贖罪 前編


<贖罪>ーーー金品やものを差し出して犯した罪を償うこと。罪滅ぼし。キリストが十字架に掛かり人類の罪の償いをしたことーーー

    ※    ※    ※    ※

「別れることに決めた。」
そんな唐突な言葉で、雄一郎が既に決定事項としての離婚を加納に知らせてきたのは、彼等の結婚からほぼ四年後の1987年秋の事だった。
 雄一郎から滲む焦燥に予感はあったのだが、信じたくない事柄であるのには変わりが無く、よって加納は心の内だけでは収集のつかぬ程の混乱と絶望でもってそれを受け留めることとなった。
 何十年も無縁だった涙は堰を切ってあふれ、そんな加納に雄一郎が抱いた感慨は<驚愕>と言う他はなかった。
 しかし、雄一郎の想像の及ばぬ所で この時期 加納はある精神的な危機に瀕しており、その状態を考えれば 実は無理もない反応だったのである。

  その頃加納は、毎日のように夢を見ていた。
 雄一郎と貴代子が巧く行っていないかもしれないと思い当たった頃にその夢は始まり、眠れば決まってその夢を見る。
 目が覚めたときには大抵寝汗で夜着は濡れ、耐えかねて飛び起きる事が繰り返された。繰り返し襲う夢の内容はほとんど同じで、自分と見まごう容貌の双子の妹が じっと黙したままで加納を見つめているだけの、音の無い夢だ。
 夢の中で、時間は一瞬であると同時に凍りついて制止した永遠でもある。
その一瞬のような永遠の間中、加納は貴代子が見つめてくる 黒い穴蔵のような双眼の奥に 百万の罵りよりも耐え難い 哀れみに似た非難を感じ取る。何も言わずに唯じっと、悲しい諦めを浮かべて貴代子は立っており、それだけのことなのに 加納の心中は狂わんばかりの罪の意識に責めさいなまれているのだった。

 
どうしてそんな夢を見るのかーーー。
実はその事の答えは、初めてその夢を見たときから既に加納には自覚されていた。
”雄一郎を一生涯自分の至近に繋いでおきたいーー”
エゴでしかない恋情に突き動かされるままに加納は、大学時代雄一郎に妹を引き合わせ、巧みに二人の感情を煽って、思い通りに事を運んできた。
遠くに行かせたくなかったから義兄弟という鎖で繋いだ。
雄一郎を失いたくないと言う執念の前には、あれほど親密に育った 双子の聡明な妹すらも単なる道具となり果てた。
 何も知らず自分を尊敬している妹を聖者の仮面で騙しながら、加納の頭にあったのは”とにかく雄一郎を留めたい”というエゴ一つだった。人として当然感じるべき罪悪や罪の意識は何故かどこにも存在しなかった。
 自分の血液を差し出して飲み水を請うような加納の人生を賭けた策略は ほぼ成功に違いなかったが、相応の苦しみと犠牲を伴って、やはり心は血を流していた。
 その血を拭き取ることに夢中で、自分の行いの恐ろしさにもそれ程思い至らず、罪を犯したこと自体都合良く忘れていたのだと言っていい。
 そう、心は完全に取り憑かれていた。
後もなく、先もなく、この一時一時の身を雄一郎の側に置き 同じ空気を呼吸していたい。ただそれだけの、それだけではない想いに。

 ところが神は、人の心を繰るという加納の傲慢を見過したままにはしておかれなかった。積み重なった歪みが清算されるべき時は着実に近づいていた。
何も感じていなかったことすらも、恐怖とともに悔いられる長い長い時間が。


    ※    ※    ※    ※    ※

   初めて罪の意識が加納に飛来したのは、彼等がだめになるかもしれないと思った瞬間のことであった。
 妹と、誰より大切な人間とが、人生の障壁にぶつかった挙げ句に傷つけ合って、暮らしにも互いにも熟んだが故の疲労を纏っていた。
 加納はよく夫婦を訪ねて食事をともにとったりしたが、そんな折に 溌剌と生き生きと、笑う彼等を見るのが好きだった。
 しかし彼等の周りにちりばめられていた光は色を失って、二人が二人ともまるで抜け殻の瞳をしている・・・。
 それを認め、そんなときになって初めて、どこかに本当に在るのかも知れない神の意志は加納に届き、そしてーーー、夢が始まった。

 夢の中で、加納の醜き本性を哀れむように見る貴代子。
 
<やめてくれ。
 憐れみなど要らない。
 許されたくもない。>

 雄一郎さえ在ればそれでいいのだと、そうなっても尚心の中から吹き出してくる身勝手な声がある。

 大地に風が低く唸る音色のような響きが朝な夕なに加納に問うた。

<汝の、その利己的な想いが、それが愛か>
ーーいいえ。愛と思いたいが エゴでしかないものだったのかもしれません。ーー

<汝がやったことは何だ>
ーー・・神のようにして 私は妹と雄一郎とを操り、
                  彼の心を得ようとしました。ーー
    私には唯一、彼だけが欲しかった。
                   為に、罪を、犯しました。

<汝は罪を過去のように”犯した”と言うが本当か。
                今も犯し続けているのではないか>
ーーあるいは、そうかもしれませんーー

<本当に悔いているというなら何故お前は男の夢を見ない?
              何故女だけがお前を責めるのか?>
ーーーそれは・・・・!ーーー

    ※    ※    ※    ※

 眠れば必ず妹が現れ、起きているときには非情な声が追求する。
 追求されるまでもなく、夢で自分を責めるのは一人貴代子に限られていて、それはつまるところ虫の良い話であった。
 毎日貴代子によって罰っせられていることで加納は幾らか自分が楽になるのを感じていたし、もし秘密を雄一郎に知られ 雄一郎からあのような眼差しを受けることになれば 恐らく平静ではおられず、則ち、そのエゴに凝り固まった汚れた本性を雄一郎に知られることをこそ、加納は最も恐れていた。
 結局の所 罪を悔いる気持ちは嘘ではないのに、雄一郎を諦められるかと言えばそうでなく、神の御前に心を晒されているときでさえ雄一郎を捨てきれない自分の狂気に、加納は苦しんでいた。
 そんなエゴ一つと、でも愛しくて守りたい人間が(ましてや自分のせいで)苦しむのを見たくないという思いとが両立し、だけども雄一郎があの光を取り戻してくれさえすれば貴代子との仲が修復されるのを祈ってもいいと思う気持ちが生じて、ほんの僅かに勝っていた。
 罪を自覚してしまってから、それだけが救いのように思われること。それは加納によって狂わされた人生を、願わくば彼等が自身の手で選び直して再び始めるというものだ。自分一人の中に巣くう悪鬼のごとき自我は如何ともしがたくても、それには左右されないで雄一郎と貴代子の人生が繋がってくれれば・・。
 再び彼等が二人で始めてくれるなら、恐ろしき欲望を抱いた自分は消せず心の内に罪を重ね続けることは避けられなくとも、人二人を巻き込むことはもうしない。 だから、神よ。すべての制裁は私一人の身の上にこそどうか与え賜え。苦しむのは私だけでいい。神よ、このただ一つの希望を、どうか・・。

   ※    ※    ※    ※    ※


 そして、神が加納に下された運命の日。
加納が思い描いていた最後の望みは、雄一郎に告げられた離婚の知らせに微塵に打ち砕かれた 。

<別れることに決めた>

   有る意味では、それは確かに加納の関知しない領域で、他でもない雄一郎と貴代子との意志が決定したことであった。
 しかし、彼等だけで選ばれた答えは、そもそもふたりの関係が加納の作為なしには始まらないものだったことを暗示するかのように、<別れ>の方であった。

やり直しではなく、清算。

己の心の中だけでなく、二人の人間を引き込んだ、大きな罪の証。

 生半可な許しなどどこにも用意されていないことを、加納は知った。
 絶望が加納を切り刻んで崩れ落ちてゆく自尊心の殻の前に 神の嗤う声が聞こえてくるようだった。


 二人の人間の二つの人生の間に何故自分が不自然にぶら下がり、許されると思ったのか?。この恋情のためにならどんな罪に堕ちてもかまわないと言う思いは今もあるが、最も愛する者の人生を挽きつぶしてまで自分だけの勝手な幸せを得たいということではなかったはずだ。
 愛していると、そればかりを思ってきたが いつの間にかその愛をエゴが裏切っていたことに何故気がつけなかったのか。

ーーー神よ、そうです、私は罪を犯しました。そして最悪の犠牲は払わずに、
罪だけが小さくなることを祈っていた。
  あなたはそれをお許しにはならないのですね。雄一郎への愛情と執着を
  解けぬままの私に、神よ、一体どうしろと仰るのですーーー 
 

それまで意識されなかったのが不思議なくらい強烈な 自己への不信がそぞろに湧き出た。罪悪。嫌悪。怒り。奈落へと転落する感覚。
 一旦芽生えたそれは 太い鋼の杭でもって加納の身一つを悔悛という十字架に打ち付け、括りつけた。

   全ては失敗だった、とその時雄一郎が言った。
その一言を、一生涯忘れるわけにはいかぬ罪の指標として、加納は心に留め続けている。

 そう、他ならぬ雄一郎の、抑えた苦しみが滲む言葉が、 加納にとってはどんな誹りより、神の声より、都合の良い期待など打ち砕く現実の裁きであった。
 守り、愛おしみたかった相手を追いつめて、苦しめて、それでも尚自分の正体が雄一郎に知られることを恐れている自分とは、一体何であるのか。
 毎日見る夢の中の貴代子も、そんな加納の有り様をとうに見透かした目をしていた。
 詰まるところ、エゴと愛が混じり合い、切り離せない自分。
 愛と信じ、エゴで雄一郎を捕らえたかった自分。
しかし、愛している。本当に愛している。
 目の前の、鋭さと繊細さを内面に湛えた一人の男に魅了され、どうしようもない程に愛しているのだ。

 ・・・その愛情を、エゴから解き放つためにはどうすればいいのか。
  既にすべての誤魔化しは失せ、すべての逃げ場は失われている。
  最早自明で、でも愛しているからこそ避けられない道がある。

    口では「別れないでくれ」と本当はもう諦めている言葉を言いながら、
  別のことを思って・・・、 加納は泣いた。

  
    届かなくても、貫きたい想いがあるから。

    醜いエゴに終わらせたくない、絶大な愛しさがあるから。

ーーー愛している、愛している、雄一郎!!ーーー

ーーー神よ、最も私が恐れていたことをこそ、あなたは望まれるのですねーー
ーーー 神よ。厳しく正しい、我らが父よ!ーーー


   側にいて声を聞き、笑い合い、ずっと見守っていたかった。
    決別を心に決めた愛しい相手を目の前にしながら、加納は偽らぬ最後の涙を流したのだった。

       ※    ※    ※    ※
  <ー贖罪ー>
犯した罪は、自分の何かで償わねばならない。


   他に何が出来るだろう。
 何を投げだしてでも困っているならば助けたいし、ただ見守ってそこにいると解るだけで心が満たされるーー。最も自分が欲っしているこの安らぎを手放す以外に、何が。
 これからも側にいて、強大な己の自我に雄一郎を挽きつぶさぬ自信はない。自分は側にいない方がいい。離れたくないからこそ離れるのでなければこの想いは結局の所エゴでしかないもので終わってしまうだろう。
 自分の欲求の為だけに、最も愛しい存在と誰より身近な者との人生を踏みにじってきた。そんな自分が許されることは、元より望んでいない。
たぶん雄一郎と決別したところで罪の鎖にうがたれた身体が楽になることはないだろう。
 それでも、過ぎた欲望を押さえもせずに積み重ねてきたこの業のすべては、自らの一生をかけて償って行くしかないのだった。許されないと解っていても。

 

その決別のみが雄一郎への愛を昇華し、いまの加納に許されている唯一の贖罪なのだった。

だからーーー。


    ※    ※    ※    ※    ※


 程なくして貴代子と雄一郎は別居し、正式に離婚の手続きをとった。
 三人が食卓を囲んでさざめき合った奇跡の日々は、こうして永遠に失われた。

  ----それから。
 貴代子は研究に邁進し、雄一郎は現場で叩き上げられる日々を送り、加納は加納で地方を転々と移って、良くも悪くも職務に追われた。
 三人の間には全く重なり合うことのない歳月が流れ始めて、もう誰にもそれを止めることは出来ないかのようだった。時間が停止したまま世間だけが姿を変えてゆくように思われる中で、一人貴代子だけが二人の立ち止まった地点を遠く離れていった。

   ※    ※    ※    ※

 離婚から4年の後に、 貴代子はアメリカに発った。
 加納は誓いを守り通し、雄一郎との時間のすべてに背を向け続けていた。

  決別を決めてから四年の後に、そのアメリカから 自分と合田雄一郎とを吹き揺らす一陣の風が吹いてくることを、その時加納はまだ知らなかったーーー。




                      後半へ続く。




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