができない

 夕立の描写が続く。
 強い雨に続いて、風も吹きすさんできた。

 よく台風中継などで、雨風の強い港や通りで、吹き飛ばされそうになりながら
絶叫しているアナウンサーがいるが、そんな情景だろうか。
 沖縄や九州など、南国からの中継では、棕櫚の木の並木が、都会からでも
大きな街路樹が、まるで子供にもてあそばれるように、風にしなっている。

 ここで、風を、独楽にたとえている。
 「独楽のように回る」と、そのまま訳しておこう。 
 おそらく、つむじ風が、小さな竜巻のように渦を巻いている、そんな光景だろう。
本物のハリケーンではなくても、心には渦巻くように感じられる強風なのだ。

 そして、木々は擬人化されて描かれている。
 「頭を直すことができない」というのが、直訳だ。
 すなわち、身を立て直して、頭を持ち上げることができないのだ。
 吹き止むことのない風に、自然の猛威に、ただ地にひれふしているのだ。

 ここまで夕立を描いて、詩人は次のように詩をしめくくる。

私の敬虔な心にお仕えして
ノアの時の天をひと口飲む

 画竜点睛、すばらしい終わり方だと思う。
 夕立ひとつ描くにも、キリスト教詩人の面目がよく出ていると感じる詩だ。

 「敬虔」は、原文ではそのまま漢字が使われている。
 「敬虔な心にお仕えして」は少しこなれない訳だが、そのまま訳しておく。
 
 「mo-yeo」ではなく「mo-syeo」であるので、「招いて」ではなく「仕えて」であろう。
 自分自身のうちに、もともと敬虔な心がある、といっているのだ。
 これは、前に出た、泥水のような「濁った心」と矛盾するようだが、そうではない。
 人の心のうちには、そもそも善の心と悪の心があるのだ。

 キリストは、私たちの心にすまわれる、と言われる。
 私たちの心は、聖霊のすみかとなる、とも言われる。
 だから、その心を、身を汚してはならない。きれいにしておかなくてはならない。
 自分の心は濁っている、その反省は、澄ませなくてはならない、という姿勢となる。

 だが、自分自身で自分を清めることは、実はできない。
 自分の心は、どうしたら、清めることできるか。
 罪を清めてもらえるのは、自らの心のうちに臨む聖霊の働きによるのである。
 だからこそ、その自らのうちなる、「敬虔な心に仕える」となるのだ。

 そして、その「敬虔な心」で、夕立の雨を見るとき、それはただの雨ではない。
 「ノアの時代の雨」となる。
 この箇所、原文では「ノア」のところに、傍点が打たれている。固有名詞であり、
かつ強調されていることを示すしるしだろう。

 だれしも知っている、旧約聖書のノアの洪水。
 それは恐ろしい災厄であったが、信じる者にとっては恵みの雨でもあった。
 神は、その洪水をもって世を滅ぼされんとしたが、義人ノアには啓示をたまい、
神を信じるノアは、方舟を作って自らと生き物たちを救ったのである。

 洪水の引いた後、ノアはまず、神に感謝の捧げ物をした。
 神は、ノアの捧げ物を受けた。そして、二度と世を滅ぼすことはしないと言った。
 その契約のしるしとして、神は、空に美しい虹を架けられた。
 雨降って、地固まる。試練を経て、信仰は強められたのである。

  水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
  雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、
  神と地上の生き物の間の永遠の契約に心をとめる。
(創世記9:15-16)


 では、ノアのように、神に従わなかったものはどうなるのか。
 洪水によって滅ぼされた者にとって、永遠に救いはないのか。
 例えば、キリストを信じずに世を去った祖先や友人は救われないのだろうか。
 断じてそうではない。聖書には、このようにある。

  霊においてキリストは、捕われていた霊たちの所に行って宣教されました。
  この霊たちは、ノアの時代に方舟が作られていた間、
  神が忍耐して待っておられたのに、従わなかった者です。
(ペトロ3:19-20)


 では、現在、生きている私たちはどのようにすればよいのか。
 信じないで死んで、あの世でイエスが来るのを待っていればよいのか。
 いや、信じるのであれば、今から生きているうちに、バプテスマを受ければよい。
 聖書は、続けてこう語っているのだから。

  この水で前もって表された洗礼(バプテスマ)は、
  今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。
  洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、
  神に正しい良心を願い求めることです。 
(ペトロ3:21)

 旧約の、ノアの方舟の洪水が、新約の、イエスによる洗礼の予形となっている。
 水をくぐって救われる。これがバプテスマの原義なのである。
 夕立ひとつに、何を大げさなことを、と言うなかれ。
 私の尊敬する無教会派のクリスチャン内村鑑三が、このように言っている。

 教会で行われる晩餐とバプテスマばかりが、秘蹟、サクラメントではないのだ。
 大事なことは、形式ではない。信仰なのである。

 だからもし、主イエスを信じる心さえあれば、自分の家の食卓で、自分ひとりで
パンとぶどう酒をいただいても、それは聖餐となるのである。

 同様に、バプテスマ、洗礼についても、こんなエピソードを彼は挙げている。
 ある人が、聖書を読んで祈っていて、主イエスを信じる心をおこした。
 そこに、にわかに雨が降り注いできた。
 彼は、庭に飛び出して、神に感謝して祈ると、頭から雨をかぶった。
 これ、すなわち、バプテスマである。自然の雨による、洗礼なのであると。

 尹東柱は、ふりしきる夕立の雨の中に立った。
 そして、自らの内なる聖霊に従い、ノアの信仰を想い起こし、天の与える水を
ひと口飲んだ。それは彼にとっての聖餐であり、洗礼であろう。アーメン。

  雨を降り注ぎ  恵み給うと
  神は愛をもて  誓いたまえり

  夕立のごと あまつ恵みを
  イエスよ今ここに  注ぎたまえや
 (新生讃美歌)


                      2007.8.16. 〜 62と半年めの命日


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