雨宿り
それまで熱心に資料の山を読みふけっていた男がふと顔を上げ、視線を窓の外に巡らすと、ここ数日止むことなく降り続く雨が 相変わらず街中に落ちていた。
”雨、かーーー。”
男はそのまま手を止めて大理石のビル群を濡らすその様に暫く見入った。
多忙の上に多忙を重ねたような職務の時には差し挟みようのない感慨が、こうした一瞬の隙間に取りついて離れないことがある。或る存在への思いを飲み込んできた長い歳月の分 回想される時にも場所にも不足はないが、こんな六月の雨の日には決まって呼び起こされる、残像が一つ。
同じように曇天から大粒の滴が降り注いでいた遠い六月・・。もう十五年以上も昔のことになるか?
※ ※ ※ ※
いや、正確には十七年だ。もう十七年もの昔。
加納もまだ若く 第一志望だった大学へ通い始めたばかりだった。
コンパや新生活の始まりでざわついていた大学一年生達の日常が幾らか落ち着きを取り戻し始めるのが、丁度六月の雨の季節を迎える頃のことだ。
その日加納は人口過密が適度なくらいまで人の減ったキャンパスを、次の講義の教室へと急いでいた。
彼と同じ法学部の人間はそのほとんどが司法試験睨みである為、暗黙に欠席を認められている大概の講義には出ないようになる。四月にせっかく見知った互いの顔も前期試験を迎える頃には忘れてしまって、思い出すのに四苦八苦する光景は法学部名物とも言われる。
だからその時期学内を歩いているのは他学部生か、そうでなければよっぽどの<変わり者>という事になるが、加納はその<変わり者>度をさらに選択した科目の奇異さ(哲学、比較思想史、フランス古典文学、美学、心理学概論、メディア論、ラテン語・・・etc・・、司法試験には直接関係しないもの多数) によってより一層深めていた。(自覚はない)
その日の講義を終えて教室を出ようとした午後になって、<梅雨の中休み>を決め込んでいた空から大粒の雨が降り注ぎ始めた。梅雨時は傘を常備しているが こう雨足が強くてはと、加納は一階の学生ロビーで止むのを待ちがてら本を広げることにした。
”鬱陶しいことだ。”
有名私大とは名ばかりの薄汚れたキャンパスに降る雨は散らばった学生運動のビラをふやけさせながら地面に染み込み、着実な人生の途上で順調に自己を磨き上げてゆこうとする青年の、普段は持ち得ない空虚さと焦燥とを変に煽った。
父譲りの優秀な頭脳に端麗で涼しい恵まれた容貌。人生にも社会にも理想と希望は抱いているし、それを成し遂げるために思い描いた計画もある。その予定通りの人生を完璧にこなしてきた加納祐介という男の上に、しかしこの雨が一閃の迷いと物足りなさとを運んできたようだった。
”こんな風に降る雨は、ネガティブな思考につけ込む隙を与えるから嫌いだな”
広げた文庫本も進まない。
放心したように加納は 開け放たれたガラスのドアの向こうの雨に視線を漂わせていた。
雨は、一向に弱まらないーーー。
※ ※ ※ ※ ※
その思考の狭間に、ロビー入り口の庇の下へと勢い良く駆け込んでくる人影が一つ。加納の視界1.5メートル内へと疾走する闖入者(ちんにゅうしゃ)があった。
どうやら隣の棟からほんの数十メートルを走り抜けてきたらしいが、プールの栓を抜いたような激しい降りには無謀な所行(しょぎょう)と言えるだろう。
”無茶をする・・”
そしてすぐ目と鼻の先に立ち止まった。
男の白いシャツは水を含んで、恐らく絞れるのではあるまいか。それ程に濡れそぼっている。
わざわざ濡れなくて良さそうなものを、と加納はあきれ、非難含みの不躾な視線を相手に寄せた。(常時は非難なぞ覗かせる男ではないのだが、雨の憂鬱がそうさせたのかも知れない。)
”何か移動する目的でもあったのか?急いでいるわけでもなさそうだが”
外からこちらに向き直った男と目が合い、相手の男も加納に劣らぬ不躾な視線を投げ返してきて、そのまま反らそうとしないのが印象的だった。まるで挑むかのようにして、雨の滴も拭わずに加納を見ている。
”何だ?”
興味を引かれて観察を続けると、濡れそぼっているのにどこか清潔感のある、ずいぶん姿勢の良い男であることが解った。何度か講義の時にも見かけた気がする。
思い当たってまじまじと見れば、黒く深みのある相貌が強い光を放っているのに出くわした。
雑談に興じる学生達が集う雑多なロビーで、男とその濡れた二つの黒点に気を取られて、加納の周りだけが騒音から切り離されていく。相当にうるさい筈なのに 雨の音がすぐ近くに聞こえる。
唐突に加納に向かって男が口を開いた。
「じきに止む」
「?」
それが雨のことだと気が付いて加納が戸外を見上げると、確かに雨足は急速に弱まろうとしていた。
「実は天気が読める。雲、気温、それから風で。」
男は加納に横顔を向けたまま言った。
始めての人間同士の会話とも思えず、加納は呆気にとられていた。
”おかしな男だ。少し関西のイントネーションがあるか?”
”しかし、直に止むと解っているなら、何故わざわざ・・?”
加納が当然の疑問に自分を訝しんでいるのが解ったのか、男は再びその浅黒く日に焼けた面を加納に向けて、
「あんたを知ってる。法学部のくせに授業に出てる、<変人>。」
と言い放った。
”<変人>ーー?”
歯に絹着せぬ物言いは、しかし続いた言葉によってすぐに違った意味合いのものになる。
「合田雄一郎だ。あんたと同じ法学部。たぶんく<変人>の一人や。」
ーーつまり、同類と言いたいらしい。
そこで初めて合田と名乗った男の、挑戦的な表情に固められていたその顔が どこか幼さを残す華やいだ笑顔に取って代わった。きれいな白い歯に彩られたそれは、言うならば・・・・・<晴朗>?空高く突き抜けるように澄み切った、清(すが)しい笑顔。(だが それにしては雨が似合うーーー。)
短く刈られた髪と きめの細かそうな肌の上に 玉になった水滴が弾け、輝き、加納の目を奪った。
唐突な会話に、ごつごつした宝石の原石をかち割ってとりだされたダイヤのごとき笑顔一つに心がざわめいて、加納祐介は不穏な目眩を覚えていた。
突如として揺らめき飛び跳ねようとする世界を押しとどめる加納の脇で、合田雄一郎はまた梅雨空に目をやって、
「やばいな、外れる。その前に退散や。授業も行かな。」
と、またもや謎めいたことを言い、
「あんたも、今の内に帰った方がいい。」
とも言った。
そしてそう発するやいなや、突然やってきた男は弱まった雨の中を 元いた隣の建物に向かって一気に走り抜けた。
すり抜けざま加納の耳に「あんたと話してみたかった」と素早くささやき、瞼にははにかんだ特上の笑顔一つを残していった。加納の中に声と残像とを置いて去った。
”俺と話す為だって?”
加納が問いただす暇(いとま)は与えられず、初夏の青嵐(あおあらし)のように唐突で強硬な印象を残して消えてしまった。
”なんと一方的な男!”
その姿が校舎の中に見えなくなった直後、止むと言っていた雨はまた激しさを増し、<外れ>と<退散>との意味が解った加納は思わず苦笑を誘われる。
(外れてるじゃないか、予想。)
だが土砂降りの雨は 鮮烈なあの男によく似合っていた。
加納は一人残されて、しかしそれまで灰色にたれ込めていた世界が一気に光を取り戻してゆくのを味わっていた。
窓に映じる濡れた欅の緑色は、こんなにも目に沁みる鮮やかさだったか?
銀杏の青葉はこんなにもかぐわしき雨の臭いを香り立たせていただろうか?
”俺の心に、何かが起こってしまった!”
そしてそれまで倦怠の雨でしかなかったものが いきとし生けるもの達へまろやかに降り注ぐ恵みの雨へと変わって、世界を静かに潤していった。
※ ※ ※ ※ ※
「加納君、君も根を詰めすぎるのは良くない」
回想の中へと意識を飛ばしてずいぶんじっとしていたのだろう、上司が心配して声をかけてきた。
「ええ、平気です。ちょっと気になる事があったもので・・」
適当に返したが、本当は根を詰めるどころか仕事になっていなかった。
「悪いけど今日は先に失礼するよ」
「ええ。お疲れさまでした。」
珍しく早い時刻に上司が去り、執務室には加納が一人残された。
一人になれば尚のこと、十七年の過去とは思えない今なお鮮やかな男の残像が激しい六月の雨に溢れ出るのを消せはしない。
あの日の雨に取りつかれたまま ずいぶんと長い年月をただ一人彷徨ってきた。
雨の中、男の髪に滴った雨の滴の、その輝きに魅入られた。
その宝玉の輝きにも負けぬ 強い目の光に宿られた。
何よりあの男の存在が、心ごと理性もプライドも奪い去って、替わりにそこへ
宿ってしまった。
それが始まり。
(とんだ雨宿りもあったものだ)
そして今日、大都会を降っている雨の色はかつてのような鮮やかさは失ってしまった。
十七年、一括りには出来ないような葛藤を繰り返し 何度も決別さえ試みて揺れ動いてきた。そこで確信できたのは”思いは告げられぬ”、”しかし諦めることもかなわぬ”という生易しくはない感情の抜き差しならぬ現実だ。
だが、それでも自分の想いに出来うる限り徹っすることで守り抜いてきたものもある。
”そんなに悪い人生でもないさ。(幸せとまでは言えなくとも)”
加納はそんな想いの一つを胸に確かめて、俺の中に勝手に宿ってしまったあの男は今頃どうしているだろうかと しばし思い出ではない方の想い人について考えを巡らせた。
これだけの年月を経ても宿り主は離れるどころか一層加納の奥深くへと浸透し、残像が益々胸を締め付けてくる昨今だ。
”どうせもう仕事にはならない。今夜辺り、久々に訪れてみようか・・。”
思いだすともう止まらなかった。
そうと決まればどこかで食材を仕入れたい。あれも、これもと、もう加納の頭は現実の段取りを始めていた。
雨。
激しく世界をたたきつける、六月のーー。
窓の外には鮮やかとは言えないまでも 十七年分の渋みを刷いてしっとりと濡れた雨の世界が深海のように広がっていたーーー。
END
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