瞼の君


 

   今現在が幸せかどうかを客観的に問えば、十八年にも渡る片恋を実らせ、奇跡のような関係を踏み出し始めたばかりの男が”幸せでない”と答えるなどきっと許されないのだろう。加納祐介は、蒸し暑い夜道を普段と何ら変わることのない滑らかな身のこなしで歩きながら、そんなことを思って苦い笑いを漏らしていた。
 といっても実際に今の状態を<幸せでない>と感じている訳ではなく、長年の想い人は今でも加納の胸を狂おしく踊らせ、二人で過ごす時間の甘さはこうなる以前には想像も付かなかった陶酔の色で世界を満たしてくれている。
 今も雄一郎のアパートへ仕事を終えて向かう途中で、こうしてゆっくり会えるのは実に二週間ぶりのことでも有り、自然に心ははやっていた。幸福かそうでないかで答えるなら、加納が幸せであると即答するべき状況にあるのは誰の目にも明らかだった。

 長い混迷から抜け出た朝に 加納への想いを自らに認めたのだという合田雄一郎はつまりは”愛している”のだと、すぐに加納には信じ切れなかった告白をくれた。全く予期せぬ展開に空から振り落とされた幸福はすばらしく、それ以上望むことはもう無いとさえ思ったことも、加納は今尚忘れていない。
 <しかし・・>
 すっきりとは晴れ渡らぬ湿った空同様に、割り切れない想いが一つ心の中にあるのもまた確かで、それが胸の底に石のように沈んで心を重くしていた。

 夜になっても気温の一向に下がらぬ七月の東京を、加納はシャツの襟元一つ緩めずに、不思議なほど涼しげな様で歩いてゆく。
 灰色の、集合住宅の建物の前までやってくると階段を規則正しいリズムで登り、それから良く見知ったドアの前まで来て立ち止まった。部屋の主が通勤に使う自転車がとめてあり、どうやら先に帰っているらしいことを告げている。
 子供の靴やポリタンク、リサイクル用に分けられたゴミなど生活が戸外まで溢れている両隣に比し、その部屋の前だけが男の独居を物語るなんとも殺風景な外観を呈していた。

 その見慣れた光景に しかし今日はいつもと違った要素が差し挟まれているのを加納は見過ごさなかった。
 壁際に前の来訪時にはなかったダンボール箱が置かれてある。箱は封をされておらず 履き古したスニーカーや雑誌類、錆びた山道具などが乱雑に覗いていた。どうやら捨てるつもりのものらしい。
 ”大掃除か?雄一郎にしては感心なことだが。”
 部屋の主の行動が加納にはもの珍しく思われ 揶揄めいた微笑が浮かぶ。それが多少なりとも渋いのはそうやって片付けられた<荷物>が、想い続けたその相手に一度は裏切られた過去の記憶を蘇らせた為だ。

   入院する事になった男の必要品を取りに来てみれば、荷物が整然と片付けられた室内に迎えられた。身辺を整理していたらしいその様にこらえきれない憤怒が駆け巡った夜。

 加納の半生はそんな苦い想いの連なりから出来あがっていた筈で、それが今どうしてこんな未来に繋がったのか、それが不思議で、加納には二人の間に起こったことがとんでもない数奇のように思えてならない。
 加納の心は十八年もの年月を 忍従の苦痛というものに慣らされてきた。その日々の記憶が鮮烈すぎて未だ葬り去れない過去も多く、心の奥に苦しみの片鱗が溶け残っているのが、簡単には消えてくれそうもない。

   そう言ったやっかいな感傷にも似たものをきちんとセーブしていかなければ、それがとんでもない病床へと熟んでゆく危険を知っていたので、それは今のところは巧みにコントロールされていた。
 その心の鬱屈が雄一郎のせいではない事ぐらい加納には解っている。それが加納の心の問題である以上は雄一郎には不安のかけらでも悟らせるつもりはなく、いつもドアを開ける前にそれまで付きまとっていた迷いは全て 穏やかな笑顔一つの下へとしまい込まれるのが常だった。
 今日も特に努力も要さずに、雄一郎のための仮面を瞬時に纏って、加納はドアへ手を掛けた。
   だがノブをひねる直前、伸ばされた手はそのままで静止してしまった。注意を引く何某かを見つけたらしく、目は壁際のダンボールの中身に再び注がれていた。
 加納はかがみ込むと中を少しかき分け、ビニールにくるまれた包みを箱から取り出した。
 微かに覗いていた黒に近いブルーグレーの、記憶に刻まれたその色が加納を呼び止めたのだった。気になってもしやと思って探ってみれば検討した通りの品が出てきて、加納は自らの記憶と直感に驚いていた。
   それが用いられていた頃を考えれば相当古いものの筈だが 金のボタンが袋の中でくすむことなく輝いている。
 ゴミの中から拾い出された品物は古い制服なのだったが、加納にとっては特別な記憶に結びつく、有る意味思い出の品だった。そして思い出は、常に甘いものとは限らない。
   制服の包みを手にとり、何かに打たれたようにして暫くじっと見つめていた加納は、やがてそれを持ったままドアの内へと入っていった。



    ※   ※   ※   ※   ※


  「ああ、帰ったんか」
 今ドアの外で加納が見せていた表情も、直前に取られた行動も、何も知る由のない雄一郎は、久しぶりに訪れた相手を実に機嫌良く迎えた。
「外、暑かったろう。ビール開けるか?」
「いや。いい。」
 鞄を置きながら加納が室内を見渡すと、所狭しと山の道具が広げられていた。
「ああ、それでか。」
 表の処分品は山の準備の副産物にすぎぬらしく 室内は特に片づけられた様子ではない。
「何だ?」
「外のダンボール、雄一郎の大掃除には半年ほど早いから不思議だった。」 
「そんなんここ数年 年末にもしてへんわ。」
 そう言って雄一郎は笑い、昔はしょっちゅう六法全書を片手にでも掃除機をかけていた男の前でふっと優しい顔になった。
 何の異変にも気が付かぬまま、雄一郎は屈託なく話を山のことに運び、
「夏山の支度、そろそろ始めようと思ってな。行くだろ?」
 言いながら注意を先程まで手がけていたらしいシューズの手入れに戻していた。久々の山がよっぽど待ち遠しいのか加納を振り返った顔は浮き立って明るい。
「そうだな・・」
 けれど上の空の返事が表しているように、先程ダンボール箱の中にその制服を見つけてしまったときから、加納の頭には全く別のものが宿って思考を占領してしまっていた。その事が不穏に心をかき乱して、雄一郎と山の話をしたい気分には到底なれそうもなかった。

 その時加納の心にあったのは、或る避けがたい葛藤であり 今までどうにか保ってきた精神の平穏というものを崩し去ろうとする衝動であった。
 それまで自らの淀みに宛(あてが)っていた蓋を 抗い難い力によってこじ開けられ開かれてしまいそうで、突き上がってくるものを加納は何とかして押さえ込もうとしていた。

 その淀みの正体は、今目の前でくつろいだ笑顔を加納へと向けている愛しくてならない存在について、知り尽くしている事が多すぎるだけに単純なものではない。

 いくら相手が雄一郎でも超えるべき一線を越えれば沈静化してゆくだろうと高を括っていた想いは 加納の予想を大きく裏切り、その存在を深く知れば知るだけ強烈に加納を魅了してしまっている。
 そうやって囚われてゆく程に、想いが増してゆく程に、加納は自らの内に灯った紅蓮の炎をどうにも抑えきれずにいる自分に気付かされることになった。
 何も知らなければ、そして知ってしまったものがもっと違った形であったならば ここまでその炎に焼かれて苦しむこともなかったのかも知れない。
 けれどその事実は最も残忍な形をして振り返ればいつでもそこに影のように付きまとっており、より一層 独占と嫉妬の色をした炎を掻き立てずにはおかないのだった。

 最初から雄一郎を手に入れることなど望んではいなかった。全てを諦め、ただ想いを湛えて側にいたときには、それは抱けるはずもない、思いつきもしない欲求だった。
 けれどある事件を境にして、望むことを諦めていた幸福が加納へ微笑みを投げかけた。その愛しい相手をついには腕に抱かせるに至った。
 一度でも得られるならば他の何を無くしてもいい。そう思っていた相手をこうして手に入れ、腕に抱き、情を交わし合うことさえ実現した。
 そうした結果加納の内側に立ち現れた感情は幸福への穏やかな満足ではなく、もっともっとより完全に雄一郎を得たいのだという、未来永劫の渇望を伴ったものであった。
 十八年もの長い年月、返し手が不在のまま厚く囲われた皮膚の内に発酵し続けた想いは、執念となり欲となり、時には炎の想いとなって雄一郎を所有し尽くしたいという 時に加納自身が恐ろしくなる願望にまで変じてしまっていたのだ。

 その熱風のごとき恋情は、より完全であることを加納に望んで既得された幸福の内で収まろうとはしなかった。
 即ち、現在と未来の愛しい相手を得られる位置に手が届いたときに、得られなかった過ぎた日々への 身を引き裂いて沸き上がる渇望が、加納の中に燃えはじめたのだった。


 雄一郎が自分へと向けてくる偽りのない実直な感情を信じないわけではなかった。それは少し前なら望むべくもなかった幸福であるに違いなく、その喜びだけに身を浸せばいいと、今は今であって過去ではない。過ぎ去った日々に囚われるのをやめて雄一郎の投げかけてくる暖かなものの中へ埋没してしまえばいいと、正常な理性に基づいて発せられる声は、分を超えた完全を望もうとする自分の愚かさを常に告発し続けていた。
 だがそれを聞き入れない強固な感情が、加納の中には怪物のように巣喰っていて、目を逸らすことの出来ない本心からの欲求を心に叫ばせていた。

   どうせ得られないなら諦めていられた。だが手に入れるというならば、全てを、完全に、容赦なき所まで手に入れるのでなければ苦しいのだった。
 雄一郎を誰にも渡したくない。雄一郎に関することはどんな些末な小事でも誰にも譲ってやりたくはない。現在も未来も、そして過去でさえ、自分だけのものであって欲しくて 、すべて支配してしまいたくて、そんなことを望んで止まぬ際限のない愛情に取りつかれてしまった。

互いに交わす口づけの、既に形成されていた些細な癖や、自分を抱くときに見せる男としての顔。そんなことの一つ一つが自分の知らぬ過去を臭わせ、距離を臭わせ、手の届かぬ時間を臭わせた。その度に、胸を焼け焦がす熱砂のごとき苦痛は体内を駆け巡り、愛しさの逆にある感情が加納をめちゃくちゃに打ちのめした。

 しかしそれらへの苦しみをいくら抱えてもどうにもならないというのも また確かなことで、だからこそその感情は加納の意志で胸の奥深いところへと注意深くしまい込まれていたのだった。
 柔らかな笑顔一つの下に全部包み込んで、雄一郎には恐らくその苦痛の片鱗さえ気が付かれてはいまい。そうやって押さえ隠し、自分の狂気とも呼べるものを時が癒やしてくれるのを 息を顰めながら待ち望んでいた。
 そんな加納の努力によって、闇に向かっていきそうになる心は時折ふっと浮かぶという程度までには克服できていたはずだった。頭に染みついているものを”消し去る”事は出来なくても、”押し秘める”事には成功していたのだ。
 そう、今宵そのブルー・グレイの制服が加納の目の前に晒される、その時までは。


    ※    ※    ※    ※    ※

 加納の記憶の中に今も鋭く突き刺さった、抜けない棘がある。
今日その制服を見つけたのは全くの偶然だった。しかし加納は見つけてしまい、見つけたからには見過ごせないだけの重い過去がその背後にはぶら下がっていた。

 瞼の裏に濃いブルー・グレイの影が揺れていた。良く見知った背中、首筋。今ではもう遠い過去の・・・。

 そのたった一枚の制服が意識的に忘れ去られようとしていた過去をつぶさに、すぐそこにあることのようなリアルさで、加納の内に蘇らせた。
 黒に近いブルー・グレイの、警察官の旧冬服。それは当時巡査部長だった雄一郎に本当に良く似合っていた。
 十年以上も昔の、遠い遠い過去の記憶が 棘の刺さった癒え切らぬ傷口から滴り溢れるのを押さえようがなかった。


   その頃は皆がまだ若かった。
 加納は駆け出しの検事。雄一郎は交番勤務の巡査部長。妹で当時雄一郎の妻だった貴代子も大学院に通う学生だった。

   肌寒い三月頃のことだったかも知れない。
 その頃彼等が構えた新居であるアパートに加納は足繁く通っており、夕食を供にすることも頻繁で、敢えて学生時代の継続のようにして加納は仕事が早く引れば二人のアパートに直行するのが常だった。
 その日も遅くならなかったので加納の足は自然に官舎ではなく二人の新居の方に向けられた。
 その日に限って妙に電車の連絡が良く、いつもは一本電話を入れるのがその隙が無かった。三十分も経たぬ内にアパートのある駅まで着てしまった。
 そこでさらに運の悪かったことに、駅から目的地までの間に一つだけ有る公衆電話が女子高生にふさがれていて、それを横目に待とうかどうか考えたが、終わる気配がなかったのと いなかったら帰ればいいと思う気楽さから加納はそのまま通り過ぎてしまった。
 アパートの近くまで来ると明かりがついているのが見えた。雄一郎は帰っているだろうか、ぐらいのことを思って何の警戒も配慮もその時の加納には無縁だった。
 
 アパートに着いた。
   ドアには鍵がかかっておらず、ドアを開けた入り口に貴代子のハイヒールと雄一郎の出勤用の革靴が並んでいた。
 ”どっちも帰っているな”
 そう認めながら二人に声を掛けようとした加納の耳に、一瞬早く聞こえた物音があった。喉まで出かかっていた声は飲み込まれ、それから加納は皮膚にまとわりつくような、明らかにいつもとは違った室内の空気を悟らされた。

 その時、加納はきびすを返してそこを立ち去るべきだった。それは後になって何度も繰り返し思ったことだ。
 しかし時に人は 一旦覗きかけた恐怖に魅入られ、そうなるとどんな恐怖も最後まで見届けずにはいられなくなる。まさにその時の加納がそれで、その時取った行動をこそ”魔が差した”と人は言うのだろう。

 無意識に気配を殺して加納は奥へと入っていった。リビングに二人の姿はなく、台所へ続くドアが少しだけ開いていた。

 一瞬理性が働いたが引き返す事はできなかった。耳を塞ぎたい音と気配は隣室から発せられているようだった。ドアに近づいた。
そこで加納は、現実となった恐怖に遭遇した。


 加納が見たものーー。
 それは台所で抱き合う、貴代子と雄一郎の姿だった。
 雄一郎は交番勤務から直帰したのか、加納が密かに好んでいる凛々しい制服のままで、ほとんど着衣もはだけずに貴代子にのしかかっていた。
 そこでの妹は”女”で、雄一郎は加納の知らない雄だった。
 せわしなく動くブルーグレイの背中が加納の心を殴りつけ、体をそこに凍りつかせた。
 時折貴代子の漏らす喘いだ声に重なって 雄一郎の喉からも低い快楽の吐息が吐き出された。加納が想像したことのある声に驚くほど似ていたけれど、それが自分に聞く事を許されたものではないことを思うと、気が狂いそうだった。
 加納が望んでも決してもたらされることのないものが貴代子の日常にはこうして何でもなく転がっているのだということを、加納はその時改めて 容赦のない現実という形で見せつけられた。同じ顔をした双子の妹は”女である”という理由だけで難なくそれを手に入れ、ずっと想い続けている自分はどんなに望んだところで所詮むなしい空回を続けてゆくしかないのだ、それも一生。
 心の面では貴代子よりも自分の方がずっと雄一郎の近くにいる。そう思ってきた、僅かな自信を繋いできた糸がぶっつりと切れて、どろりと粘着質の”妬み”という感情が 加納の目も鼻も口も、全部塞いでしまった。ーーー息が出来ない。

 もちろんこんな事はとっくに頭では解っていた。他の女にくれてやるよりは良い。そもそもはそう思って 操るように加納が結びつけた二人だった。

   ”彼等は夫婦だ”
とうに納得していることをもう一度心に言い聞かせる。
 自分など夫婦の間に混入した不純物に過ぎなくて、今起きていることは極めて当たり前のことなのだとも。
 だが、目にしている現実はそんな理性の範疇とは隔たったプリミティヴな部分に嵐のように吹き込んで、受け入れがたい拒絶の感覚が加納を縛りつける。

 怒りに揺らめく視界。
 吐き気がこみ上げ、体中が反発にむせんでいた。
 弾けそうな感情を押さえ込み、息を潜め、その場に立ちすくんでいると、小刻みな震えが足元から這い上がって加納の全身は冷たい汗に濡れた。



 その後どうやって官舎まで帰ったのかを、加納は覚えていない。
 壮絶な苦痛に耐えることで精一杯で、それから暫くの日常を機械の様に過ごした、そんな記憶があるだけだ。
 この日を境にアパートへの足も遠のいていった。


    ※    ※    ※    ※    ※    ※


 ブルー・グレイの制服によって、蘇らされた記憶。
 その記憶が、同じ顔をした妹によって形作られたものでなければ、これ程の執着を抱かなかっただろうか?それは解らない。
 しかし双子の妹が自分とそっくりな容貌で愛して止まぬ相手と交わっていたという過去は、思い出す度穏やかではいられぬ場所へと加納を引きずり込む。
 本当なら小さなかけらでも他人に許したくはない雄一郎の過去の時間は、そうやって最も受け入れ難い形で、これ以上無いという残忍な光景として繰り広げられたものだった。
 雄一郎と実の妹との耐え難い場面は、それが網膜に焼き付いた時点の生々しさを保って 今も加納を苛(さいな)み続けている。制服を見つけてしまって、普段は抑えられている動揺と混乱が一気に噴き上がった。
   一つ、はっきりと言えるのは、”雄一郎を他の女にやるよりは妹にくれてやる方がいい。”と、そう判断した根拠がそもそも間違っていたと言うことだ。
 実の妹が雄一郎の妻であることは 思惑通りこの上なく都合が良く、極めて自然に割り込んでゆくことが出来た。
 だが同じ顔で 誰より血を濃く分けた妹であっても他人は他人なのだという認識が甘かったのだということを否定できない。異なった皮膚に囲われた、似通ってはいても別個の自我は、同調は出来ても所詮同化は出来ないのだ。自分に望めないことを血を分けた妹に託すように思っていた。”自分の為”、”自分の替わりに”と、そんなことを期待した恐るべき傲慢。それが転落の原因で、つまりは間違いの要因だった。

   他の誰にも渡したくないと、明らかにそう思っているくせに、心は勝手で克つ微妙だった。
 自分の、他人が小綺麗だと言って褒めそやす顔と似ても似つかぬ誰かがあの日あそこにいたのなら、所詮かなわぬものだったと案外さわやかな諦めとやらもついたのかも知れぬ等と、そこにいたのが妹だったことの不運を思った。
 そのくらい貴代子と加納は似すぎていて、体を取り替えれば自分なのではないかと思うほどに、雄一郎の上で喘ぐ女の姿は加納自身に重なった。
 ならば、何故自分では駄目なのかという心情に、加納は罠にはまった小動物のように落ち込んでいった。

 息の詰まるような感情に襲われた。”嫉妬”と呼ぶところの。全身を揺らめかせる灼熱の感情。自我もプライドもたたき壊す、歪んだ力に取り込まれそうになる。
 愛情の中に潜む諸刃は、光に呼応して闇の力も強大になる。愛しいと思う気持ちとそれに負けない強烈な具体的に向かう先のない憎しみとが同時に心に渦巻いて、それこそ過去二十数年に積み上げられた自己など 簡単に吹き飛んでしまいそうな、”嫉妬”とはそういうものだった。

 雄一郎を独占したい所有の欲と 妹貴代子への醜い嫉妬を苦しくも綯い交ぜにした感情がその制服一枚には象徴されていた。
 雄一郎の知らぬところで二人の間に降りてしまっていた影をそのまま形にして広げたものが そのブルー・グレイの制服であるかのようにさえ、加納には思えていたのだった。


    ※    ※    ※    ※    ※    ※


 一瞬の間のことではあったが、迷いと回想とが加納を別の次元に連れ去っていた。
 雄一郎の存在にすぐ現実へ引き戻され、何かを振り切るように黙って立ち上がると、加納は広げられた道具の隙間を抜けてキッチンの方へ行った。そして先程から小脇に抱えたままだった品を、雄一郎の目に晒すようにしてテーブルの上へと投げ置いた。
 何の説明も加えずにその制服を見せつけるようにしたのは、あることを見極めたいが為に加納が故意にやったことだった。

 それまで何も気が付いていなかった雄一郎にとって 義兄の行動はいかにも唐突で、最初は登山靴を手にしたままポカンと見送っていた。
 けれど加納の端正な顔からいつもの穏やかな微笑が消えていることを見て取るや、何かが違っている状況に頭が切り替わった。
「どうした?」
 自分も同じように山道具を跨いでキッチンまで行き、テーブルの上に置かれたものを目で確かめた。
「え・・!?」
 しかしそれがゴミに出そうと片付けたばかりの自分の古い制服である事を認めて、雄一郎はその意図が分からず困惑した。
「制服・・?」

 先のLD事件の折、雄一郎は身辺整理の意味を込めて家中の持ち物を総ざらえた。その時変なところから雄一郎が巡査部長だった頃に着用していた懐かしい制服が出てきて、いずれは処分しようと取り置いてそのままになっていた。
 昇進で袖を通すことが無くなった制服は返すのが普通だが、移動の時にどうしてかその一着がどこを探しても見あたらずに、仕方が無く始末書を書いた。(部外には出ていない事は確かだったから幸い大事にはならなかった。)
 そういういわくの品ではあったが それは加納には何の関係もないことで、それを再発見してゴミとして処分しようとしたからといって咎められるような理由は何処にもない筈だった。
 外に出してあったのをわざわざ持ち帰ったりして、加納は明らかに何らかのこだわりをその制服に抱いているようだ。だが雄一郎には思い当たることはなく、何十年も前の制服が何故目の前の男を不機嫌に陥れているのか全く解らない。
 思い当たることを一頻(ひとしき)り考えても一つとして加納に関係のありそうな事柄は浮かんでこなかった。となれば、本人に聞いてみるより他はない。
「十年も前の制服なんか、何で急に・・」
しかし当の本人は 普段から感情の振り幅が小さいこの男にしては明らかに雰囲気を強張らせて、雄一郎が問うのにも答えようとしない。
 雄一郎は全く訳が解らずに、テーブルの上に投げ出されたブルー・グレイの包みをやるせなく凝視した。


    ※    ※    ※    ※    ※    ※



 雄一郎の反応を加納は祈るように見守っていた。
 そんなことをして、不安が事実であることを確かめることにでもなれば、自ら押さえ込んできたどろどろとした感情が制御できないものに変わる危険は、十分に承知していた。
 だが解っていさえすれば感情を操れるというものでは無いらしく、欲求は鎮まらなかった。
 もしかしたら、という想いが制服を見つけてしまったときから頭の中に取りついて離れず、もし恐れる通りであるとすれば それは許し難いことであるに違いなく、その不安がぐるぐると加納の中に巡って、真実を確かめたいという気持ちに逆らうことは加納には出来なかった。


   雄一郎の表情に現れるどんな変化も見過ごすまいと見つめながら加納は、気になって仕方がない一つのことを確認するべく言葉を選んでいた。
 ”これは捨てて欲しくない。”そういったなら雄一郎はなんと答えるだろうか?
まずは雄一郎を揺さぶって見るつもりだった。

 加納が確かめたいこと。
それは自分の覚えているやるせない過去が 雄一郎の中では一体どんな風であるのかということだ。その記憶が彼の中で今でも生きたものなのかどうかを、加納はどうしても知りたかった。その事が、現在の加納の感情の鍵を握っていると言っても良かった。


 台所、制服を着た揺れる背中、声、耳に飛び込んできた喘ぎーーー。

 自分もそれを忘れることが出来ないように、雄一郎の中にもその日の記憶・貴代子との日々が消え残りひょっとしたら甘やかに彩られて、留まり続けているのではないか---?
 もしその制服を見たときに雄一郎があの光景を思い出していたのだとしたら?
 背後に付随した貴代子との生活の端々がそこに蘇ったのだとしたら?

 それまでの過去には目を瞑ってもそれが現在にまで根を張っているとなれば話は別だ。それは加納には絶対に許すことのできない、最たることだった。どれだけ冷静に考えたくとも、許せないという想いは狂暴に荒れ狂い、肥大してゆく。

 その場に立ちつくしている雄一郎へ向けて言った。
「こんな懐かしいもの、無理に捨てなくてもいいんじゃないか?
これを見つけたおかげで さっきから色々と思い出していた。」
「色々?」
 たっぷりと沈黙を煮詰めた後に、わざと含みのある言葉を香辛料のように垂らす。そうやって加納は雄一郎から手掛かりになる何かを引き出そうというのだった。
  制服を着ていた十年前が貴代子との結婚生活に重なっていることに思い至り、問い返す雄一郎の声は自然に怪訝なものとなった。
「色々って・・、何をだ?」
「俺にも思い出すことぐらいはあるさ。君にも、忘れられないことがあるように。」
 そういって雄一郎を見た加納の目は 柔らかい口調に反し刺すように鋭かった。それに晒されると、雄一郎は何とも不安な感情を引き出されて 胸がざわざわと鳴り出すのを感じた。
 確かにその制服には幾つかの記憶が付きまとっていて、忘れていないこともある。中には加納には絶対に知られたくない種類の思い出も混ざっており、故に後ろめたさがあって、居心地の悪さを感じていたときにかけられたその言葉は雄一郎の内部をひどくかき乱した。
 見透かしたような険しい目と相まって”知っているぞ”と責めているようにも聞こえてきて、そんなはずはない、加納が自分の考えていることも過去も知っているはずがないと思うのに 不安な気分はぬぐい去れなかった。


 雄一郎の胸の動揺が、加納には腹を切り開いて見せられているも同然に伝わってきていた。試しはしても どうか普段と変わらぬ雄一郎であってくれ、いらぬ危惧であってくれと、そう祈っていた。が、祈りはむなしく、ほんの少し言葉をかけて揺さぶっただけで雄一郎の外壁は中も筒抜けに陥落してしまった。

 雄一郎がその制服に関して何かを覚えていて、それが彼に焦りをもたらすものであることが、少なくともはっきりした。
 雄一郎が思い出したことが加納の脳裏に刻まれたあの光景なのかどうかは解らなかったが、(ひょっとしたらまだ他にも加納の知らぬ記憶があるのかも知れなかったが、)もう十分だった。とにかくこれで彼の中の過去の時が風化しきっていないことは確かめられた。雄一郎にとって貴代子との時間がとうに忘却の彼方だとは言えないものらしいこと。その事実。それに変わりはない。
 もしかしたらきっかけがなければずっと思い出されることもなかった記憶なのだとしても、このままにしておけば 思い出は幾つかの物事に連動し 雄一郎の頭の片隅に残り続けるだろう。それを認めるわけにはいかないのだった。

 加納の内に落とされる影は濃さを増し、忽ち漆黒の闇へと変わって 激情の触手を光の方へと伸ばした。
 雄一郎の全てを手に入れたいという望みも、自分の欲するものを無造作に得た妹への怒りも。どちらも尋常ではない強いものだったにもかかわらず 意志と理性とで封じ込んできた。
その努力ごと猛烈な嫉妬の爆風が、今、加納を吹き飛ばしてしまおうとしていたーーーー。

「雄一郎」  加納は想い続けてきた相手の名を呼んだ。
 心の何処かでは いつか雄一郎に歪みきった自分の一部を知られ、蔑みの目で見られる日を恐れていた。
 しかし完全を望む欲望がそんな恐怖さえ超えて暴走しようとするのを止められない。
 感情の堰は切られたのだった。
 後はもう、思ったままに進むだけだ。


    ※    ※    ※    ※    ※    ※


「何だって?・・もう一回言ってくれ。」
 たった今加納によって発せられた言葉が雄一郎には信じられず聞き返した。
目の前にある制服を”着てくれ”などと、加納は本当にそう言ったのか?
「これを着て欲しいと言ったんだ。」
 加納は悪びれもせず真っ直ぐ雄一郎を見、繰り返した。どうやら雄一郎の聞き違いではなかったらしく、かといって冗談でもないことはその固い声音に明らかだった。
「何でこんなものにこだわる?」
「それは、今に解る。」
 加納は声だけは楽しげにそう言って、しかし表情にはやるせない色を漂わせている。
「ちょっと着るぐらい良いだろう。それとも着て見せたくない理由があるか?」
「そんなものを着なきゃならん理由を、こっちが聞きたいと言っている!訳がわからん。」
「解らなくていいんだ。君は黙って着てくれるだけで・・」
加納はそう言うと自嘲するようにふっと笑い、手近な椅子にかけて白い手で顔を覆った。
 先程からのやりとり全部が 雄一郎にとっては本当に混乱するしかないような話で、どちらも忙しい仕事の間を縫っての二週間ぶりの逢瀬が どうしてこんな始まり方をしてしまったのかと、不満がこみ上げる。
 ”不条理だ。”
 手を組んでこちらを窺っている加納の静けさの中では、恐らく沢山の思考が行き交っているのだろう。それは解っても雄一郎にはその中身までは理解する事ができない。
 自分も向かいの椅子に掛け、加納と手元の制服とを交互に見る。一瞬変態じみた遊び心を疑わないでもなかったのだが、それにしては重々しいものが込められた要請のようなのだった。戯れにしては頑なすぎる。黙ったまま加納はその視線で雄一郎に求めてくる。普段は理詰めで通すタイプのこの男が 今夜に限って理由も言わずに我が儘を押し通そうというのは、酷く奇妙なことでもあった。
 結局雄一郎が折れることになるのは 時間の問題だったのかも知れない。解っていても大きな溜息が出た。
「・・着るから、ちゃんと話せよ。」
 渋々言って雄一郎は制服を手に取り、クリーニングのビニールを裂く。
 もちろん納得もしていないし本意ではなかったが 突き放すことの出来ない何かを感じ取っていた。雄一郎にはその種の直感が人よりも冴えている面があって、刑事生活の中でも幾度と無くそれに助けられてもいる。
 二人で過ごしている時間のちょっとした隙間に 底の知れない仄暗い目を覗かせることが加納にはあり、今回のことも時たま見せるその暗い目と無関係ではないと、雄一郎の直感が知らせていた。
 実は加納に自分には隠された翳りを感じたのはこれが始めてではなくて、だからこそ今見えている何かが余計に気懸かりなのだった。
 誰より解りたい相手は並でない複雑さにプラスして様々なことを自分だけで抱え込む自己完結癖を持っているので 雄一郎の方から探る努力は欠かせない。とは言え加納という男はそれまで自分だけしか愛してこなかった合田雄一郎という冷徹な一個人に、自発的にそんな配慮をさせてしまう何者かであることは確かだった。

 そこにある問題を仄めかすように、雄一郎から承諾をもぎ取った加納の反応は”喜んでいる”というのとは違っていた。嬉しいと言うよりは裁きを受ける囚人の面もちで返事を聞き、「悪いな。」と一言を残し、キッチンに雄一郎と制服とを置き去りにして、どうしてか隣室に消えてしまった。
 絶対に何かがあると思うのにそれが何なのかを悟らせてくれない加納が、思いの外世話の焼ける男であることを雄一郎は最近になって知った。

 ”仕方がない、着替えるか・・。”

 

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