尹東柱を読む E 「夜明けの来る時まで」

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 東京は、桜も散って、春も深まっていくようです。
 今週は受難週、日曜はイースターですね。春分の日のあとの満月の次の日曜ということで、年ごとに日付の変わる行事ですが、元来は春を迎える祭りのようです。夜の明けるのもしだいに早くなってきていますね。
 では、今日は「夜明けの来る時まで」を読んでみます。

〔ローマ字表記〕

  Sae-byeog-i ol ttae-kkaji

Ta-deul jug-eo-ga-neun sa-ram-deul-e-ge
Keom-eun os-eul ip-hi-si-o.

Ta-deul sal-a-ga-neun sa-ram-deul-e-ge
Heuin os-eul ip-hi-si-o.

Keu-ri-go han chim-dae-e
Ka-jeu-reon-hi jam-eul jae-u-si-o.

Ta-deul ul-geo-deul-rang
Jeoj-eul meog-i-si-o.

I-je sae-byeog-i o-myeon
Na-pahal so-ri teul-lyeo-ol ge-oe-da.

〔試訳〕

  夜明けの来る時まで

すべて死んでゆく者たちに
黒い服を着せなさい

すべて生きてゆく者たちに
白い服を着せなさい

そしてひとつの寝台に
ものものしく寝かせなさい

すべて泣くものたちに
乳を飲ませなさい

今に夜明けが来れば
ラッパの音が聞こえてくるでしょう

〔語句〕

sae-byeog 夜明け、暁
ta みな 〜deul 〜たち ta-deul みないっしょに

juk-ta 死ぬ  jug-eo-ga-da 死んでいく
keom-da 黒い keom-eun(連体形)
os 服  ip-ta 着る ip-hi-da 着せる
si-o. 〜しなさい
sal-da 生きる sal-a-ga-da 生きていく
heui-da 白い heuin(連体形)

chim-dae 寝台、ベッド
ka-jeu-reop-ta 物持ちをきどっている、虚勢を張っている
jam-eul ja-da 眠る jae-u-da 寝かす

ul-da 泣く geo = geos もの、こと 〜rang と、など
jeoj
meok-ta 食べる、飲む meog-i-da 食べさせる、飲ませる

i-je 今、もう、もうすぐ
na-phal〔喇叭〕 ラッパ
teut-ta 聞く teul-li-da 聞こえる
teul-lyeo-o-da 聞こえてくる
ge = geos-i
oe-da = o-i-da です、でございます
l geos-i-da 〜ことだろう

〔コメント〕

夜明けの来る時まで

 夜明けの詩。
 詩集でこの前にあるふたつの詩は、「はじめの朝」すなわち世界最初の朝、太初の朝の詩だった。今回は、「夜明けの来る前」の詩である。しかし、それは太初の朝とは違うようだ。それはどんな「夜明け」のことを指しているのだろうか。

すべて死んでゆく人たちに
黒い服を着せなさい

 死んでゆく人たちに、黒い服を着せなさいと言う。
 それは喪服の黒だろうか。だが死を見送る人ではなく、死にゆく人たちに着せるというのである。これは死そのものを象徴する色だろうか。闇の絶望の暗黒の色。
 ta-deul, sa-ram-deulと複数が二度使われ、多くの人、すべての人であることが強調されている。〜si-o. 〜しなさいという命令形も、強い語調がうかがわれる。

すべて生きてゆく人たちに
白い服を着せなさい

 次のこの対比が、きれいに対句になっている。
 死んでいく人に対して、生きてゆく人、黒い服に対して、白い服。
 白といえば朝鮮民族の古来の衣服の色である。実は、朝鮮の伝統的な葬式では、白い麻の喪服を着ることになっている。それは粗末な服を着て悲しみを表すことになる。ここもそうした喪服の意味だろうか。いや、ここは生の意味なのだ。
 生そのものを象徴する色。それは光の希望の純白の色。
 keom-daとheu-da、黒と白、二つの原色が対比される。

そしてひとつの寝台に
ものものしく寝かせなさい

 ここで詩は意外な方向にゆく。
 死者と生者を、同じ寝台に寝かせよ、というのである。
 これが死者が寝台に寝ていて、生者がそれを見送る、というならまだわかる。
 だが、死んでいる者と、生きている者を、同じひとつの寝台に並べて等しく寝かせてしまうのだろうか。それは一体なんのためだろうか。
 Ka-jeu-reon-hiという副詞が少々難解だ。虚勢を張る、うわべを飾るといった意味のようだが、虚勢をはって寝かせる、とはどういうことだろう。セレモニーのように儀式的に仰々しく寝かせることかと思い「ものものしく」と訳してみた。

すべて泣くものたちに
乳を飲ませなさい

 ここで、乳を飲ませる、という意外な表現が出てきて、また驚かされる。
 泣くものたち、寝台に寝かせられて泣くものたちに、乳を飲ませなさいという。
 普通に考えれば、ベッドで泣いて乳を飲む者たちというのは、赤ちゃんや乳飲み子ということになるはずだ。それでは、死んでいく人たちや、生きていく人たちというのは、子供だったのだろうか。
 しかし、そうではなかろう。なぜなら「すべての生きていく人たち」「すべての死んでいく人たち」とすべての人たちであることがことさら強調されていたからだ。ここには、子供だけでなく、青年も中年も老年も、すべての人間たち、生者たちと死者たちが含まれているはずだ。
 ここはクリスチャン詩人の尹東柱のことだから、キリスト教的な発想、聖書的な表現によるのではないか。聖書で乳飲み子、幼な子というと、新約のほうですぐに思い浮かぶのはイエスの言葉だ。

 イエスのもとにやって来た子供たちに、まだ子供のくせに失礼だとしかった弟子たちをおしとどめて、イエスは言われた。
  「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
   天国に入ることはできないであろう。」
(マタイ18:3)

 また、イエスを救い主・メサイアであるとたたえる子供たちの言葉を聞いて、僭越だと怒ったパリサイ派の学者たちに対して、イエスは言われた。
  「あなたがたは『幼な子、乳飲み子たちの口に賛美を備えられた』
   とあるのを読んだことがないのか」
(マタイ21:16)

 そして、使徒パウロは、その手紙の中ではっきりとこう言った。
  「今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。
   それによっておい育ち、救いに入るようになるためである。」
(ペテロT2:2)

 こう見てくるとはっきりするように思う。
 すなわち、大人も老人も、すべて乳飲み子のように、生まれたばかりの子供のように、純真な心にならなくては、天国に受けいられることはない、という意味ではないか。さまざまな余計な知識や偏見にとらわれていては、神の国は受けいれられない。
 乳とは、すなわち「霊の乳」、聖霊の与える乳のことを言うのであろう。

今に夜明けが来れば
ラッパの音が聞こえてくるでしょう

 最終の連にいたって、この詩がキリスト教の発想であることが鮮明になる。
 「喇叭の音」といえば、これはクリスチャンでない人でもよく知っているであろうラッパ、すなわち、終末の時にひびく、最後の審判のラッパなのである。
 この世の終わりの時に、大空から天使の吹き鳴らすラッパの音が響く。その時、すべての死者は墓からよみがえり、生きている者とともに、主にさばかれるのである。ミケランジェロの有名な「最後の審判」の図にもあるように、死者も生者もそこで主の審判を受けるのだ。だから、中世の人々は、毎日毎朝、空を見あげては、今日こそ最後のラッパの響きが聞こえてくるのではないかと、おそれていたという。

 「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。
  天使たちは、天の果てから果てまで、
  彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」
(マタイ24:31)

  「主ご自身が、大天使の声と神のラッパの鳴り響くうちに、
  合図の声で、天から下ってこられる。
  その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
  それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、
  空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」
(テサロニケ4:16-17)

  「第七の天使が、ラッパを吹き鳴らした。
  すると、大きな声々が天に起って言った、
  『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。
  主は世々限りなく支配なさるであろう』」
(黙示録11:15)

 さて、最後の審判について、もう少し話を付け加えておきたい。
 クリスチャンは、白か黒かはっきりつけたがると嫌う人が、日本では特に多いように感じている。灰色、グレーゾーンのあいまいな感覚というのが、好まれるようだ。
 だが、尹東柱自身は、どうだったのだろうか。
 はたして、この詩で、自分は白い服を着たもので救われて、黒い服を着たものは救われないと、二分して割り切って考えていたろうか。
 ここで気づくのだが、この詩はそもそも、裁かれる悪人が黒服、救われる善人が白服といった、単純な割り切り方ではないのである。ただ、死にゆくものが黒服、生きているものが白服というだけなのだ。もしかすると、死にゆくものとは霊的に死にゆくもの、生きてゆくものとは霊的に死にゆくものという意味かとも考えたが、やや無理があるようだ。

 私自身の審判に関する考えを述べておくと、すべての人が救われるのかもしれない、と思ったことがある。これはあまりに楽天的,能天気な見方といわれるかもしれない。
 だが、イエスは我々すべて、人類全体のための罪の救済のために十字架にかかってくださった。その考えが正しいとすれば、すべての人が救われるのではないかと思える。
 クリスチャンになることの意味がないではないかと言われそうだが、すべての人が救われていて、そのことに気づき感謝した人が、クリスチャンになるわけだ。
 十人の病人のたとえがある。イエスが十人の病を癒された。だが、九人はそのままうちに帰ってしまい、礼を言いに来たのはひとりだった。イエスは、他の九人はどこに言ったのかと尋ねられたという。この一人こそ,クリスチャンだろう。
 バルトは、やはりそうした考え方に近かったようだ。ある時、論敵に
 「あなたの考えだと、地獄に行く人はいなくなりますね」
 といわれたところ、バルトはこう答えたと言う。
 「あなたが死んだら、地獄がからっぼなので驚くでしょう」

 では尹東柱自身はどう考えていたのだろうか。
 ほかの詩を見ると、自分はクリスチャンだから確実に文句なく救われる、とは思っていなかったような節がある。それどころか、罪深い自分はほんとうに救われるのだろうか、と不安に思っているような詩がいくつか見られるのだ。それらの詩については、また後考にゆだねたいと思う。
 だが、私のようにクリスチャンでなくても救われると考えるか、クリスチャンであっても救われない人もいると考えるか、この差は大きい。
 「主よ主よ」と名前を呼んでも救われない人もいると言うし、また、形式的な信仰を守り自信を持っていたパリサイ人が救われず、胸をたたき地にひれ伏して罪を悔いた取税人が救われたというエピソードも聖書にある。
 尹東柱のように、クリスチャンだから救われるなどと過信せず、常に自分の罪の重さを顧み、悔い改め、砕かれた心を持つ人こそ、誠に謙虚で救われるのかもしれない。
 もともと、だれが天国に行くか,地獄に行くかなどと人のことを取り沙汰してはならない、ともイエスは言っている。
 主にすべての審判をゆだね、お祈りする信仰こそ、もっとも大切であるといえよう。
 主の十字架の救いにあらためて深く感謝しつつ……

                              2004.4.9.聖金曜日(受難日)


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