「今日はどこかへ出掛けないか?」
雄一郎が目覚めた時には既に起き出し ささやかな朝食を準備していた男が、
”お早う”の後に困惑げな微笑を浮かべてそんな提案をした。
二ヶ月前に二人の関係は劇的に変じたのだったが、それぞれに多忙な職務が災いして 以来 丸一日を伴に過ごすのは初めてという、そんな休日の一幕である。
「出掛けるて、どこへ?」
昨夜の疲れの残るからだを引き起こして雄一郎が訪ねると
「どこでも。」
妙にきっぱりした答えが返ってくる。その口調とは裏腹に、一体何が苦しいというのか、加納は雄一郎から微妙に視線を逸らして会話をする。
敏腕検事と言うよりはむしろ 取調中の真犯人のごとき所作を訝(いぶか)しみながらも
「映画はどうや」と、雄一郎はとりあえず答えた。
「よし、では映画だ。そうと決まれば飯を食おう。」
とりあえずの提案は忽ち決定事項にされてしまって、市場に出回り始めたばかりの菜の花の煮浸しに香ばしく焼けたシシャモといういかにも旨そうな朝食を 急かされることとなった。
そうして二人は向かい合って食卓に着き、雄一郎はといえば、腑に落ちぬ思いのまま優雅な仕草で食物を口に運ぶ男に視線を留める。
思いがけず、少し開いたシャツの襟元に 形のいい鎖骨の窪みや昨夜自分が刻んだばかりの熱の痕を見る。それに目を奪われて、不審の為に向けた筈の眼差しが別の意味合いを帯び、箸が止まる。
お互いを向き合ってからの二ヶ月というもの、十八年分を取り戻すかのように暇さえ有れば身体を重ねてきた。 埋没し没入し、せり上がるものをぶつけ合い、同化すら願うかのように繰り返してきた幾多の情事。それでもまだ二人は飽きるということを知らない。
今も加納に少し目を留めただけというのに、渇望・劣情・慕情、その他諸々に取りつかれている有様だ。雄一郎は食欲とは別の飢餓感にひりつく喉が立てる音を誤魔化す為に、ししゃもの一匹に囓りついた。
加納は相も変わらず雄一郎に目を向けようとはしない。新聞を開いてはいても意識が紙面上にないことは、ページを繰る速度のいい加減さで知った。
<祐介、一体何を考えている?>
目の前の男に直接聞いても良かったのだが、それもなんだか悔しいように思われて雄一郎は止した。
昨日はあんなに激しく求めてきたのが、一夜明ければその胸の内を明かす気もないのかと、その涼しげな顔に腹も立ってくる。
素知らぬ風の男を眼(まなこ)に捕らえて、腹立ち紛れに雄一郎は茶碗に盛られた飯を掻き込んだ。
加納には、(こうやって直視することは避けていても)雄一郎の感情の起伏はお見通しなのだろうか。食事の速いペースが、空腹や時間を気にしているためではない雄一郎に、
「何を怒っている?」
と聞いてきた。
ーーーつくづく聡(さと)い男である。
「別に。」
と、機嫌の悪さがそのまま出た声で雄一郎。
「別にじゃないだろう。」
加納はもちろん引き下がらない。
「出かける前に解決しよう。何故怒る?」
加納が一旦こうした追求を始めると刑事の雄一郎でも怯むほど容赦が無いことは、この二ヶ月で認識した。
ならば攻撃に転じるが勝ち。そもそも種をまいたのは雄一郎ではない。
「先におかしかったんは、あんたの方だ。」
(そうとも。聞きたいのはこちらだ。)
「俺が?」
「目も合わせない。側にも来ない。しきりと外出を誘う。変じゃないとしたら何だ?。」
雄一郎が思いつくまま先程からの加納の不自然をあげつらってやると、
加納は朝に目覚めたときに外出を提案しながら見せたのと同種の苦笑をその端正な顔に浮かべ、それから大きく溜息を一つ。
「鈍い男が悪いのか、それとも鈍い男に魅せられた俺が悪いのか。」
まるでシェークスピア劇の台詞のように大仰に、少し戯(おど)けて嘆いてみせた。
「何?」
鈍い男とは自分のことかと思い当たり、しかしそれ以外は已然解らぬ。
雄一郎はまだむっとしたままで、そのもやもやとした気持ちが溶解しきるには言葉が足りない。
「お前と目を合わせ、側に近づき、外にも出ずにいたらどうなるか。
・・・あれ以来初めて取れたせっかくの揃いの休日を、
いつものようにしてしまっても良いのか?」
いつものように・・・?
それは困る。一日中ともなればそれは、<一晩中>の二倍ということか?。簡単に言うが もしそんなことになったなら いか程の体力を要するものだろうかと、雄一郎は核心から外れたことにまずは気を取られた。
その後で、ヒントというより答えそのもののこの供述に事の真相が込められていることに気が付くと、とたんに周りにたちこめていた霧は晴れ、開けたところに出ていた。
鈍い男というのは 間違っていないかも知れない。
ここまでを聞いてやっと、雄一郎は 今朝起きてからの加納の不自然な振る舞いの理由に想像が及んで、納得がいった。
”そういうことだったのか・・・”
目を反らし、距離を置き、二人の空間から逃げようとしたのも、すべては先程自分が加納に向けていたような 欲情に繋がる要素を排除する配慮だったのだと。
求めても求めても尚欲しいと思ってしまうのは、加納も合田もきっと同じなのだった。
だけども肉の欲とは切り離されたこうなる前の和やかさの類にも失いたくない執着がある。
孤独な男二人が生きる上で互いを選んだのは、ただ色情の関係に堕ち行く為ではない。もし死のうというならば互いの他に相手は望むべくもないが、(さらに言うなら堕ちてしまった方が楽なのかも知れぬ、堕ちたいと、心の中では思っているのかも知れないが、)それでもやはり頭(こうべ)を上げて、賭けるべき人生の諸事というものを伴に持ち続けていたかった。
体力云々、休日云々という事ももちろんだが、そのようなことも考えている義兄の頭の中身がこの時の雄一郎には解ったと思ったし、雄一郎の方とて、抱き合うことがすべてになってしまったような日々の中で 同じようなことを考えないではなかった。単なる恋愛感情に帰結させ 肉のまぐわいにのみ邁進するのは、これまでの十八年に対する冒涜で有るとも。
確かに、精神がお互いを欲っしたところから始まった筈が 互いの身体に溺れていないとは言いにくい日々を過ごしてしまっていた。そこに些かの軌道修正を加えなければ、この休日の行き着くところは修羅だったかも知れない。
同時に、飢えた猫の前に置かれた魚よろしく眠っている自分を目の端にして、この取り澄ました男がそれなりに揺れ、それでも雄一郎を思い、二人のあるべき関係を思って、密かに巡らせてていた努力の有りようにそそられる。
さぞかし骨の折れる我慢だったのだろう。自制の力でなく視野に入れないことで雄一郎を遮断して、漸くかなうような。
いつもは自分よりも一二周り人間の大きいこの男に 尊敬に近い感情を抱いているのが、その取り澄ました涼しげな顔の奥に隠されているものをこうして覗くことになった時に、かわいらしさと愛しさが綯い交ぜ(ないまぜ)となった感情の爆発に変じて雄一郎に襲いかかって来た。
案外に可愛らしいところのあるこの男に向かって、今、<あんたを抱きたくなった>と言ったら、努力が無駄になると叱られるだろうか。
真摯に二人の行くべき軌道を正そうとしている男の為に、不純な欲情は隠して、「映画、出かけることにして正解や。」とのみ声にして。
わかった。こうなったら付き合うさ。ちゃんと行く先を見極めて行こう。堕ちるのは程々にして、男二人の腐らない人生二つを お前と伴に探して行こう。
そんな言葉を心の中で返しながら、雄一郎は自分の伴侶が誇らしくも思えて、満足を一つ。
そしてその後 出掛けるまでの間、押せば落ちそうな目線をくれる雄一郎を警戒し加納はより一層用心深く距離を保つ努力をした。
※ ※ ※ ※
朝食の後。
二人はあわただしくマンションを出た。
天は青く澄んでおり、しかし空気の中にはまだ冷たさが残っている。
散策にはちょうど良い日差しと清々しさだった。
暗く隠った室内でなく、青空の下を並んで歩く。
学生の頃にも良くこうやって歩いては色々と話をした。
遠い昔に味わった穏やかな日々の記憶が思い出されて、二人同時に顔を上げ、懐かしい微笑を取り交わす。
<ずいぶん遠回りをした>
しかしそれは全く無駄だったわけではないと、紆余曲折と回避と迂回をフルに通り抜けてきた男達には解っている。そしうして得た複雑怪奇かつ多重な耐震構造を備えた関係が今では売りだ。
「散歩、食事、買い物、映画、それから飲もう。今日はデートだ。」
古くさいことを恥ずかしげも無く言う男に、
<デートなんて、もう死語だぞ>と雄一郎は嘆き、
そもそもいい年をした男二人がすることではないと戒めるのを忘れなかった。
加納は聞こえなかったふりで笑ったまま
「ああ、いい天気だ。」と空を仰いだ。
上方には翳りのない青い空がどこまでも広がっていたーーー。
そして。
加納が立てたせっかくの計画が、<映画>の行程を三分の一まで進めた辺りで遂行を放棄されてしまったことを最後に付け加えておく。
努力と改善の理想もむなしく、映画館の薄暗がりに互いの身体の息づく気配ばかりが耳に飛び込んだ時点で、二人はとうとう音を上げた。
<散策>・<食事>までは満喫されていた和やかさも、人目を憚ってよそよそしく演じられる距離への焦れに吹き飛び、指先に触れ合うことさえ許されぬ強いられた禁欲に、常時より濃縮された発情が湧いて出た。
結局の所、二人はどちらからともなく飛び出すように映画館を出、某所へと急ぎ戻ることとなった。
他には何もない、思う存分互いを確かめ合うだけの、ただそれだけの欲求一つを果たすために。
恋情とも欲情とも決っしがたい欲求は、生ずるに時間と場所とを選んではくれないものらしい。
嗚呼、やんぬるかなーーー。
ーーー幕ーーー
TOP/NEXT