takamura's LIBRARY NO.7

 BLUE HEAVEN      


「もう、終わりにしようか・・・、僕たち・・・」
 テーブルの向かいに座る美希に僕は言った。
 一瞬だけ、はっとしたような表情を作ってから彼女は、窓の外に視線を移した。
 テーブルの上の灰皿からは、薄紫色の煙がゆっくりと立ち昇っていた。
 そしてそれは、窓から差し込む秋の日差しに照らされて、テーブルの上に淡い影を
残していた。

 それはまるで、モネの描いた絵画を見ているような、そんな淡い影だった。
「どうして・・・? どうして急にそんなコト言い出すの・・・?」
 少し驚いたような表情をして、美希はそう言った。
「見つめていたところよりも、見たくないところの方が大きくなってるんだ」
 煙草に手を伸ばしながら、僕はそう言った。
「それって、私のコト・・・、キライになったってコトなの?」
 哀しそうな瞳をして彼女は言った。
「そういうんじゃないんだ・・・。美希のコトは今でも好きだよ」
「じゃぁ、どうして・・・?」
「見たくないころが大きくなればなるほど、今までと同じ僕でいられるか不安なんだよ」
「そんな・・・」
「僕が美希にたいして冷たくなったり、哀しい想いをさせたくないんだ」
「ずいぶん・・・、勝手じゃない・・・」
「それは悪いと思うけど・・・ね、美希・・・」
 僕がそう言った時彼女は溜め息を1つついて、力なくうつむくだけだった。
「・・・」
 煙草の火を消して僕は、もう冷たくなったコーヒーを口にした。
「解った・・・。そうね・・・、それがいいかもね」
 何度か小さくうなづいて、美希はそう言った。
「私もね、実は涼君のイヤなところも見えてきてたよ・・・。だから・・・、
もしかしたらこうなるんじゃないかなって、思ったりもしてた」

 そう言いながら美希はティーカップの縁を指でなぞっていた。
 秋の日差しをうけて、カップの縁は鈍く輝いて見えた。
 それはまるで、彼女の指になぞられて、急速に色あせていくようだった。

    

「涼君も私も、お互いのイヤなところばっかり見えちゃ、一緒にいても辛いだけかも
しれないしね」

「ごめん・・・、美希・・・」
「いいの・・・」
 そう言って美希はバッグからコンパクトを出してルージュを引きなおした。
「それじゃね・・・」
 力なく立ち上がると彼女はそう言って僕に背を向けた。
「・・・」
 何も言葉が出てこずに、そんな彼女を見つめるだけだった。
 店を出た彼女は僕の座っているテーブルのすぐ目の前を通り過ぎていった。
 ためらいがちに僕は小さく手を振ったけれど、彼女は僕の方を見ようともしなかった。
 曇りひとつないガラスの向こう側の彼女の瞳が、微かに輝いて見えた。
 溢れてくる涙をこらえていたのかもしれない。
 もしかしたら・・・。
 そして秋の光をいっぱいに浴びながら美希は人ごみの中に溶けていった。


 そんな2人の別れはある日突然にやってきた。
 太陽の日差しが和らいで、街が秋色に染まり始めた頃だった。
 照りつける太陽の日差しが眩しかった頃なんて、もう古い記憶の様に色褪せていった。
 2人の仲が急速に近づいたのは2年前。
 それは桜の華が街を彩る頃だった。
 そして夏を告げる雨が降り始める頃には、2人の影は1つになっていた。
 周りの友達がうらやむくらいに・・・。

 でも、2人の仲が深まれば深まるほど、「好きになれること」と「好きになれない
ところ」、「許せるところ」と「許せないところ」、そして「見つめていたいところ」
と「見たくないところ」が徐々に増えていった。

 そしてそれは、2人の間に大きな溝となって、そしてそれは埋めがたいものとなって
いった。

 結局のところ、知り合えば知り合うぼど、「陽」の面と「陰」の面の差が大きくなって、
それは取り返しのつかないところまできてしまっていたのだった。

 そして僕たちは、「別れる」ということで、それを解決しようとしていた。
 それがお互いが楽になれる最良の答えだと、2人とも考えていた。
 
 でもそれが、もっと苦しくて辛い日々の始まりなんて、僕にしても美希にしても
思ってもいなかったんだ。

 そう、その時は・・・。



 その日の夜。
 ソファに深々を身を委ねながら僕は、バーボンソーダを飲んでいた。
 辺りにはTchaikovskyの『舟歌』が流れていた。
 窓越しの空には、早くも冬の星座が姿を見せていた。
 グラスの中では、ちいさな曹達の泡が小さな音を立てて弾けていた。
 そして時折、遠くで汽笛が鳴っていた。
 
 そんな、まるで幻想的な世界に終止符を打ったのは、電話のベルだった。
 初め僕はそれを無視しようと思ったけれど、それは執拗に僕を呼びつづけていた。
 立ち上がって僕がキッチンに行くと、留守電のメッセージが流れ始めた。
「もしもし・・・、美希ですけど・・・」
 懐かしい声が辺りに響く。
「急に電話しちゃって、ごめんなさい。どうしても・・・、どうしても聞いてもらいたい
コトあったから・・・」

 その声の後ろから、微かにジャズか何かが聞こえてきた。
 きっと美希は、自分の部屋から電話しているのだろう。
「ごめんなさい・・・。また、電話しますね。それじゃ、おやすみなさい」
 そう彼女は言うと、受話器を置いたようだった。
 
 しばらくの間僕は、ぼんやりと電話を見つめつづけていた。
 それまで辺りを満たしていた音楽が止まった。
 そしてリビングからしばらくするとカタリと小さな音がしてアームが上がり、ターン
テーブルが止まった。


 10分か15分くらいの間僕は暗いキッチンでぼんやりとそんなふうにしていた。
 それはとても短いような、それでいてとても永いような、そんな不思議な時間だった。
 リビングに戻ると、部屋のライトがずいぶんと眩しかった。
 そして僕はテーブルの上の、だいぶ薄くなったバーボンソーダのグラスを手にして、
ベランダへ出た。

 夜風はもう、だいぶ冷たくなっていた。
 ベランダの手すりに寄りかかりながら僕は、グラスを一気にあおった。
 そして煙草に火を点けて、さっきの美希の電話のコトを思った。

 きっと美希はまだ僕のコトが好きなんだ。
 僕だって、本当はまだ彼女のコトが・・・。
 でも、もうあの頃のように一緒にいるだけで幸せな気持ちにはなれないんだ。
 お互い2人、きっと知り合いすぎたんだよ・・・。
 もうお互い2人・・・、あの頃のようには出来ないんだよ。
 美希だって辛いかもしれないけれど、僕だって・・・。
 結局・・・、こうするしかなかったんだ。
 一緒にいるだけで幸せになれたあの頃にはもう、戻れないんだ。
 そうだよ・・・。
 時間(とき)は2度と戻らないんだ・・・。 

 そう思うと僕は、なんだか急に哀しくなってきた。
 そして何もかもが急速に色褪せていくように思えた。
 そして僕は、とてもやりきれないものを感じていた・・・。

 後悔・・・?
 後悔なんてするもんか・・・。

「仕方なかったんだ・・・。こうする他に・・・」
 夜空に向かって呟いてみたけれど、気持ちはすっきりしなかった。



 それからどれくらいかの時間が流れた。
 1時間か、2時間くらい。
 本当はもっと短い時間だったのかもしれない。

 キッチンで再び電話が僕を呼んでいた。
 僕は少し迷ったのだけれど、結局、受話器に手を伸ばした。

                

「もしもし・・・」
「もしもし・・・、涼君?」
 受話器の向こう側にいたのは美希だった。
「・・・」
 何も言葉が出ずに僕は受話器を持ったまま立ち尽くしていた。
「お願い、切らないで」
 僕が何も言わなかったので、美希はとっさにそう言った。
 きっと僕が電話を切るんじゃないかと思ったのだろう。
「大丈夫・・・。切ったりはしないから・・・」
 リビングへ歩きながら僕はそう言った。
「ごめんなさい。急に電話しちゃって・・・。怒ってるでしょ?」
「いや、大丈夫だよ。怒ってないし・・・」
 そう言いながら僕は、テーブルの上のグラスにワイルドターキーを注いだ。 
 そして氷をいれようかどうしようか少し考えたけれど、結局入れなかった。
「良かった・・・。涼君、怒るんじゃないかなって、ちょっと心配だったの」
「怒ったりするワケ・・・」
「でも、もう私たち・・・、あの頃と違うし・・・」
 僕が言い終わらないうちに、美希は言った。
 受話器を持ったまま僕は、器用にターンテーブルの上のレコードを交換した。

「私ね、あれから色々と考えたの」
 僕がソファに身を委ねた時美希は言った。
「やっぱり、私、あの時あんなふうに言わなきゃ良かったって」
「あんなふうにって?」
 バーボンを一口飲んでから僕は静かに言った。
「涼君が別れようって言った時よ」
 辺りにはNIGHT NOISEの音楽が満ち始めていた。
 それは時の狭間に染み込んだ想い出たちを、色鮮やかに連れて来るようだった。

「あの時にもっと、自分の気持ちに素直になれば良かったって」
「・・・」
 何も言わずに僕は、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「別れるなんてイヤって、そう言えば良かった」
「美希・・・」
「でも・・・、でももう遅いよね・・・。今更」
「美希・・・。あの時、ああしなければ僕たち、もっと辛くなったかもしれないよ。
それに僕は君にもっと冷たくなったかもしれない・・・」

 言い訳・・・。
「そんなの、その時になってみないと分からないよ」
「それはそうだけど・・・、さ」
「ねぇ、涼君・・・。涼君はほんとにこれで良かったの?」
「・・・」
 そう美希が言ったとき、僕は返す言葉が出なかった。
「美希だって、あの時・・・、僕にだってイヤなところが沢山あるって言ったじゃ
ないか」

「確かに言ったけど・・・、人には良いところと良くないところって、必ずあるもの
じゃないのかな」

「そういう僕のよくないところがどんどん大きくなっていって、それが美希を傷付ける
かもしれない。そう思うと・・・」

 そう言いながら僕には、受話器の向こう側で彼女が泣き出しているのが微かに分かった。
「そういうのがイヤだったんだよ、美希・・・」
「・・・」
 受話器の向こう側からは何も聞こえなかった。
「僕のせいで美希を傷付けたくなかったんだ」

 言い訳・・・。
 本当はそんなのじゃない。
 僕の言葉や、僕の感情や、僕の我まま・・・。
 そんな何やかやが美希を傷付けるのが怖かったんだ。
 彼女への優しさなんかじゃないことは解ってた。
 僕の「逃げ」だってことも・・・。

「まだ好きなのよ・・・、私」
 涙声で美希は小さくそう言った。
「美希・・・」
「私、イヤな女の娘かもしれないけれど、涼君の方がズルイよ・・・」
「・・・」
 美希の言葉はまるでナイフの様に僕の心を切り裂いていった。
「僕だって、まだ好きだよ、美希のこと・・・」
「じゃぁ、どうして・・・?」
「もう、お互い、忘れるしかないよ」
「涼君・・・」
「きっと美希には僕よりも、ずっと良い恋人が見つかるから」
「そんなコト・・・」
「僕も美希のコト、忘れる・・・。だから美希も僕のコト・・・」
 それ以上僕には言葉が出なかった。

 いったい、今僕は美希に何を言ってあげれば良いのだろう?
 僕だって、まだ彼女のことが忘れられずにいるんだ。
 でも、もうお互い忘れるしかないんだ。
 そうする他に・・・。

 それからしばらくの間、美希は何も言わなかった。
 時折、受話器の向こうからは涙をこらえる音だけが小さく聞こえるだけだった。

「ごめんね、美希・・・。悪いのは僕だ」
「涼君のコト、忘れられないかもしれないけれど・・・」
 ようやく彼女が口を開いた。
 そして力なくそう言った。
「美希も僕も・・・、忘れるしかないよ」
 僕はそう言ったけれど、それは美希に言うよりも、僕自身に言い聞かせているようだった。
「電話なんかしちゃってごめんね、涼君」
「あやまることないよ」
「もう、切るね・・・。おやすみなさい・・・」
 そう言って美希は受話器を置いた。

 しばらくの間僕は受話器を握り締めたままぼんやりとしていた。 
 それからバーボンを一口飲んで立ち上がった。
 キッチンに行って受話器を置いてリビングに戻ると、そこはさっきとはまるで違う
空間の様に思えた。

 たった数秒の間に、リビングの中の空気の粒子が全て入れ替わってしまったような、
そんな気がした。

 辺りにはNIGHT NOISEの『Shadow of Time』が流れていた。
 
 ぼんやりと時計を確かめると、また新しい1日が7分ほど前に始まっていた。
 そして日付は、12/25を刻んでいた。

 きっと美希は独りきりのクリスマスイヴが耐え切れなくて、そしてその奇跡を
信じたくて、僕に電話をしてきたのかもしれない。

 そう思うと僕は、何だかとてもやり切れないものを感じた。



 その夜僕はとてもやりきれない憂鬱な気持ちを抱えて、ベッドに入っても眠れ
なかった。

 時計の針が午前4時を過ぎる頃、まるで世界の終わりを告げるような、そんな
冷たい雨が降り始めていた。

 それは音も無く、まるで僕の心の中に染み込んでくるような、そんな雨だった。


 それから何日かして、僕のダブリン行きが決まった・・・。



 1年間のダブリンでの生活も、あと僅かで終わろうとしていた。
 もともと、1年という約束だったし、ダブリンでの生活にも退屈し始めていた
頃だった。


 1年という永い時間日本を離れていたこともあって、ずいぶんと僕の心境も
変わっていた。

 でも、どうしても忘れられないものがあった。
 美希・・・。
 1年の間僕は彼女のコトを忘れようとしたけれど、心に焼きついた想い出は、
忘れるなんて
とても出来るものではなかった。

 あの日以来、彼女からの連絡は何もなかった。
 きっともう僕のコトを忘れているだろう。
 そして新しい、素敵な恋人を見付けて、秋の東京を歩いているコトだろう。
 今ごろの東京はきっと、一番秋らしく、綺麗に彩られている頃だった。


 そして帰国まで3週間を残したある日、1通のエアメールが届いていた。

 部屋のライトを点けて僕はソファに身を委ねた。
 何か音楽を流そうかな? と思ったのだけれど、結局のところそれを止めた。
 エアメールの裏には懐かしいサインがあった。
 若槻奈津緒と・・・。

 若槻奈津緒。
 それは僕と美希の共通の友達だった。
 僕たちが付き合い始める前から、2人のコトを色々と気遣ってくれていた。
 まぁ、時にはそれがおせっかいに思えたコトもあったけれど。
 僕のこの住所を知っている数少ない友達の1人だった。


    

             涼へ・・・。


   突然の手紙でごめんね。
   びっくりしたでしょ?

   早いもので涼が海外へ行ってからもうじき1年だね。
   元気にやってるの?
   私は相変わらずって感じかな。
   スコットランドはもう雪降るの?
   あれ、涼のいるダブリンでスコットランドだっけ?
   ま、そんなコトどうでもいいね。

   突然手紙書いたのはね、そんなコトじゃないんだよ。
   うすうす気が付くかもしれないけど、美希のコト。

    彼女ね、やっぱりダメ。
   今でも涼のコト想ってるんだ。
   私もいろいろと友達紹介してみたんだけど、
   いっつも、「まだ・・・」ってなっちゃうんだよね。
   ほんと、私もちょっと困ってるんだよ。
   ま、困るって言い方もないか。

   もっと詳しく言うとね、美希だってあれから何人かの
   男の人に言い寄られてるんだよ。
   一緒にいて、そうして美希ばっかり? て思っちゃう
   くらいにね。
   だから私は「良いチャンスじゃない」なんて勧めてみ
   るんだけど・・・、やっぱりダメなの。
   涼への美希の想いはね、まだまだくっきりしてるの。
   時間が解決してくれるよって、東京を後にする時に、
   涼は言ったけど、1年じゃ足りないの。
   1年はとても永いって涼は思ってるかもしれないけれ
   ど、美希には短すぎるのよ。

   この前あの娘の部屋へ行ったらね、あの頃の2人の写
   真をまだ大事にしてて、びっくりしたよ。
   ほんと、遠距離恋愛してる恋人同士みたいにさ、「彼
   が帰ってきたら・・・」なんて言ってるしね。

   あれから1年にもなるし、涼はもう美希のコト、きっ
   と忘れちゃったよね。
   忘れたっていうか、もう彼女のコト、「特別だ」って
   想ってないよね。
   でも、あの娘はまだ涼のコト、「特別だ」って想って
   るんだよ。

   だから、もし年末に帰国するコトあったら、美希に逢
   うだけでも逢ってあげてよ。
   そうすればきっと、美希もふっきれるかもしれないし。
   まぁ、逆効果になっちゃうかもしれないけどね。

   またおせっかいが始まったか、くらいに思ってくれて
   もいいけどね。

   ごめんね、急な手紙にこんなこと書いちゃって。
   でも、一応、知らせないとって思ったし。

   それじゃぁ、元気でね。


           2000年 11月 24日    

            若槻奈津緒



 僕はその手紙を2回読んでから、ゆっくりと立ち上がりキッチンへ行った。
 そしてギネスビールの栓を抜いて、ビンのまま半分ほど一気に飲んだ。
 手の甲で唇をぬぐって、リビングへ戻った。
 それからベランダへ出て、もう1度その手紙を読み返してみた。
 何度読み返してみても、そこには美希のコトばかりが記されていた。

「やれやれ」
 僕は溜め息をついて、異国の夜空を見上げた。
 そこには日本では見れないような星が、漆黒のスクリーンに張り付いていた。
 しばらくの間僕はそんな星々を見つめていた。
 ダブリンの街を駆け抜ける夜風は、北から冬の薫りを運んでいた。

 リビングに戻ると僕は便箋を封筒に戻して、机の引出しにしまった。
 そして僕はしばらく迷ったのだけれど、奈津緒に手紙を書くコトにした。
 別の引き出しから僕は、淡いブルーの便箋を出して、万年筆を手にした。


           前略 奈津緒へ。

           元気そうで何より。
          僕はとりあえず元気かな。

              ・
 
              ・
 
              ・
 
              ・
           
              ・




 手紙を書き始めた時僕は、短くしようと思ったのだけれど、書き終えてみると
それはずいぶん長くなっていた。

 それはきっと、この1年間僕が思っていたコトが一気に出てきた様だった。
 
 そして書き終わった手紙を読み返してみて、はっきりと気付いたコトがあった。
 それは・・・。

「僕もまだ美希のコトが好きだ」

 という彼女に対する僕の想い・・・。

「やれやれ」
 溜め息をついて僕は、その手紙を出すのを止めようかとも思ったけれど、
結局のところ丁寧に折って、封筒に入れた。


 手紙を書き終えてしまうと、何だか少し気が楽になったみたいだった。
 そしてラジオのスイッチを入れると、FMからJulia Fordhamの『swept』が
流れてきた。

 ソファに身を委ねて僕は、美希のコトを考えた。
 
 彼女がどんなふうに話していたか。
 そして彼女がどんなふうに笑っていたのか。

 1年間も逢っていないのに、最後に彼女の逢ったのがまるで昨日のコトのように、
鮮明に思い出すことが出来た。


「やっぱり、まだ好きなんだよ僕も・・・。ね、美希・・・」
 そう僕は呟いてみたけれど、答えるものは何も無かった。



 僕はいったんロンドンへ飛んだ。
 そしてそこから日本へと向かう飛行機に乗った。

       


 窓の外は一面、漆黒のカンヴァスだった。
 僕は窓の外をしばらくの間、ぼんやりと見つめていた。
 時折、雲の切れ間からうっすらと星が見えた。
 地上で見るよりもずっと近くにそれは見えた。
 でもそれは、どことなく偽物のようにも見えた。

 そんな窓の外の風景を見つめていると僕は、スプートニク宇宙船で打ち上げられ
た犬のコトを思い浮かべた。
 窓の外に見える荒涼とした星々の海を、その潤んだ瞳で見つめながら彼はいった
い、何を思っていたのだろう・・・。

 この宇宙の神秘について彼は思っていたかもしれない。
 それとも、船内に浮かぶご飯皿のコトを思っていたのかもしれない。
 もしかしたら・・・。

 そんなコトを思いながら僕は、ぼんやりと夜空を眺めていた。
 これから数時間後には、また東京に僕は立っているだろう。
 美希の住むその街に・・・。

 奈津緒はいったい、僕の手紙を読んでどんなふうに思ったのだろう?
 そして美希に、それを伝えているのだろうか?
 いや、奈津緒は何も彼女には伝えてはいないかもしれない。
 どちらにせよ、今の僕にはそれ以上、何も考えることなんて出来なかった。

 そして僕はもう一度、窓の外に視線を移した。
 そこに映る風景は、さっきとは何も変わってはいなかった。
 ただ、今度は犬のことも、最近打ち上げられたエンデバーのコトも、僕の頭には
何も浮かんではこなかった。

 それから僕はゆっくりと、そして静かに瞳を閉じた。
 機内はとても静かで、夜空を駆ける星々の運行のその音さえもが、まるで目の前
から聞こえてくるようだった。



 窓の下には、街の明かりが綺麗に見えていた
 それが何処なのかは判らなかった。
 でも、日本の何処かの街に間違いはなかった。
 少なくとも、バングラディシュやスーダンではなかった。
 しばらくして、ひときわ輝く街の上を飛んでいた。
 
 また僕は、この街に帰って来たんだ。
 そして美希のいる街、東京に・・・。


 全てはこの場所から始まっていたし、また、全てはこの場所で終わる。
 幻想都市TOKYO。
 そして憂鬱なる都、TOKYO・・・。



 空港の到着ロビーは時節柄か、無個性な人並みで溢れていた。
 入国手続きにもかなりな時間を費やすことになった。
 ようやく僕は、いつ終わるとも知れぬ行列から開放された。
 そしてようやくこの国の上に立つことが出来たような気がした。

 それから僕はバスかNEXの時間を調べようと思ったのだけれど、特に急いでい
るわけでもなかったし、急ぐ理由もなかった。
 そう思うと急に、何かお酒が飲みたくなった。
 久しぶりの帰国によるセンチメンタリズムというワケでもなかったが、そう思わ
ずにはいられなかった。
 そして、空港ターミナルの中で喫茶店かバーを探すことにした。



 急に誰かに名前を呼ばれたような気がして、僕は立ち止まった。
 そして辺りを見回したけれど、そこには誰もいなかった。
「涼君・・・」
 また、誰かが僕を呼んだ。
 それは、懐かしい声だった。
「美、美希・・・!」
 振り返るとそこには、美希が立っていた。
「美希、どうして? どうして、ここに・・・?」
 驚きを隠せない僕。
「お帰り・・・。ずっと待ってたの」
 そう言い終わらないうちに彼女は駆け出していた。
 そして彼女は僕の胸に飛び込んできた。
「どうして・・・、今日のこの時間が分かったんだい?」
 美希の細い体を抱きしめながらも驚きを隠せない僕。
「これ・・・、見たの・・・」
 僕の胸の中に顔を埋めたまま美希は言った。
 そしてコートのポケットから、くしゃくしゃになった淡いブルーの封筒を取り出
した。

 それは勿論、あの日、僕が奈津緒に宛てた手紙・・・。

「ちょっ・・・、ちょっと待って。確かに手紙で帰国の日は書いたけれど、時間ま
では・・・?」
「だから・・・、だから、ずっと待ってたの・・・朝から・・・」
 美希はまだ顔をあげようとしない。
「朝からって、美希・・・。本当に!?」
 ますます僕は驚いた。

 ずっと僕の帰国を美希が待っていたなんて。
 それも、到着の時刻も分からずに・・・。
 朝からずっと・・・。
 人並みで溢れる帰国ロビーでずっと・・・。
 そして1年もの間、僕を待ちつづけるうちに彼女の心は傷つき、そして持てるそ
の翼までも折れてしまっていた。

 そう思うと、僕は美希がよりいっそう愛しく思えた。
 こんな我がままで弱い僕を、ずっと独りで待っていてくれた。
 そして、ずっと想い続けていてくれたんだ・・・。
 
「ごめん・・・。ごめんね、美希・・・」
 そう呟いて僕はよりいっそう、彼女を強く抱きしめた。
「私ね、涼君・・・。まだ私、やっぱり好きなの」
 大きな瞳を潤ませて彼女は言った。
「今でも好きなの・・・、苦しくて・・・、辛くて・・・」
「・・・」
 何も言えずに僕は、彼女を抱きしめるだけだった。
「本当に、どうしようもないくらい好きなの・・・。だから、私を独りにしないで」
「もうどこにも行かない。美希を独りにしたりしない」
 そう僕が言うと、彼女の瞳からは銀色に輝く一筋の流れが溢れていた。
「忘れられなかったの。苦しくて辛くて・・・」
「・・・」
「忘れようとしたけど・・・、でも、全然忘れられなくて・・・。忘れなきゃって
思えば思う程、どんどん好きになってくみたいで・・・。あの時は、私も涼君も、
お互いのキライなところばっかり見えちゃって、そんなイヤな思いがどんどん増え
て。だから、別れれば2人、楽になれると思ってた・・・。でも・・・、でもほん
とはそうじゃなかったの。好きなところもキライなところも・・・。涼君の全部が
好きだったの・・・。やっと・・・、やっと私、それが解ったの」
 そこまで言うと、僕の胸に彼女は顔を埋めた。
 そして、彼女の体がかすかに震えているのが、厚いコート越しに伝わってきた。
 美希は声を出さずに泣いていた。
 頬を伝う涙が、ライトに照らされて銀色に輝いていた。
「美希・・・」
 よりいっそう、僕は彼女を強く抱きしめて言った。
「やっと気づいたの・・・。涼君の全部が好きなんだって・・・。そしたら、どう
しようもないくらいに苦しいの・・・。何とかして・・・。助けてよ・・・」
 ようやく顔をあげた彼女の瞳には涙が溢れていた。
「ずっと・・・、ずっと一緒にいてね」
 涙声で美希はそう言った。
「もう美希を独りぽっちになんかしない。ずっと一緒にいるよ」
 そう言って僕は、ただただ彼女の体を抱きしめるだけだった。
 
 そして微かに震えるその唇に、そっと僕は唇を重ねた。


 何処かでクリスマスを祝う鐘が鳴っていた。



 翼の折れた天使がまたその輝きを取り戻して、その翼を大きく広げて夜空へ飛び
立っていくような、そんな静かな夜だった。

                                  


                   〜fin〜


 


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