第一章 書の楽しさ

二 書の世界

○六つの要素書の世界

 世間一般では,書を習うということは,筆の遣い方や文字の書き方を習うことだと理解されています。確かに狭い意味では,書を学ぶことは,筆を執って文字を書き,点画の書き方や字形のとり方,文字の並べ方を学ぶことですが,しかし書の世界の広がりはそうした通常の理解をはるかに超えたものです。

 私は,右の図に示したとおり,書の世界は次の六つの要素から構成されていると考えています。

○言葉

 第一に言葉です。書とは言葉を書く芸術です。したがって,意味のある書作品を書くためには,その人がどれだけ豊かな言葉の世界を持っているかということが重要な要素になります。
 書の題材としてよく用いられるのは漢詩・漢文,短歌・俳句などのどちらかといえば古典文学に類するものが主ですが,これらを正しく理解することはもちろんのこと,現代に生きる人間として現代詩や現代文にもしっかりと目を向け,理解を深めておく必要があります。

 書はその表現の根拠を言葉に置く芸術です。自分が書こうとする言葉の意味内容を自分なりにとらえた上で,その言葉にふさわしい書表現のあり方を探っていくものです。このため,言葉は最も重要な要素であり,この図の中でも一番上に位置づけてあります。

○古典

 第二に古典です。書の学習の大部分を占めるのは古典を学ぶことです。古典は,書者が紙に筆で書いたそのままの形で残されている「真跡」や,石に刻られた文字を拓本にとった「碑法帖」などの形で残されています。これらの古典を手本として,私たちは文字の書き方や表現方法を学ぶわけです。現在では有名な古典のほとんどが出版されており容易に手に入りますが,それらをどれだけ深く学ぶことができるかによって,私たちの到達レベルが決まります。

 そして,古典の歴史的な流れは書道史を形成し,現代の書に受け継がれています。現代の書が置かれた状況を歴史の文脈の中においてとらえ,現代という時代においてどのような書の表現が意味あるものなのかということを見極めるためにも,書の歴史についてある程度の理解を深めておかねばなりません。

○文字

 第三に文字です。書を書くためには当然のことながら,文字に関する知識が必要です。三千五百年の長きに及ぶ書の歴史は,篆書,隷書,楷書,行書,草書,そして日本においてはかなを生み出してきました。書をやろうとする以上,これらの文字の性質や成り立ち,そして書き方を知らねばなりません。
 例えば私たちが日頃慣れ親しんでいる楷書にしても,長い年月にわたり広い地域で書かれてきたために,同じ文字でも違った形に書かれることがあります。それらをきちんと識別し,正しく書くことができなければなりません。まして篆書や草書など,現代ではほとんど使われなくなった書体を書こうとする場合には,それ専門の勉強をしなければなりません。

 なお,こうした文字の成り立ちや変遷を研究する学問分野は,文字学と呼ばれています。文字学は専門的な研究分野ですから,素人がおいそれと入り込めるものではありませんが,私たちが文字について理解を深めるためには,文字学の研究成果を参考にすることはたいへん有益です。
 以上の古典と文字とが書の世界の規範を形作っています。その意味で図ではいっしょにして左側に並べてあります。

○文房具澄泥円硯

 第四に文房具です。文房具のうち,筆墨硯紙の四つは文房四宝と呼ばれ,特別の扱いを受けています。自分の意図した書作品を生み出すにはこれらについて熟知し,自分に最も適した用具を自分自身の感性で選び取らなければなりません。

 筆墨硯紙,それぞれありとあらゆる種類がありますから,いろいろなものを試してみる楽しみがあります。昔から文房四宝について書かれた書物は枚挙に暇がありません。先人達がこれらに傾けた情熱と蘊蓄はすさまじいものがあります。現代では書道の専門店に行けば何でも手軽に手に入りますが,これまでの文房四宝の歴史を踏まえて,畏敬の念をもって相対したいものです。

○篆刻

 第五に篆刻。篆刻はその名のとおり文字に篆書を用い,主に石の印材に印刀を使って刻するものです。書作品には落款印がつきものですから,自分で篆刻をやるかどうかは別として,書をやる以上,篆刻についてもある程度の知識を持っていなければなりません。
 これら筆墨硯紙と印とが書の道具になりますので,図では右側にいっしょに並べてあります。

 ところで,筆墨硯紙のうち特に硯と,篆刻に用いる印材とは書道愛好家の愛玩の対象となっています。さらに古硯,古印材ともなれば,法外な金額で取り引きされ,それはそのまま骨董の世界につながっています。この世界は好事家の世界ですので,私はなるべく足を踏みいれないようにしていますが,自分の経済力が許す範囲でいわゆる「お宝趣味」にのめり込む人も多いようです。

○発表

 最後に書作品の発表です。せっかく書いた作品だから掛け軸や額にしたいという場合には,どのような表具の様式があるのか,どこに頼めばよいのかを知らなければなりません。
 さらに展覧会に出してみたいという人もいることでしょう。この場合はいろいろなルールや手順そして内部の人にしか分からないしきたりがあって,個人で参加するのはまず無理です。専門の先生の指導を仰ぐことになります。

 以上,ひととおり説明したところで改めて上の図を見ていただくと,書とは言葉を出発点とし,古人の知恵の集積である古典と文字をよりどころとして,筆墨硯紙そして印を道具として作品を書くものだということになります。書かれた作品は,作者の意図に沿って様々な形で世の中に発表されていきます。
 いかがでしょうか。書の世界と一口にいってもざっとこれだけの広がりと深さがあるのです。この世界の中で,自分がどのように楽しんでいくか,それはひとえにあなた自身の選択に委ねられているのです。

 


目次に戻る         上へ戻る        次に進む