2月某日


 

 出勤前の、加納の方が一足早く出掛けるその玄関先で、出かけんとする男がふと雄一郎に目を留めて尋ねた。
「 どうした?」
 いつも通り見送っているつもりの雄一郎だったのに、こういう時の加納の鋭さにはいつも驚かされる。
「いや。そう言えば今日だったと思ってな。」
「今日?・・ああ、そうか。今日は君を刺した男の公判だったな。」
 ちょっと考えて加納は一旦開けかけたドアを戻すと 雄一郎の方へ向き直った。
 11月の事件以降、二人の間で当時の細かなことは話されないまま 関係だけが変わっていったが、それぞれ気になっていなかった訳ではない。そこに問題が潜んでいるのが解っている故に二人とも話すことを避けているような所があった。
 雄一郎は早い時期からレディ・ジョーカーの正体が<半田修平>という刑事だと見抜いていたようで、それを知っている筈の上層部が当然取るべき対処を取らないことで、この社会・この現実に一層追いつめられていったのらしかった。加納は他の誰でもない、雄一郎が雄一郎であったからこそ そこに感じずにいられなかった苛立ち・焦燥・その果ての深い絶望が手に取るように解ると思う。
 負わなくても済んだ重傷を負ったのも、たぶん自分をも含めた人間の全体、それが作る社会の全体が嫌になっていたからだろうし、加納自身も時々同じように全てを諦めてしまい気持ちになるときもあるのだ。
 雄一郎が耐えきれないと思った 一個人の力では抗いがたい人界の権力と欲望、あらゆる邪が、次から次へと押し寄せる案件の背後に見え隠れする。
 対する警察官も検察官もちっぽけな歯車の一つでしかあり得ないのが実情で、しかしふと手元の事件から全体を俯瞰(ふかん)すれば、必ず実体無き邪悪が一時も休むことなく蠢いているのに出くわす。光の届かぬ闇は濃く、広大すぎる。身を竦ませ、心を挫(くじ)く闇を見る。
 だから言ってみれば、雄一郎が苦しんでいたことは加納にも苦しまれていた同種の苦悩で、自分のことのように解ることは出来るのだが、しかしそこまでだった。懊悩を取り除いてやること等、加納にも他の誰にもできはしない。所詮人は自分の苦しみを自分で背負い 自分で苦しんでゆくしか無いのだ。加納は加納の、雄一郎は雄一郎の苦しみを苦しんでゆくしかない。
 解っていても手をさしのべてやりたい気持ちが湧くのはそれが雄一郎だからで、理屈を逸脱しているその在りようが即ち加納の<情>なのだろう。

確認の意味で
「きっとほぼ百パーセント、本来取り沙汰されるべき内容の公判にはならないだろうな。」
雄一郎の目を覗き込んで加納が言うと、
「解っている。」
と固い声が返った。
 加納は鞄をかまちに置き、まだパジャマ姿の雄一郎の頬にそっと触れた。
「・・・大丈夫か?」
 目の前の愛しくてならない存在が永遠に奪い去られそうだった瞬間を思い出して、加納は思わずそう聞いていた。
 雄一郎は加納の問いの意味が解ってその言葉に破顔し、自分の頬を辿る手をなぞる。
「ああ。平気だ。どうせ精神鑑定だろうし、それに納得など出来ないが・・。今はあんたの言ってた通り腹に収まってるからな。」
 もう心配はいらないと、加納を真っ直ぐに見つめ返してくる。
「そうか。」
 その笑みが以前のように自分から離れてゆこうとする男のそれでないことを用心深く認めて、加納も笑った。もういくら何でもあんな想いには耐えられないぞと内心では呟いて。

「雄一郎、根来や、お前の上司・・三好管理官が積んだブロックの上に、俺達も一歩一歩崩れない石を積んでゆくんだ。
 地道だが確実に世の中は変わると信じよう。俺達が果たせなくとも、俺達の上に石を積む人間だっている。すぐではなくともきっと果たせる。だから・・」
 真剣に、染み込ませるように、自分を案じて解いてくる男を、雄一郎は優しい顔になってまじまじと眺めた。
 一時は姿の見えぬ対岸にまで遠のいた男。その整った容貌が今は空間を別にしていても近い。頬に押し当てられた手の温もりがカシミアの柔らかさで雄一郎を溶かし、会う度に積もっていた分の氷まで溶かしてくれている。そうである内は、この男にこうして導かれている内は、自分はもう迷わないという自信が雄一郎にはある。
「上が動かないと決めたときから 今日の公判の内容は決まってたようなもんだろうな。そんなことに一々自暴自棄になったりするんはやめた。もう、自分を見失ったりせえへん。」
 頬で加納に重ねていた手指を絡めるように組んだ。ぎゅっと握る。
 加納は 想い人の底の方まで澄んだ目と穏やかな表情に 今度こそ心からの安堵をし、それを確かめるように腕に抱いた。
 ふわりと上質なコートの質感が包む。加納が突き当たった不安を追い払おうと、雄一郎も柔らかに抱き返す。
 こんな時温もりは言葉よりも雄弁に気持ちを伝達し合うツールになる。想い、想い返されている今では、こうやって以前よりも雄一郎の中へと踏み込んでゆくことが出来て、加納は今度はどんなことでも拗れる前に気が付いてやるつもりでいる。
 少し顔を離して、至近で見つめ合って、<本当に大丈夫だな><ああ、しつこいぞ>と無言の応答をし合って笑い、それから口づける。
 雄一郎はたとえこれからの毎日が嫌になる微少な事件の折り重なりに過ぎないのだとしても、こうして目指すべき先を、煩雑な日常の向こうに広がる地平を、最も大切に思う相手と共に追ってゆける自分を、ふと ”幸せだな”と感じた。一人なら転がり落ちるしかなかった正道を手の中の夢として見せてくれるこの男を、心の底から尊敬してもいる。
「あんたに睨まれたら怖いな。今日の落とし前をつける日も遠くはなさそうだ。」
「俺の髪が全部白くなるまでにはと思っているが。」
「じゃあ今度寝ている時に、色を抜いとくのはどうだ?」
「そんなことをしたら、雄一郎には金髪になって貰うぞ。」
「アホ!」
 色っぽさとは無縁のことを囁き合って、一瞬の通じ合い満ち足りた時を二人分かつ。
 それだけでは済ませたくない気持ちになってしまう前に、
「わ!あんた時間だろ?」
雄一郎が思い出して体をもぎ離し、足下の鞄を拾って突きだした。
「ほら、急げ。
 遅刻なんかしたら積んだブロックが足下から崩れるぞ。」
「そんなに急かさなくてもまだ平気だ。」
「はよ行け!」
 雄一郎が少し照れているのを見て取って 加納は声を立てずに微笑み、鞄を受け取った。
 コートの襟を正して心を霞ヶ関仕様に切り替えると、自然に表情も仕事のためのそれになる。
「では行って来る。」
「あ。」
「何だ?」
 忘れ物かと振り返った加納の唇に、雄一郎が触れるだけのキスを寄越した。
悪戯をする子供の顔になって言う。
「あんたの検事の顔、好きや。」
「・・・。」
 無言で ぐっと来ることを言う相手を振り切るようにアパートを出た。
 今度こそ遅れる心配をしながら駅へと急ぐ。
 外へ出た瞬間から検事の堅さを宿した加納の背中に、払い落とされた筈の私人の喜びがほんの少し残って、小さく跳ねていた。




                        END

                        
 
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