ーーー夜が終われば朝が来る。ーーー
三十年以上人並みの人生を繰り返してきたが、こんなごく当たり前のことを これほど渋々たる想いで認めたのは、加納祐介の人生至上全く初めての経験であった。
ーーーー光満ちる朝ーーーーー。
自分の横でぐっすり眠り込んでいる男を起こしてしまわぬよう注意しながら、加納はまだ感覚の戻りきらぬ体をゆっくりと起こした。
見渡せば、室内は惨憺たる有様に落ち入っている。家具の幾つかは(夢中になってぶつかったのだろう)所定の位置をずれて、枕辺に積んであった雑誌の山は散華の体。全く、なんと言うことだろう。
しかし本当に腹立たしいのはそんな状況ではなく、今となっては信じがたい昨夜の自分の方なのだとじきに認める。
どうかしていた。ブレーキが壊れて。あれでは暴走する牛馬より尚悪い。平常なら考えられないような行為の数々が思い出されて 加納は顔をしかめた。
そうだ、夜ならばあれで良かったのだと、後ろ暗さに考える。熱に浮かされ闇に取り込まれるまま情熱を放って、愛しさで狂いそうな目の前の相手だけにのめり込んでも、現実とは違う時空に身を置いていられた。
だがこうやって朝というものは必ず訪れる。その事を自分はすっかり失念してしまっていたと、苦々しく思う。
十八年、押し殺してきた想いだった。しかしそれも言い訳にはならない。一番欲しいのは精神(こころ)だと長年信じてきたが、それ自体が危ぶまれても仕方がない。昨夜のような、あんな無様を晒した後では。
雄一郎に抱いていた、長年の執念のような愛憎。何度も諦めようと試み、しかしかなわず、望んで望んでやがてその枯渇そのものが加納の本質に限りなく等しくなっていた。
乾いた自分にそれなりの折り合いはついていたし、抱えられる孤独だと思ってもいた。自分一人の胸の内に孤独一つをしまい込んでも、それでも雄一郎の側にあり続ける一生を何度心に想定したことだろう。
そんな未来を、幸福とまでは呼べないが取り立てて不幸でもないと納得して、すべては腹に収まっていることの筈だったのである。
だからそもそもの所、現実に関係が進展してゆくことなど考えたこともなかったというのが本当だ。
加納はため息を一つ漏らし、<それが悪かったのかも知れない>と、胸中に独白した。
加納が通常とる行動は 状況の分析と何手も先までの読みから導かれた最善のものである。他から見れば複雑なプロセスも自然に染みついたものなのでコントロールは巧みだ。それ故<策士>と思われていたりもするが、理想的とは言い難い淀んだ実社会に摩耗されず渡ってゆくには有効な対策だ。
そういった思考と行動の抑制選択判断機能が、昨夜は全く作動しないままに突っ走ってしまった。堪らない。とんだ暴走だ、と自分を笑う。
加納もあちこちに打撲や傷を作っているが、恐らく雄一郎の方も無傷ではあるまい。三十過ぎの男が二人、決して優しいとは言えない求め合いだった。
そういったことに対して普段は非常に淡泊な己の陰に、薄々尋常ではない己が潜むことを感じてはいた。が、まさかこれ程だったかと、自身にあきれている。
<どうやら野放しにしてこなくて正解だったらしい>
窓からの光がいよいよ眩しさを増す。雄一郎とて貴重な休日を一日中寝ているつもりでもないだろうからじきに目を覚ますかも知れない。
それまでに精神面の体勢を立て直す必要があるのを加納は自覚していた。欲望をきちんと飼い慣らしていかないとどんなことになるか、考えると頭が痛い。
<自分はこんな男だったのか>と、嘆きたくもなる。
淡泊どころか、だ。
太陽燦々たるこの清々しい朝に、間近で寝息に上下する健康的な喉元一つをこんなにも悩ましく見送っている。再び雄一郎を味わいたいという欲求が走り出さない内に 吹き飛んだ自制も理性への自信も早急に取り戻さねばならない。
そして、重大な懸案もあるのだった。
昨日は雄一郎の方も相当にアクセルを踏んでいたようだが、一夜明けたこの<朝>という時間のさわやかさに晒されたなら、正気に返る気になってもおかしくはない。そんなことはないと信じたいが、畏れはある。
どっちにしろ、とにかく過去の抑圧が全開・解放の現状は大問題である。
そこで加納は二箇条を立てた。
一・理性と自制への信頼の再構築
一・雄一郎が後悔の念を持つと判明したときの対策
雄一郎が目覚める前に解答を用意すべき事、二つ。二つともなかなかに難しい。(箇条なのは合理的思考を常とする一種の職業病かもしれない。)
ところが。
想像していたよりもずっと解答のために用意された時間は短かった。
ほとんど何も考えない内に雄一郎が身動きを一つした。
<まさか>
と思ったときにはもう目覚めていて、雄一郎がぼんやりと加納の名を小さく呼ぶ。
「祐介・・」
もちろん まだ何の準備も出来てはいない。
「祐介、おきてたんか・・・」
朝の光。現実の世界。
その中で雄一郎が何とも眩しい白い歯に彩られた笑顔をこぼす。
こんなにも眩しく、こんなにも切なく、そして嬉しい微笑みを たぶん加納は一生心に刻むだろう。求め合った心が夢でなく、今こうしていることが誤りではないと知らせてくれる、加納のすべてを許容した雄一郎の笑顔一つ。
しばらくそれを無言で噛み締め、加納は冷静なところに自分を留めようと努力する。
<二つあった課題が、後一つでよくなったな>
二つの内、やっかいなのは後者だと思っていたが、それが解決されたとなると前者がグンと困難さの度を増してしまうから、加納は必死だ。
雄一郎が何も纏わぬ互いの身体と部屋の惨状とを見比べ、再びはにかんで笑う。
「照れくさい。」
「ああ」と返すのへ、
でもな、と続ける。
「収まるところに収まったような、すっきりした感じや。」
「・・・そうか。」
もとより罪には堕ちているが、そうやって誘うのは如何なものか。
自制だ、理性だ、と心中に唱える。
「どうしたんや?」
加納の苦悩する頭の中身を全く知らず、雄一郎が訪ねる。
そして予期もしなかった事を躊躇なく言う。
「悩ましい顔だ。
俺は変だな。
でも、獣になる責任の一端はあんたにもあるぞ。」
<何!?>
光の中で、雄一郎が昨夜の後も生々しい寝床へ再び加納を引き込む。
またもや自ら何の解決もできぬ内に 二つあった課題の二つともが霧散してしまったことになる。
必死で押しとどめようとしていたものを先に仕掛けられて、心の奥から湧き出る笑いと喜び。
もう神妙になぞしていられるものか!。
雄一郎の、程良い弾力に包まれた身体にも唇にも欲望に発せられる声にも、本当はまだ満ち足りてはいないのだ。それ程に深い渇望だった。
身体全体が本能の虜となって先を急く。
<もう、夜のせいだったとは言えないな・・> 責任を転嫁することが出来なくなって、光の中の雄一郎を目を細めて見る。
十八年間の渇望が 水を吸って潤う。
心の虚空を通り抜け、踏み込まれたオアシス。
乾きを潤す・・一滴の水を、汲もう。
この熱い体で。
唇で。
END