はじめに
私は書に親しんで,早や四十年になろうとしています。そして知れば知るほど深さを増す書の魅力にとりつかれたままでいます。
この間,何々展覧会入賞とか,東京の銀座で個展開催とか,いわゆる書歴は全くありません。そうしたことを考えないこともありませんでしたが,それよりもむしろ,とても豊かな広がりと歴史をもった書の世界の中で,自由にあれこれ遊ぶことの方に十分な時間と精力とを費やしたかったのです。三千五百年に及ぶ時間の中で,ありとあらゆる表現が試みられてきた書の歴史。これらのうちの名作とされるものに触れ,味わうだけでも,一生かかります。考えてもみて下さい。書の古典はその時の最高の知識人,あるいは本人はそうとは意識していなかったかもしれないけれど,その時代の雰囲気を体現した選ばれた人々によって書かれたものです。それらは数百年,数千年の歴史の審判に耐えて今日まで生き残り,古典としての地位を確立してきました。そうした古典を,たとえ複製であっても親しく手にとり,筆あとをたどることができる幸せ。私はつくづく今の時代に生まれ合わせてよかったと思います。
それから,密かに自分自身の作品らしきものを書いて,書の創造の世界にほんのちょっぴり参加する楽しみも書の醍醐味の一つです。ああでもない,こうでもないと心ゆくまでの試行錯誤。幾分か自分らしい作品が生まれたときの嬉しさ,充実感。この楽しさを知ったらもう書が病みつきになること請け合いです。
その一方で,墨を含ませた筆で白い紙に言葉を書きつけるだけの,単純きわまりない書というものは,なかなかに油断のならない性質を持っています。それはおいおいお話しますけれど,ここでは,書のとらえ方をちょっと間違えると,とたんに単なる「字書き屋さん」に堕してしまう,ということだけを言っておきましょう。
世間では書道がたいへん盛んですが,多くの場合,先生から手本をもらってそっくりそのまま習い,競書雑誌に出品して段や級をもらい,そして展覧会に出品して競い合うというのがほとんどのようです。誰しも人間ですから,うまいといって人にほめられれば嬉しいし,競書雑誌で師範になればおめでとうと言われるし,まして大きな展覧会に入賞でもしたなら祝賀会ものです。それはそれでよいでしょうし,他人がとやかくいう筋合いのものではありません。
しかし,素朴な疑問として,例えば,
●先生のまねばかりしていていいんだろうか,とか,
●書の善し悪しはいったいどこで決めるんだろうか,とか,
●手本の字は学校で習った漢字と違うけれどこれでいいんだろうか,とか,
●どうして読めもしない漢詩ばかり書くのだろうか,とか,
●そもそも書は言葉を書かなくてもいいんだろうか,とか,
●展覧会で賞をもらうことが本当に意味のあることなんだろうか,とか,
私はそうしたことが気になって仕方がありませんでした。そして,そうした疑問はかなり本質的な問題を含んでいることに気づいたのです。ここでお話することは,そうした疑問に対する私なりの答えでもあります。ここには書道の手本は一枚も載せてありませんし,字をうまく書くための技法解説もありません。私がここで書いたのは,書を楽しみたいと思っている人に向けた,書をより豊かに楽しむためのアプローチの仕方です。そのため,書の多少理屈っぽい話から,書の周辺のぶらぶら歩きといった感じの趣味的な話,それから書を学ぶ際のかなり下世話なことなども書きました。
私の知識不足や誤解による見当はずれな内容,あるいは舌足らずなところも多々あろうかと思いますが,幾分かでも皆さんの参考になれば幸いです。そして一人でも多くの方に書の楽しさを分かってもらえたらと願っています。
2000年10月1日
多 木 洋 一 (たぎよういち)