東京地方はうららかな天気で、桜も満開となりました。
しかし、春分の日は雪でしたね。朝から降って、しんしんと冷え込んでいました。
その日に読み始めた尹東柱「はじめの朝」の続編にあたる詩を読んでみます。
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〔ローマ字表記〕
tto 太初eui A-chim
Ha-yah-ke nun-i teoph-i-eoss-ko
Jeon-sin-ju-ga ing-ing ul-eo
Ha-na-nim mal-sseum-i teul-lyeo-on-da.
Mu-seun kye-si-il-kka.
Ppal-li
Pom-i o-myeon
Joe-reul jis-ko
Nun-i
Palg-a
I-beu-ga hae-san-ha-neun su-go-reul ta-ha-myeon
Mu-hwa-gwa iph-sa-gwi-ro bu-kkeu-reon de-reul ka-ri-go
Na-neun i-ma-e ttam-eul heul-lyeo-ya-gess-ta.
〔試訳〕
続・はじめの朝
真っ白に雪におおわれて
電信柱はひゅうひゅうと鳴り
主のみ言葉が聞こえてくる。
何の啓示であろうか。
はやく
春が来れば
罪を犯し
目が〔雪が〕
開け〔明るく〕
イブが出産する苦労を終えたら
いちじくの葉っぱで恥かしいところを隠して
私は額に汗を流さなければならないだろう。
〔語句〕
tto また ha-yah-ta 真っ白だ
(参考)色彩名
pulk-ta 赤い ppal-gah-ta 真っ赤だ
phu-reu-da 青い pha-rah-ta 真っ青だ
heui-da 白い ha-yah-ta 真っ白だ
nun 雪/目
teoph-ta おおう teoph-i-da おおわれる
jeon-sin-ju 電信柱 ul-da 泣く、鳴る
ing-ing 細い針金などに風があたり鳴る音、子供の泣く声(擬音語)
Ha-na-nim 主、ひとつの神
mal-sseum お言葉 mal(言葉)の尊敬語
teut-ta 聞く teul-lyeo-da 聞こえる
mu-seun 何の
kye-si 啓示
ppal-li 早く
joe 罪 jis-ta 犯す
palk-ta 明るい、明ける
hae-san〔解産〕ha-da 出産、分娩する
su-go 苦労 ta-ha-da 終える、果たす、済ます
mu-hwa-gwa〔無花果〕 いちじく
iph-sa-gwi 葉っぱ iph 葉
bu-kkeu-reop-ta 恥かしい
ka-ri-da おおう、さえぎる、ふさぐ
i-ma 額 ttam 汗
heul-da 流れる heul-li-da 流す
〜a / eo-ya-gess-ta 〜しなければならない
〔コメント〕
続・はじめの朝
直訳すれば「また太初の朝」。
先の詩を「はじめの朝」と訳してみたが、ここは「また、はじめの朝」だと少し間延びするので、「続・はじめの朝」としてみた。なんだか映画の続編みたいなタイトルだが、まさに続編なのでかえってわかりやすいかと思う。
真っ白に雪におおわれて
電信柱はひゅうひゅうと鳴り
主のみ言葉が聞こえてくる。
まず雪におおわれて、とありやや驚く。冬の詩だろう。
先の詩は、「春でも夏でも秋でも冬でもない」、季節の巡りが始まる前の朝ということだったが、この詩になると、はっきり「冬」ということになる。
二行目にいきなり、「電信柱」ときて、ここでびっくりさせられる。
「はじめの詩」は大昔、地球や世界が初めてできた太古の朝のお話だったのに、その続編は急に現代の詩になったからだ。
雪におおわれた電信柱が、ひゅうひゅうと鳴る。
擬音語だが、赤ん坊などが泣く時にも使う、と辞書にある。
擬人的に見るかどうか、ともかくも実際には、電信柱の電線が冬の冷たく強い木枯しにひゅうひゅうと泣くように鳴っているといった情景だろう。
そして、三行目。
「主のみ言葉が聞こえてくる」とあり、ここで三たび、さらに驚嘆する。
電信柱の鳴る音が、神様のみ言葉のように聞こえてくる、ということなのか。
素直に読めば、そういう意味だととれる。
それにしても、奇想天外な発想である。詩人の耳には、そのように聞こえていたのだろうか。神の言葉は電信柱の電線を通して、天国の空からの電波のように伝わるのだと。
旧約聖書を読んでいると、よく空から神の言葉が響く、という記述がある。
アダムとイブが、禁断の実を食べたときにも、空から神の怒りの声が響いて、二人は直接に神様に叱られ諭されてしまう。
その後も、ノアとかアブラハムとかモーセとか、ユダヤの始祖の人々には、直接神様から声が響き、会話ができたように書いてある。これはうらやましいことでもある。
現在、いくら空を仰いでも、スピーカーや拡声器を通じて響くように、神様の声は直接には我々の耳には届いてこないのだ。
これは現在が不信仰な時代であり、現代のしるしはヨナのしるし以外には与えられないのであろうか。イエスを通じ、聖霊を通じて。
ときどき、それでも神様の声が空から聞こえてこないかと、夜の星空に耳を澄ませてみることがある。どこかから何か聞こえないか。やはり何も聞こえない。
だが、あるいは電線の響き、空の風の音の中に、神様の声が間接的に響いているのかもしれない、自然の営みの音はまた、自然を造りたもうた主の声でもあろうから。
いかづち(かみなり)鳴り渡るとき
まことのみ神を思う (聖歌)
天地の万物、鳥のさえずりにも虫の音にも、主は宿りたもうのではないか。
何の啓示であろうか。
一見、唐突なような「啓示」。
だが、ここまで読んできたように、決して唐突ではないのだ。
尹東柱も、電線になる木枯しの響き、吹雪の叫びにさえ、なにかの啓示を読み取ろう、主のみ声を聞き取ろうとしたのではないか。
かくいう私は、聖書のみ言葉にまず「啓示」を求めることが多い。
それがもっとも、「言葉」としてはっきりしているからだ。天文現象や自然界のできごとは、どのようにも解釈し得るから。人の言語、それはすなわち、主から与えられた言葉であろう。万物の霊長たる人類に、神を理解するために、知恵の言葉が与えられた。
聖書は特に、神の言葉が直接、聖霊や預言者を通じて語られ記されたものとされる。とすれば、聖書を開くときに、啓示が与えられよう。
私は、困ったときや悩んだとき、判断に迷ったときは、いつも聖書を開く。するとそこに、ぴたりと悩みに答える言葉があることが、何度も何度もあった。私が理屈を超えて、直観的、経験的に神様を信じているのは、この事実による。
主はみ言葉を通じて、いつも「啓示」を与えてくださるのだ。
こうして、尹東柱も、主のみ言葉を読み取ろうとする。
だが、次の連は難解だ。何度も何度も繰り返し読んでは、考えてみた。
短い文節が一行毎に改行になっている。これは故意の表記だろう。
詩人が、神の言葉の暗号を読み取ろうとしている。言葉のパズルだ。
みなさんとともに、この暗号解読に挑戦してみたい。
原文を再度記してみると、このようである。
Ppal-li
Pom-i o-myeon
Joe-reul jis-ko
Nun-i
Palg-a
上から直訳していこう。
Ppal-li 早く
Pom-i o-myeon 春がくれば
Joe-reul jis-ko 罪を犯し
ここまではよい。問題はこの次だ。
Nun-i 雪が?
詩の第一行に、Ha-yah-ke nun-i teoph-i-eoss-ko「白く雪に覆われ」とある。
それと同じ「nun-i」ならば、「雪が」であろう。そして、次の行。
Palg-a 明るくなり?
雪が、を受けている。その前のほうには、「春になれば」とある。
すると、春になって、雪が明るくなる、ということか。
あるいは、残雪が早春の日に白く光るのか、いや、雪が溶けるということか。
だが、どうもすっきりと来ない。では「罪を犯し」との関係はどうなのか。
この後の詩の最終連には「イブ」が登場する。
とすれば、「罪」は、アダムとイブの「罪」であるはず。とすると……
ここで、はっと気づいた。
禁断の知恵の実を食べたとき、アダムとイブ二人の、
「目が開けて」
という記述があるではないか。旧約を読んだ人なら、みな知っている箇所。
そうか!
Nun-i 雪が/目が
Palg-a 明るくなり/開け
という掛詞、すなわち、二つの意味を掛けた言葉の遊び、暗号ではないか。
神が出題したみ言葉のパズルを、詩人が解読したというわけである。
念の為、韓国語訳の聖書を開いて、原文に当たってみる。
I-e keu-deul-eui nun-i palg-a-jyeo ja-gi-deul-i beos-eun
jul-eul al-go mu-hwa-gwa-na-mu iph-eul yeokk-eo chi-ma-ro sim-ass-teo-ra.
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。〔創世記3:7〕
「目が開け nun-i palg-a」
間違いない!
このうれしさ、小躍りしたくなるようでさえある。
こういう箇所がわかるとき、韓国語を勉強していてよかったなと思う。
これは私の大発見かもしれないと得意になって、先人の訳を開いてみた。
定評のある伊吹郷訳。
「眼(まなこ)があいて」
なんだ、とやや拍子抜け。この程度の聖書の読みは、みなしているようだ。
ついで、最近出た金時鐘訳。
「目を光らせて」
あ、これはちょっと違うな、誤訳だな、と思う。もちろん金時鐘さんは尹東柱の良き理解者であり、こないだ聞いた講演は真情あふれるもので感動した。それに金時鐘さん自身も詩人なので、自分なりのこだわりの語感があるのだろう。
だが、ここはやはり、聖書を下敷きに読まなくてはならない。というか、クリスチャン詩人である尹東柱を理解するのに、聖書的、キリスト教的文脈は不可欠なのだ。
ここを単に、情欲にかられた男女が、「目を光らせて」いる、などと写実的ににとってはならない。そうした物質的な描写ではないのだ。ここは精神的に「目が開け」たのだ。
聖書で例えば他にこの「目が開け」という表現がある箇所をひとつ挙げてみよう。
有名な「エマオの旅人」の場面から。
キリスト・イエスが復活された後のこと。
ふたりの弟子たちがエマオという町に歩いて旅をしていた。そこで、ある旅人といっしょに道連れになる。道すがら、イエスが復活したという話題が出る。その旅人は復活のこと、聖書のことをくわしく説いてくれた。
やがて、一軒の宿屋について、食事をいっしょにとることになった。その時、その旅人は……
いっしょに食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。(ルカ24:30-31)
ここも韓国語の原文では「目が開け nun-i palg-a」という言葉が使われている。
注目したいことは、ここでは旅人がイエスであることに、弟子たちは会っていながら気づいていなかった、見ていながらわからなかったということだ。
すなわち「見れども見えず」という状態だったわけである。このように、イエスがお姿を現されても、そのことに初めは気づかなかったという描写が、マグダラのマリア、ペトロらの弟子たちなど、他の箇所でも見られるのだ。
それは決して、サウロがそうであったように、物質的に目が見えない状態だったのが見えるようになったというわけではなく、精神的に心の目が開かれて、肉の目では見えなかったものが見えるようになった、ということなのだ。
だから、「nun-i palg-a 目が明るくなって」という表現をしているのであり、ここを単に「目を光らせて」などと訳してはならない。日本語訳の聖書で「目が開けて」となっていれば、そのまま「目が開け」と訳するべきだろう。
アダムとイブも、禁断の実を食べるまでは自分が裸であることに気づかなかった。知恵の実を食べたあとに、「目が開けて」自分たちが裸であることが初めてわかり、そして、罪を、恥かしいということを知るようになったのである。
さて、もう一度この箇所を、掛詞も併記して示してみると次のようになる。
はやく
春が来れば
罪を犯し
目が 〔雪が〕
開け 〔明るくなり〕
春が来ると、雪が溶けて、花が咲き、そして実がなる。
そこで、禁断の実を、アダムとイブが食べて、罪を犯すということになる。
春は、生き物全てが愛を謳歌する季節でもある。
そして、知恵の実を食べて、人間の目は開けていくのだ。
続いて、詩はこのようにしめくくる。
イブが出産した苦労を終えたら
いちじくの葉っぱで恥かしいところをおおって
私は額に汗を流さなければならないだろう。
ここは聖書そのままである。
二人は目が開けて、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で腰をおおう。韓国語訳ではいちじくの葉を「chi-ma
チマ」、スカート、腰巻きにしたとあって、ほほえましい。西洋の宗教画でも、いちじくの葉をつけたアダムとイブの姿がよく描かれている。
こないだ、渋谷の街を歩いていたら、「いちじくの葉」という名前の看板が出ていた。何の店かと思ってみると、ランジェリー・ショップだった。なるほど、うまい命名だなと、ちょっと笑ってしまった。
しかし、この出来事は笑い事ではなかったのだ。
なぜなら、禁断の実を食べたことが原罪となり、人類の始祖である二人はエデンの楽園を追われて、罰として女は痛み苦しんで子を生み、男は額に汗して野に働き、そして、ちりから生まれた人間はまたちりに返るようにされたというのだ。
尹東柱は、男である。だから、最後に言う。
私も額に汗して働かなくてはならないのだ、と。
聖書箇所
女がその木を見ると、それは食べるに良く目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いた。
彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。〔創世記3:6-9〕
つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
さらに人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなとわたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生苦しんで地から食物を取る。地はあなたのためにいばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰る」。〔創世記3:16-19〕
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。〔創世記3:23〕
ここでまた、私事になる。
春分の日、この休日の朝はみぞれまじりの雪であったが、この詩を訳しながら、私は喫茶店で珈琲を飲みながら、窓の外を眺めていた。
何の啓示であるか。
雪の積もった電信柱。その電線を鳴らす、冬の木枯し。
尹東柱の見た情景もこのようであったろうか。
このようなさりげない情景にすら、彼は啓示を読み取ろうとした。
自然の光景の、なにげないひとコマにすら。
私にも、何か啓示が与えられないだろうか。
その時、はたと私の心の目にある情景が浮かぶ。
雪の降る日、Rの訃報が届いた日。
そして、それからRのおもかげを追いながら、おもかげや性格の似た人を探しながら、罪を犯し続けた日。そうした生活に、別れを告げなければならないと私は考えた。いや、私が考えたのではあるまい。そうすべきだと教え導いてくれたのは「あの方」だった。
あの雪の降る日。私が、もう、禁断の罪を犯すのはこれきり、今日限りにしようと決意した日。そして洗礼を心に誓った日。あの日も、雪が降っていた。今日のように。
忽然と、罪の自覚と悲しみがまた私の心にわきあがり、そして……
主のみ言葉が聞こえてくる。
ヒソプをもって、私の罪を清めてください、私は清くなるでしょう。
私を洗ってください、私は雪よりも白くなるでしょう。(詩篇51:7)
イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
最後にひとつ、私の好きだった曲を挙げておこう。
「みずいろの雨」で一世を風靡した八神純子。彼女の澄んだハイトーンの歌声が好きで、学生時代によく聞いていた。アルバム「素顔のわたし」から、旧約の失楽園のお話をもとにした歌をひとつ。
この曲を、あの人にあげたことがある。そして、あの人も今は世を去った。
私は額に汗して、彼女を追慕し鎮魂を祈りながら、この世の日々を働いて暮らそう。
アダムとイブ 詞 三浦徳子 曲 八神純子
そこは楽園 緑の園
男と女が 住んでいた
神の掟を 破ることも
知らずに二人は 暮らしていた
まるで アダムとイブ
赤い りんごの誘惑
ああ 不思議な味 二人を
ああ とりこにしていた
人の心の 奥の奥に
赤いリンゴは 住みついてる
神の怒りに ふれた罪
今もひきずる 都会の夜
そして アダムとイブ
思い出した ように
ああ 不思議な味 心に
ああ 後悔の涙
2004.3.20.春分の日〜 3.28.結婚記念日