第三章 書を楽しむ法(応用編)

一 作品づくりの心構え

 いよいよ応用編です。
 第二章の基礎編では,書を学ぶ人であればだれでもが最低限知っていなければならないことを述べました。ここからは,さらに一歩進んで自分自身の書,自分自身の作品を作り上げていくためにはどうしたらよいか,ということについてお話していくことにします。

(一) ふだんから心がけること

○視野を広く持つ砂壷

 書を始めた最初のうちは,筆で字を書くことが面白くてしかたありません。
 先生の手本を真似てみたり,自分でちょっと工夫してみたり,どんどん書きまくるものです。それはそれでいいのですが,それと同時になるべく視野を広げておくことが大切です。さもないと,知らず知らずのうちに偏っていって,あげくの果ては一つの書風に凝り固まって何を書いても同じようにしか書けなくなってしまったり,他のいろいろな書風や古典のよさも分からなくなってしまうことにもなりかねません。

 そうならないためには,日頃からいろいろなものに触れ,様々な経験を積んで視野を広めておくことが大切です。具体的に言えば,いろいろな古典を学ぶこと,書に関する本格的な本を読むこと,優れた実物を見ることが大切です。これらはひっくるめて,書に関する視野を広く持つことといえます。

○いろいろな古典を学ぶ

 自分の好きな古典を中心として,できるだけいろいろな古典を学びましょう。
本屋さんに行けば古典の原本すなわち法帖がずらりと並んでいます。私も二玄社から出版されていた書跡名品叢刊や中国法書選,日本名筆選などをずいぶん買ったものです。後から出たものほど印刷がよい上に価格も安く,日本名筆選に至ってはオールカラーという願ってもない体裁でした。
 考えてみれば,かつては一目見るために,千里の道を行き,縁故とたくさんの謝礼を必要としたであろう古今の名品が,複製品とはいえ,今や子供の小遣い程度の値段で買えるのです。私たちは何という幸せな時代に生まれ合わせたのでしょう。昔はこうした幸せは,地位と財力に恵まれた,ほんのひとにぎりの人々しか味わえなかったものなのです。

 なお,中国法書選では,法書ガイドという小冊子がペアになっていて,釈文や解説が載っておりたいへん参考になります。書の楽しみの一つは,古典をめぐってあれこれと想像を巡らすことですが,そのためには最低限そこに何が書かれてあるのかが分からなければなりません。さらに,どのような時代に,どんな人が何の目的のために書いたのかが分かれば,その古典に対する親しみも一段とわこうというものです。その古典の書きぶりや文字のたたずまい,それに表現の展開の必然性を理解するためには,一見迂遠に見えても,こうした書作品の成り立ちに関する知識がとても大切です。

○本格的な本を読む

 次に,書に関する本格的な本を読みましょう。
 現在,書に関する本は数多く出ていますが,これぞというものはあまりないようです。『初心者のための書道入門』などというとおりいっぺんのものはまずダメです。何の役にも立ちません。著者のお手本が並んでいるだけの本もダメ。

 私がこれまでで出会った最高の本は,西川寧編『書道講座(楷書)』(一九七一年,二玄社)でした。私は中学生の時,部活を終えた学校帰りに家の近くの本屋さんでこの本を偶然手に取って,全身がしびれました。
「書ってこんなに奥深いものだったのか,こんなにも豊かな広がりと歴史をもったものだったのか。」
という感動の嵐でした。書の本に関してあれほどの衝撃的な体験はその後ありません。

 最近の本では石川九楊の一連の著作が注目されますが,とりあえず氏の主張のアウトラインを知るには『書に通ず』(一九九九年,新潮社,新潮選書,1200円+税)を読むのがよいでしょう。石川九楊は「筆蝕」という言葉をキーワードに,書の本質に対して鋭い分析を加えた評論を発表していることで有名な人です。『書に通ず』は,氏がこれまで書に関して行ってきた様々な評論の総まとめといった趣の本で,書の理論と歴史それに現在の書がはらむ問題点について初心者にも分かりやすく書かれたものです。

 それから,機会があったら,中国の出版物にも目を向けてみましょう。
 東京ですと,神田の東方書店と内山書店,中華書店などで書道関係の書籍を扱っています。お目当ては,日本では見られない中国所蔵の作品や新たに出土した文物などの図版です。中国の本は香りが違います。何となく大陸的なほこりっぽい匂いが私は大好きです。以前に比べると中国の本の印刷はずいぶんとよくなりました。ただ,値段の方もそれに応じて高騰し,日本の出版物と変わらないぐらいになってしまったのはちょっと残念です。

○優れた実物を見る

 印刷物は手軽に入手できますが,実物とはやはり違います。その違いは微妙なものですが,しかし絶対的なものです。うまく言えないのですが,写真や印刷になったときに消えてしまうほんのわずかな陰影のようなものが,書にとっては非常に大切なものであるような気がします。
 印刷物では鮮やかに見えるが現物はもっと古色がかった味わいだとか,さすがに実物の墨気は凄いものだとか,実物に触れた感動とその時の印象を目に焼きつけておくことが大切です。

 私も先年,台北の故宮博物院で王羲之の快雪時晴帖の現物を見たとき,印刷物にはない躍動感が感じられることに驚きました。現物といっても王羲之の真跡ではなく双鉤填墨本のはずなのですが,文字が生き生きと浮かび上がってくる姿にいぶかしささえ感じながら食い入るように見つめたものです。
 できるだけ多くの機会をとらえて,博物館や美術館に足を運び,実物に接するよう心掛けましょう。
こうやって書に関する知識や経験を深めながら,いよいよ自分の作品を作る段階に入っていくのです。

(二)作品作りの難しさ

○自分の作品を作る

 書の作品を作るということは,書こうとする言葉を,自分がそれに最もふさわしいと思われる姿として生み出すことです。そこには自分自身の理性と感性による判断と決断がなされています。だから,作品というものは自分の心の投影であり,自分の主張であり,自分の分身でもあるといえるのです。そうしたものを作ろうとするためには,まずもって受け身の姿勢ではできません。
 先生の手本を丸写しして作品でございというのは論外ですが,どんなに熱心に古典を学び,文字について深く研究し,寸暇を惜しんで筆を執って練習を重ねても,それだけでは作品はできません。

○作品づくりの不安

 私も作品を書くときはとても不安です。
 書こうとする言葉を前にして,この言葉をどのように紙の上に定着させるべきか,あれこれと思いをめぐらします。ああでもないこうでもないと試行錯誤の繰り返し。だんだんイメージが固まってくるにしたがって,どの書体で書くか,紙はどれを使うか,筆はこれを試してみよう,などと具体的な手筈が整ってきます。この文字を昔の人はどのように書いたのだろうかと字典を引いたり,古典を参考にしたりします。
 しかし,どんなに周到な準備を重ねていても,いざ筆を執るときには不安がいっぱいです。その不安を打ち消すようにして書く。そして最後の一文字を書き終えるまで,いや書き上げて表具ができあがってきてからさえ,根源的な疑問は残ります。
「いったいこの言葉に対して,自分が与えたこの表現はふさわしいのだろうか。」
この疑問が消えるときはありません。

 古典を学んだり展覧会に足を運んだりして,書の表現の多様性を知ることは,確かにこうした不安を部分的に和らげてくれます。こんな表現もある,あんなやり方もある,これはちょっとやり過ぎだと思うけれど方向としては面白い。そうした様々な表現を知ることは,自分自身の表現手法の幅を豊かなものにしてくれますし,平凡でつまらない下の限界点と,これ以上はやり過ぎだという上の限界点とを教えてくれます。
 しかし,他人の作品や古典の表現はあくまで自分にとっての参考にしかすぎません。どれほど知識と見聞を広めようとも,いざ自分の作品を作るときには自分自身の責任において自分自身が決断しなければならないのです。

○書はどう書いてもよい

 結局,作品づくりのどたん場で自らを奮い立たせることができるのは,
「書などというものは,どう書いてもよいのだ。書きたいように書けばよい。」
という開き直りの気持ちであるように思います。
 そうです。書というものは,何をどのように書いてもよいのです。自分が書きたいように書けばよいのです。古人の真似をしたり,先生に気を使って手本を写したり,先輩に遠慮したりしていても仕方がありません。人は人,自分は自分なのですから。自分が書きたい書を書きたいように書けばよいのです。
 南伸坊が言っています。
「何をやったっていいんだな,何をやったって叱られないんだな,いや叱る人がいたところで別にかまわないんだな。」(『モンガイカンの美術館』一九九七年,朝日文庫)
 そのとおりです。

○書きたいように書くことの難しさ 西川寧「朝為灌園」

 しかし,書きたいように書けばよいといっても,実はこれが一番難しいということは誰もが知っています。
 書きたいように書いてはみたものの,結局みすぼらしいものしかできなかったときの情けなさといったらありません。自分の作品に対して,数多くの古典が憐れみのほほ笑みを投げかけているような気がしてきます。穴があったら入りたいとはこのことです。

 何よりつらいのは,まあまあの出来かな,と思って人目にさらしたところが,自分の下心を見透かされてしまったときです。何かで読んだ話ですが,西川寧(右図「朝為灌園」)の弟子の一人が,あるとき自分の作品を西川先生に見せたのだそうです。その人は,その作品のある縦画がわれながらうまく書けたと思っていたので,一言ぐらい褒めてくれるだろうとひそかに期待していたところ,西川先生いわく,
「この縦画,うまく書けたと思っただろう。」
ぎゃふんですね。こう言われては返事のしようもありません。

 かと思うと,にっちもさっちも行かなくなって,ええいっ,もうどうにでもなれ!と尻をまくってなぐり書きしたものが,結構さまになっていたりします。
 この辺の事情は何とも微妙に難しいものがあるのですが,とにかくこの第三章,応用編では私の経験に基づいて,いくぶんかでも皆さんの参考になると思われるお話をしてみたいと思います。

 


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