会報on-line 第52号
 『江戸時代の朝鮮通信使
』解説

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『江戸時代の朝鮮通信使』
  1979年 カラー 16o 50分

●製作意図
 〜ゆがめられた日朝関係史を問い直す〜

 江戸時代の絢爛豪華な朝鮮通信使の歴史的意義とその華やかな文化交流の事実は、一般には知られていません。最近になり古代日朝関係史と同じように、近世・江戸時代の朝鮮通信使を根幹とした日朝関係史にもあらためて新しい光があてられるようになりました。
 私たちは動く映像によって歴史を実感的にとらえかえす“歴史ドキュメンタリーフィルム”「朝鮮通信使」を企画しました。さいわい、それは対馬から東京までの多くの関係者のご好意により実を結び、厖大な行列図、船団図の雄大さと華麗さに圧倒されながら、50分の作品にまとめました。明治以降、朝鮮通信使の史実は「国策」にもとづいてかき消されました。このフィルムはそのことの意味を観客一人ひとりに静かに問いかけ、両国民の友好を呼びかけます。

●スタッフ
  現像      東映化学工業
 プロデューサー 辛 基秀
 シナリオ   辛 基秀 / 滝沢 林三
 監督     滝沢 林三
 撮影助手   清水 良雄
 音楽     高橋 悠治
 演奏     ヴァン・ドリアン
 語り手    西村 晃
 タイトル   富永 浩一
 録音      大平スタジオ
 ネガ編集    創映社
 製作協力    東京シネアート

●協力
 名古屋大学名誉教授 中村 栄孝
 大阪市立大学講師  姜 在彦
 大和文華館学芸課長 吉田 宏志

●あらすじ
 対馬の旧藩主宗家の菩提寺万松院の一隅に、木造の古びた宗家文庫が建っている。
この文庫には厖大な量の朝鮮関係の古文書も残っている。対馬はいたるところ山また山の島で平地が少ないため、古い時代から南(日本列島)と北(朝鮮半島)の中継貿易をすることによって島民の生計を立ててきたのだった。
 秀吉による朝鮮侵略は、両国の関係に深い亀裂を生じさせた。秀吉の死後、幕藩体制の整備を急いだ徳川家康は、朝鮮との友好関係を重視し、ただちに復交を申し出た。
 朝鮮は、江戸幕府からの要請に応えて、日本へ通信使を派遣すると同時に、足利時代に日本との外交・貿易の窓口として創設した倭館を釜山の近くに再建した。
 1607年(慶長12年)、朝鮮通信使467名は盛大な見送りをうけ、対馬藩の護衛と案内で日本へ渡った。
 1811年に対馬を訪れた朝鮮通信使一行の船団や行列などを、佐賀藩の学者草場佩川がたくみにスケッチして、「津島日記」に残している。瀬戸内海を八百隻から一千隻に近い船団を組んで進む一大ページェントのありさまは岡山県玉野市日比に旧家に伝わる絵巻の中に描かれている。
 一行は船で対馬から大阪までいき、大阪からは吃水の浅い川舟に乗りかえて、淀川を淀までのぼる。映画は松平淡路守の持舟・上判事船の未公開の絵画を紹介する。
 京都を出た一行は、琵琶湖の景観を味わいながら朝鮮人街道をいく。画面には1711年(正徳元年)の一行を描いた全長130mの絵巻物(描かれた人物、4600人)が登場する。この時の一行に同道した対馬藩の真文役(朝鮮外交の担当役)雨森芳洲の多数の著作を保管した芳洲文庫が湖北の滋賀県高月町にある。朝鮮語を自由に駆使
した雨森を、朝鮮との外交にあたっては、互いに欺かず争わず真心をもってすべし、と説きつづけた平和外交の先駆者である。今日の外交関係にも通ずる思想である。
 朝鮮通信使一行は、いたるところで文化交流の大きな渦をまきおこした。それは庶民にも及び、たとえば岡山県牛窓の唐子踊、三重県津市の唐人行列などが今に伝わっている。江戸市中に入るときの熱狂的雰囲気は、浮世絵画家羽川藤永が宝暦年間に見事に絵に表わし、江戸入城の光景は狩野益信が六曲二双の絢爛豪華な屏風絵
に思う存分筆を振っている。
 このような朝鮮通信使を軸とした両国の交流には、秀吉の朝鮮出兵による深い傷跡を癒しながら、平和友好の絆をつよめていこうとする両国民の共通の願いがこめられていたのである。

●朝日新聞 1979.3.26.付 社説より
 映画「朝鮮通信使」をみて

 高松塚以後の、いわゆる古代史ブームの中で、古代におけるわが国と朝鮮との交渉については、政治、美術、工芸、建築など各方面からかなり活発に論じられるようになった。だがそれ以後のかかわり合いについては、秀吉の出兵、征韓論、日韓併合以外、一般の知識はほとんど空白といってよい。
 最近、在日朝鮮人と日本人の映画関係者、音楽家、学者らが協力して製作したドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」をみる機会があった。高松塚が古代の日朝交渉史のあかしであるとするなら、これは近世の日朝関係を見直すきっかけになる映画だと思う。
 朝鮮通信使は、徳川幕府が朝鮮から招いた大文化使節団である。家康は、秀吉の朝鮮侵略で途絶えた国交の回復を願い、慶長12(1607)年、対馬藩を通じて李氏王朝の使節を招いた。以後、通信使は将軍の代替わりなどを機会に、文化8(1811)年まで計12回、来日している。
 徳川の幕藩体制は、鎖国を基本方針として日本人が海外に渡ることをきびしく禁止し、そのかわり対外的には朝鮮と琉球を外交関係のある「通信の国」とし、中国とオランダを貿易船渡来の「通商の国」として、ほかの国との交渉を認めなかった。通信使の名は、この政策に由来する。
 一行は正使、副使以下300人から500人。対馬から瀬戸内海を経て、京都、江戸へと道をたどるが、往復には5〜八カ月を要した。随員には学者、文人、画家、書家などが多数含まれ、その宿舎には日本各地から書家や画家が訪れて海外の情報を求め、詩の応酬をしたり、揮毫を求めたりした。また民俗芸能の面でも、岡山県牛窓の唐子踊や三重県津市の唐人行列などは、明らかに通信使一行の置きみやげである。
 日朝の友好関係は、実は室町時代、足利義満から始まっている。その長い歴史の中で、一般の日本人には、友好善隣の歴史がほとんど知らされず、ことに明治以来、われわれ日本人の目は常に欧米に向けられるしむけられてきた。その結果、朝鮮を含むアジアは敗戦まで、わが国の力を伸ばす対象としてしか考えてこなかった。
 日朝交渉史といえば直ちに秀吉の出兵、征韓論、日韓併合など不幸な歴史だけしか思い起こさないのは、こうした時代の歴史教育の結果であろう。そしてまた、いまわれわれの意識から、そうした偏見がまったくぬぐわれたか。
 いま必要なのは、不幸な過去以外に、長い平和な、友好の歴史があったことを知り、不幸な事件は時の権力者による例外的な事件であったことを正しく認識することである。そうした時期があったことを持ち出しても、不幸な事件の免罪符になるとは思わない。だが歴史の正しい認識が、偏見を正し、双方の理解に大きな役割を果たすだろうことも事実である。
 「朝鮮通信使」はわずか50分の作品である。だが、この映画が語りかける事実は重い。われわれの朝鮮観はどうして形成されたか。長い徳川期を通じて友好関係にあった日朝関係がどうしてゆがんでしまったのか。われわれはいま一度、考えてみる必要がありそうだ。                  (映画のちらしより)

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