1945.2.16. - 2004.2.16
今日は、尹東柱の命日です。2月16日。
1945年、8月15日の終戦の日をさかのぼることわずか半年前。
彼がもう半年生きていれば、故郷の光復を見られたのに、残念です。
彼は朝鮮という国に殉国したのでしょうか、それとも詩人という職業に殉職したのでしょうか、あるいはキリスト教という教えに殉教したのでしょうか。
今日から、クリスチャンである彼の魂の詩である「十字架」を読んでみます。
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【原文】(ローマ字表記)
十字架
Jjoch-a-o-deon haes-pich-in-de
Ji-geum kyo-heui-dang kkok-tae-gi
Sip-ja-ga-e keol-li-eoss-seub-ni-da.
Cheom-tab-i jeo-reoh-ke-do noph-eun-de
Eo-tteoh-ke ol-la-gal su iss-eul-kka-yo.
Jong-so-ri-do teul-lyeo-o-ji anh-neun-de
Hwi-pha-ram-i-na pul-myeo seo-seong-keo-ri-da-ga,
Koe-ro-weoss-teon sa-na-i,
Haeng-bok-han Ye-su Keu-ri-seu-to-e-ge
cheo-reom
Sip-ja-ga-ga heo-rak-toen-da-myeon
Mo-ga-ji-reul teu-ri-u-go
Kkoch-cheo-reom phi-eo-na-neun phi-reul
Eo-du-weo-ga-neun ha-neul mith-e
Jo-yong-hi heul-li-gess-seub-ni-da.
【試訳】
追いかけてきた陽の光なのに
今、教会堂のてっぺん
十字架にかかりました
尖塔があんなにも高いのに
どうやって登っていくことができるでしょうか
鐘の音も聞こえてこないのに
口笛なんか吹きながらうろうろ歩きかけたが、
苦しんだ男、
幸福なイエス・キリストへの
ように
十字架が許可されるというのなら
首を垂れて
花のようによみがえる血を
暗くなっていく天の下で
静かにお流しします。
【語句】
jjoch-ta (後から)追う jjoch-a-o-da 追ってくる
〜deon 〜した 過去連体形
haes-pich 日の光、太陽 〜in-de 〜であるが
ji-geum 今 kyo-heui-dang 教会堂 kkok-tae-gi てっぺん
sip-ja-ga 十字架
keol-li-da かかる keol-da かける
cheom-tab 尖塔
jeo-reoh-ke あのように jeo-reoh-ta あのようだ
noph-ta 高い
eo-tteoh-ke どのように、どうやって eo-tteoh-ta どのようだ
ol-la-ga-da 登っていく o-leu-da 登る
〜l su iss-ta / eops-ta 〜することができる/できない
〜l-kka-yo でしょうか 〜l-kka 〜だろうか
jong-so-ri 鐘の音、鐘声 jong 鐘 so-ri 声、音
teul-li-da 聞こえる teul-lyeo-o-da 聞こえてくる teut-ta 聞く
〜ji anh-ta 〜しない
hwi-pha-ram 口笛 〜i-na 〜でも
pul-da 吹く 〜myeo 〜しながら
seo-seong-keo-ri-da うろうろする、うろつく 〜da-ga 〜しかけて
koe-rop-ta 苦しい 〜oss-teon 〜した 過去完了連体形
sa-na-i 男
haeng-bok-ha-da 幸福だ、幸せだ
Ye-su Keu-ri-seu-to イエス・キリスト
〜e-ge 〜に 〜cheo-reom 〜のように
heo-rak-ha-da 許可〔許諾〕する、許す heo-rak-toen-da 許可される、許す
〜myeon 〜ならば
mo-ga-ji 首 teu-ri-u-da 垂れる
kkoch 花 phi-eo-na-da 咲き始める、よみがえる phi-da 咲く
phi 血
eo-deup-ta 暗い eo-deu-weo-ga-da 暗くなる
ha-neul 空、天、神 〜mith 〜の下
jo-yong-ha-da 静かだ、もの静かだ
heul-li-da 流す heu-reu-da 流れる
〜gess 謙譲の意志を示す 〜gess-seub-ni-da 〜いたします
【コメント】
追いかけてきた太陽の光なのに
今、教会堂のてっぺん
十字架にかかりました
太陽の光を追いかける、とはどういうことだろうか。
子供の頃に、月や太陽の後を自分が追いかけて歩くにつれて、さらに先に進んでいくことに、不思議だなと感じたことはないだろうか。
「追いかけてきた」のは、自分が太陽を追いかけてきたのか、太陽が自分を追いかけてきたのか。これは自分が太陽を追いかけたのだと思う。「〜deon」と過去回想形が使われているということもあるが、姿勢としては自分が光を求めているのだろう。
この「haes-pich」は、単なる日光ではあるまい。ただの日差しだと、「十字架に掛かった」というところにうまく続かない。おそらく、太陽をとろうとしていたら、それは十字架にひっかかてしまってとれなくなった、そんなイメージではないか。
だが、太陽などつかまえられるわけがないではないか、といわれるかもしれない。
ここの「太陽」は、神ではないか、そんな気もする。もろちん、古事記の天照大神とか、マヤの太陽神などではなく、主なる神を象徴している。聖書で「光」は、常に「闇」と対比され、主を示しているから。「始めに光ありき」である。
だから、それが十字架にかかる、のではないか。
「mo-ga-ji てっぺん」と言う。素朴な言い方であるとともに、高さが感じられる。
尖塔があんなにも高いのに
どうやって登っていくことができるでしょうか
尖塔が高い。登っていくことはできない。
「Eo-tteoh-ke〜l su iss-eul-kka-yo? どうして〜できるだろうか」
反語で問いかけているが、できない、と言っているのだ。
太陽にはもちろんどうやっても届かないが、十字架は梯子をかければ登っていけそうだ。
だが、ここではそういう物理的な高さではないだろう。精神的な高みだろう。
十字架は、高いところにある。心の中で、それは仰ぎ見るように高い。
全編ハングルの詩で、タイトルの「十字架」だけが漢字で書かれている。
信仰を持つ尹東柱にとって、それは崇高であり、至高であろう。
かくいう小生も、2年半前にバプテスマを受けたので、とりあえずクリスチャンということになるはずだが、まだまだそのように名乗るのはおこがましいとしばしば感じる。
クリスチャンはキリストの弟子という意味だ。クリストに倣う者であるべきだ。
だが、いまだにささいなことで人を恨んだりすることがある。
「許しなさい、そうすれば許されます」
「敵を愛せ」「七たびの七十倍まで許せ」
「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」
いい言葉だと思いながら、いざとなるといっこうに実践できないでいる。
イエスの自己犠牲は、高い、あまりにも高い、手が届かない。
しかし何とか、足元にでもたどり着きたい、そう思って十字架を見上げる。
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私は、通勤で毎朝、武蔵野線を利用している。
昨年の4月に転勤して以来、この線を使うようになった。
最近、気づいたことがある。
北朝霞の駅から、新座の駅に向かう時に、北側の車窓を眺めていると、武蔵野の平原の向こうの、十字架の尖塔が見えるのだ。
高さ30メートルはあろうか、遠目ではあるが、しかしはっきりと、冬の青く澄んだ空に、きりりと天を指して、その白亜の尖塔は立っている。
それはまるで、神の指のようである。主のあり所を指し示しているように。
尖塔の脇には、ドーム型のチャペルがあり、その上にもまた十字架がある。
ああ、あの尖塔の元に行ってみたい、一度訪れて祈ってみたい。できたら、あの十字架
の尖塔に登ってみたい。だが、あまりにも十字架は遠く、また高いのだ。
そう思いながら、毎朝毎朝、日課のように必ず眺めている。いつもの所にあるのを目で確認すると、なんだかほっと安心して心が慰められる。
その尖塔は、立教大学の新座キャンパスのものであるらしい。
尹東柱は、そう言えば、日本に留学していた頃、立教大学と同志社大学に通っていた。
もちろん、新座の尖塔は新しい建築であり、彼の見たものではない。
だが、同じ立教大学であったことに、何か符合のような啓示を感じる。
尹東柱も、強い憧憬の心を持って、尖塔の十字架を仰ぎ見ていたのだろう。
鐘の音も聞こえてこないのに
口笛なんか吹きながらうろうろ歩きかけたが、
彼が十字架にかかる光を見たこの日は主の日、つまり日曜日ではないだろう、そして礼拝はなかったのだろう。
もし礼拝の日だったら、彼は教会に歩み入って、祈りを捧げたことだろう。賛美の歌を口にしたことだろう。鐘の音に、耳を澄ませたことだろう。
だが、鐘の音は聞こえてこないのだった。
この三つ目の連まで、繰り返して逆接表現「〜n-de 〜のに」が使われている。
Jjoch-a-o-deon haes-pich-in-de
追いかけてきた陽の光なのに
Cheom-tab-i jeo-reoh-ke-do noph-eun-de
尖塔があんなにも高いのに
Jong-so-ri-do teul-lyeo-o-ji anh-neun-de
鐘の音も聞こえてこないのに
この3回の脚韻のリフレインは、明らかに故意の表現だろう。
太陽は届かない、尖塔は登れない、鐘の音も聞こえない。
だが、光に手を届かせたい、十字架に登っていきたい、賛美の響きを聞きたい。
現実と願望とのギャップ、それが三度の逆接となって繰り返されている。
そこで詩人は、どういう行為に出るのか。
ただ口笛を吹いて、教会堂の周りをうろつくのだ。
この口笛は、ただの合図などではなく、おそらく何かの曲なのだろう。
いや、おそらくなどと言うまい。きっと、口笛による曲であり歌なのだ。
では何の歌なのか。教会の鐘の音の代わりの歌、なのだ。
讃美歌に決まっている。と私は感じる。確信に近い。
私の耳には、その讃美歌のメロディーと歌詞まで、ありありと響いてくる。
韓国の讃美歌は、日本と共通のものが多い。
きっとこの歌だ、この場の心情に合うのはこの歌だろう、と思う歌がある。
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』でも出てくる。賢治の愛唱歌でもあったようだ。
主よ、みもとに 近づかん
のぼるみちは 十字架に
ありとも など悲しむべき
主よ、みもとに 近づかん (讃美歌320番)(旧306番)
十字架から登る道。そこを通れば、主なる光のみもとに行けるのだ。
銀河鉄道に、この歌が響くとき、青年と二人の子供が客車に乗ってくる。
彼らの服が水に濡れている。
青年は牧師だった。彼は静かに語る。
船が沈みそうになった。私たちは、浮き輪をほかの人に投げてやったのだ、と。
賢治はこの話を、当時の大事件、あのタイタニック沈没からとっている。
主人公のカンパネルラが、星祭りの夜に、川に落ちたザネリを救うために、水に沈んだように。そして、彼も銀河鉄道の乗客となったように。
銀河を走るこの鉄道は、白鳥座の十字架ステーションを目指している。
この列車に乗れるのは、自己犠牲により人を救い、殉教した人たちだった。
それこそが、十字架に登る道だった。
では、尹東柱自身は、登ることができたのだろうか。
Hwi-pha-ram-i-na pul-myeo seo-seong-keo-ri-da-ga,
口笛なんか吹きながらうろうろ歩きかけたが、
彼は、いつまでもうろついていたわけではない。
いや、歩き始めて、それを中断しているのだ。
ここで「〜da-ga 〜しかけて」という語が使われていることに注目したい。
韓国語のこの語法は、いったんしかけた動作が中断することを意味している。
では、歩きかけて、歩くのをやめて、彼は何をしているのか。
立ち止まって、もちろん、まだ十字架を仰いでいるのだろう。
教会を去ろうかと思って、まだ立ち去れないままでいるのだろう。
そしてその場で、彼の心の述懐が、切なる願望が、告白される。
苦しんだ男、
幸福なイエス・キリストへの
ように
十字架が許可されるというのなら
苦しんだが、しかし幸福だった、と尹東柱がうらやんでいる男。
イエス・キリストがその人である。
「nam-ja 男子」でも「sa-ram 人」でもなく「sa-na-i
男」である。
「han-guk sa-na-i
韓国男児」「日本男児」という時のような「男児」、侠気、男気の感じられる、気概のある「おとこ」。世のため人のために尽くして犠牲となった、男の中の男、そういう親しみと尊敬の語感の含まれた言葉だと思う。
そのように、私もなりたい、と言う。
Ye-su Keu-ri-seu-to-e-ge
イエス・キリストへの
cheo-reom
ように
と「ように」一語だけが、わさわざ改行されている。強調されている。
イエス・キリストそのものには、とてもなれない。足元にも及ばない。
だが、せめて、少しでもそれにならいたい。
クリストの弟子である、クリスチャンとして。その謙虚の気持ちの顕れが、
「ように」
の一語に込められた万感の思いだと思う。さらに、
Sip-ja-ga-ga heo-rak-toen-da-myeon
十字架が許可されるというのなら
「heo-rak」は漢字語で「許諾」である。やや固いが、「許可」をいただきたい、というこれも自らを低くする気持ちが出ている。さらに「許可されるなら toe-myeon」ではなく「されるというのならtoen-da-myeon」と、伝聞体にもなっていて、あり得ないかもしれないがもしできるなら、と仮定が含まれて、やはり恭順だ。
では、許可するのは、だれか。
もちろん、主なる神である。
神が神に許すのか、矛盾ではないか、と言うなかれ。
父なる主が、子なるイエス・キリストを愛して、そのために十字架につくことを許された、という三位一体の教えである。イエスが、人の罪を身代わりに引きうけて十字架によって我々を贖罪されることを、父なる神に願って許されたのである。
だから、「イエス様に対して許されたように、この私にも」となるのだ。
同列に並べて言うなど、おそれおおいことだが、もしも、できることでしたらこの罪深い私めにも、と身を低くして、願い出ているのだ。
首を垂れて
花のようによみがえる血を
暗くなっていく天の下で
静かにお流しします。
最後の連は、イエス・キリストの十字架の死そのもののイメージである。
「首を垂れて」
イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、
首をたれて息をひきとられた。 (ヨハネ 19:30)
「花のようによみがえる血を」
ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、
すぐ血と水とが流れ出た。 (ヨハネ 19:34)
「暗くなっていく天の下で」
時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、
全地は暗くなって、三時に及んだ。 (ルカ23:44)
「静かにお流しします。」
みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、
多くの人のために流すわたしの契約の血である。 (マタイ26:28)
聖書の言葉そのままであり、説明するまでもなかろう。
ただ、訳について、いくつか補足しておく。
Kkoch-cheo-reom phi-eo-na-neun phi-reul
ここの訳は、少し悩んだ。
「phi-eo-na-da」は、「咲き出づ、咲き始める」ということだ。
血が花のように咲く、とはどういうことだろう。
人類の罪の救済のために流された血であってみれば、それは花のように華麗で鮮やかな血だということだろうか。
「phi-eo-na-neun phi」は、「phi」で頭韻を踏んでいると思われるのだが、それを日本語にうまく音写することは、なかなか難しい。
「はなのように はなやかに流れる」か、だがあまりうまい訳ではない。
しかもこの「phi-eo-na-da」には、「(人が)よみがえる、生き返る」という意味もあり、イエスの復活を思えば、その意味もかけているような気がする。
だがもしそうだとして、その掛詞まで訳すのは,考えてはみたが不可能だろう。
「花のようによみがえる血」としてみたが、「花が咲く」語感が出ない。
「花のように咲き出る血」としておくほうがいいかもしれない。
Eo-du-weo-ga-neun ha-neul mith-e
「Eo-du-weo-ga-da」は、直訳すると「暗くなっていく」だ。
ここを、詩人が教会の前にたたずんでいるうちに、十字架にかかっていた日が傾いて、あたりが暗くなってきたのだ、として「たそがれゆく」「暮れていく」と訳すのもよい。
だがここは、先に聖書の言葉を引いたように、イエスがなくなった時に、空が暗くなった、というイメージが重ねられているに違いない、と思う。ただ、時刻が遅くなった、というのではない。昼の十二時、正午だというのに、全地が暗くなったというのだから。
さらに「ha-neul」は、ただの「空」ではなく、「神、天」の「ハヌル」かもしれないのだ。天の父なる神が見守る、その下で、足元で、ということになる。
ここはそのまま「暗くなっていく天の下で」としておこう。
Jo-yong-hi heul-li-gess-seub-ni-da.
「jo-yong-hi 静かに」であって、泣いたりわめいたりなどしていない。
従容と,落ちついた態度で、苦痛に耐えて、最期の時を迎えていくのだ。
「〜gess」という語にも着目したい。この補助語は、単なる未来・意志ではなく、謙遜の意を示して使われる。「〜いたします」という感じだ。
「犠牲の血を流してやるぞ」というのではない。
「血を流して、この身を捧げさせてください」という、低いこころだ。
「血」というと、なんだか血なまぐさい感じがする、だからキリスト教は残酷な感じがして嫌いだ、という方がいる。だが、この「血」の意味が大きいのだ。
イエス・キリストが、自らの罪なき身を小羊の代わりとし、神に捧げてくださった。
だから「神の小羊」なのである。
それによって、我々の罪が許された。
このことを記念して、教会の主の晩餐式では、ぶどう酒とパンが分かち与えられる。
ぶどう酒はキリストの血、パンはその体、を象徴しているのだ。
さて、最後ににもう一度問おう。
尹東柱は、望みのとおり、十字架を許されたのだろうか。
私は、許されたのだ、と思う。
日本の官憲に捕らえられ、投獄され、獄中で死んだ、クリスチャンの詩人。
人は言うだろう、かわいそうな、不幸な男だった、と。
人は憐れむだろう、苦しかっただろう、つらかったろう、と。
だが、彼の詩の言葉を借りれば、こうではなかろうか。
「苦しんだ男、幸福な尹東柱」だった、と。
彼は死ぬことにより、民族の詩人、抵抗の詩人となって、世に語り継がれ、その詩を愛唱され、今日に至るまで親しまれている。
自己犠牲を捧げたことにより、多くの人々に希望を与え、生きる力をくれたこと、それは彼の望んだ殉教以外の、何物であろうか。
彼こそ、十字架を登っていったのだと思う。尖塔をはるかに飛び越えて、暗くなった天の向こう、銀河鉄道の走る星空のかなた、主のまします天国へと。
うつし世をば はなれて
天がける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき
主のみかおを あおぎみん
2004.2.25. 灰の水曜日 〜 受難節の初めの日に