○先生につく
何事によらず,本格的にやろうと思ったら,その道の専門の先生について教えを受けるのが近道です。それなりに費用はかかりますが,確実にそれだけのことはあります。
しかし,問題はどういう先生につくかです。一般の人は,書道教室の看板を掲げている先生であれば,書については何でもひととおりのことは教えてくれるはずだと思うでしょうが,実はそうでもないのです。○専門の細分化
今の世の中,何の分野でも専門の細分化が進んでいます。書の世界も例外ではありません。
まず,大きく分けて,漢字とかなに分かれます。その他に少数ですが,篆刻や刻字の専門家,また前衛書の専門家などもあります。
まあ,とりあえず漢字でも習ってみようかということで,漢字の先生の門を叩いたとします。ところが,一口に漢字といっても,楷書,行書,草書,篆書,隷書と五つの書体があります。書の先生ともなれば,いずれの書体もある程度は書けて教えられるはずですが,実際には得手不得手があって,極端な場合には,ある特定の書体のしかも特殊な書きぶりしかできなかったりします。特に,展覧会に出品し,厳しい競争の世界で自分の地位を築いてきた先生の場合は,どうしても得意な書体の特徴ある書きぶりで勝負しますから,偏りが強くなるようです。そうした先生で,なおかつ視野の狭い先生についてしまったら,悲惨です。来る日も来る日も,その先生の特異な書風のまねを,繰り返し繰り返し続けなければなりません。
そうならないためには,どうすればよいか。
よい先生につくことです。
ここでお断りしておきますが,私の言う「よい先生」とは,書というのはこんなにおもしろいものなんだよということを教えてくれる先生のことです。そして同時に,生徒が自分自身の書の世界を持つことができるような方向での手助けをしてくれる先生です。ですから,展覧会で賞をとって書道界でのしあがっていこうと考える人にとってのよい先生という意味とはちょっと違います。
ではよい先生の条件とは?○書に関する幅広い知識と技術
よい先生の第一条件は,書に関する幅広い知識と技術を持っていることです。
書の先生たるもの,少なくとも漢字とかなの各書体にわたって正しく書けなければなりません。そして,書の世界とはどういう広がりをもっているか,書の歴史はどのように展開してきたか,書の善し悪しはどういうところで判断するのか,そういった点について一家言とまではいかなくても,生徒の素朴な疑問に答えられるようでなければなりません。
その辺をあいまいにしたままで,ただひたすら手本を真似させるだけの先生では,よい先生とはいえないばかりか,先生としての基本条件すら満たしていないというべきでしょう。○古典への導き
次に,書の古典への導きをしてくれることです。
書の学習の大部分は古典の勉強です。三千五百年にわたる書の歴史は,膨大なほとんど気の遠くなるような書の作品群を生み出しました。その中の名品中の名品,いわば精華だけが古典として今に残されています。
そうした古典に対して,先生本人の好き嫌いは別として,主な古典の歴史上の位置づけについて説明し,その古典の特徴を紹介し,学び方をアドバイスしてくれる先生でなければなりません。例えば,ねっとりと暗い蘇軾の黄州寒食詩巻 のどこがなぜよいのか,細い筆画で震えたような爺臭い良寛の書(右図)の見どころはどこなのか,それぞれの古典に即して,生徒が納得のいくように具体的に説明してくれなければなりません。
古典への見識と適切な助言,これがよい先生の二つ目の条件です。○自分の書風を押しつけない
第三に自分の書風を押しつけないことです。
書の学習は,他人の書いたものを習う以外にありませんので,ある先生についた場合,その先生の手本を習い,その手本そっくりに書けるように練習を重ねることになります。書の学習においては,伝統的に,先生の書風すなわち師風に忠誠を尽くすのが当然であり礼儀であるという風潮があるので,特に初心者のうちはそうせざるを得ないのですが,いつまでもこれを先生のほうから押しつけられては困るのです。私はかつて,ある先生の楷書が惚れぼれするほど好きで,一生懸命習いました。北魏風のピシリと決まった楷書を羊毛の長鋒で書くものですから,堂々たる構築美に加えて,えもいわれぬ潤いがあってとても魅力的でした。しかし,一方でその先生の行書は字形のデフォルメが過剰で,運筆もあまりに恣意的な感じがして,どうしても好きになれませんでした。私はその先生に直接入門したわけではありませんが,もし,あの行書の書風を強制されたとしたら,きっとつらかっただろうと思います。
また,こういうこともあります。
最初はその先生の書風が好きで,それ以外のものが目に入らなかったのが,古典を学んだり他の人の作品を見たりして,だんだん目が肥えてくるにつれて,先生の書が物足りなくなってくるのです。これはしごく当然のことで,そうなったということは,その人がそれだけ上達してきたということで,師弟ともども喜ぶべきことなのです。
それなのに,そのような段階になってからも,せっせと先生の手本のコピーを書き続けなければならないとしたら,それは苦痛以外の何物でもありません。せっかく書のおもしろさが分かりかけてきたのに,書の豊かな世界から自らを遠ざけてしまうことになってしまいます。
やはり,先生が自分の書風を習わせるのは,初心者に対してだけとし,生徒が一定のレベルに達したら,自分自身の判断で自分の進む道を選ばせるようにすべきだと思います。○展覧会出品を強制しない
以上の三つが,私の考えるよい先生の条件ですが,ついでにもう一つ,展覧会出品を強制しないことを付け加えておきましょう。
現在の書道界での評価というものは,どの展覧会でどういう賞をとったかということで決められるのが通例です。このため,先生によっては,しきりに展覧会出品を勧めます。これは,弟子の栄達を願ってということもあるでしょうが,一方では書道界における先生自身の勢力の拡大を図っている面があることも否定できません。展覧会に出品すること自体は別に悪いことではありませんが,展覧会というのは予想以上にお金がかかることは知っておいたほうがいいでしょう。紙,筆,墨などの材料費,表具代,出品料,これらは当然として,指導を頂いた先生への謝礼,賞をもらえばもらったで関係する先生方や審査員へのお礼などが,しきたりという名の下に,半ば強制的に支出を余儀なくされます。
本人が書道界で頭角を現わそうとしていたり,競争が好きでやっているのなら大いに結構ですが,展覧会出品はやはり他人が強制すべきことではないと思います。○先生の字に惚れる
いろいろ書きましたが,実際問題として先生に入門する際にポイントとなるのは,その先生の書風が好きかどうかでしょう。先生の字に惚れて書を始めるということ,それが書に魅せられた第一歩だといえます。
自分が惚れるに足るような字を書く先生にめぐり会えたならばとりあえずそれでよしとすべきです。その上で,私がこれまで述べた幾つかの条件をいくぶんかでも満たし,人間的にも好感の持てる先生であればついてみる価値は十分にあります。○どうしても合わないときは
しかしながら,よい先生だと思って入門はしたものの期待外れだった,予想と違った,自分の求めている世界とは違うことに気がついた,ということはよくあるものです。
また,こんなこともあるでしょう。学習が進むにつれてだんだん目が開かれてきて,別の先生の書風の方に魅力を感じ始めてしまった。でもそんなことを口にしては自分の先生に悪いし,狭量な先生の場合は怒り出すかもしれません。そんな状態で師弟関係を続けるのは,不幸なことです。
どうしても先生の書風と肌が合わなくなったとき,先生のやり方に納得できなくなったとき,そんなときはやはりその先生のもとを離れるべきでしょう。それなりにきちんと礼を尽くして。○よい先生がいなくとも
ところで,どんなにいい先生についたところで,伸びるか伸びないかはあなた次第なのですから,自分の希望にあったよい先生がいなくても,あまり深刻に考える必要はありません。
それに,今時,師弟の関係を結ぶというのは,何かと煩わしいことも多いものです。先生にはつかずに,一人で書を楽しみたいと思っている人もいることでしょう。そんな人にとっては独学で十分です。今の世の中にはたくさんの情報があふれています。
かつては一目見ることさえもかなわなかった貴重な拓本や書跡の,ありとあらゆるものが印刷されて書店に並んでいます。書道界の有名な先生の手本や評論も数多く出版されていますし,書の大家が書く様子を撮影したビデオさえもが売られています。中国に所蔵されている作品や,新たに出土した文物に関する書籍も,東京などの専門の書店に行けば簡単に手に入ります。そして私のような名もない日曜書家のたわごとさえも,こうして皆さんの手元に届いているのです。
現代は書を独学で学ぶ環境は十分に整っているといえます。そうした中で,一人で書を楽しむときの強い味方として,競書雑誌を活用する方法があります。これについて次に述べることにしましょう。