第一章 書の楽しさ

三 書の楽しさ

○古典を味わう楽しさ伊都内親王願文

「いったい何がおもしろくて書道なんかやっているの?」
こう尋ねられたとき,私は次のように答えることにしています。
「やってみると分かるけど,とにかくおもしろいんだ。いろんな古典が話し相手になってくれるし,自分の好き勝手に書くのが何よりおもしろい。」

 書の楽しさの第一は,書の古典に相対して,微妙な筆の動きに表された作者の心に触れ,その作者が生きた時代に想いを馳せることにあります。
 私は,橘逸勢の書と伝えられる,伊都内親王願文(右図「證知證成」)が好きで,よく臨書します。家族が寝静まった夜更けに,伊都内親王願文を臨書していると,橘逸勢かどうかは分かりませんが,平安初期の能書家が思うさま筆を駆使して,これでもか,これでもかと叩きつけるような文字を書き連ねている現場に立ち会うことができます。

 この時代は中国から伝えられた漢字を日本的に咀嚼する時期にあたっていて,いかにも中国直伝といった文字から,どうにも嫌味なくらいにわざとらしく込み入った筆づかいをしたところもあり,そうかと思えば和様のきざしのような日本的崩れもほの見えて,ほっとしたりもします。そうした場面場面が,私に様々な想いを呼び起こすのです。

 以前の私は,臨書というのは古典から技法を学び取るためにするもので,技術練習の一手段にすぎないと思っていました。そして,作品作りに役立ちそうなものばかりを追いかけていました。臨書という営みには,たしかにそういう側面はありますが,しかし次第に,それだけではあまりにも浅ましいと思うようになりました。

 数百年あるいは千年以上を隔てているにもかかわらず,筆者が書いたまさにその時の現場に立ち会うことができ,筆の動きひいては筆者の心の動きを直に味わうことができるという,そのふるえるような感動こそが書の大きな楽しみの一つなのだと思っています。

○自分勝手に書きまくる楽しさ

 書の楽しみの二つめは,自分の作品を,誰に遠慮することもなく,自分の好きなように書くことです。最初のうちは,それはとても作品と呼べるような代物ではないかもしれません。人様にお見せできるようなものではないかもしれません。しかし,そうやって出来上がったものは,まぎれもなく,自分自身にほかならないのです。

 書という場を借りて,ひとつの世界を創り出す喜びは何物にも代え難いものがあります。最初に言葉があります。次にその言葉によって喚起されたイメージが浮かびます。さて,それをどのように表現するか。極端なまでに潤滑の落差をつけて展開するか。筆を限界まで酷使してぎしぎしとえぐるか。想いは千々に乱れながら,やむなく白い紙に対峙します。意を決して落筆。しかし,ああでもない,こうでもないと試行錯誤を重ねるときのもどかしさ。自分自身のふがいなさ,センスのなさ。ほとほと嫌気がさします。
 しまいにはどうにもこらえきれなくなって,現代の有名な書家や,自分の好きな古典のスタイルを拝借したくなります。しかし,他人の書風はその人だけのものです。そのお面をかぶったが最後,私は私でなくなってしまいます。

 そうやってどうにかこうにか出来上がったものは,何ともお粗末なものです。でもそれこそはまぎれもなく自分自身の姿なのです。ほかでもない自分が書いた自分だけの書に違いないのです。そのことを私は大切にしたいと思います。

○学書の両輪

 古典を学ぶことと自分の書を書くこと,この二つが書の基本です。そしてこの二つは書を学ぶ上での両輪ともいうべきものです。古典に相対して古人の心に触れ自分自身の心を豊かにするとともに,実際に筆を執って臨書をし手習いすることによって自分の書に磨きをかける。そしてその上で自分自身が選んだ言葉を自分が書きたいように書く。これが書の学習の基本的パターンであり,書をやる楽しみそのものでもあるのです。

○人生に残すもの

 ところで辛気臭い話になりますが,人間,歳をとってくると,自分の人生は一体何だったのだろうなどと考え始めるものです。
 仕事一途でやってきた人生,遊び呆けた人生,富と名声を築いた人生,あるいは誰からも注目されないけれど自分の成し遂げてきたことに心から満足している人生。人間の数だけ人生があります。中には,生涯現役で,人生とはなどと悠長に思いを巡らしている暇はない,という忙しい人もいることでしょう。

 でも,人間はいつか必ず死ぬものです。その時,人は何かを残したいと思うものです。自分という人間がこの世に生れ,生きたことの証しを残したいと思うものです。それは,生物学的存在としては子や孫でしょうし,あるいは自分のなしとげた業績であったり,自分が建てた家やビル,はたまた自分の築き上げた会社や組織であるかもしれません。

○私の宝物達磨図

 私の家に右のような一幅の掛け軸があります。達磨の絵です。落款には「華岳」とあります。
 これは私の祖父が生前に骨董屋から買ったものだそうです。ごらんのとおりぎょろりとした目玉の怖い顔をしているので,私の母は子供の頃,この絵が掛かっている床の間に夜は入れなかったといいます。祖父から孫の私の手にあるこの絵は,その鑑定上の価値は別として,自分の祖父が愛蔵していたというただその一点において私の宝物です。

 この絵を買ったとき,祖父と骨董屋との間でどんなやりとりが交わされたのだろうか,どんな成り行きで祖父はこの絵を買ったのだろうか。けっこう高かったに違いない。祖父は祖母にどんな言い訳をしたのだろうか。毎日眺めていたのだろうか,それとも大切にして,時々しか掛けなかったのだろうか。

 想像はあれこれと膨らみます。
 そして私は思うのです。これが祖父自身が描いたものだったら,どれほどよかったか。絵でなくて書だったらなおのことよかったのに。祖父自身が選んだ言葉を,祖父自身の人格的器量で揮毫したものであったらもっともっとよかったのに。

○自分の作品を子孫に

 いかがですか,ひとつあなたの子孫たちに,ご自分の作品を残してみては。
「この掛軸は,おれのばあさんが書いたんだって。」
などと,孫夫婦が話しているのを想像するのは楽しいではありませんか。
 書の作品の大きな特徴は,その作者と切り離せないということです。このことについては後で詳しく述べますが,書の作品を見る人はその作者を想起せずにはいられません。ましてその作者が自分と何らかのつながりのある人であった場合には,その作品はその人にとって特別な意味のある存在となります。

 あなたの作品が子々孫々に伝えられたとき,あなたの作品はあなたを偲ぶよすがとなるのです。
 そのためにも,皆さんには
「これは私です。下手ですけど私です。ちょっと気取ってますけど私です。文句ありますか?」
 と胸を張って言えるような作品を作ってほしいのです。
 くれぐれも,先生からお手本をもらって,それを丸写ししたようなものは残してほしくないのです。そのために私は,皆さんが書を楽しみながら自分らしい作品を作るためのヒントとなることをお話ししていきたいと思います。

 


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