尹東柱を読む C 「はじめの朝」

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 春分の日ですね。しかし、東京地方は冷え込み、寒い朝です。
 雪まじりの冷たい雨が降っています。春の訪れが待たれますね。
 今朝も尹東柱の詩を読んでみましょう。

〔ローマ字表記〕

 太初eui A-chim

Pom-nal a-chim-do a-ni-go
Yeo-reum, ka-eul, kyeo-ul,
Keu-reon nal a-chim-do a-nin a-chim-e

Ppa-al-gan kkoch-i phi-eo-nass-ne,
Hae-pich-i phu-reun-de,

Keu jeon-nal bam-e
Keu jeon-nal bam-e
Mo-deun geos-i ma-ryeon-doe-eoss-ne,

Sa-rang-eun paem-gwa ham-kke
毒un eo-rin kkoch-kwa ham-kke.

〔試訳〕

 はじめの朝

春の日の朝でもなく
夏、秋、冬、
そういう日の朝でもない朝に

真っ赤な花が咲き出して、
陽の光は青いのだが、

その前の晩に
その前の晩に
すべてのものは用意されていたのだ、

愛は蛇とともに
毒は幼い花とともに。

 〔語句〕

太初 thae-cho 太古の初めという意か
a-chim 朝
pom 春  yeo-reum 夏
ka-eul 秋  kyeo-ul 冬
ga / do a-ni-da 〜では/でも ない

ppal-gah-ta 赤い ppa-al-gah-ta は強調形か
phu-reu-da 青い
phi-eo-na-da 咲き出す
hae-pich  陽の光、日光

jeon-nal 前の日 jeon 前 nal 日 bam 晩、夜
mo-deun すべての
ma-ryeon ha-da / doe-da 準備、用意 する/される

sa-rang 愛   paem 蛇
kwa ham-kke 〜といっしょに、ともに
 dok 毒
eo-ri-da 幼い、小さな eo-rin は連体形

〔コメント〕

 はじめの朝

 タイトルの「太初の朝」だが、「はじめの朝」と訳してみた。
 「太初」と漢字になっているのは、おそらく太古の昔の朝という意味だろうが、そのまま「太初の朝」では固い。「最初の朝」で平凡すぎる。「いちばん初めの朝」でもいいのだが、「初め」をひらがなにしてちょっと気持ちを出してみた。

春の日の朝でもなく
夏、秋、冬、
そういう日の朝でもない朝に

 pom-nalは「春の日」。「pom-nal kan-da春の日は過ぎ行く」という懐メロの歌が韓国あり、最近同じ題名の映画にもなった。
 まず「春の日の朝でもなく」と言う。ではほかの季節か。
 しかし、夏でも、秋でも、冬でもない、と言う。
 えっ、季節は四つ、四季しかないんじゃないの? どういうことだろう。
 そのように、読者に最初、あれ? と思わせるところが面白い詩だ。
 「春でも夏でも秋でも冬でもない日の朝」、それはタイトルにもある「太初の朝」、すなわち、この世でいちばん初めの朝、まだ季節の巡り、四季がスタートしていない、そのまさに最初の朝ということなのだろう。

真っ赤な花が咲き出して、
陽の光は青いのだが、

 その初めの朝の、情景が想像の中で描写されていく。
 花は「ppal-gah-ta 赤い」。 ppa-al-gah-taとなっているのは、おそらく強調形で「真っ赤な」という感じだろう。真紅のバラのような花だろうか。
 そして、太陽の光は「phu-reu-da 青い」。
 赤い花とか、青い光というのは、色彩の印象としてはとても鮮やかだ。原始の野生の花は生き生きと紅く、そして、創世の宇宙から指す光は神々しく蒼い。聖書的に、そうした赤い花とか青い光という表現があるのかと思って探してみたが、そういう言葉はないようだ。ここはあくまで、尹東柱自身のイメージの光景であろう。
 前回読んだ「十字架」の詩の中で、「咲き出す phi-eo-na-da」は、磔刑のイエスの「花のように咲き出す血」、また「hae-pich 陽の光」は、主である神を示す太陽の光を求めるように「追いかけてきた陽の光」という表現で出てきた。ここもそういうイメージとしてあるのかもしれないし、そのままの意味の言葉かもしれない。
 詩集の中では、「十字架」に先行している詩だ。聖書の中のできごととしてももちろん、復活の朝よりはるかにさかのぼった天地の先がけの朝だ。

その前の晩に
その前の晩に
すべてのものは用意されていたのだ、

 天地創造の朝。
 いちばん初めの朝、というのがあるなら、その前の晩というのも、あったはずだ。
 それはそうでしょう。しかし、その晩のそのまた前の朝というのは、なかった。
 なぜなら、そもそも一番はじめには、この世には闇しかなかった。
 永い永い夜。いつまでも続く暗やみ。永遠に明けそうもない暗い暗い底なしの夜。
 だが、そこでみ言葉が響いた。
 「光あれ」
 宇宙のビッグバン。すべては神の言葉から始まった。
 だが、その前には何があったのだろうか。物事には始まりがある。始まりがあるとすれば、そのまた始まりの前もあるのではないか。
 すべての物を作った主がいるとしたら、その主を作ったのはだれか。
 そう考えていくと、どうしても最初から存在したものがある。
 すべての物を作った主は、すべてに先んじて最初からあったと考えざるを得ない。
 「あってあるもの」
 主は、モーセに対して自分のことをこう言われた。「私はあってあるものだ」と。
 すると、「光あれ」と言われて、「光」が始めて存在した、その始めての宇宙の「朝」、その前にすでに主は存在して、すべてを準備していたはずなのだ。
 すなわち、クリスチャンの詩人、尹東柱が言うように、
 「その前の晩に すべては用意されていた」ことになる。

愛は蛇とともに
毒は幼い花とともに。

 「愛」と「蛇」が、なぜ、ともにあるのか。
 旧約聖書を一度でも開いたことがある人は、創世記の最初にあるエデンの楽園追放の話を、いや、聖書を読んだことがない人でも、その話は知っているだろう。
 人は、神の似姿として作られた。エデンという楽園に住み、何も不自由することなく、豊かに暮らしていた。だが、主は言われた。この知恵の木の実だけからはとっては食べてはいけない。その時、蛇がイブを誘惑した。イブは実を食べてしまう。これが「罪」の始まり、失楽園だった。そしてそれは同時に、「愛」の始まりでもあった。
 アダムはイブは「知り」、イブは身ごもるのだ。
 だから、男女の「愛」は「蛇」によってもたらされたとも言える。

 では、「毒」と「幼い花」は、どうなのだろうか。
 これも同様の対比であると思われる。恐ろしい「毒」も、美しい「花」とともに、用意されていたのだ、という。
 「毒」は漢字で書かれていて、特に強調されている。
 そして聖書で「毒」という言葉を検索してみると、人間に罪をもたらした「蛇」の毒、というふうに書かれている箇所が多い。これはアダムとイブの原罪につながる毒ということを念頭に置いている表現かもしれない。

 それに対して、「花」はどうか。これはさまざまで、ゆりの花、あめんどうの花、ぶどうの花、オリーブの花、野の花などがある。
 なかでけっこう多いのは、雅歌に見られるような「ゆりの花」を美しい女性として比喩する表現だ。雅歌は、聖書では珍しく男女の「愛」について優雅にまた艶やかに謳っている章句に満ちている。
 すると、そうした美しい愛の「花」が、反面では蛇の「毒」につながるような悪しき愛にもつながっている、そうした比喩かもしれない。
 「幼い花」とあるので、これから大人の女性の花に成長する子供の花ともとれる。
 あるいは、「花」が咲き、実がなり、それが禁断の「知恵の実」となっていき、「毒」となる、というつながりなのかもしれない。

 主が全知全能であるとすれば、これらのことは初めから準備されていたはずだ。
 すべては、神の「ご計画」のうちなのだから。
 「愛」は「罪」とともに、「光」は「闇」とともに、「善」は「悪」とともに、「天使」は「サタン」とともに、用意されていたことになる。良いことも悪いことも、主が造りたもうたものなのだから。矛盾ではなく、すべて主の意志、み心のうちに統合される。
 なぜ、わざわざ「悪」を作るのだろう。それは、「善」があるためであり、サタンの存在すらも、神のご栄光が現されるためである。
 そう考えれば、人生でたとえ艱難や試練に遭う事があったとしても、それもまた、ご計画のうちであり、その先には必ずや慰謝と幸福とが待っているはずだろう。
 であるから、神様にすべてをおゆだねして生きていくべきなのだ。
 クリスチャン詩人、尹東柱の敬虔な考えと姿勢がうかがわれる。

聖書箇所

 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
〔創世記1:1-5〕


 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
〔創世記3:1-4〕
 人はその妻エバを知った。〔創世記4:1〕

 私は彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるだろう。〔申命記32:24〕
 そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。〔申命記32:33〕
 その食物は彼の腹の中で変り、彼の内で毒蛇の毒となる。〔ヨブ記20:14,16〕
 蛇の毒のような毒を持ち、その耳をふさぐ耳しいの毒蛇のようだ。〔詩篇58:4〕
 蛇のようにその舌を鋭くし、そのくちびるの下にはまむしの毒がある。〔詩篇140:3〕

 わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。〔雅歌2:16〕
 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかが、ゆりの花の中に草を食べているようだ。〔雅歌4:6〕
 そのほおは、かんばしい花の床のように、かおりを放ち、そのくちびるは、ゆりの花のようで、没薬の液をしたたらす。〔雅歌5:13〕
 あなたのほぞは、混ぜたぶどう酒を欠くことのない丸い杯のごとく、あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた山盛りの麦のようだ。〔雅歌7:2〕
 わが愛する者は園の中で、群れを飼い、またゆりの花を取るために自分の園に下り、かんばしい花の床へ行った。〔雅歌6:2〕

 なお、尹東柱の詩と少し離れるかもしれないが、私が好きな歌手に久米小百合という女性がいる。聞いたことないという方も多いだろうが、「久保田早紀」といえば、ああ、あの歌手か、と覚えておられる年配の方がいるのではないだろか。
 79年10月「異邦人」を歌ってデビュー、このエキゾチックなタイトルとメロディーの歌が150万枚の驚異的な大ヒット、一躍スターとなった。だが、その後、第一線の華やかな歌手活動からは退いた。そして、クリスチャンの歌手として賛美の歌を歌っている。「異邦人」というタイトルと内容も今思えば聖書的な感覚だ。彼女はバプテスト神学校を卒業し、三鷹バプテスト教会員である。私は常盤台バプテスト教会員なので、より親しみを感じる。
 以前に新大久保の淀橋教会で開かれた彼女のコンサートにも言ったことがある。讃美歌のほか、自分で作詞作曲した魅惑的なゴスペルをのびのびと歌ってくれた。セルの眼鏡をかけた飾らない面影は、かつてスターダムにいた頃と違い落ちついた感じがした。アルバムとしては、讃美歌の名曲をアレンジした「テヒリーム33」が繰り返し聞くたびに心休まる名盤だが、オリジナル曲を集めた「はじめの日」がもっとも彼女らしい。
 そのタイトル曲である「はじめの日」、実は尹東柱の「はじめの朝」に歌の内容が似ているように思える。それで、詩の訳も「はじめの朝」としてみた次第だ。久米小百合が尹東柱を読んでいたろうかと意外にも思うが、案外、邦訳で読んでいたのかもしれないし、あるいは、同じ創世記から、時と所を別にして、偶然に同じイメージの詩と歌ができあがったということかもしれない。以下に、その歌詞を挙げておく。

 はじめの日   久米小百合

 はじめの日は 空も海もひとつ
 はじめの日は 日も月も星もみえない
 ただ風がふいている ただあなたの風が
 ただいのちの いのちの風が

 はじめの日は 時のはじまりだから
 はじめの日に エデンの幕があけられて
 青草とたわむれよう 怪獣とあそぼう
 密林をどこまでもかけぬけよう
 楽園は 悲しみのない光の中

 二人は一人から 人はみなつくられ
 一人は二人から うまれてくる不思議さは
 ただ神様の息 ただ愛の息が
 ほら二人は 二人は生きる

 笑うことをおぼえ 泣くこともおぼえて
 心が言葉になり はじめての歌がうまれる
 大好きなあなたに 大好きな気持ちを
 届くように歌おう たたえよう
 つくられたすべての命 すべてのもの

 さて、この尹東柱の詩には続編があります。詩集の中でも並んでいます。
 そちらも続けて読んでみましょう。             〔続編につづく〕

              〜 2004.3.20. 春分の日に


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