非日常が日常に変わる午後



「もう一回いいか?」
 真顔で問う雄一郎に加納は答えず、そのまま目を閉じて応じた。
 理知的で薄い加納の唇が思いの外柔らかで好ましいことを、雄一郎はほんの数分前に知ったばかりだ。
        ※  ※  ※
 どうしても色恋とは違っている。もっと他の何かだと、雄一郎は加納を思い浮かべる度に思ってしまう。これから二人して一体どこへ行き着けばいいのか雄一郎なりに悩みもする。そして試みのように 日曜日の午後、仕掛けられた口づけだった。
 五月の光がカーテン越しに降り注ぐ雄一郎のアパートの部屋で。読みかけの本や昨夜脱いだままになっているワイシャツや、そろそろ取り替えたいようなシーツがかかった寝床や、どんなに現実感を喪失しようと望んでもそれが出来ない生活に囲まれた中で、雄一郎は加納に口づけを迫った。
 加納は台所の椅子に掛けて山の雑誌をめくっていた。昼食を作って貰った後の自然な分担で皿を洗っていた雄一郎は振り返って加納を目にし、昨日までは一つの案でしかなかった思いつきの実行を決めた。
互いの想いはどうにか受け入れ合った二人なのに、あまりに変じるところのない日常が、過去の積み重なりが長い分邪魔をしていた。停滞と不条理な固定。居心地が悪いようないいような、奇妙な時間。打破したいのは現状なのか迷いなのか、それとも他の何なのか解らないまま、雄一郎は加納に吸い寄せられるように唇を合わせてみた。
「祐介」呼ぶと何気なしに顔を上げた加納へと、酒のつまみを口に運ぶ気楽さで、かぶさる。

 先にまず感触がやってきて雄一郎は想像していなかった感覚に驚いて目を開けた。流石にこれほど近くで加納を見たのも初めてだった。加納のことをほとんど知り尽くしているという錯覚がこの一瞬に消し飛んだ。
 「で、どうなんだ?」
 呆けたように10センチの距離で止まっていた雄一郎に加納が問うた。
 「どうって・・」
 「試してみたんだろう」
 さらりと加納は何でもないことのように言い、<まいるな。お見通しか>と、雄一郎は苦笑する。
 しかし同時に、それよりも参ってしまうことが起きていた。

 <色恋とは絶対に違う筈や>口づけて認識したその想いの性質。やっぱり色恋とは違うんやと、心ははっきりそう言っている。それなのにそれとは相反する一つの裏切りが雄一郎を困惑させる。
 加納について知らないことがまだまだある、その一つを覗いてしまったばっかりにおきたさらなる欲求。十八年隠されてきた加納を自分の手でこじ開けて、知り尽くしたいと思った。その欲求に雄一郎の体はNOとは言ってくれず、むしろアクセルを踏んだようで・・・。

 もっと口づけたいと本能は言っていた。もっと深く、貪るように、加納を知りたい。試したんだろうと澄ましている 整った顔の奥から、幾重にもしまい込まれた奴の欲望さえ引きずり出してみたい・・・。
 ごくりと、雄一郎の喉が鳴った。

 「もう一回いいか?」
 そうして発せられた言葉に加納は何も応えなかったけれど目を閉じたのが了解の証だ。一回目のそれを試みと見破ったほどの男が、もう一度の口づけに込められた意味を読み間違えよう筈はなかった。
 ひょっとしたら二度目の口づけに至ることさえ加納には予測済みだったかという懸念が頭をよぎった。巧妙に踊らされているのかも知れないと。
 だが、そうだとしても抗う気は起きず、その必要も感じない。堕ちてしまえば居心地は悪くないのかも知れない。ダンテの言うところの煉獄でさえ。
テーブルに手を着いたままの姿勢で加納を深く貪って、逃げようのない現実感の中に身を置いて。心が大きく駆り立てられ、乱れる。
 雄一郎は唐突に「答えが出た」と、声でなく吐息で囁いた。
 「やっぱり色恋じゃない。」
 じっと見る加納に、
 「けど、そう。含んでるんや。色恋も含んだ、総合的な感情なんや、これは」  と、雄一郎は一応の解答に行き着いたらしい。
 加納は<そうか>と笑い、だがその笑みは一瞬で消えた。その時こそに加納は、自らの禁を解いたのかもしれない。それから先 今までにない激しさを見せる加納が雄一郎には嬉しく、高ぶりはもう止められなかった。
日常は変わっていく。
存在は変わっていく。
 目の前の男から発せられる熱い息。
 自らの、隠しようもない体の熱。
 互いに掻き抱く、きつい抱擁。
 明日からはきっと、これが日常になる。


                 END






TOP/NEXT