○隆盛を極める展覧会
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書がこれほど盛んになったのは,大小様々な展覧会が開かれるようになったからです。大きなところでは日展や読売書法展,毎日展などの大規模な公募展,小さなところでは市町村の芸術祭の書道展から職場の文化祭まで書の展覧会は花盛りです。
展覧会はいずれもランク付けを行います。特選だとか奨励賞だとか優賞,特賞,あるいは誰々先生記念賞などという外部の人間には何のことだかわからないような賞もあります。こうした展覧会への出品と受賞は,書を学ぶ者にとって大きな励みになっていることは事実です。展覧会に出品するとなれば誰しも一生懸命練習します。人間の名誉欲は強烈なものなので,賞を取りたいと思う欲望は同じ詩句を何百枚も書かせる原動力となります。そして運よく賞をもらいでもすれば,本人は自分にはやはり実力があるのだと大いに気をよくするうえ,周りの見る目も違ってきますからますます自信を深め上達もするし,だんだんに風格さえもついてきます。
さらに書で飯を食うプロともなれば,展覧会は趣味の芸事ではなく,書道界での地位と自分の生活のかかった真剣勝負の世界です。様々な展覧会で賞を取って,書道界に確固たる地歩を築くために熾烈な競争を繰り広げているのです。
○賞の取り方
さてそれでは展覧会で賞をもらうためにはどうするか。
まず,下手ではだめです。だれが見てもうまいとうならせるような作品を作らねばなりません。
しかし,上手な人はごまんといます。単に上手なだけでもだめです。賞を決めるのは審査員ですから,審査員の目に止まり,審査員の気に入るような上手さでなければなりません。その展覧会で賞に入りやすいのはどういう傾向の書風なのか,審査員はどういう作品に高い評価をつけるのかをよく研究して,審査員に好感をもたれるような作品を作らねばなりません。実際には,このあたりから,展覧会対策を自分一人でやろうと思っても限界が出てきます。どうしても展覧会の内情をよく知り,その展覧会に関与している人の手助けが必要になってきます。それはすなわち,自分がついている先生がその展覧会においてどれだけの影響力を持っているかが決定的に重要な意味を持っている,ということです。
だいぶなまぐさい話になってきましたが,ここいらでちょっと,展覧会というものがどういう評価方法の下に成り立っているのかを考えてみることにしましょう。そしてそれが私たちが書を楽しむ方向と一致しているものなのか,それとも展覧会に血道を上げるのはあまり感心したことではないのか,その辺を皆さんに判断してもらう手掛かりにしてほしいと思います。なお,一口に書の展覧会といっても様々なものがありますが,ここでは不特定多数の出品作品に対して順位付けを行う,いわゆる公募展における評価方法について考えることとします。
○書きぶりのみを抽出
書作品には,誰が書いたか(書者),何と書かれているか(書かれた言葉),そしてどのように書かれているか(書きぶり)という三つの要素があるということは,この章の三「書の評価とは」のところでお話しました。
展覧会においては,これらのうちから「書きぶり」だけを抜き出して評価の対象としています。なぜかというと,「誰が書いたか」ということは書いた人の人間性を問題にすることであり,ある人の人間性を他の人と比較して優劣をつけることはできない上,不特定多数の出品者に対して公平な取り扱いをする,という公募展覧会の原則からして,これを評価の対象とすることはできないからです。また「何と書かれているか」ということについても,一般的には,詩文の内容は書の評価とは別の問題であると考えられていることから,評価の対象からは除外されることになります。
つまり,不特定多数の参加者から出品された作品の「書きぶり」のみについて,これを公平に評価し順位付けをする,というのが展覧会における評価方法のたてまえです。もちろん現実の展覧会での評価においては,有力な先生を中心とした会派や派閥におけるその人の地位や人間関係,金銭や労役の提供に対する見返りなど様々な要因が影響することでしょうが,これらは別次元の問題としてここでは触れません。
さて,書きぶりだけで書作品を評価するというように問題を単純化したところで,事はそう簡単ではありません。大規模な展覧会ともなれば審査員は,数百点あるいは数千点という数多くの出品作品について入選・落選を判別し,入選作品の中から入賞作品を選定するという気の遠くなるような作業を行っているのです。次々と運ばれてくる出品作品を前にして,審査員は個々の作品の書きぶりを一瞬で評価し,他の作品と比較して優劣をつけなければなりません。漢字とかな,調和体などの分野ごとに分かれるとはいえ,ありとあらゆる書体,書風,スタイルの作品が出品されるわけですから,それらの優劣を相互に比較して結論を出すのは至難の業です。その上,一人ひとりの審査員の感じ方や考え方も各々異なっているでしょうから,審査員全員の合意形成を図ることもまた容易ではありません。この問題をどうやって解決したらよいのでしょうか。
○書きぶりの優劣のつけ方
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「書の評価とは」のところで述べたように,私は書きぶりを評価する尺度には,「客観的到達度」と「主観的共感度」の二つの側面があると考えています。展覧会の審査においては,まず客観的到達度の観点から主に技術面での優劣の順位づけがなされ,その後で主観的共感度の観点からの評価を加えた上で最終的な判断がなされています。
客観的到達度というのは,ある規範となるスタイルを基準として,その作品がどれほどのレベルにまで到達しているかということを評価するものですから,同一の規範に準拠した作品群であれば,規範からの乖離の程度によって順位づけをすることが可能です。規範に近いものは入選,規範から遠いものは落選です。
問題は,異なった規範に準拠した作品同士をどうやって比較するかということですが,この場合は規範自体に序列がつけられることになります。
中国や日本の書の歴史の中で生み出された数多くの古典は,その一つひとつが規範となりうる独自のスタイルを持っています。さらに現代の書道界においても,有名な書家によって次々と独特な書きぶりが生み出され,あるものは一世を風靡し多くの追随者によって模倣され,流行の書風となります。例えば,楷法の極則といわれる歐陽詢の九成宮醴泉銘も一つの規範ですし,力感あふれる鋭い切れ味が魅力の北魏の楷書(例えば牛けつ造像記)も,王鐸のうねるような連綿草も,青山杉雨の極限まで筆を酷使して強引に押し切った篆書作品も(上図「萬方鮮」),鈴木翠軒の叙情味たっぷりの淡墨ゆらめき芸術も,それぞれ規範の一つです。これら時代も個性も全く異なった規範の序列は,その時代の風潮や嗜好を前提として,書道界の大勢や有力書家の主張などによって方向づけされ,おおまかな順位が決まっています。個々の展覧会の審査員はそうした傾向を踏まえた上で,自らの主張や考えを加味しながら審査を行っているのです。今挙げた例で言えば,青山杉雨風の篆書作品が時代の流行で第一,王鐸風の連綿草や北魏風の楷書は人気古典の強みを発揮して第二,鈴木翠軒風はやや流行遅れで第三,歐陽詢風の楷書に至っては初学者の習作として問題外といったぐあいです。
このように客観的到達度の観点からなされる評価によって,当落と大体の序列が決まりますが,さらに主観的共感度の観点からの評価を加えて最終的な順位づけがなされます。特に,賞を決める段階まで残る作品ですと,技術的には皆一定レベル以上のものばかりですから,単純にうまい下手で決めるわけにはいきません。どうしてもその作品の表情やムード,雰囲気をどう評価するかという問題になってきます。主観的共感度は個人の主観に依存した観点ですから見る人によって個人差が大きい上に,その判断が正しいかどうかを議論できる性格のものではありません。主観的共感度による評価を主張し合う場合には,有力な審査員の主張の方が通りやすくなるであろうことは容易に想像されます。
○展覧会評価の矛盾
以上をまとめてみますと,展覧会における評価は,書者,書かれた言葉,それに書きぶりという書作品の三つの構成要素から「書きぶり」だけを抽出することによって問題が単純化されます。そして,まず客観的到達度によって選別され,更に主観的共感度を加えた観点から序列づけがなされるということになります。
こうした展覧会における評価のやり方は,時折奇妙な結果を生むことがあります。まず,客観的到達度による順位づけにおいては,順位の低い規範にどれほど肉薄しても,より上位にある規範に倣った低レベルの作品よりも低い評価しか得られないということが起こります。上に挙げた例でいえば,どんなに九成宮醴泉銘風の楷書を見事に再現しても,青山杉雨の初歩的真似事にはかなわないということです。逆に,九成宮醴泉銘の本当の凄さを知らなくとも,現代の流行の書風を手軽に模倣することによって,労せずして一足跳びに高い評価を得ることもできるのです。
さらに展覧会においては主観的共感度による評価が加えられるので,有力な審査員や大勢を占める会派の主張が通りやすくなり,流行の書風への一極集中傾向がますます加速されます。
現代日本の展覧会評価の矛盾はこの二つの点に象徴的に現れていますが,以下に展覧会の問題点を三つの点にしぼって整理しておきたいと思います。○展覧会の評価は一面的
まず,今見たとおり,展覧会における評価は一面的な評価でしかないということです。 世の中では,ある人の書が展覧会において高い評価を得れば,その作品はもとよりその人の書のすべてが高く評価されたと受け止められます。書の専門家集団が公正な評価を下す場である展覧会において高い評価を得たということは,その書作品がすぐれたものである証拠だと理解されるのは至極当然のことでしょう。
しかしながら,それは書の展覧会という閉鎖的な世界の中で,単に時流に乗った書きぶりができたために評価された,ということにしか過ぎないのです。しかもその書きぶりにしても,ある展覧会に出品された特定の作品の書きぶりを評価しているのであって,その書者のそれ以外の書体や書式の作品をも評価しているわけではありません。
例えば,ある展覧会に出品された作品の二尺八尺という巨大な紙に王鐸風の行草を書き流す技術が評価されたからといって,その書者が他の書体の作品やあるいは実用書についても同等の技術レベルを持っていると評価されたわけではないし,まして現代日本語をどう書くかという大問題について貢献したと評価されたわけではありません。
近年ようやく,流行の書風を手本にしてそれに倣った作品を書き,展覧会で高い評価を得たからといって,必ずしもそれが優れた書だとは限らないし,その書者が優れた書家だとは限らないということにみんなが薄々気づき始めているように思われます。
○完璧への努力は書の生命を奪う
二つ目の問題点は,同じ作品を際限なく書き込むことによる弊害です。
展覧会では規範からの乖離の程度で評価されますが,これは一種の減点法なのでミスは致命的です。ある部分でミスがあった場合,大きく減点され,他の部分が優れていても総合的に高い評価は得られません。一方,際立って優れた点がなくとも,全体的にそつなく仕上げた作品が相対的に高く評価されることにもなります。このため,出品者はミスのない完璧な作品を作ることを要求され,同じ作品を繰り返し繰り返し書き込むことを余儀なくされます。そのことによる弊害は,生き生きとした新鮮さが失われ,表現がパターン化してしまうことです。さらに,知らず知らずのうちに習い癖がついてしまって,嫌味が出てしまうことさえあります。これが習気と呼ばれるものです。完全をめざして修練を積み重ねていくわけですが,完成され過ぎたものからは肝心の魂が抜けてしまうというパラドックスがそこにはあります。
これまで見てきたように,書の生命は,書者と言葉と書きぶりの相互の緊張関係の中にこそあります。その緊張関係が張り詰めたものであればあるほど時に破綻が生じることは避けられず,そこが逆にその作品の魅力であり見どころともなります。しかし展覧会においては,これらは失敗としてマイナスの評価しか得られません。
古来,書は熟後の生を貴ぶといわれます。長い人生を経て人間的にも成熟した書者が言葉の重みを十分に受け止めながら,長年に亙って古典との対話を通して修練を積み重ねてきた筆をもって,一度限りの真剣勝負として書を書く。豊かな経験と熟達の末の奥深さに裏付けられた筆の,一瞬の閃きにこそ書の真の価値があるという意味です。でも,現代の展覧会ではそれを積極的に評価するしくみにはなっていません。展覧会は過剰な完璧性を要求するあまり,書から本来の生命力を奪ってしまうのです。
○流行への追随は自らを失う
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三つ目の問題点は,流行の書風に無批判に追随することによって自分自身の主体性が失われてしまうことです。
展覧会に出品する以上は,誰しも入選したいし,あわよくば賞をもらいたいと思うのは人情です。そのため出品者はその展覧会において最も高く評価されている書風を自分自身の規範として受け入れざるをえません。一般に,書の学習とは手本を学んで,手本そっくりに書けるようになることだと思われているために,このプロセスは何の疑問もなく行われます。しかし,規範への無批判な追随は,自らの主体性を失わせる危険な行為なのです。
展覧会において高く評価されている書風とは,有力な書家や大きな会派の書風,つまり流行の書風です。流行は時代とともに移り変わります。ある時代の流行の書風はその時代が終わるとともに,最高規範としての地位を別な書風に譲ります。そして,すでに過去のものとなった流行の書風は,オリジナルの本家本元だけが歴史に留められ,展覧会に出品した無数のエピゴーネン(亜流,模倣者)の作品は存在価値を失ってしまいます。例えば,かつて日展会場の半分以上を占めたといわれる鈴木翆軒(上図「酔客満船」)の書風も,翆軒が亡くなり流行が過ぎ去るとともに潮が引くようにその数を減らしていきました。現在では,鈴木翆軒の名前だけが残り,その追随者はほとんど忘れ去られています。
誰しも時代の子である以上,その時代の束縛から逃れることはできません。展覧会への入選・入賞という打算のためではなく,流行の書風にあらがい難い魅力を感じるのも無理はありません。でも,無批判に流行の書風の真似事を繰り返すことは,長い目で見れば自分自身の書作品の存在価値を失わせることなのです。展覧会が隆盛であればあるほど,流行の書風のコピー作品が無数に作り出され,書の多様性と書者の独自性が失われていくのです。
○誤字脱字をチェックするわけ
以上,三つの問題点を指摘しましたが,展覧会の審査においては,もう一つ面白い現象があります。
入選と落選を選別した後で受賞作品を決めるわけですが,その段階で誤字,脱字がチェックされるのです。もしも受賞候補作品の中に誤字,脱字が発見された場合,まず間違いなく受賞対象から外されることになります。場合によっては賞をもらえないどころか,落選扱いとなることさえあります。
こうした点だけを見ていると,現代の展覧会においても書きぶりだけでなく,書かれた言葉を大切にしているように見えますが,実はそうではありません。私が見るところ,誤字脱字をチェックする本当の理由は,審査員の側にも「書とは言葉に表現の根拠を置く芸術である」ということがうすうす分かっていながら,審査の場においては言葉を完全に無視していることへのうしろめたさがあるために,せめて受賞作品には言葉の形式要件を満たさせることによって,ほんの少し言葉に対して義理立てを行っている,というのが真相ではないかと思っています。その証拠に,書かれた言葉の内容など,相変わらず誰も一顧だにしないのですから。
○私が展覧会を避ける理由
私は現代の展覧会を以上のように眺めています。そして私自身は展覧会に出品したいとは思ってはいません。
まず私には,展覧会に費やすだけのお金も時間もないからです。
展覧会の階段を上ろうと思ったらきりがありません。地方の小規模な展覧会から始めて毎年欠かさず出品し,賞をもらいながら地域の書道界で名前を売っていきます。ある程度まで進むと,次に中央の展覧会にも出品するようになりますが,そこではまた一年生からやり直しです。展覧会での評価は作品の良し悪しによってなされるのがたてまえですが,そこはそれ,日本古来の伝統芸能ですから,人間関係が大きくものをいいます。顔と名前を覚えてもらうために,自分の先生や系列の書道団体が主催する展覧会にも出品し続けなければなりません。こうして毎月毎月展覧会に出品する作品の制作に明け暮れます。しまいには,書の発表の場として展覧会があるのか,展覧会のために書をやっているのか,わけがわからなくなります。展覧会の階段を上っていくにつれてつきあいも多くなり,自分が所属している団体の役員や展覧会の運営の世話役も引き受けなければなりません。これに要する交際費や作業時間もばかになりません。そして何の世界でも同じですが,頂点を極めることができるのはほんのひとにぎりの人だけです。ほとんどの人々はお金と時間の都合がつかなくなるか,道のりのあまりの遠さに絶望した時点で断念します。その間ずっと,次回の賞待ちの受験生のような立場でいなければならないのです。私はどう考えてもそうしたことにあまり意味があるとは思えません。
それに,たとえこうした展覧会に出品したところで,私の作品など「場違い」以外の何物でもないでしょう。私は,自分の顔をした作品でなければ書として何の意味もない(第一章の四「自分の顔をした書を書こう」)と考えていますが,既成の規範を基準に評価される展覧会では,そんなものは一番最初に切り捨てられるだけでしょうから。さらに言えば,自分の生命を削るような思いをして作り出した作品を,他人に勝手に順位付けされたくないという多少の自負の気持ちがあるのも事実です。
そもそも私には,書とは競うものだろうかという根源的な疑問があります。朝日新聞の天声人語(平成十年三月三十日)に載っていた話ですが,米ロック界で最長老格として知られるバンドのエアロスミスが日本で公演したときのことです。メンバー五人は四十代後半でこの世界ではお世辞にも若いとは言えません。毎年現れる新人バンドは脅威ではないか,との問いに対して,
「ライバルとは考えない。音楽は優劣を競うとか,同じゴールを目指して順位を争うレースのようなものではないから。」
と答えたそうです。
私は書の世界もまた同じではないかと思うのです。