尹東柱を読む H 「奇蹟」

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 今日はペンテコステ(五旬祭・聖霊降臨節)。
 私事になるが、三年前のペンテコステに洗礼を受けて、教会暦で三周年になる。
 記念して、またひとつ詩を読んでみたい。

〔ローマ字表記〕

異蹟

Pal-e theo-bun-han geos-eul ta ppae-eo-boe-ri-go
hwang-hon-i ho-su wi-ro keol-eo-o-deus-i
na-do sa-ppun-sa-ppun keol-eo-bo-ri-i-kka?

Nae-sa i ho-su-ga-ro
pu-reu-neun i eops-i
pul-li-eo-on geos-eun
cham-mal 異蹟i-oe-da.

O-neul-tta-ra
恋情、自惚、猜疑、i-geos-deul-i
ja-kku keum-me-dal-cheo-reom man-jyeo-ji-neun-gu-ryeo

Ha-na, nae mo-deun geos-eul yeo-nyeom eops-i
mul-gyeol ssis-eo po-nae-ryeo-ni
tang-sin-eun 湖面eu-ro na-reul pul-leo-nae-so-seo.


〔試訳〕

奇蹟

足にまとわりつくものをみな振り払って
黄昏が湖の上を歩いて来るように
私もさらさらと歩いてみようか

私がこの湖畔に
呼ぶものもなく
呼び出されてきたことは
本当に奇蹟です

今日に限って
恋心、うぬぼれ、疑い、これらが
何度も金メダルのようになでられることだ

けれど、私のすべてを余念なく
波に洗い落としてしまいますから
あなたは湖面から私を呼び出してください

【コメント】

奇蹟

タイトルが「異蹟」。
これは「奇蹟」と同じ意味だが、日本語では「異蹟」とはあまり言わないので、
わかりやすい「奇蹟」にしておく。

足にまとわりつくものをみな振り払って
黄昏が湖の上を歩いて来るように
私もさらさらと歩いてみようか


湖の上を、徒歩でさらさらと歩く、という。
一読して、有名なガリラヤ湖の「奇蹟」を思い出す。
明らかにこれを念頭に置いて書かれた詩であろう。聖書から引用しよう。

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、
「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
すると、ペトロが答えた。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、
水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、
イエスの方へ進んだ。
しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、
「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

(マタイ14:25-31)


 ミッション系の幼稚園に通っていた私は、聖書を読んで、子供心に「奇蹟」にひかれたものだ。誰しも、水からぶどう酒を作れたり、パンと魚を増やしてみたり、病人を治したりできたらよいのに、と思うことだろう。
 だが現代では、実際にそういう「奇蹟」は自分では起こせず、また人の起こしたのを見ることもなかなかできまい。かくして現代人には、聖書に記された「奇蹟」が往々にして、かえってつまずきの石となってしまったりする。
 この「水の上を歩く」奇蹟も、実際にできたらよいのにと子供は思うだろう。教会の友人で、子供のころプールで実際にやってみた人がいる。当然のことながら、歩かないうちに沈んでしまった。忍者のようなわけにはいかない。
 だがしかし、からし種ほどの信仰があれば、山に命令して移すこともできる、といった話を聞くと、やはり信仰が足りないのだろうか、と思ってみたりもする。本当に心から信じていれば、歩くことができるのだろうか。

 ここで、尹東柱は湖を歩くために、
 「足にまとわりつくものをみな振り払って」と言う。
 韓国語を直訳すると足に「うっとうしいもの」をみな「抜いてしまって」となるのだが、こなれないので、少し意訳にしてみた。
 この「まとわりつくもの」は、決して物質的なものばかりではあるまい。湖のほとりの芦の葉や水草や、湖底の泥や塵などがまとわりつく、というのではあまりに即物的すぎる。
 日本語でも困難に「足をとられる」とか「足が重い」などと言うが、そうした精神的なものだろう。心にまとわりつくものであり、また、現世的なしがらみ、係累の絆とか俗世の仕事とか、そういうものを指しているのではあるまいか。

 すると、まるで湖面に訪れる「たそがれ」のように、歩くことができるというのだ。
 夕日がすうっと、湖面に射し込んでくる様子、光だからもちろんその速度は速く、ほんとうにさりげない様子で、その表面を渡ってくるのだろう。面白い比喩だ。
 イエスが湖上の舟にいる弟子たちを訪れたのは、未明の頃、午前3時から4時ごろとなっている。だから、この「黄昏」というのは、尹東柱独自のイメージだろうし、実際に眼前の景色として、作者の目の前に広がっている光景だったのかもしれない。
 そして、その夕日の紅の光のように、「さらさらと」私も水を渡ってみようかという。
 「sa-ppun sa-ppun」は擬態語だが、辞書をひくと「足取りが軽やかなようす」を表すという。「ひらひらと」とあるが、これだと空中でもあるかのようだし、裾のひらひらした感じがして、水の上を歩くのにはどうかとも思われるので「さらさらと」としておこうか。「橋合戦」で橋桁の上を歩くときも「さらさらと」であったように覚えている。

私がこの湖畔に
呼ぶものもなく
呼び出されてきたことは
本当に奇蹟です

 ここを読むと、やはりこの詩は実景を読んでいるように感じられる。
 尹東柱は山歩きや散策を好んでいたようで、自然を読む詩が多いようだ。私個人も山が好きで、ワンゲル顧問などをしていた頃にはよく生徒達と出かけていた。
 だが、この詩の作者はおそらく一人でいるのではないか。もちろん友人たちと連れ添って行く時もあったようで、そうした写真も残っている。だが、この詩の観想ともいえる境地は、ひとり静かに山と湖と向かいあっている時に胸中にきざした心境ではないか。
 「呼ぶものもなく呼び出されてきた」とは、つまり偶然のように湖畔に出たということだろう。目的を決めて、あらかじめこの湖を目指してきたというより、歩いているうちにふっと、広く静かな湖のほとりに出たのであろう。そして、折しも黄昏の夕日が湖面に射し始める美しい時節だったのであろう。
 旅でも、ひとり旅でとめどなく足の向くままに行くのが私は好きなのだが、尹東柱もそうだったのではないか。あるいは道に迷って偶然抜けたのかもしれないが、彼の孤独を愛するような人柄から推し量ると、散策の途中でとするのが自然な気がする。
 だからこそ「本当に奇蹟だ」と驚き、また喜んでいるのだろう。
 湖の上を歩けることまで達しなくても、美しい湖のほとりに導いていただいたこと、そこに眼に見えない存在の導きを感じているに違いない。だから「奇蹟」だと言う。

今日に限って
恋心、うぬぼれ、疑い、これらが
何度も金メダルのようになでられることだ


 「金メダルのように」という比喩がややわかりにくかった。
 この詩は、俗世のさまざまな執着や未練を捨てていこう、というのではなかったのか。それらのもろもろは、「足にまとわりつく」もの、湖の上を歩くのには邪魔なものではなかったのか。それなのに「金メダルのように」では、あたかもそれを誇ってでもいるようであるし、それでは捨てることもできなくなってしまうのではないか。
 だが、読み直しているうちに、そうではないのかもしれないと思えてきた。
 作者はもうまるで、悟りの境地に達しているかのように、湖のあちら側から、すなわち彼岸からこちら側、此岸を眺めるかのように、平素の自分を見つめているのかもしれない。
 もしまだ、恋心や、うぬぼれや、疑い、それらに捕われていて、捨てるのが惜しく、あたかも金の財産のように、未練を持ってなでている、そんな心情ではあるまい。
 そうではなくて、恋心も、うぬぼれも、疑いも、今はもうない。それらの執着からは離れてしまっている、だから、遠い過去を懐かしむような気持ちで、ああ、そんなことに苦しんでいた時代もあったなあと、過ぎ去った想い出を慈しみ、他人を見るような目で、それらを見ているのではないか。
 「なでられる」は、受身ともとれるし、自発ともとれる語法だが、ここは自発ととって自然と「なでられる」としておこう。ただし、訳し分けはやや難しいのだが。
 金メダルをなでてその感触をいとおしむように、過ぎ去った過去の思い出、想い出になればみな美しいという、その過去の喜怒哀楽を手触りで味わうかのように。

けれど、私のすべてを余念なく
波に洗い落としてしまいますから
あなたは湖面から私を呼び出してください


 しかし、すべてを余念なく洗い落としてしまいますから、と言う。
 「すべてを」とは、先に述べた、恋心、うぬぼれ、疑い、そうしたもろもろの感情であろう。「余念なく」とあるので、念入りに、一心に向かっているさまが見える。
 「洗い落とす」とは湖の水から来るイメージだが、日本語で「足を洗う」というように、精神的に清められ、しがらみや因縁を断つような感覚の表現だろう。なお韓国で「シッタ・洗う」という語から連想してしまうのは、「シッキム・クッ」である。ちょうど水辺のほとりであることからも、作者にそうしたイメージがあるかもしれない。
 「クッ」は、朝鮮伝統の民俗で、巫女(ムーダン)が逝く霊を慰め、現世の執着を洗い落として来世に向かわせるための舞、儀式である。水辺で行なわれることが多い。
 もちろん、キリスト教の詩なのだが、こうした民俗的、文化的な連想というのは、伝統として一民族にあるいは一個人に無意識の感情となって流れていることがままある。
 とはいえやはり、クリスチャンの詩人の書いた、もとが聖書のエピソードを原典とする詩だから、基本的にはイエスの奇蹟が根底のイメージとしてある。
 そうした文脈で「洗う」といえば、イエスが弟子達の「足を洗う」ということをした。十字架の前の一週間の受難週のうち、受難日の聖金曜の前日、聖木曜が洗足日とされている。イエスは、最後の晩餐の折に、弟子たちの足を自ら洗われたのだった。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、
御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、
「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、
後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

                        (ヨハネ13:3-9)


 作者は、波に私のすべてを洗い流してしまう、という。
 だが、罪を洗い清めることは、実は人間にはできないことである。
 イエスの償い、主の憐れみによって、初めて罪は赦される。外側だけ洗えばいい、足だけ洗えばいいというものではない。全身を、いや、外側を洗う必要は、実はない。手を洗わずに食卓に向かうことも、イエスは赦された、そして、杯の外側ではなく内側を洗いなさいと言われた。
 だから正しく言えば、私は波に私のすべてを洗い流したいので、あなたが洗い流してください、いや、私に私のすべてを洗い流させてください、というのだろう。
 そして、罪を洗い流していただいた時に、湖の向こうに渡ることができよう。
 「あなたは湖面から私を呼び出してください」
 という「あなた」、韓国語ではよほど親しみの情のある時でないと使われない「タンシン」を使って呼びかけられているのは、間違いなく、主イエスである。
 「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、
  水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
 そのように主に願ったペトロ、そのことを思い出して、尹東柱も、湖の主に向かって呼びかけたに違いないのだ。そして、イエスは呼んでくれたのだろう、彼のことを。
 ペトロはしかし、強い風に恐れをなして、沈みかける。その時にイエスは、湖に沈みかける彼を助けあげながら言われた。
 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」
 この奇蹟の意味は、だから、精神的なものだと思う。もちろん、奇蹟はあったかもしれないと思うし、奇蹟に対して合理的な解釈や象徴的な読み替えをするばかりではよろしくないと思う。だがここは、奇蹟の神秘的現象を越えて、まず、信仰のあり方というものを考えさせてくれるように思える。

 尹東柱にとって、ここで実際に湖を渡るかどうかということは、すでに問題ではない。
 湖を渡れそうに思えてくるくらい、彼の心は澄み切っている。日ごろの執着、平生の悩みから、この時ばかりは、今日に限っては、解放されている。
 だから、この詩の尹東柱の心境は、実に静かで落ちついて透明で清々しい。
 まるで、静まり返った湖面のように。
 イエスが「波よ、静まれ」とおっしゃって、たちまち静まったその湖面のように。
 尹東柱の詩には、重いもの、悲しいもの、憂いに満ちたものもよく見られるのだが、この詩は少なくとも、穏やかな、軽やかな、喜ばしい感情が伝わってきて救われる。
 奇蹟というのは、物質的な超常現象の顕現や物理的な障壁の除去に主眼があるのではないと思う。それよりも、人の心がこのように清められるということ、魂が鎮められるということ、霊が救われるということ、罪が赦されるということ、見えないものに導かれるということ、そこにこそ、本当の奇蹟が存するように違いないと信じている。

 私事になるが、この詩のイメージは、実は洗礼にも似ている。
 バプテスマとも言われるこの儀式は、水に深く関係している。
 イエス自身でさえも、バプテスマのヨハネからこの儀式を受けた。まして我々凡人は、救いに至るために、この水の儀式をまず受けることで信仰を表す。
 その水のバプテスマを受ける前の心境、というのが、この詩の感覚に非常に似ているのである。生来、自分を苦しめてきた情欲も、猜疑心も、自尊心も、日常のしがらみも、この洗礼を受ける日ばかりは、すべて清められるような気がする。
 洗礼は、一度死んで、また霊的に生き返るという儀式で、生涯一度である。だから、それまでの自分が一度死ぬような気がして、今まで送ってきた生活の喜怒哀楽にも、なぜか別れを告げるようで愛着を覚えさえするのだ。
 尹東柱も、クリスチャンであるからには洗礼を受けているはずで、そうしたイメージがあるいはあるのかもしれないと思える。

 ちなみに、私の母教会は、バプテスト派である。
 この教派の最も大きな特徴のひとつは、バプテスマを全身で受けることだ。そのため、「洗礼」と言わずに「浸礼(しんれい)」とも言う。
 これは、聖書にあるように、もともとヨルダン川でヨハネが行っていた儀式の形をそのまま踏襲しているものである。主イエスも、明らかにこの形で受けているはずだ。
 カトリックはもちろん、プロテスタントの他教派でも、「滴礼(てきれい)」と言って、頭に三度、聖水の滴をたらすという形式をとるところがほとんどだ。
 「浸礼」では、教会備え付けのバプテストリーを使う。教会や教派によっては、実際に湖や川、あるいは海で行うところもあるようだ。
 その時の、全身を水に浸した時の感動、それはまさに、聖霊が臨むように思えるものであるし、立ち会って見ている者にも体による信仰告白となるものだ。
 今、バプテスマを受けて三年目のペンテコステにあの日のことを思い出し、あらためて主の恵みに感謝し、そして心の中に、尹東柱がながめていたような、静かな湖を保ち続けさせてほしいと、心より願うものであります。アーメン。

                          2004.5.30. Pentecost.


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