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| 明治〜大正 国際ジャーナリストの先覚者 気骨の言論人 天南こと田原禎次郎について 田原 純一 「天南」のペンネームで気骨の言論人として、明治から大正にかけて活躍した田原禎次郎について、探求してみた。 西村山郡谷地町の田原家は中条系の医師として古く、家を継ぐ者は「純達」という名を代々襲名した。寛政から文化(1791年〜1805年)にかけての純達は名医の名が高く、その子元純も四代目「純達」を名乗った。 その元純の次男である恭治郎は大円と称し、仙台の伊達藩医で眼科医の中目道cに就いて眼科を専攻し、研鑚を積んだ。彼は白内障に水晶体の混濁を針で除去する独特の手術を施し、当時の医学界を驚かした。新庄戸沢公及び酒田の本間家から招かれ、吉田大八や本間家の主人の白内障を手術した。その後、酒田に永住し、そこで没し本間家の菩提寺 (安祥寺) に葬られた。その大円の子で兄の孝太郎は弁護士となり、弟禎次郎 (天南) は文筆の道に眼を向けたのである。
その天南は東京の独逸学協会学校(現在:獨協大学)で法律、文学を学んだ。才知鋭く、同協会会長北白川能久親王に認められ、後には政治家、後藤新平が明治28年に台湾の民政庁長官に就任した際、天南は招かれて、台湾日日新聞社の主筆に登用され、世界をまたにかけた言動活動が始まる。明治37年、日露戦争直前、後藤新平は天南翻訳のドイツ人B.シダコッフ著『露国の暗黒面』(※1)、なる書を陛下に献上した。翌年の明治38年にはB.シダコッフのシリーズ『露国皇室の内幕』(※2)を翻訳出版する。 その後、天南は日華両国の間に種々な事件が頻発し、多難を極める事態をみて、日華の反感は東洋の不利と判断し、1918(大正七)年に北京に京津日日新聞(日華新聞)社を創設し、時勢との奮闘を続けたのである。彼はしばしば、長期にわたり欧州に滞在し、明治43年英国での万国博覧会には特に台湾の政策と産業の紹介に奔走した。大正8年、第一次世界大戦終戦後、ベルサイユ講和会議に出席し、その実況をつぶさに内外に報道した。その後、彼は自己経営の京津日日新聞社を友人である森川照太氏に譲り、帰国後、わが国の方途について講演旅行などを行った。森川照太氏は新聞社の社長となり天津を本拠として活躍した。 大正11年11月頃から健康を害し、東京の慶應病院に入院したが、翌12年4月30日死去。享年60歳。 河北町谷地の安楽寺にある天南の墓石には、後藤新平の筆で 『埋骨の地とさだめん梅の森』 の碑文が刻まれている。彼が海外で収集した書籍は当時、世界的に問題化しつつあった社会思想運動に関するものなど広範膨大で彼の死後、後藤新平と東京市が全部購入する運びになったが、関東大震災で全て烏有に帰した。私の祖先としても誇りに思う人物である。 文献:田原家の歴史(田原純一著 昭和62年出版) 安楽寺由緒並寺譜 _________________________________________________________________________________________________________________________________________________________ ※1 『露国の暗黒面』 B.シダコッフ著 (田原天南訳) 明治37年発行 発行所 民友社
※2 『露国皇室の内幕』 B.シダコッフ著 (田原天南訳) 明治38年発行 発行所 民友社
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