昨日は、テレビの前に釘づけになってしまいました。
北朝鮮の拉致家族の人たち。彼らに悲しみの癒される日の来ることを祈ります。
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〔ローマ字表記〕
八福
−− Ma-thae Pug-eum 5 jang 3-12
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Seul-pheo-ha-neun ja-neun pog-i iss-na-ni.
Jeo-heui-neun yeong-weon-hi seul-pheul geos-i-o.
〔試訳〕
八福
−− マタイによる福音書 5章3-12節
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
悲しんでいる者は幸いである。
彼らは永遠に悲しむでしょう。
〔語句〕
seul-pheo-ha-da 悲しむ <-- seul-pheu-da 悲しい
ja 者 pog〔福〕 幸い、幸福
iss-ta ある 〜na-ni, neu-ni 〜ものだ
jeo-heui 彼ら <-- jeo 彼
yeong-weon-hi 永遠に <-- yeong-weon-ha-da 永遠だ
〜l geos-i-da 〜であろう 〜o です
〔コメント〕
「八福」とは、聖書にある「八つの幸い」の教えのことを言う。
マタイの福音書5章、イエスが山の上で説教したことから「山上の垂訓」と言われる教えの冒頭にある言葉だ。その教えを、聖書から掲げてみよう。
こころの貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
柔和な者は幸いである。彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている者は幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い者は幸いである。彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い者は幸いである。彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた者は、幸いである、天国は彼らのものである。
(マタイ5:3-10)
だが、この詩を見ると、聖書の「八福」とは異なっている。
ただ、八つの教えのうちの二つめ
「悲しんでいる者は幸いである」
が、八回繰り返されているだけなのだ。
さらに、この第2の教えのあとには、
「彼らは慰められるであろう」
という言葉が続くはずなのに、そうはなっていない。詩はただ一度こう言う。
「彼らは永遠に悲しむだろう」
この詩を初めて見て、言葉を失う思いがした。
これは、絶望の詩だろうか。あるいは、救いの拒否だろうか。
「八福」と題していながら、「八悲」を訴えるとは。
尹東柱は、クリスチャンのはずだ。救いを求めないのだろうか。
イエスは「慰められるであろう」とおっしゃるのに、「永遠に悲しむだろう」と言う。
だが、私は尹東柱を非難しようというつもりではない。そんなことはできない。
この詩はそれだけ、深い深い、容易にはなぐさめられないような深い悲しみを告白しているのだろう。それは、つぶやきでなく、叫びであるかもしれない。
「いつまでも悲しんでいないで。そのうち、いいことがあるさ」
事情も知らない他人が、第三者である私が、そんなに気楽に言えないような悲しみ。
当時の尹東柱の置かれた立場、戦前から戦中に亡国の韓国人に与えられた差別と迫害、それがこのような、絶叫のような詩を生み出したのであろうか。
だが、このようなことは、当時だけではなくて、今もあるだろう。
耐えられないような試練はない、と聖書にはある。
しかし、時には試練に耐えることができず、なぜこのようなことが私に、と天を仰いで恨みたくなるようなことがあるだろう。未来に慰められると言われても、心の休まらないこともあるかもしれない。
昨日、北朝鮮に拉致されていた日本人の家族たちが帰ってきた。
最初、8人の方の帰国が検討されていたと聞いて、その「八人」という数を聞いて、ふとこの詩のことを思い出した。8回目の連載なので、「八福」について書こうと思っていたのだが、内容が深刻なのでちょっと躊躇していた。
「8人」という言葉を聞いて、この詩に並んでいる8列の文を思い出した。
その時、はっと眼に見えたことがあった。
この8列を、私は同じ人が8回同じ言葉を繰り返しているだけだろうかと、そのようにながめていたのだ。しかし、違うのかもしれない。
8人の人が並んで、8人8様の悲しみを、口々に訴えているのかもしれない。
それは李箱の「おそれる子供」のように、あるいは、山村暮鳥の「いちめんのなのはな」のように、視覚的にも音声的にも人間が並んでいるような効果なのかもしれない。
なぜなら、悲しんでいたのは、尹東柱だけではないだろうから。その家族も友人も、いや、すべての同胞たちが、悲しんでいたのだろうから。
詩を読むとそれぞれの行は「悲しむ者」と単数の「者」である。
それらをまとめて、最後の行では「彼ら」と複数で受けている。
そして、思う。尹東柱は、絶望していたのでないと。
いや、そう思いたい。思わないではいられない。
実は、この「八福」の教えには続きがある。それは裏返しの警告だ。
いわば、「四禍」とでも言おうか。ルカのほうだが、このように続けている。
しかしあなたがた富んでいる人たちは、災いだ。
慰めを受けてしまっているからである。
あなたがた今満腹している人たちは、災いだ。
飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、災いだ。
悲しみ泣くようになるからである。
人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたは災いだ。
彼らの祖先も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
(ルカ6:24)
おそろしい言葉である。
今、満足し満腹している金持ちたちは、そのうち災いを受けるというのだ。
今、不足し空腹の貧乏人たちが、将来報われるのと裏返しになっている。
とすれば、理屈を言えばだが、金持ちになることが必ずしも幸福とは言えない。
いつまでも貧しく、いつまでも悲しんでいるように見える人たちこそ、実は幸福なのかもしれない。彼らは現世では救われなくても、来世では救われるのだから。
現世で金持ちのまま最期まで過ごせたとしても、神を敬うことなく、人に施すことなければ、来世で報われないことは、ラザロと金持ちのたとえが語るとおりだ。
悲しみ続ける人々、彼らはこの世では永遠に悲しみ続けるかもしれない。
しかし、来るべき天国で救われるとすれば、それは幸福なのではないか。
世界には、いまだ戦争や紛争が絶える日がない。
今日の午後、巣鴨のとある小さな教会を訪れてみた。日本基督教団の教会だったが、バプテスト派の私が、カトリックの友人に誘われて出かけた。
アジア・エキュメニカル週間と銘打って、教派や宗教の違いを超えて、アジアの平和と友好のために祈り、努力していこうという催しだった。
アフガニスタンとイラクの人たちがそれぞれ訪れて話していた。いずれも、難民申請して未だに見とめられない人たちだ。故郷の戦争状態、そして、民族の違いゆえに虐殺や迫害を受けてきた話を続けていた。胸の痛む話だった。
カトリックやプロテスタント諸派が、教派の違いを超えて共に祈れますように。
キリスト教、イスラム教、仏教、さまざまな宗教が共存し融和できますように。
北朝鮮と韓国、日本、世界の国々に、友好と平和な関係が訪れますように。
今、悲しんでいる人々が、いつか救われ笑うことができますように。アーメン。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
悲しんでいる者は幸いである。彼らは慰められるであろう。
2004.5.23.
Asian Ecumenical Day